《停念堂閑記》102

「停念堂寄席」59

  

「アポ電 アホ電 ?」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方はいないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットと来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

とは言え、大歓迎と申しましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題のもとに日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情の方、このような方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、ヒマ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

 

さて、本日の話は、これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め,消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事はまったく御座いません。平凡極まりないムダ話で御座います。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

では、参ります。

 

最近、テレビなどで、アポ電強盗の話題が頻りですな。予め、お金の有無を電話で確かめておいてから、押し込み強盗に入ると言う、はなはだ荒っぽい方法が増えているそうで。怪しげな電話には、注意を怠ってはいけませんな。

対策が必要ですよ。

電話には、直ぐに出ない方が良いようですよ。

留守電にしておいて、一息おいてから、大丈夫なのが確認された場合にだけ出るようにした方が良いようですよ。

もっとも、大丈夫かどうかの確認自体がね、そもそも問題なのですが。

留守電の待受け音声は、「ただ今、留守にしております。御用の方は、ピーと言う音の後に、用件をお話し下さい。・・・ピー。」と言ったようなものが、一般的のようですが、これからは、「ただ今、我が家には、金銭は一切御座いません。どうぞ他をお当たり下さい。」てな、待受けに切り替えた方が良さそうですなー。

もっとも、お金が余っていて、処分にお困りの方は、「ただ今、3000万円までなら本日中に、すぐにご用意できます。ピーと言う音の後に、住所・氏名・振り込み口座番号をお願い致します。直に、お振り込み致します。・・・ピー。」と言う、待受け音声にしておくと、スムーズに事を運ぶことができるでしょうね。まさかね。

それとも、もうダイレクトにね「はい、アポ電強盗さんですか。すぐに警察に連絡しますので、しばらくこのままでお待ち下さい。」と言う待受けにしましょうか。電話して、いきなりこの待受けが聞こえて来たら、たいていはビックリするでしょうね。

以前知合いのお父上樣は、間違い電話と分かると、「はい、こちらは火葬場です。何日、何時の予約希望ですか ?」とやるそうで、そしたら、間違いなくガチャンと切られる、と言う話を聞いたことが御座いますよ。縁起でもありませんからね。

これは、私の実例ですが、以前、電話を設置したばかりで、電話帳に登録もしておらず、うちの奥さんしか番号を知らないと言う期間があったのですよ。そこに、電話がかって来たのですよ。奥さんからとばかり思って出たところ、知らない男の声だったのですよ。

何かを売りつけようとする営業の話でしたが、様子がおかしかったので、貴方はどちらさんに電話しているのですか? と聞いたところ、「それは言えない。」だって。

そこで、追い打ちをかけて、この電話番号をどこで知ったのか? と尋ねたところ「それも言えない。」だって。

なんとも、間抜けな応対でしたね。

局番から、営業担当の地域に、手当たり次第に電話していたような様子でしたね。局番は地域で大体見当がつくので、後の4桁を好い加減に、適当に押していたようで、今はもう使っていませんが、後の4桁が、ひとつずつ増える連番だったので、1234なんて、順番に押していったのでしょうね。そしたら、たまたま私のところにヒットしたのでしょう。だから、何処の誰に繋がったのか、判らない状況だったのでは、と想像したのですが。

こちらは、名前や住所等、個人情報を一切告げてませんので、当然、強盗にはやって参りませんでしたよ。

蛇足ながら、私はかかって来た電話をとる時には、「はい、××です。」とは名乗ら無い事にしています。向こう樣が、何かを言う迄、無言でいます。なんと無愛想な失敬なヤツだと、思うでしょうね。しかし、何か用事があって掛けて来るのでしょうから、大抵は、△△ですと、名乗ってくれますよ。そしたら、普通に応対しますよ。怪しげなのには、絶対にこちらの個人情報は伝えません。

お墓、墓地の売り込み電話が、よく来ますね。既に、先祖代々からのがあるから、不要だと伝えると、それでも、もう一つどうです。なんて来るのですよ。

幾つも墓を持って、どうしょうと言うのです。墓のアパート業でもやんなくちゃー、元が取れませんよ。

見晴らしが良く、海が一望できる、絶景の墓地ですよ。なんてね。

いくら絶景でも、わたしゃーもう死んじゃってるので、見る事できませんからねー、と丁重にお断りすることにしています。

 

これは、電話ではなく、ハガキが来ました。

先日、「あなたは、未納の××消費税に関して、訴えられている。××月××日が訴えの取下げ期限となっている。直に、対処するように。××消費税課 訴訟係 電話××番」と言うような内容のハガキが舞い込んだのですよ。

こりゃー、一大事とばかり、早速電話を致しましたところ、訴訟の取り下げ費用・弁護士経費などとして、456,789円必要と言うことが判明しました。

いきなり、こんな金額を要求されても、手元に無かったものですから、それでは、と言うことで、息子に電話して、「オレ、オレだよ。大至急50万円、オレの口座に振り込んでくれ。」と頼み込みましたところ、「阿呆こけ。このクソ忙しい時に、そんなヒマ潰しにつき合ってらんねー。」の一言で、電話切られちゃったのですよ。男の子はツメテーね。

50万円、儲け損なっちゃったよ。

因に、これは、オレオレ詐欺ではないですよ。約50万円必要だと言われたのも、手元にそんな金が無かったのも、本当のことだよ。それなのに、息子に全然相手にされなかった。ひょとして、小遣い稼ぎができるかもと、期待したのに。電話1本で、金儲けするのは、中々難しいもんだね。

息子がダメならと、こんどは娘だと思って、娘に電話したのですよ。50万円は厳しいだろうと配慮して、30万円に割引してやったところ、やっぱり娘は優しいね。30万円すぐに振り込むと言ってくれましたよ。

ここ迄は、うまくいったと思ったのですよ。

ところが、娘が言うには、家にも、××消費税の未納訴訟の件で、70万円の請求が来ている。20万円は、自力で用意できたので、残りの50万円を娘の口座に振り込んで欲しい。と言うのですよ。

娘の方が一枚上手でしたね。差し引き20万円の差額を儲けようと企んでいたのですよ。油断も隙もありませんよ。あぶなくひっかかるところでしたよ。

そんなこんなしているところに、今度は親しくしている友達から電話が来たのですよ。××消費税未納の訴訟の件で、80万円必要となった。10万円は用意できたので、残りの70万を俺の口座に振り込んでくれ、だって。

ふざけんじゃないよ。どいつもこいつも、××消費税の未納訴訟の件、他人の褌で、相撲をとろうとしやがって。まったく、油断も隙もあったもんじゃねーよ。まいったね。ホント。他人の事言ってらんないけれど。

こんな××クサイ話で、少しはヒマ潰しになりましたでしょうか。

要は、アポ電話強盗、オレオレ振込には、気をつけましょう。

 

今日は、ちょっと用事ができて、そっちの方で、ヒマ潰しができる様になりましたので、いささか中途半端では御座いますが、この辺で失礼致します。

では、またのお越しを。

 

お後がよろしいようで

《停念堂閑記》101

「停念堂寄席」58

  

「さくら型 ?」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方はいないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットと来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

とは言え、大歓迎と申しましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題のもとに日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情の方、このような方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、ヒマ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

 

さて、本日の話は、これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め,消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事は御座いません。平凡極まりない話です。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

では、参ります。

 

このところ、今日は出るか、明日は出るか、とマスメディアは大騒ぎしてますなー。

何がでるのかと言うと、オバケ。ではないですよ。

ボーナスなんぞも、そうそうは出ないだろうし。

ヌッ! さすれば、オナラか ?

ちょっと、ちょっと、ボーナスと、オナラとの格差は何です。

誰が、今日、明日、オナラが出るか、出ないかで、大騒ぎをしますか、チューの。

 

しますよ。もう、出るのを心待ちにしてますから。

出た! なんてなると、良かった、良かった、一安心。と大喜びですよ。

これが、出なかったら、ちょっと具合が悪いようですよ。

 

何だと思います。

盲腸の手術後の、は ひ ふ の次ぎの一発ですよ。

これは、恥ずかしい、なんて言って、我慢してはいけませんよ。

もよおしてきたら、ためらわず、心置きなく、ドーンと一発決めなくてはいけませんよ。

そんなに、大袈裟な大砲的なものでなくても、良いですがね。

しかし、マスメディアが、一個人のオナラが出るかどうかを、今日か明日かと待ってる訳が御座いませんよ。特別な存在の御方の場合は、どうかシリませんが。

あのー、ここは一発笑うべき所ですよ。下ネタ落ちのところですからね。お願いしますよ。

 

マスメディアが、今日か、明日かと大騒ぎしているのは、もう、誰でも、お判りですよね。

そうです。プロ野球の開幕戦です。

プロ野球ファンにとっては、待ち遠しい、一日でしょうね。

これからは、ビール飲み飲みテレビで観戦。

既に、試合中から飲んでいるのに、贔屓のチームが勝ったと言っては、乾杯。負けたと言っては、残念の一杯。とにかく、どっちに転んでも、一杯やれますからなー。

プロ野球が、始まりますよ。

 

ブー、残念でした。プロ野球では御座いませんよ。

 

正解は、桜の開花宣言で御座います。

「平成最後」の開花宣言が出ました。なんてはしゃいでいますなー。

何のこってすかね。「平成最後」だって。

このごろは、何にでも「平成最後」をくっ付けてますよ。

これでは、4月30日は、大変ですよ。コト毎に、「平成最後」をくっ付けなければなりませんよ。

まず、朝目覚めたら、「平成最後」の朝の目覚めです、ときますよ。そして、トイレへ行こうものなら、「平成最後」の朝ションです、となりますよ。

これが歯磨き、洗面、朝メシ・・・と、夜の就寝に至迄、いちいち「平成最後」をくっ付けなくてはならないのですよ。手間掛かるねー。

これが、翌日、5月1日になりますと、「新元号最初」の初日ですよで始まり、いちいち「新元号最初」の朝の目覚めです、といかなくてはなりませんよ。トイレへ行こうものなら、「新元号最初」の朝ションです、となりますよ。これが又、就寝に至まで、いちいち「新元号最初」となるのですよ。

そして、翌2日になると、「新元号二日目」の朝の目覚め・朝ション・・・とななりますかねー。まさかね。それでも、何か大きな行事、イベントめいたことがあれば、「新元号最初」とやるのでしょうね。

因に、時を表現するには、世界的には、西暦が使用されていますね。だから、西暦を使えば、特に、問題は御座いませんよね。

なのに、何で元号を使うのかね。と言う疑問がありますよね。

どうしてかね。きっと、今迄そうしてきたから、すなわち、これ迄の惰性でやっているのでは、なんて、思われたりしますなー。

若い人達は、西暦と元号の二重表記なんて、意味ないじゃん。面倒くさいだけだよ。特に、スマホタブレット、バソコンなどを使用する場合は、元号表記など、ジャマくさいだけじゃん。と思うでしょうね。

でも、メリットもあるのですよ。

特に、日本の歴史に関しては、元号があると、便利だったりするのですよ。

1868年から1912年の時代は、なんて言うより、明治時代は、とやって貰った方が、あー、あの時代か、と時代の様子が、ピーンと来るのですよ。昭和か、と来ると、ビーンとくるでしょ。このような便利さがあるのですよ。

また、奈良時代とか、平安時代とか、鎌倉時代とか、と言う時代区分も、便利なのですよ。戦国時代、江戸時代、と聞いただけで、その時代の様子が、ピーンとくるでしょ。時代の特徴を想起させるのに、便利なのですよ。

だから、中々捨てられない、事情もあるのですよ。

 

さて、日本人は、「最初」・「事始め」が好きですなー。

「最初」と聞けば、日本人の胸は高鳴り、じっとしておれなくなるのでしょうな。ケッタイな民族でんなー。

それから、「最初」と対になっているのでしょうかね。「最後」というのも、好きですよ。

「名物の××ラーメン店が、明日、閉店だ。」となんかなりますと、えらく遠くからやって来て長蛇の列をつくって、閉店になるのを待ってる人達がいますからね。

ヌッ! 待てよ。この場合は、開店を待っているのか?

とにかく、結論的には、「最初」と「最後」、すなわち「開始」と「終息」が、日本人の心をとらえるようですなー。

 

さて、その「開始」の方になるのでしょうな。桜の「開花宣言」どうので、目下、マスメディアは大騒ぎしていますよ。乗せられて、多くの人々も、騒いでおりますよ。

この開花宣言に見られるように、日本人は、とにかく何かに付けて、事の始まりについて、えらく関心を持ち、興奮するクセがあるようですな。

ところが、桜の場合は、散花宣言(桜の花が散ってしまったことについての宣言を、ここではこのように表現します。)は、御座いませんな。「終息」にも関心があるはずなのに、これは無いのですが。

開花宣言については、気象庁の職員が、標準木に5輪以上咲きました、と言ったのを捉えて、マスメディアが勝手に開花宣言出る、などと騒ぎ立てているだけで、気象庁がそのような宣言を発している訳ではないのですな。

さすがに、標準本の花が、5輪を残して、全部散りました、と言う気象庁からの発表は、無いでしょうな。マスメディアの方も、開花宣言のバカ騒ぎとは、えらく違いますな。「散花宣言」を出したとは、聞いた事が御座いませんよ。盛り上がりませんからね。散ってしまえば、もう殆ど関心が無くなってしまうのでしょうな。

と言うことは、桜に関しては、多くの人々は、開花すなわち事の始まりにつては大いに関心を示しますが、盛り上がりのない終末には、関心を示さない。と言うことになりますな。

 

ところが、事の次第で、その終末について、興奮するクセがある事は、前に指摘しましたよ。

前に言ったように、このところは、なにかに付けて、平成も終りだ、と言うのが流行ってますな。そして、次ぎの元号は何だろう、と事の始まりの話題で持ち切りですな。

甚だ私事で恐縮で御座いますが、日比憐休(ひびれんきゅう。小生の号)に取りましては、平成が終わって、新元号に代わろうとも、年中日々連休の事態になんの変化も生じませんよ。10連休なとぞ、何処吹く風。365日、毎日休みで、ヒマ潰しに悩まされているヒビレンキュウなのですよ。

とにかく、日本人は、なにか事の始まりに遭遇すると、じっとしてはいられない人々が多いようですな。

今日は、有名な××ラーメン店の支店が、何処とかで店開きだとなると、もー開店前の2・3時間も前から並んで、行列をつくる方々の何と多いことか。開店サービスで食べ放題、無料と言うオマケでもあるのならともかくとして、ただただ、有名店だと言うことだけで、長い長い行列ができ勝ちですなー。

平日でも並んでますからね。2時間もあれば、普通に旨いラーメン屋さん、4・5軒、ハシゴ可能ですよ。ソバ屋さん、カレー屋さん、ハンバーガー屋さん、最後にカップラーメン、こちらのハシゴでも構いませんよ。こちらの方が、充実していて、クッターと言う感じがすると思いますがね。

あの目的のラーメンにありつくまでの待ち時間の意味するものは、なんなのですかねー。

長時間待つと言うことは、何か特別のメリットがあるのでしょうな。

2・3時間も待ってから、頂くラーメンの味は格別なのかも知れませんが。

それとも、何らかの自慢になるのですかね。

単に、ラーメンを食べるのに2時間も待った、と言うことが自慢になるのかね。

自分は目的を達するために、たかだかラーメンでも、2時間も待てるのだ、と言うことが自慢になるのかねー。ヒマだねー。そんなヒマが有るのなら、「停念堂閑記」にどうぞ。

ヌッ! そんなこと、自慢にならないって。ご尤も。

はたまた、自分の目的達成のために、じっとその時を待つ事ができ、達成できたと言う自己満足感を味わいたいのかねー。

エッ! 趣味なんですか? 長時間待つことが。

マー、趣味では仕方御座いませんな。行列待ち自体が楽しいのだから。1時間でも、10時間でも、10日間でも、10年間でも、100年間でも、どうぞお楽しみ下さいませ。

単なるヒマ潰しに最適なのさ、と言うのであれば、それは納得出来ない事もありませんが・・・。

 

また、乗る人がめったにいなくなったローカル線が廃止となる日とか、利用者がいなくなった駅舎が閉鎖されることになる日などは、まー、終末好きの人々が群がりますなー。親の死に目に会わずとも、やって来る方があらせられるのではないのか、と心配されるほどですよ。

こんなに、集客力があるのなら、閉じるのを止めようか、と思ったりしそうな事態ですよ。

ところが、それを狙って、一年間も旗を立てて、閉店セールをやっていた、地元の靴屋さんが、あるのですよ。XYZだったか、なんかアルファベットをもじった名前の靴屋さんですが。

結局、これで集客力がアップしたのでしょうね。いつの間にか、閉店セールの旗が消えていて、未だに営業し続けているのですよ。これは、日本人の終末好きの心理を巧みに利用して、成功した例ですなー。

 

何でもその傾向が強いと思うのですが、何か新しい事を始めようと言うことになると、やたら元気が出る方が、多いようですな。

元号どんなのが出て来ますかね。こっそり秘密裏につくっているらしいですなー。まー、どんなんでも、良いですがね。

と言いつつ、実は、この手の事を考えるのが、好きなのですよ。絶好のヒマ潰しになりますからね。

と言う事で、あれこれ試行錯誤をくり返しましてね。最後に残ったのが(申し訳ございません。ウソです。たった今思いついた、行き当たりバッタリの代物であります。)、なんとなんと、ジャジャーン。

《啓希 けいき》と言うやつですよ。中々のものでしょう。啓の字は、ひらく、と言う意味があります。希の字は、申すまでもなく、希望の希であります。分り良いでしょう。

《啓希 けいき》 「希望をひらく」と言う意味ですだよ。

これからの時代に向かって、ピッタンコでしょう。

希望に向かって、羽ばたきましょう。

希望に満ち満ちた、素晴らしい時代にしましょう。

なんたって、使い勝手が良いでしょう。

この元号になった途端、ケイキが良くなったとか、悪くなったとか、社会情勢を言う時に、誰でも、すぐに使えるでは御座いませんか。

もう、これに決定ですね。4月1日に発表!

日にちが日にちだけに、ウソだよーん、で済んじゃいますからね。

ねー、ヒマ潰しにはもってこいでしょー。

 

日本では、大化と言うのが、国家的に、初めて使用された元号として知られていますが、時に名前を付して、起点から時の経過を現す手法は、もともとは中国で始まったことですね。

これが日本に伝わって来て、マネッコしたわけです。

従って、色々な年号が使われていたようですが、これが国家的に定めると言う事になったのが、645年に定められた大化という事のようですな。

これは国家として使用する年号(元号)であって、これとは別に、いわば私的に年号を使用していた場合も見られるわけですね。

これは、国定のものと区別して、「私年号」とか「異年号」とか言われていますな。

だから、自分で自分なりの元号を使っても良いわけですよ。

誕生の時点から、弘志さんなら、「弘志」元年で出発しても、何等構わないのですよ。但し、公に通用しないだけです。

結婚を機に、弘志と美佐江なら、「弘美」元年として、出発しても、何ら問題は無いわけですよ。

ヌッ! おまえ3回も改元してるなー。×3か。やるなー。なんてこともありですよ。始めてみます ?

 

話を戻します。

何か新しい事を始めようと言うことになると、やたら元気が出る方が、多いようだ、と言う話です。

そして、ことの始まりではなくして、事の終末にあたって、これまた、元気がでる方もいらっしゃる、と言う話です。

この場合、前者を「さくら型」と称したら良いのではないのか、と思うのですよ。すなわち、開花宣言の時は、大はしゃぎするけれども、散花宣言は無し、と言うタイプのことですよ。

これがですね、世の中には、結講、多いのですよ。特に、マスメディアにおいて、政治政策において、良く見られるのですよ。

 

あの森友学園に関る公文書書換え?問題、それに携わった官僚の自殺事件など、マスメディアは毎日毎日盛り上がりましたよ。しかし、その事実関係、責任問題など、その終末についての事柄についてはどうでしょう。なんだか、どのようになったのか、さっばりハッキリとしないまま、問題にされなくなりましたね。このようなのを、まさに「さくら型」と言うのですよ。

 

東京市場清洲移転に関る事柄も、有毒汚水がどうの、新施設の使い勝手がどうの、新道路の建設がどうの、築地市場の移転後の利用がどうのと、とにかく盛り上げていましたが、移転後の状況は、あまり伝わってはきませんな。これも「さくら型」ですな。

 

消費税の10%引上げ問題も、一時期は盛り上がってましたよ。それが、どうなりました。これも、「さくら型」になりそうですな。

 

とにかく、マスメディアの取り組み方は、「さくら型」に尽きている、感がございますな。関心事は、次ぎから次ぎへと、変転していきますな。

「花の色は、遷りにけりな・・・」ではないですよ。「花の色は、忘れにけりな、いたずらに・・・」と言う状況ですよ。

とにかく、「さくら型」は、終末に関心が無い、垂れ流しと言うのが特徴ですな。

 

今年は選挙の年のようですな。既に、公示の開花宣言が出て、選挙運動が展開されている所も御座います。

選挙運動、公約等は、言ったもの勝ちで、何でも格好付けて、言い放題。選挙が終われば、叫び続けていた公約など、たちまち散ってしまいますなー。典型的な「さくら型」ですわ。

 

東日本大震後の原発廃止。原発の恐ろしさが露呈した初めは、原発廃止論で、すごく盛り上がってましたね。それが、どうでしょう。これも「さくら型」ですな。

 

沿岸のバカ高い、津波防波堤の建設問題。これもどうなったのでしょうな。「さくら型」にようですな。

 

政治の場が、殆ど「さくら型」ですからね。選挙前は、運動中は威勢が良いのですが、終わってしまえば、サクラ散るで、もう関心は別のところへ行ってしまうのが、現実ですからね。

 

とにかく、日本人は桜が好きですわ。

当分、この傾向は変わりませんな。嗚呼。

 

お決まりのボヤキ留めで御座います。

ボヤキは、疲労が溜まるのですよね。

ストレス解消のはずが、解消にはならないのですよ。

溜まる一方。

皆様も、どうぞお大事に。

 

本日は、これを持ちまして、打ち止めと致します。

貴景勝大関昇進おめでとう。早く、横綱になってよ。

稀勢の里引退しちゃって、つまんなくなっちゃったので、頼みますよ。

 

それでは、お疲れ様でございました。またのお越しをお待ち申し上げます。

 

お後がよろしいようで

《停念堂閑記》100

「停念堂寄席」57

 

「花見ドンチャン騒ぎ税」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるか、どうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方はいないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットと来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

とは言え、大歓迎と申しましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題のもとに日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情の方、このような方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、ヒマ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声でんなー。

 

 

さて、本日の話は,これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め,消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事は御座いません。平凡極まりない話です。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

では、参ります。

 

いまテレビで大騒ぎしているのが、「桜の開花宣言」と言うやつですなー。これは一体なんなのでしょうね。

各地に所定の桜開花に関する標準木とか言うのが決められていて、気象庁の担当職員の方が、開花しているか否かを観察して、おおむね5・6輪咲いたのを確認すると、世間で言われているところのいわゆる「桜開花宣言」となるのだそうですな。

なお、この桜の木は、染井吉野に限定されているそうですよ。

ところで、この標準木って、どのような基準で決められたのですかね。全国に66本決められているとか。

一つは、染井吉野であると言う事のようですな。あとは、気象庁の近くが良いとか。気象庁の職員が、観察するのに便利と言うことのようですが・・・。余り、キッチリした基準があるようでも無いらしいですね。

樹齢とか、陽当たりが良いとか悪いとか、植わっている環境とかは、考慮されていないのでしょうかね。

しかし、この木で、開花した、まだしていないが決まるのでしょうからね。近隣の桜の木の花が、先に結講咲いてしまっていても、標準木の花が咲かなくては、開花宣言とはならないのでしょうからね。

できるだけ、同じ基準の方が、標準として相応しいように思われますがね。

どうしたものですかね。

 

テレビ局では、シーズンになると、標準木の所にカメラを待機させておいて、3輪開いているのが確認できるとか、4輪まで開いたとか、大騒ぎしていますな。そして、観測の所定の時刻が決まっているようですね。気象庁の担当職員が来たら、今日は「開花宣言」となりますか、などとせっついたインタビューをするのが、恒例となっていますなー。

因に、気象庁では「開花」と言う表現はしているが、「開花宣言」と言う用語は使用していないとか。

また。「桜前線」がどうのとテレビ等では、連日大騒ぎしますが、これも、気象庁では「さくらの開花日の等期日線」と言う表現をしているとか。

要するに、「桜開花宣言」とか「桜前線」と言う用語は、新聞・テレビ等マスメディアが便宜的に使用しているもののようですな。

それはそれで良いとしまして、何で「桜開花宣言」、「桜前線」どうのと、こうも大騒ぎするのですかね。

思うに、国民みんなが、桜が大好きで、大いに乗って来れるからではないのかなー、なんて思ったりするのですが。

開花して、たいして間をおかず、パァーと満開になって、間を置かず一斉に散ってしまうところがいいのですかね。長期に亘り、あまりダラダラとやられると、集中力が切れてしまうのでしょうかね。長々と、桜花見のドンチャン騒ぎをやれると、近隣の人は、たまった者では御座いませんな。騒ぐ方だって、ダレてしまいますよ。花見は、短期決戦が良いですよ。

とにかく、メディアは、4輪の開花ではダメ、5輪だと「開花宣言」出たなどと、全国的に報じて、大騒ぎしますよね。

この1輪の差って、何なのですかね。どんな意味があるのでしょうかね。

そりゃー、世の中、色々な事態に、何処かに判断基準となる一線を設けなくてはならない事態があるのかも知れませんが、言っちゃーなんですが、桜なんざー、1本の木に幾ら花を付けるとお思いですか。いくらヒマ潰しができるからと言っても、数えてみる気には。まったくなりませんよ。

無数の花のその内のたった1輪で、その桜の木の花の事態に何か影響が現れでもするのですか。4輪であろうと、5輪であろうと、はたまた10輪であろうと、全く異なる事態が発生するようには、見えませんけど。

 

開花前と開花した後の区別をしたいのならば、1輪でも開花は開花ですから、とにかく1輪でも開花すれば、それで良いではありませんか。4輪と5輪のこの間の1輪の差の意味するところが、今一理解しずらいのですよ。

5輪の開花宣言が出る以前に、花見と称してドンチャン騒ぎをしてはならないと言う取決めでもあるのですか。あるいは、5輪の開花宣言が出されたら、花見でドンチャン騒ぎをしなくてはならない、と言う決めごとでもあって、違反したら、罰金でも取られると言う事態なのですか。

この1輪の差は、何の意味があるのか、まったく判りませんなー。教えてー。

丼に盛られた炊きたてのご飯の内の4粒と5粒の間にある1粒の差が判りますか、ちょーの。

因に、こう言うのを屁理屈と言うのですよ。あいづちは、「へー」とやってくださいよ。たのみますよ。

 

ところで、目下我が国では、財政大困難に陥っているのは、誰でも知ってますな。

そこで提案です。

「花見ドンチャン騒ぎ税」を設定して、増税を策したらどうでしょう。

消費税なんぞは、成人・未成年者、老若男女、金持ち・貧乏、誰彼一切構わず、

只只、一律に、さー払え、と言う性格のものですよ。

一律は平等だ。さー、払えと言う、甚だひん曲がった平等感を振りかざして、弱者には何にも配慮するところが見られない悪税ですよ。

そんなことする蛮勇があるのなら、「花見ドンチャン騒ぎ税」でも掛けなさいよ。花見でドンチャン騒ぎできる人達は、それなりの余裕のある人達なのだから。本当に困窮している人達は、いくら桜が満開になろうとも、「花見ドンチャン騒ぎ」は出来ないんだから、それが出来る人達から、幾分の税負担をして貰っても良いでは御座いませんか、ちゅーの。花見経費の一部だと思えば、いいのだから。

課税が無理ならば、寄付を呼びかけるとかさ、××紛(まが)いでは御座いますが、幾許かの所場代を頂戴するとかさ、いろいろ方法は考えられるでしょー。

国会議員の先生達、ボーッとしていないで、適切な増税策を考えた方が良いですよ。

そうだ、国会議員先生のパーティーにも課税するとかさ、集めた半分を施設費として寄付させるとかさ。特定の施設に寄付するのは、問題があるでしょうから、施設費として、国のその方面の経費に取り込むなり、全体に行き渡るような対策を講ずれば良いのですよ。

花見でドンチャン騒ぎした人には、経費を申告させて、一律10%を課税してはどうです。宴会に使用する場所を申告させて、申告した者に対して、許可証を発行して、所定の場で、ドンチャンできるようにすれば良いのですよ。許可証の発行に伴い、納税の義務を課す事にすれば、良いのですよ。

公平を保ち、より多額の国家増収を図る為に、花見ドンチャン騒ぎしなかった人には、した人と同等の課税をしてはどうですか。但し、非課税の認定を受けている人を除いてね。

なんてことはございませんよ。確定申告書の蘭を一つ増やせばいいのだから。しなかった人の税額は、前年度のした人の平均値に基づいて、10%課税すれば、良いだけのことですよ。たいして手間掛かりませんから。

 

テコちゃん、一発かましてちょうだい。

ボーット生きてんじゃねーよ。代議士先生。

 

また、大企業は、なんだかだ言いつつも、結構な利益を上げているんだから。社員の給与を、とっとと上げれば良いのですよ。社員の給与を上げない場合は、その相当額を税金で徴収すればいいのですよ。そしたら、税金で持って行かれるくらいならと、社員の給与を上げようと言うことになりますから。そうすれば、所得税の増収に繋がるのだから。

国会議員さんだって、自分の給与が上がれば、と期待しているでしょう。

私はね、国会議員先生の給与を上げると言うことに反対はしませんよ。思い切って、20%ほど引き上げれば良いのですよ。

但し、その処置と共に、国会議員報酬に対する税率を50%ほど引き上げれば良いのですよ。国会議員の先生も、給与が上がって、気分が良いでしょうし、国も増収となって、まさに、ウインウインというやつですよ。

国民だって、みんな賛成しますから。良いことづくしの政策ってなもんですよ。大岡政談の三者一両損ならぬ、三者一両得と言ったもんですだよ。

要は、国会議員先生と呼ばれている人達のヤル気の問題ですよ。

 

ちょっとボヤキ話にそれてしまいました。相済みません。話を戻します。

とにかく、日本人は桜の花と宴会のコラボが大好きなようですな。これに、マスメディアがここぞとばかり油を注ぐから、もう、いたる所で、近所の人々の大迷惑をものともせず、お花見のドンチャン騒ぎですわ。

ところが、宴の後のゴミ処理・掃除が大変なようですな。マスメディアは、油を注いで、思いっきり乗せておきながら、終わればすぐに、後始末のマナーの悪さを報じるのですから。マスコミ、大清掃団を組織して、花見後の清掃活動をして、その実況を放映してはどうです。マナーの悪い人を追っかけ回す画像ばかり放映しないでさ。さんざ乗せた罪滅ぼしと言うものですよ。ホンマ。

 

それから、政府もですよ。外国から観光客を呼び寄せようと、やたら積極策を講じていますなー。

沢山の外国の方々が観光にいらっしゃるのは、大変有難い事かも知れませんが、ここにはもっと深いマナーの問題の発生していることを、よもや国会議員の先生達、ご存じないとは言わせませんよ。

観光地では、何処此処構わず、私有地に入り込むし、小路でタチションする人もいるし、車道と歩道の区別なく歩き回るし、とんだ無法状態ですよ。とにかく、この点についての、警察の取り締まりが、不徹底で、極めて甘くは御座いませんか。

だいたい、外国観光客相手に儲けがある人達は、それだけ利益が得られるから、多少のことは眼をつぶるのでしょうが、そうでない日本人は、旅行へ行っても外国人観光客が多過ぎて、なんも楽しくないと、取り止める人も結講いますよ。

花見では、桜の枝を引っ張るし、中には枝を折る人もいますよ。酔っぱらった日本人もちょいちょいやっているようですが。

 

政府は、呼び寄せるだけ呼び寄せて、その管理をしっかりやらないのだから、たまったものでは、御座いませんよ。

外国人の方も、ほっとかれて、困惑する事が多いと思われますよ。マナーの指導とか、通訳とか、基本的やるべきことを、シッカリ整える必要のある事は、申す迄もない事ですよ。

オリンピックは、もう直きですよ。

あの担当大臣、本当に大丈夫かね。前言撤回すれば、それで無かった事になる訳では、御座いませんよ。ホント。

 

行き着く所は、お決まりの小言幸兵衛でやんす。

どうも、お疲れ様で御座いました。

またのお越しをお待ち申し上げます。

 

 

お後がよろしいようで

《停念堂閑記》99

「日比憐休独偏記」30

 

「お医者樣のお仕事」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。大歓迎で御座いますよ。

と申しましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題のもとに日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情の方、このような方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、ヒマ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

今日の視点は、小言幸兵衛で参りますよ。

小言は、長生き最大の糧。ヒマじじーの趣味なのですよ。

さー、ご一緒にストレス解消に励みましょう。

 

さて、本日のヒマ潰しのテーマは、“お医者様のお仕事”と言うことにしますよ。

それでは、行き当たりバッタリで参りますよ。

バッタリ倒れて、お医者様に見放された時が、話の終りの時ですからね。

 

時々思うことがあるのですが、一般的に言って、お医者さんは、病んでいる人の病気を直す職業についておられる方ですよね。

この病んでいる人が、お医者さんに、病気を直して下さい、と依頼して来た時に、お医者さんは、わたし失敗しないから、と言うかどうかは別として、持てる知識、技量を尽くして、直すことに専念することになりますよね。

これは、先にお断りしたように、病人当人から、その病気を直して下さい、と言う依頼があった場合に、お医者様は、このように対処することになる、と言うことですよね。

弁護士さんも、弁護の依頼があって、そこから弁護活動を開始することになるのですよね。依頼されていないのに、どこぞへ勝手に押し掛けて行って、その人の承諾も無しに、知らない人の弁護を始める弁護士さんがいたら、珍しいことですよね。尤も、ドラマチックな特別な事情でもあれば別ですがね。通常、弁護士さんは、頼まれもしない弁護活動はしませんよ。

お坊さんだってね。全然知らない方が、まさにご臨終を迎えると言う事態の病室の前で、頼まれもしないのに待機している、なんて事は、御座いませんよね。

頼みもしないのに、勝手にやって来るのは、警察ぐらいですよ。場合によっては、有無を言わさず、踏み込んで来ますからね。

 

ところで、お医者さんの場合、これが、依頼が無かった場合には、どうなるのでしょうかね?

と言う疑問が湧くのですよ。ヒマなもんですから。

例えば、交通事故が発生し、大怪我をして意識不明に陥っている人が、病院に救急車で搬送されて来た。本人は意識がないから、治療の依頼なんかできませんよ。

そして、本人の家族、親族、友人などの関係者が明らかでない場合がありますよ。

このような場合、日本社会の通例では、病院がこの怪我人を受け付ければ、担当の医師が、状況に合わせた適切な処置を講ずることになるでしょうな。至極当然のことですね。

この場合、病院、医師は、当の負傷者、或はその身内、知人等から、治療を施して貰いたいと言う、依頼を受けた訳では御座いませんな。

しかし、病院、医師等は、生命を取り留めようと、適切な治療に当たるでしょうな。

何故、病院、医師等は、依頼されたわけでもないのに、治療に当たるのでしょうかね。

これは、こう言う場合は、誰に依頼された訳ではないが、病院、医師等の当然の職務として、治療に当たらなければならないとする社会通念が確立しているからなのでしょうね。

どうして、そのようになったのかと言うと、そのようにする事を可とする人々が、圧倒的に多数だからでしょうね。

なぜ、そうなのか、と言うと、要は、人間として、人道的立場からそうすべきとする人々が圧倒に多数だからでしょうね。

 

要するに、医師たる者は、病人から治療の依頼があった場合、依頼がなくても交通事故等突発的なことにより負傷者がでたならば、負傷者当人およびその家族等身内や知人からの依頼が無くとも、当該負傷者の治療に当たらなければならない立場におかれていますな。

しかし、お医者樣だって、人間ですし、色々事情がおありでしょから、時に、依頼されても、その依頼を受け入れられない、或は、受け入れたくない場合もあるでしょうね。

このような場合は、幾分、ややこしくなる場合がありますよね。

 

例えば、現状でも発生しているのでしょうね。以前からマスメディアなどで、よく取り上げられていた事象として、病院による救急車の受け入れ拒絶・タライ回しの問題がありますね。

 

小生も、その事例を目の当たりにしたことが御座いますよ。

と言いますのは、ご近所の家に救急車がやって来たのですよ。何事かと、近くで見ていたのですが、急病だったのでしょうね。直に患者さんが救急車に載せられましたよ。

ところが、救急車がなかなか発車しないのですよ。どうしたことか、と見ておりましたところ、救急隊員の方が、一所懸命にあちこちの病院に電話をしまくっているのですよ。

お判りのとおり、受け入れてくれる病院を捜しているのですよ。これが、なんと約40分ほど続き、漸く救急車が何処かに向かい発車しましたよ。

病院による救急車の受け入れ拒否、タライ回しについては、テレビで取り上げられているのを見たことが御座いましたが、その現場をまざまざ見ることになりましたね。

救急の患者さんを載っけても、救急車は出発出来ない現実があるのですよ。これ、救急車と言えるのですかね。

病院の救急車受け入れ拒絶の理由は、色々とあるのでしょうね。きっと、救急患者さんの命が懸っていても、拒絶しなければならない特別の事情がおありなのでしょうね。

病院、医師は、とにかく万難を排して、治療の依頼を受けた患者さんには、全力で対処するのが使命であろう、と思っていたのとは、全く方向違いの現実がありますね。

 

ここで、目下テレビをはじめとするマスメディアで、話題となっているとある病院で、透析治療の依頼を申し出た患者さんに、担当の医師が治療にあたって、透析を希望する選択と共に、透析をしない選択もある、と言うことを告げて、患者さんにどちらかを選択させた。その患者さんは、透析しない方を選択したので、透析治療が行われなかった。この後、日をおかず当該患者さんは死亡した、と言うことで、この医師及び病院のこの対応を巡って、是非の議論が巻き起こっているようです。

勿論、これは、メディアを通して得た情報で、小生が自ら関係方面の調査を実施して得た情報では、御座いませんので、事実の細部については、十分に把握出来ていない事を明記しておかなくてはなりません。

従って、重要な部分に関る事実を明確に把握出来てはおりません。

この事に関するメディアによる報道で、幾つかの問題点が指摘されております。

その最も問題となっている点は、病院とその所属医師が、透析を希望する選択と共に、透析をしない選択もある、と言うことを患者さんに告げて、患者さんにどちらかを選択させた、と言う点ですね。

もっとも、今後の展開で、異なる事実が発覚する可能性が無いでは無いことは、申すまでも御座いませんが。

 

と言う次第で、ここでは、この事実関係の検証をすることは致しません。

ここでは、社会における想定が可能な一つの出来事として、病院とその所属医師が、透析を希望する選択と共に、透析をしない選択もあることを患者さんに告げて、その選択を求めることの是非について、見てみようと言う次第です。

あくまでも、想定した課題についての一般的な、いわば病院や医師に関る“常識”について、ちょっとだけ垣間見ようという位のことであります。

結論的に言えば、万民が了解する正解に辿り着けるか否かは、全く不明な、極めて難しい要素を含む問題に属する事と言えるでしょうから、これが正解と言う結論を得なければならない事態でも御座いません。答は、各人個々の判断による他ないのか、と言う風にも思われます。

 

さて、出来るだけ問題点を単純化して、判り良い方向で見て行くことにしましょう。

ここに、腎臓を煩い、人工透析をしなければ、生命を維持する事が困難な状態のAさんが存在します。もう、15年間も透析を続け、年齢も79歳になっています。そして、循環器の疾患もあり、消化器の調子も思わしくありません。常に疲れ勝ちで、時に、激しい痛みを伴います。さらに、足腰も悪くなり、自分の体力だけでは、自分の身の回りの事すら行えず、自力では透析を受けに、通院することも出来ません。息子65歳とその嫁61才の世話を受けて、これまで毎週2回の透析を続けて来ました。 

ところが、この度、息子が交通事故を起こし、死亡してしまいました。経済的事情から、車の任意保険、傷害保険、生命保険等には加入しておりませんでした。従って、事故死に対しての保険金はありませんでした。これまでは、息子の勤める会社の社宅に住んでいましたが、これからは、ここを出て別に住居を捜さなくてはならなくなり、知合いの紹介で、嫁と共に、転居しました。

そしたら、今迄透析に通っていた病院も替えなくてはならなくなり、嫁は車の運転が出来ないので、タクシーを利用して通院しなくてはならなくなり、息子の死亡によって、収入がすごく少なくなったので、経済的にも著しく苦しい事態となりました。

このような状態で、病院へ行って、担当医に事情を話したところ、その医師は、透析をして欲しいと言うのであれば、希望どおり透析治療を致しますよ。しかし、透析をしないと言う選択肢もありますよ。そのあたりの事を良く考えてみてはいかがでしょうか。

とりあえず、今日は、透析をして、この次ぎまでに、良く考えて来て下さい。と言うことになって、その日は帰宅したのです。

帰宅しても、常にベットに横たわってなければならない状態で、自分の身の周りの事も、自分では出来ないので、一切嫁の世話になっている状態です。

このまま嫁に世話を掛け続けるのは忍びない。また、透析を続けて、生き長らえてはいるが、ベットに横たわっているだけの状態を維持し続けることに意味があるのか。などなど、色々と考えた末に、Aさんは覚悟を決めて、透析中止を決断しました。そして、次回、病院へ行き、透析中止の決断を担当医に告げました。

担当医は、透析を中止すると言う事は、どう言う事か、判っていますか。その上の決断ですか、と問うて来たので、覚悟の上であると、返答した。

この結果、透析は中止となり、間もなく、Aさんは死亡しました。

 

 

概ねこのような事柄を想定して、この医師の透析続行の他に、中止と言う選択肢もありますよ。と言う提案の是非について、どのように考えるかと言う事について、みていくことにしょましょう。

 

純化すれば、是か非か、どちらだ、と言う問いですが、問題を一般化すれば、人間個々人の生命の管理をどのようにすべきか、と言うことに置き換えて、考えることが出来るのではなかろうかと思われるのですが、如何なものでしょうかね。

 

すなわち、手っ取り早く判り易く言えば、個人の生命を誰が管理することになるのか、と言うことですわ。

 

この点について、すぐに思いつくことは、個人の命は、その人のものであることに決まっている。すなわち、個人の生命は、その個人自身が管理すべきものである。これが、人の生命の管理に関する基本である。と言うことが、“常識”的に考えられますなー。私も、判らない部分を残しながらも、このように考えるのが基本のような気がしますねー。

いきなり知らない他人がやって来て、お前の命の管理権は、オレが握っている。おまえを生かそうが、殺そうがオレの判断次第だ。なんて、言われたら、こりゃーてーへんでっせ。

但し、自己の生命を自身で、上手く管理出来ない場合があります。たとえば、幼児に自身の生命の管理をせよ、と言っても、これには無理の部分がありますね。あるいは、突発的な事故に遭遇して、意識不明の状態に陥ってしまった場合など、当人自身で自己の生命に関する管理が不可能となりますね。

すなわち、自己の生命の管理が、自身で出来ない場合は、代わって、誰かがその人の生命の管理に当たらなければならないと言う事態も存在するわけです。

このような事態の場合は、その状況に最適な方法をとらざるを得ない訳です。

事態によって、色々な対策が必要ですね。

しかし、この場合においても、個人の生命の管理権は、その人自身にあると言う原則は存在しています。だから、代理人が全て好き勝手出来ると言う事態では御座いませんな。

たとえば、幼児の場合は、一般的には親が管理を代行する立場にありますが、では親が、子供の生命管理について、何でも勝手に代行できるのか、と言うとそうでは御座いませんな。だから、躾と称して、子供を虐待したりすると、司法が介入して、加害者に処罰を課するシステムが作られていますね。

突発的な事故による意識不明者を見つけて場合には、見つけた人は、警察に通報したり、救急車の手配などをしなくてはならない義務を負うことになってますね。したがって、これを怠った場合には、司法によって然るべき対処がなされますな。時に、死体遺棄なんという、責任を取らなくてはならなくなったりする事も御座いますな。直に、救急車を手配すれば、命を取り留められたかも知れない可能性があったかも知れませんのでね。このような場合は、その発見者が、他人の生命を管理する立場におかれていた、となるわけですね。

このように、自身で自身の生命を管理し切れない場合が、多々あるわけですが、どの場合においても、個人の生命の管理権は、その人自身にあると言う原則は曲げられないと考えられますね。

 

話を本題に戻します。

この生命管理に関する基本原則を前提にした場合、人工透析の続行、中止の判断の決定権は、まずは、患者本人にある事は明白ですね。

ですから、当の本人が続行を望めば、病院へ行って透析を受ければ良いわけであるし、もう、透析を受けないと決断した場合には、病院へ行かなければ良い、と言うことになりますね。

この患者自身の判断については、論理的に矛盾は無いと思われますが、しかし、人間自分一人で存在しているものでは御座いませんので、いわば社会的ないろいろな要素が絡んで存在している訳ですな。

例えば、自身が透析中止を決断した場合、まずは、夫婦、親子関係者が、異議を唱えて介入してくる可能性がありますね。この場合は、結論的には、関係者を交えて良く話合い、なお続行するなり、中止するなりの決断を導くより御座いませんな。介入者がさらに広く親族、友人、知人などを含む場合も、同様に話合いにより結果を導くほか御座いませんな。

さて、話の本題では、これに病院とその医師が関っている事態を想定している訳です。

すなわち、病院、医師は、患者から治療の依頼があった場合は、通常、依頼を受け入れて、治療に万全を払う。と言うのが、常識的判断だと思われます。

また、患者からの依頼が無かった場合は、特殊な事情が無い限り、医療行為は発生しないことになりますね。

ところが、今迄、人工透析を続けてきた患者が、予定の予約日・時刻に来院しなかった場合、病院・医師はどのように対応すべきか、と言う問題が御座いますね。

問題を判り易くする為に、単純化した対応策を列記することにします。

  • 放置する。
  • 通院して来ていない事情を電話で問い合わせる。
  • 迎えに行く。

いずれが、この話のテーマとなっている“お医者様のお仕事”として、正解と言うべきでしょうか。

どれも、現実問題として、取り得るか可能性がありそうですね。

結局のところは、それぞれ個人の好みや価値観によって、答が変わる可能性があるのでしょうね。

それでは、次の事例に移ります。

 

ある日、来院した患者から、人工透析をすべきか、否かの相談を受けた医師がいる。この時の医師の対応は、どうあるべきなのでしょうか。

A 患者に、透析することを勧める。

B 透析をするか、しないかについての選択肢のあることを、患者に提示し、そ

 の選択権は、患者側にあるので、良く考えて、どちらの選択も可能であるこ

 とを良く説明して、一旦帰宅させる。

C 医師は、透析を受ける、受けないの選択権が患者にあることを提示して、患

 者が、熟考の末、透析を受けない選択をしたので、それを受け入れ、透析を

 しないこととした。

Aは、従来、医師として当然と思われて来た対応といえるでしょうね。

Bは、透析を受ける選択の他に、受けない選択肢もあることを告げ、熟考して決断するに必要な時間を与えたと言う対応であり、受けない選択肢もあることを提示した、と言うところに特徴がある対応の仕方ですね。

Cは、受けない選択肢もあることを患者に提示して、その場で、患者が受けない意思表示をしたので、医師はその選択を受け入れた、と言う特徴がある対応ですね。

皆さんは、どれをもって正解としますか。

 

ようするに、ここで問題となるのは、人工透析をしない選択肢のある事を患者に提示することが、“お医者様のお仕事”として、是か非かと言う事です。

一般的に、ある事についての判断が必要とされる場面において、それに関る専門家が、複数の選択肢を示して、そのどれかの選択に当たらせる場面は、普通にあることですね。

しかし、“お医者様のお仕事”は、患者さんの生命に直接関る場合がありますので、その対応により一層の慎重さが求められる訳ですね。

そこで、出て来るのが、“お医者様のお仕事”は、患者さんの生命を維持する事を前提とし、治療に当たることを旨とするものであり、直接、死に繋がるような方向の決断を患者に求めるべきではない。すなわち、医師たる者が、透析を受けない選択肢を提示するような行為をしてはならない、と言う意見がありますね。

これに対して、社会一般に、事を執行するに当たって、明示された色々な選択肢から、当事者がどれかを選択する手法は、悪い事とは言えない。また、当事者は、示された選択肢の中から、特定のものを選択する権利がある。とする意見もある様です。

中々難しい判断に迫られるわけですが、皆さんはどのように考えますか。

今迄、人工透析を継続して来た患者が、透析を中止する、と言い出した時に、どう対応すべきか、と言う問題ですね。

お医者様は、まずは、中止を決断した事情を明確に把握する必要があるでしょうね。

事情は、一様ではないでしょうから、現実的に個々のケースにより対処しなくてはならないでしょうね。

無理を承知の上、大雑把に一般化すれば、まず、考えられる事は、患者さん自身が、もう生きていたくない、もはや生への意欲を喪失してしまった、と言う事情の発生が想定されますね。

何故そう言うことに至ったか、と言うと、個々の事情がありますね。

例えば、

1 持病があって、激しい痛みがあり、日々激痛に悩まされるばかりであり、目下改善

 の見通しがない。この状態でも透析を続けなければならないのか、極めて疑問であ 

 る。

2 生きている意義が何ら感じられない心境になっている。こんな状態でも、死ぬまで

 透析を続けなくてはならないものかと、苦痛にかられている。

3 周囲の人に、介護を求めなくてはならず、極めて心苦しい。この苦痛から早

く解放されたい心境にある。

これらは、患者個人の有する問題である。

他に、

A 介護に当たる人々が、もう限界にきていて、この手だてがつかない事態にい 

  たっている。

B あるいは、社会的に何ら役に立てない存在となっている。にも、拘わらず、

 多額の経費を税金から負担して貰っていることに、気が引けて堪え難い心境になって いる。

C 経済的に、極めて苦しい事情にある。これ以上の負担が無理となっている。

などなど、色々な事情が考えられますな。

色々な事情によって、患者自身が、人工透析の中止を決断した場合には、病院・医師側の対応は問われることは無いでしょね。これは、患者さんの生命の管理りについて、患者さん自身が下した結論ですから、部外者には、直接関係が発生することは、無いと考えられますね。従って、これは、“お医者様のお仕事”に、直接関ることでは御座いませんな。

ところが、上記1〜Cの事情により、人工透析の継続の是非を相談された場合に、医師が、中止の選択肢のあることを助言して良いか、どうか、と言う判断は中々難しい要素を含んでいる様です。

このような場合に、中止の判断を提示することが、“お医者様のお仕事”として、是か非かと言う課題ですね。

皆さんの判断は、どうでしょうか。

アンケートを取った結果では御座いませんが、医師たる者は、いかなる条件下においても、この様な生命の維持から遠のく選択肢を患者に提示してはならない、と言うのが、医師のいわば“常識”である、とする医師が多いのではないのか、と言う気がしますね。

例えば、上記1・2・3およびBなどに関しては、透析を専門とされている医師は、このような相談内容については、あるいは、あまり得意な分野とは言えない場合もあろうか、とも思われますね。

このような事態の場合は、例えば、精神科の専門医の受診を助言するとか、このような悩みを持つ人との応対に長じているボランティアさんやNPOなどがあるでしょうから、そちらへの相談の助言をするとか、色々対策があるかとも思われますね。

また、上記Aの事態に対処するには、自治体のサービスやこれもボランティアさんやNPOの支援を受けることができるかも知れないので、その助言をする方向が望ましいのでしょうね。

更に、Cの場合も、国や地方自治体による支援策が実施されているでしょうから、その方面への相談の助言もあって、然るべきと思われますね。

とにかく、病院・医師は、毎日毎日、人の命と向き合わなければならない立場にあるのでしょうから、一歩誤ると取り返しのつかない事態となり兼ねませんので、責任は重大ですね。

そして、お医者様は、とにかく、毎日毎日すごくご多忙のことが多いようですね。ですから、専門外の患者の相談に、十分な時間を割く事が難しい実情もあるようです。医師の働き方改革は、どのようになっているのでしょうか。おそらく掛け声だけではないのでしょうか。

医師数の少ないことが、これまでずーっと問題視されていますね。毎回のように、国会で取り上げられている問題ですが、政府の対応は、いつも誠意取り組んでいる。対策を考えている、とような答弁ですが、一向に事態を打開する対策は、出てきてませんな。

国会議員と呼ばれている先生方には、人の生命は随分遠くにある存在のように見受けられますね。専らの関心は、次回の国政選挙でどのようにしたら当選出来るか、と言う、党利党略、私利私欲的立場からの政策ばかり追っかけているように見えますなー。口では、国民向けに耳触りの良いことを、おっしゃいますが、本当のところは何を考えて、何をやろうとしているのか、実際のところは極めて見えにくいことだらけですね。

各担当の大臣も、なんでこのような人が任命されるのか、残念としいか思われない人事が、いつも至極当り前のように、行われていますな。大臣の任命は、総理大臣の専権事項であるとか。何だか、国政に関る極めて重要な事が、総理大臣に私物化されている側面を有する制度のようにも見えますなー。

果たして、これが民主主義的にベストな制度なのでしょうかねー。

 

だんだん話がそれて、愚痴っぽくなってしまいましたが、“お医者様のお仕事は”申すに及ばず、人々の命を救う方向で行われることが、まずは大事な事なのではないか、と言うことは言えそうですね。この方向で、頑張って貰いたいと切望する次第ですね。

 

人工透析の継続か中止かに関る判断についての“お医者様のお仕事”についてが、今回の話の主テーマでしたが、結論らしい結論には、中々達することが難しいと言うことが、再確認されただけですなー。面目御座いませんが・・・。

 

もっとも、人工透析の継続か中止かに関る問題だけではなく、例えば、今現在となっては、その仕法が安定して来たと認識すべきなのか、脳死の判定についての議論が、マスメディアなどで聞かれなくなってきましたね。

呼吸をしている、脈もある、触れば体温も普通に感じられる、でも、脳の反応がなくなっている、だから、この人は死んでいる、と言われても、なかなか納得しづらい状況はまだ続いているようにも、感じられないこともありませんな。

単独医師の判定では、誤りがあってはならないことであるから、必ず数名の判定団が組織されて、慎重の上に慎重を期して、絶対に誤りをしない段取りを付けた上で、死亡の判定を下す、と言う方法が取られているものと思われます。

にもかかわず、脳死判定を受けた人の意識が戻った例はないのですかね。もしも、あったら、それはそれは大変なことですよね。

と言う事で、安直にネットで検索しましたところ、脳死判定の後、意識を回復した例はあるのですね。驚きますね。責任は、どのようになるのですかね。

脳死判定後、直ちに、当該臓器が移植希望者に、移植されたとなれば、脳死の判定の正否を確認する事は、万事休すの事態ですよね。

 

ちょつと、性格がことなりますが、後に、最高裁の有罪判決が覆った例は、時々ありますね。死刑が執行された後に、新事実が明きらとなって、判決が誤っていた。冤罪であった。なんてなると、取り返しがつきませんよね。

裁判の判決の場合は、最終的には、担当裁判官による多数決によるのでしょうね。これ以外の良法が考えられいないので、このような方法がとられているのでしょうね。

 

これが、脳死判定の場合も、最終判定を出す場合に、多数決であったとしたら、これはエライ事のように思われますね。まさかね、そんな事は御座いませんよね。厳格な脳死の判断基準があって、それに間違いなく、適合するか否かを数名の専門医により、慎重に、検証されて、絶対に誤りが無いことを確認して、ようやく脳死の判定が下されるのでしょうね。

しかし、それにも拘わらず誤判定が発生しているのであるから、どうしたものでしょうね。

ただ、他方では、一刻も早い臓器の移植に生死が懸かっている患者さんもおられます。

かといって、脳死判定に間違いが生ずることは、絶対に赦されないことですから、これは、どうすれば良いのでしょうね。

 

万が一にも、脳死の判定後に、蘇生した場合には、その責任は、どうなるのでしょうね。

 

その点、民主主義は、良く出来てますね。国民の有権者から選出された国会議員と呼ばれる方々が、政策に大きなミスをおかし、結果、国民に多大な損害を与える事になった場合、そのミスを犯した人たちは、直接的に責任を問われ、法で裁かれることは御座いませんね。

結論的には、その責任は、国民全体にある、とされているのでしょうね。と言う事は、責任が国民に分散されていて,結局のところは、責任が問われないことになる。と言う状態になっているのですね。

精々、国会を解散して、国政選挙でその責任を国民に問うと言うことくらいしか、裁かれる機会は御座いませんな。

国会が解散となった時、解散しなければならなくなった責任を問われた前国会議員さんは、間違いなく、次ぎの選挙で、国民の審判を仰ぐ。落選したら、タダの人となる。それが政治家としての責任の取り方である、とおっしゃいますな。

落選したら、タダの人になるのだって。と言うことは、落選しなかった場合は、タダの人ではない。国民が納めた税金の使いみちを決定できる、偉い存在なのだ。と言う、特権意識の人となるのですなー。何処へ行っても、先生、先生と持ち上げられる存在なのだ、と言う意識なのでしょうね。

何度か当選すれば、順番が回って来て、大臣樣ですからね。

国会の大臣の答弁も、以前は、質問を予め伝えてもらっていて、その答弁をぬかりなく官僚が作成し、会議の場では、大臣がそれを読み上げる。と言う形式で行われていましたね。国会は、もはやセリフが整えられているお芝居でしたね。時に、それで間に合わない事態になった時には、官僚が代わって答弁に当たっていましたね。これが当り前で通っていた時代が長く御座いまたな。

今も、官僚に代弁させる場面がよくありますけれどね。

また、質問の意味も判らない大臣がいて、窮して官僚の耳打ちで答弁をしてみたものの、頓珍漢な答弁で、挙げ句の果てに、その点に詳しい官僚がいるので、それに詳しく説明させようか、などと言い出す大臣が出現して、国会で笑いをとって、賑わいを見せた大臣がいましたね。

 

もう亡くなられて久しいですが、クレイジー キャッツの植木等さんが、“サラリーマンは、気楽な家業ときたもんだ”とやっていましたが、もし、今の時代に居たら、“大臣さんは、気楽な家業ときたもんだ”と、やってくれたでしょうな。

言わずもがな、小生なんざー、生まれて以来七十年余り、ずーっと、タダの人ですよ。タダですから、金銭に換算すれば、0円ですよ。0は、底なしで、幾ら重ねても、0は0ですからね。ナサケネー。アーア、と。

 

この辺りが、バッタリの潮時です。

同じ事をクドクドと、どうも申し訳御座いません。

タダの愚痴ジジーの独り言であります。どうぞ御海容のほどを。

少しは、ヒマ潰しになったでしょうか。

どうもお疲れ様で御座いました。またのお越しをお待ち申し上げます。

 

お後がよろしいようで

《停念堂閑記》98

「日比憐休独偏記」29

 

「嗚呼!“常識”」

  

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じ上げませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。大歓迎で御座いますよ。

と申しましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますれば、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めまして、サー今日一日、どのように過ごすか、生きて行くか。と言う難題のもとに日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を生きなくてはならない、と言う宿命のもとに、とにかく惰性でと申しましょか、とりあえず生き長らえておられる方、このような方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。ヒマ潰しになりますよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない、笑い話で御座います。深刻でないところが、取り得ですよ。

夜、寝られなくなったりしませんからね。

もー、聞いてすぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、ヒマ!

A A O!  エイエイ、オー!

 

ヒマ潰しとは申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

今日の視点は、小言幸兵衛で参りますよ。

小言は、年寄りの日々の楽しみ。オオゴトには取り組みませんよ。

何かに付けて、ゴタゴタ、ゴチャゴチャ、ブツクサ言ってやりましょう。

さー、御一緒にストレス解消に励みましょう。

蛇足ながら、ストレスの解消は、ストレス発生の根源を見つけ出し、それを排除することが肝心だと思います。

判り易いように、単純化して見ますと、一般的に、ストレスの根源がストレスを感ずる自己・本人にある場合、自己・本人以外の他者にある場合、自己・本人と他者の双方にある場合の3パターンが考えられますな。

あるストレス発生の根源が、そのストレスを感じている本人にある場合は、これは、論理としては、当の本人がストレスを感じないような性格に変わる以外に方法が御座いませんな。

よく見られるケースですが、特定の同環境にいながら、Aさんは溌剌と活動している。かと思えば、Bさんは、面白いのか面白くないのか判らないが、普通の活動を続けている。ところが、Cさんは不満タラタラで、その捌け口もなく、悶々とストレスを溜め込んでいる。

このような状況の場合は、一概に環境に問題有り、とは言えず、それぞれの個体の性格に問題があるのではないのか、と言うことが考えられますな。

従って、この場合 、Cさんは、自己の性格の改変に取り組む必要が感じられますな。

すなわち、ストレスの根源が自己・本人にある場合は、その本人がストレスを感じない性格に変わるよりない、と言うことですな。

一方、ストレスの根源が他者にある場合は、その他者を排除したり、改変させなければならない、と言うことになりますな。

しかし、これは自己・本人の意識改変とは異なり、現実的には、多くの場合、他者を排除したり、改変させると言う事は、中々容易な事ではありませんな。

特に、当該他者が単体ではなく、複合体の場合、たとえば「会社」だったり、ひっくり返った「社会」の場合などは、その排除や改変は、相当無理だと言うより御座いませんな。

もっとも、「会社」・「社会」が、より多数の方々にストレスを感じさせないように努力する事は、申す迄も御座いませんよ。

 

と言うことで、ストレス解消は、現実的には、自己・本人の意識改変を図るより手っ取り早い適当な方法が見当たりませんな。他者に期待しても、中々思い通りに進めることは、容易では御座いません。

そこで、自己・本人の意識改変と言うことになりますが、これに効果的なとっておきの情報を、本日は特別に、お教え致しましょう。本日(本日は常に存在しますが)限定でお教えしましょう。

特段難しいことは、全然御座いませんよ。

偏見と独断で甚だ申し訳御座いませんが、ただ、「停念堂閑記」を開いて頂く、これだけで、いいのですよ。

これ、“常識”ですよ。???

 

 

と言うことで、本日のヒマ潰しのテーマ、“常識”に、漸く到達いたしました。本日のヒマ潰しのネタは、“常識”と言うことに決定。

 

それでは、行き当たりバッタリで参りますよ。

バッタリ倒れて、皆様に見放された時が、この話の終りの時ですからね。

4649! 四六四九! ヨロシク! 

低次元的ダジャレでこざんす。面目ござんせん。 

 

 

時に、今時の“常識”とは、どういうことなのかなー、なんて思ったりすること御座いませんか。

テレビを見ていて、もはや自分の“常識”に、地震、いや自身、いやいや自信が無くなる思いをすることは、御座いませんか ?

 

そもそも、“常識”ったー、なんだ ? と言うことになるとですね。

私の凡人的“常識”では、ですよ。

誰しもが、「これは、こういうものだ」、と認識していることではないのかなー。なんて、思うのですよ。

いきなり、「誰しも」の「誰」とは、ダレだ ? なんて聞かないで下さいよ。

スタート時点で、いきなりコケてしまいますからね。

まー、言ってしまえば、誰でもいいのですよ。要するに、日常普通にその辺におられる、一般の人々ですよ。あえて申させて頂けますならば、いちいち屁理屈を捏ねない、甘い物を甘いと感じ、辛い物を辛いと感じ、それを甘いよー、辛いよー、と素直に表現出来る御方ですよ。これが、ここで言うところの「誰でも」に相応しい正体と言うことにしたいのですよ。

何でも彼でも、いちいち突っかかってくる、“非常識”な方ではない、素直な御方のことですよ。でないと、話が前に進みませんから。

エッ! 進まなくても良いではないかって、ですか。

そりゃーまー、何が何でも進まなくてはならないと言う、法律がある訳では御座いませんし、どうしても、進めなければならない、と言うような、緊急・重要な意味を有する訳でも、御座いませんので、進まなくても、一向に差し支えはないのですが、それでは、ヒマ潰しにならないので、この視点からは、進めた方が良いのですよ。と言うことで、進めさせて頂く事に致しますよ。

 

さて、“常識”とは、一般的には、義務教育レベルで学んだ知識や世間を渡って行く時に必要とされる、誰しもが「それはそう言うものだよ」と認識している事柄と言うことが出来るのではないでしょうか。

別の表現をすれば、誰しもが当り前、当然の事だよ、と思っている事柄と言えるでしょうな。

明らかに変わった方々、すなわち偏屈者の“常識”ではなく、平均的な極めて平凡な一般人の “常識”と言うものですよ。

そんなこと、いちいち改めて言われなくとも、判ってるよー、ですって。そんなこと“常識”だよって、ですか。

そーです。そーです、“常識”ですよ。

他にも、色々な視点から、色々なご意見も御座いましょうが、ここのヒマ潰しの場では、こう言うことにして、話を進めたいと思うのですよ。

 

さて、“常識”とは、義務教育レベルで学んだ知識と一言で言ってもですね、これがみんな同じかと言うと、そうとは限らないところが御座いますよ。これ“常識”ですよ。きっと。

年齢によって、学校教育で学んだ内容が、同じでは御座いませんからね。

私事で恐縮で御座いますが、終戦間もない、昭和25年に小学校に入学し、せっせと学校には行きましたので、何とか落第はせず、同34年3月に、中学校を卒業し、義務教育の課程を終えました。したがって、小生のここで言う義務教育で学んだ知識的“常識”の正体は、昭和25年から同34年頃にかけて、小・中学校で学んだ事柄となる訳ですよ。

ところが、この時期には、私にはちゃんと勉強して、立派な常識人になろうなんて言う意識は、全く無かったと言って、良いようです。自慢する訳では御座いませんがね。このような意識で勉強した記憶なんか、とんと御座いませんから。学校では、授業時間中は、座席について、何となく先生の話を聞いてはいましたよ。きっと。

だけど、頭の中は、速く授業終了のベルよ鳴れ、休憩時間に、放課後に、なして遊ぼうか、と言うことくらいしか考えていなかったでしょうな。

だいたい大人になったら何になりたいと言う明確な目的的な意志はあまり無かったと思いますな。専ら眼前の楽しみが最大の関心事だったように思いますよ。

したがって、“常識”に繋がる知識獲得とは、ほど遠い存在にあったことは確かで、結果的に知識は乏しい部類に属する存在になったと思われますな。

まー、大雑把に言うならば、義務教育での知識の収得率は、おまけして50%と言ったくらいですかね。習ったことの半分くらいは、なんとか身に付いたというあたりではないでしょうか。大目に見てですよ。自己には甘く、大いに贔屓目に見てですよ。

 

しかし、ですね。こうして身に着けた義務教育による知識的“常識”ですが、これが、その後の度重なる文部省・文部科学省による教育課程の改変によって、その内容は随分変わって来ていることでしょうね。

1+1=2と言うことは変わっていないでしょうが、私らの習わなかった新知識が、沢山盛り込まれているのでしょうな。かつて得た小生の“常識”的知識は、もうすっかり“非常識”と化してしまった部分も多いのでしょうなー。たまりまへんなー。ほんま。とても、“常識人面”している場合ではないのかも知れませんなー。やばいよ。

そして、これに高校で5%くらい、大学でまた、5%ほど上乗せし、なんとか、一般人の60%くらいの知識的“常識”を獲得したのではないのかなー、なんて思いたいものですよ。自己贔屓すぎます?

まー、まー、すれすれで合格としてもらえませんかねー。

エッ、ヤッパリ駄目! 現実は、厳しいネー。

 

知識的な“常識”はこれくらいにさせてもらうことにしまして、世間を渡って行く時に必要とされる、誰しもが「それはそう言うものだよ」と認識する“常識”(ここでは、“世渡り的常識”と称させて頂きます。)に話を移して参りますよ。

と申しましても、この“世渡り的常識”は、色々な事象について、一様とは参りませんので、ここでは、最近気に掛かっている僅かな局面に関する“世渡り的常識”に限って、見て行くことにしますので、ご了解下さいませ。

 

要するに、義務教育で学んだ知識的“常識”以外の世間を渡って行く時に必要とされる、誰しもが「それはそう言うものだよ」と言う“世渡り的常識”は、知識的“常識”とは、甚だ性格を異にするものであり、何を持って“常識”と判断するかは、中々難しい性格を有するところがあると思われるのですよ。

個々人の性格、価値観、立場などによって、この“世渡り的常識”は、異なりますからね。個々人の性格、価値観、立場などが違えば、ある対象に関する“常識”も一様とは言えない現実があるようですよ。

 

 

ちょうど、先日、水泳のホープ池江璃花子さんが白血病であることを公表したというニュースが流れましたが、このことについて、皆さん一様にびっくりしたことでしょうね。そして、このことについて、池江さんの病状をまず第一に心配され、適切な治療をなさって、とにかく元気になって貰いたい、と願った方々が沢山おられたでしょうね。

このような願いは、“世渡り的常識”としては、全く当然の“常識”中の“常識”ということでしょうね。

ところが、ところが、「金メダル候補で、日本が本当に期待している選手なので、がっかりしている。早く治療に専念して頑張ってもらいたい。また、元気な姿を見たい。1人リードする選手がいると、みんなつられて全体が盛り上がるので、その盛り上がりが若干、 下火にならないか心配している」と言う発言の一部分を切り取られて、話題にされたオリパラ担当大臣さんがいますなー。サイバー担当大臣も兼務している桜田義孝と言う人物ですよ。

この発言は「早く治療に専念して頑張ってもらいたい。また、元気な姿を見たい。」と言ってはいますが、それは池江さんが「金メダル候補で、日本が本当に期待している選手」だから、「1人リードする選手がいると、みんなつられて全体が盛り上がるので、その盛り上がりが若干、 下火にならないか心配している。」と言う見地から発せられたもので、“常識”ある人間的立場から、池江さんの病状について心配いている訳ではないように聞こえる。また、白血病の患者さんに対して、甚だ失礼である、と言うことで問題にされたようですなー。

そして、同様の見地から、「がっかりした」と言う、部分が特に、けしからんとされたようですなー。

池江さんご本人にとっては、命に関る極めて深刻な事態なのですよ。

そこに、金メタルを取れなくなっちゃって、「がっかりした」は無いでしょう、と言うことになるのでしょうなー。

 

このようなタイミングで、国務大臣と言う重職にある人の発言としてあるまじき発言、と言う視点で、メディアが大々的に取り上げたわけですなー。

一般的な“常識”から著しくずれている、と言うことのようですな。

桜田大臣の発言には、色々と望ましからざる前歴がありますから、より一層風当たりが強かった事情もあるのでしょうね。

見方によっては、どうも、非人間的な御祖末極まりない不用意な発言と評されても、あながち致し方ないところがあったのかも知れませんなー。  

皆さんの“常識”的な判断ではどうでしょうか?

 

しかし、一方では、桜田大臣の今回の発言は、何ら問題ないのでは、と言う見方があるようですな。桜田大臣の発言の全体を見れば、池江さん、また、他の白血病の方々に対して、マスメディアが騒ぎ立てるほど、無礼なものではございませんよ。と言うことの様です。小生も、所詮はメディアを通して得た情報ですが、大臣の発言全体を聞けば、特に咎める必要は無いのでは、と言うように感じましたね。

多くのメディアでは、大臣の発言中の「金メダル候補で、日本が本当に期待している選手なので、がっかりしている。」・「1人リードする選手がいると、みんなつられて全体が盛り上がるので、その盛り上がりが若干、 下火にならないか心配している。」と言った部分だけを切り取って、繰り返し繰り返し報道しましたね。

これは、メディアが好んでやる手法の一つです。これは、もはや“常識”と言って、いい手法でしょうな。

不用意な発言をする輩には、社会的制裁を加えなければならない。それがメディアの使命だ。といわんばかりに、毎日毎日、特にいわゆるワイドショーでは、バラエティー要素も加えて、しつこく取り上げていましたね。

しかし、今回の桜田大臣発言に関する、部分的な切取り報道については、対象となるメディアは、多いに反省した方が良いのではないのか、と言う感想をもちますね。

多分、日比憐休の独断と偏見の限りでは、桜田大臣の言動については、常々色々問題ありとすることが多かったようなので、チャンスがあれば、直にやり玉に上げて、とっちめてやらなくては、と言う、メディア側の強い欲求があったのでは無かろうか、と思うのですよ。

 

以前には、サイバー担当大臣なのに、 “バソコンを打った事は無い、云々”、発言、さらにUSBメモリーも知らず、答弁に当たって、官僚さんから耳打ちされて、“穴にいれて使うものらしい、云々”と言うような愚劣極まりない発言をして、国会に嘲笑の渦を巻き起こし、また、今回、国会で、野党議員から「オリンピック憲章」を読んだ事があるか、と言う質問に対して、“「オリンピック憲章」なるものがあると言う話は、聞いた事があるが、読んだことはない。”と悪びれることもなく、恥じ入る様子もなく、平然と答弁していましたなー。ちょっとくらい面目無いと言う素振りでもあれば、僅かながらの可愛げもあろうと言うものの、それがどうした、と言う態度ではねー・・・。

“常識”を疑うよりありませんわなー。

この方「日本国憲法」を読んだ事はあるのかねー。よもや読んだ事も無いのに、改正すべきだ、などと力説しているのではないでしょうなー。

 

ひょっとして、だったりして・・・。

 

余談になりますが、では、お前は読んだ事あるのか、と言われますと、トホホホホー、面目次第も御座いません。

さすがに、読んだことはあるにはあるのですよ。読んだと言うか、見たと言うべきか、その辺りの表現が微妙ではありますがね。大学時代、教員免許を収得しようと、教職課程の授業を受けたのですよ。この時、「憲法」と言う教科が、必修科目であったために、履修しなければならなかったので、ちゃんと履修して単位をもらいましたよ。

と言うことで、この時に「日本国憲法」を読むには読んでいるのですよ。ただし、ちゃんと内容を理解し、記憶に残っているのか、と言うと、これがまさに、トホホホホー、面目次第も御座らぬと相なるわけなのですよ。

しかし、読んだ事があると言うか、見た事があると言うのが正しいのか、その辺は、・・・・ですが、全く無縁であった訳では御座いませんよ。

だからどうだ、と言われると、面目次第も御座らぬとなってしまうのですよ。

 

ところで、話を戻しますが、桜田大臣の国会答弁にかかわり、実に、質問者との間の遣り取りは、もはやコントだ、と評すとあるテレビ番組のコメンテータがいましたね。

桜田大臣は、一般人の“常識”からすれば、そうとうヤバイ感性のお持ちの方のように思われますなー。

 

予算委員会での質疑応答の概要》

質問者の野党議員 「桜田大臣は、パソコンを使えるのか?」

桜田大臣 「パソコンを打った事は無いが、部下に命じてやらせるから、問題

      はない。」(ウソをついてはいないようだ)

 

質問者の野党議員 「原発USBメモリーがあるか?」

・・・桜田大臣、USBメモリーが何なのか知らない様子で、答弁にまごつく。

・・・官僚から、USBメモリーについて、耳打ちがある。

〜 これを受けて、

桜田大臣 「穴に指して使うものらしいが、それについて説明が必要なら、詳  

      しい者がいるから、呼んで説明させようか。」(ウソをついてはい

      ないようだ)

 

質問者の野党議員 「大臣は、オリンピック憲章を読んだことがあるか?」

桜田大臣 「“オリンピック憲章”なるものがあると言う話は、聞いた事がある 

      が、読んだことはない。」(ウソをついてはいないようだ)

・・・その後、翌日・・・

質問者の野党議員 「大臣、今日は、オリンピック憲章を読んできたか?」

桜田大臣 「今日は、読んで来た。」(真相は、判らない)

 

蓮舫議員の五輪の経費についての質問に対して、これには、桜田大臣、官僚から受け取ったカンニングペーパーを見ながら、「1500円」と具体的に答弁しましたよ。「れんぼう」さんとう言うツッコミ?も、忘れてはいませんでしたが。

これは、「1500億円」が正解だったのですよね。

1500億円の事業を頼む時は、桜田商会に頼みましょう。1500円でやってくれますよ。きっと。

この失敗答弁は、国営放送の実況中でしたから、反響が大きかったですね。答弁席の映像には、当然、その周辺も写っていましたよ。宣伝看板か選挙の売名のための看板かで、以前に大分虐められていた問題の女性議員が、桜田大臣の「1500円」答弁の時に、同じ画面に写っていましたね。問題の女性議員さんも、爆笑していたのを日比憐休は見逃しませんでしたよ。国会議員さんは、同類相哀れむことは無いようですなー。

 

  • ・・以前に、安倍総理は、桜田氏をオリパラ担当大臣に任命した理由を野党 

  議員に質問され、以前からオリパラ招致に対して尽力して来ていたから、

  と答弁している経緯があって・・・

 

質問者の野党議員 「桜田氏は、2020東京五輪の招致に、特に尽力したと言

          うことは無いのではないか。桜田氏がオリパラ大会に関

          り出したのは、副文部科学大臣になってからではないの

          か。副文部科学大臣の職についたのは何時か?」

桜田大臣 ・・・何時か、具体的なことは判らないらしく、一瞬戸惑いながら 

        も、答弁しようとする素振りをみせた。お付きの官僚が耳打

        ちしようとして、ペパーをめくったりして、ゴタゴタしてい

        た時のできごと・・・

    ・・・予算委員会委員長(議長)のひとこと。答えようとする桜田

       臣の素振りを見て、本来、「桜田大臣」と答弁の指名をする

       はずのところ、図らずしも出でしまったひとこと・・・

 

議長 「・・・知ってるの ???」

   

と、言ってしまったノダ。なかなかのタイミングだったノダ。官僚が紙をめくったりしていて、ザワザワしていたが、日比憐休は聞き逃さなかったノダ。

 

なかなか笑えるでしょう。

この後、安倍総理は、桜田氏がオリパラのことに関ったのは、副文部科学大臣になって以後のことだ、と前言取消しに及んでいる。ウソをついていたのだ。

ウソを言っても、後で前言を取消して、曖昧な表現で一言謝ったような事を言えば、無かったことになるですよ。

取り消したとは言え、ウソを言った事実は消えませんよ。

これで、安倍総理による桜田氏の五輪大臣に抜擢した根拠については、もーチャラですよ。野党議員による、それでは桜田氏を五輪大臣に抜擢した理由は何か、と言う追求もチャラ。これで終止符。

この質疑応答は何だったのかな。単なる時間つぶしか。

いつも、失言に対しては、前言取消し、謝罪のような曖昧の一言で、野党側は納得。満足げですが・・・。

これ、国会議員間の“常識”なのでしょうな。

 

さらに、この後、桜田大臣、予算委員会の開会時間に遅刻した。野党は待ってましたとばかりに、これを理由に審議拒否。御陰で、予算の審議、成立が予定より遅れることと相なった。

この事態に、桜田大臣の弁解。“他の委員の皆さんも、会議に遅れてくるではありませんか。私は、それに合わせたのだよ。”

あややややー・・・。また、やってもた。

 

このような事は、国会議員の“常識”中の“常識”ってか???

 

関係者一同、吉本興業に移籍しては・・・。 国会開催の前座でコントを披露すれば、国会のテレビ視聴率が、グンとあがりますよ。きっと。

もっとも、国会本番の方で大いに笑かしてくれてるか???

 

もはや、《桜田問題外の変》ですなー。

桜田大臣恐るべし。この方の“世渡り的常識”は、とびっきりユニークですなー。一般“常識”からして、この方の物議を醸し出した発言は、数知れずの状況ですよ。単なる表現に問題があるなどと言って済まされることではなく、間違いなく、人間性、人格に関るところがありそうな問題と評されても仕方が無いところがあるようですなー。

ただ一つ救いがあるとすれば、誰かさんのように、作為的なウソは言わないタイプのようですな。このような印象から、選挙区の有権者の票を集め、当選を重ねているのですかね。

 

 

その道の専門家とされる方々が、テレビのワイドショーで、「政治家の素質の第一は、言語表現力にある。」と口を揃えて申されていましたね。

要するに、政治家に求められる素養は、当該事象に関る表現能力にある、と言う見解を示しておられましたな。政治家の素養は、表現の上手下手にある。と言うご見解のように聞きました。

早い話が、今度の桜田大臣の「金メダル候補で、日本が本当に期待している選手なので、がっかりしている。早く 治療に専念して頑張ってもらいたい。また、元気な姿を見たい。1人リードする選手がいると、みんなつられて全体が盛り上がるので、その盛り上がりが若干、 下火にならないか心配している」と言う発言は、政治家として、相応しくないものである。表現がなっていない、と言う評価のようですな。

「早く治療に専念して頑張ってもらいたい。また、元気な姿を見たい。」と言う部分だけでよく、政治家としては、後の発言は不要だ。と言うご意見で一致していましたな。

しかし、政治家の素養を、話の表現の上手下手で判断すべきなのかなー。なんて思っちゃったりするのですよ。

すなわち、ある事象について、発言する時に、差し障りがない表現をするのが、政治家としては、最も大事なのだ。と言うことですよ。

要するに、桜田大臣の発言に関して、テレビのワイドショウに出演されている政治評論家的な面々は、「桜田氏は、余計な発言が多い。黙っていれば問題ないのに。」と言うご意見でしたなー。

余計な(具体的な)ことに言及せず、問題となりそうな事には、口をつぐみ、曖昧などうとでも解釈される、後に弁解が上手く行くような表現をする人が、政治家として相応しい、と言う事なのでしょうかね。

 

ちょっと、ちょっと。ちょっと違うんじゃーねーの。と言う気がするのですが。

皆さんの“常識”ではどうでしょうか。

本質には触れず、うまく取り繕ってた表現で、その場凌ぎの巧みな人が、皆が期待する立派な望ましい政治家なのでしょうかね。

“常識”的に、どうでしょうか。

長らく政治の場、政治家と言われている人々との付き合いが深い人にとっては、これは“常識”なのでしょうかね。

これを視聴した人達が、この道の専門家がこのように評しておられるのだから、政治家の素養は、表現力にありとするのが、“常識”なのだなー。なんて思われたりしたら・・・。

メディアの影響力は大ですからねー。メディアは恐ろしいですよ。“常識”メーカー的存在ですからねー。

と思うのは、“非常識”ですかねー。

表現をもって、疑わしき核心をだまくらかす人よりも、表現は上手でなくとも、正直に事実を話す人こそ、政治家の素養として求めるべき像ではなかろうかと、思ったりするわけですよ・・・。

 

しかし、ですよ。与党自民党は、言うまでもなく人数的には第一党ですよ。他のどの党よりも圧倒的多人数の国会議員を抱えているのに、よりによって、どうして,このような人格の方が、オリパラ・サイバー担当の国務大臣なのですかねー。

選りに選ったのは、言う迄もなく、安倍総理ですよ。桜田大臣の失言、暴言の類のことが問題として取り上げられ、任命責任を問われた安倍総理の答弁は、何時もお決まりの“適材適所による人選。今後も一層その職務に励んでもらいたい。”と言うものですよ。なんか、嘘くさい誠意が無い感じかするのですよね。

以前には、北方担当大臣が、返還を要求して約70年にもなると言う、北方領土問題の4島の名前すら知らなかったようで?、釧路来訪の折、挨拶にあたって、事務方に書いて貰ったいわばカンニングペーパに書かれている、問題の4島の名前すら漢字で書かれていたので読めなかった御祖末極まりない大臣がいましたが。

因に、歯舞、色丹、国後、択捉が問題の返還要求の4島です。

蛇足ながら、漢字では読むのに難儀しますので、カタカナ書きにして、千島列島を列記しますと、エトロフ島に続き、ウルッブ、チリホイ、ブロトン、シムシル、ケトイ、ウシシル、スレデイワ、ラショワ、マツワ、ライコケ、ムシルレツ、シャスゴタン、チリンコタン、エカルマ、ハリムコタン、オンネコタン、マカンル、シリンキ、パラムシル、シュムシュ、アライド島と続きまして、カムチャッカ半島に至りますよ。退屈しておられる方は、これをソラで言えるように練習してはいかがでしょか。ヒマ潰しにはもって来いですよ。言えるようになるまで、とにもかくにも、しっこく毎日毎日訓練し続けると、言えるようになりますから。円周率を諳んじるより、易しいと思いますよ。

 

諳んじたから、どうなのだ、ってですか。

ヒマ潰しに、最適と言っているのですが・・・。

 

 

安倍総理は、この北方担当大臣の資質を問題化された時に、多分“適材適所による人選。今後も一層その職務に励んでもらいたい。”と言うことで済ませてしまったのではなかったですかねー。???

 

この辺りの“常識”って、どうなってんだ ??????

 

話は飛んで、安倍総理は、トランプ大統領を、ノーベル平和賞の候補者として、御推薦なさったとか。トランプ大統領は、えらくご満悦。記者会見で堂々と発言されていましたねー。

一方、安倍総理は、これを記者から質問された時、ノーベル平和賞の推薦に関る事は、公表すべき事ではないとされている事だ、とコメントしてましたよ。否定はしていませんでしたよ。

もっとも、トランプさんが、既に公言してしまってますけどねー。

 

総理は、お友達関係には、心配りが手厚いようですなー。加計学園問題の時といいね。

これ、総理としての“常識”中の“常識”なのかなー???

一所懸命に活動しているところも御座いますがね。

 

もとより、国会は、一般庶民からすれば、“非常識の場”と、見られているところが御座いますよ。その国会議員のトツプの座にあらせられるのが内閣総理大臣ですから・・・。嗚呼!!!

 

前述のように、「甘い物を甘いと感じ、辛い物を辛いと感じ、それを甘いよー、辛いよー、と素直に表現出来る御方々」とは、ほど遠い存在の方々の集団が、[国会議員]さんと呼ばれている方々に沢山存在しているようですなー。

中には、そうではない変人?も、おられる事はおられる事でしょうが・・・。

一般人の“常識”とは、ほど遠い、党利党略・私利私欲に徹した集団のようですなー。これ“常識”と言って、いいですよねー。

ここから出て来る政策は、選挙対策、票集めに繋がるのものばかり・・・。

嗚呼!

 

もっとも、その国会議員さんと呼ばれている方々を選出したのは、他ならぬ国民、有権者ですからね。なんとも、どうにもならないところがあるようですな。

日本では、ご存知のとおり、代表民主制(間接民主制)がとられていますが、これは立派な方が立候補していなくては、鼻から民主的政治なんぞ、期待できるものでは御座いませんよね。

国政選挙の時に、投票場へ出向いても、いざ投票用紙に名前を書こうと言う時に、この人は、私らの代表として信頼できる、と言う人が立候補者の中にいるかと言うと、・・・? ? ? なんだから。国会議員を選出するスタートの段階で、もうどうにもならない事態にあるのですから。代表民主制(間接民主制)は、ピンチなんですよ。きっと。

さらに、有権者の“常識”はと言うと、ほとんどマスメディアによって作られたと言って良いような“常識”の様ですので、なんともねー。

立候補者も有権者も、“常識”ある存在にならなければならないと言う要求が御座いますよね。

 

では、どうすれば良いのか、と言うと、一つの答えは簡明ですよ。

それは、“常識”ある人材を育成すれば良い、と言うことですよ。

では、どうすれば良いのかと言うと、それは適切な教育が必要である、と言うことでしょうね。

ここ迄は、実に簡単明瞭なのですよ。

ところが、これを具体化する、と言う段階になると、途端にブレーキがかかってしまうのですよ。

何をどう教えるか、と言う段階で、この点に関する価値観があまりにも多様化している現実なので、教育内容を具体的にどのようにするのか、これが中々決められないのですよ。この問題にぶち当たるわけですよ。

特に、義務教育の場では、これが甚だ困難なのですよ。

 

方法がない訳ではないのでしょうが、多数の合意を取り付けるのは、至難のことでしょうね。

 

答が比較的明確な知識的“常識”を教えるのは,問題ないのでしょうが、“世渡り的常識”となるとねー。

独裁主義・社会主義共産主義の社会で行われているような特定の価値観を押しつけようとするのは、勿論問題が多いですよ。

だったら、多様な価値観を易しく教えれば良いのではないのか、と言うことになりますねー。

論理としては、多様な価値観の存在を教えれば良いだけのことなのですがねー・・・。この合意を取り付けるのがね・・・。中々。

しかし、義務教育9年間もあるのだから、計画的にやれば、かなりの効果が期待されると思われるのですが・・・。

 

最大の問題は、“やる気”があるか、どうか、と言うことに尽きるようですな。

誰が、“やる気”を持てば良いのですかね。

総理大臣? 内閣? 文部科学大臣? 同省? 国会議員? など司法・行政関係の面々に期待できますか?

現在の“常識”では、とてもとても期待なんて・・・ね。

 

では、他に何処に期待すれば良いのか、と言うと、申すまでもなく、教育関係者が候補に上げられますなー。しかし、ここでの、この種の合意を取り付けるが、最も困難なのでしょうなー。

教育の現場で教壇に立つ方々の合意無くして、この種の事は成立しませんからね。

司法・行政の段階では、いざとなったら数にものを言わせて、特定の法律を定め、実施すべく体制を成立させることは可能かも知れませんが、それを実施する方面での協力無しでは、意味が御座いませんからね。

 

 

しからば、どうすれば良いのだ。なんか方法がこざいませんかね。

最後の手段は、“国民”に期待するよりないのでしょうなー。

“国民”が、本腰を据えて、将来を心配する存在にならなければ、事態の改善は望めないのでしょうなー。

しかし、こっちも、現在の“常識”では、とてもとてもねー。

このような事柄に関する国民の関心は、どうも今一薄いのではないでしょうか。

国民の多くは,どうしても目先の事柄が、関心の中心となってしまうのですよ。遠い将来のために行うものは、どうしても見え難いのですよ。目先の入学試験には、やっきになれますがね。30年、50年先を想像することは、中々ねー・・・。

前途多難であります。

 

 

しからば、義務教育では駄目となれば、私塾でやればいいのでは?

しかし、決定的な問題があるのですよ。

誰が好んでこんな塾に通って来る“常識”人志望者がいますかって言うことですよ。よっぽどのもの好きで無い限りねー。

すなわち、これも“国民”の自覚が薄いので、実現化は困難なのですよ。

 

大体、このような“常識”教育の場に、足を運ぼうなんと言うお方は,多分既に“常識”人の有資格者でしょうからね。これでは、意味がないのですよ。

ただし、ヒマ潰しには適していますよ。きっと。

 

最後の切り札は、かくなる上は、頼みの綱は、《池上さん》ですよ。

もー、頼みますよ。池上さん。

先ずは、お母さんと幼児を狙いましょう。

既存番組のバクリで良いですから、“ママさんといっしょ”“パパさんといっしょ”と言う番組を作って、親子共に“常識”教育をしてはどうでしょうか。

いやいや、ヤッパリ“池上さんといっしょ”がいいかな。

池上さんは、以前国営放送で、子供向けのニュース解説的な番組を担当されていたのだから、経験的には全然問題御座いませんよね。

幼児のころから、「甘い物を甘いと感じ、辛い物を辛いと感じ、それを甘いよー、辛いよー、と素直に表現出来る人」の育成を目指して、「これは、こういうものだ」、と判断できる人材を育てることに、一肌脱いで頂けませんかねー。

 

何も、最初から小難しい内容を教え込まなくとも良いのですよ。

“常識”的に、こう言う事をやってはいけませんよ、こう言う事を進んでやるようにしましょう、とか極めて“常識”的なことが身に付く教育をすれば良いのですよ。

そんなことは、本来親がやるべき事かも知れませんが、中には、躾と称して、暴力を振るって、自分の子を死に至らしめるような親が時々現れて、世間を騒がせている昨今ですからね。親の方に対する教育が必要な現状もあるのですよ。

国政選挙に当たっても、ちゃんと自分等の代表として相応しいと思われる候補者の名前を投票用紙に書く事ができる“常識”的な判断ができる有権者になれるような“常識”的教育をお願い出来ませんかね。

 

みんなで、お願いしましょう。

池上(いけがみ)さん。お願い致します。

池上(いけがみ)樣。お願い致します。

いけ神樣。なんとかお願い致します。

 

結局、最後は神頼みより御座いませんなー。

 

 

突然で御座いますが、ここで、“バッタリ”で御座います。

 

と言うことで、最初にご案内してありますように、行き当たりバッタリのヒマ潰しの話で御座いまして、バッタリ倒れて、皆様に見放された時が、話の終りの時ですからね。

ちょうどこのあたりが、“バッタリ”の状況で御座います。

いくらヒマ潰しとは申せ、かなりヘキエキ、ウンザリと言うストレスが充満しておられる事でしょう。察して余りあります。

但し、幾分のヒマ潰しにはなったでしょ。

 

どうもお付合い下さいまして、お疲れ様で御座いました。有り難う御座いました。こりずに、またのお越しを期待しております。

 

お後がよろしいようで。

《停念堂閑記》97

「日比憐休雑記」13

 

北海道弁 〈い~お〉で始まる言葉」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお出で下さいました。

厚く御礼申し上げます。

連日の猛暑の中、本当に、よくいらっしゃいましたね。大歓迎で御座いますよ。

と申しましても、高価な美味しい物でおもてなしをするわけでも、肩をお揉みするわけでも、温泉に入って、冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも御座いません。

序でに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、ご安心下さいませ。

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、寝られなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

なんとか、ヒマと言うものをですね、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感・同感で御座います。

張り切って、手間隙を惜しまず、手間隙をかけましょう。

 

さて、本日のヒマ潰しは、北海道弁について話したいと思います。

カニ・ウニ・ホッキ貝・ホタテ貝・イクラ・タラコ・・・など、満載の北海道弁当では御座いませんよ。

北海道の方言ばかりではなく、北海道で日常よく使われている言葉、と言う意味の北海道弁と言うことで御座います。

以前、「停念堂閑記 86」で、「北海道」で、「あ」で始まる語をやりましたので、その続きを「い」で始まる語から行きたいと思います。

「い」で始まる語では、

いいふりこき いいんでないかい いかれる いかれぽんち いくない 

いごい いご(の)く  いたま(わ)しい いっつもかっつも 

くらいしか、思い当たりませんでした。北海道弁らしい、のは「いいんでないかい」くらいで、特徴的なのは、あまり御座いませんでしたので、淡々と行かせて頂きます。

「いいふりこき」は、大阪弁で、「ええ(いい)かっこしー」と言うやつです。要するに、「格好付けたがりや」さんのことですな。

「格好付けやがって」「スカしやがって」が、「いいふりこきやがって」と使われることが多いですよ。あまり好かれるタイプでは無いようです。

「いいんでないかい」は、言うまでもなく「いいのではないでしょうか」の意味です。

北海道では、日常会話のなかで、普通に、しょっちゅう使われます。北海道弁の最も代表的なものと言って、いいんでないかい。

北海道では、一般的に、語尾に「・・・かい」をつけるのが、多いんでないかい。そう言えば、そうでないかい。きっとそうだわ。

誘うときも、「遊びに、行かないかい」と言うと、「海水浴には、やっぱり、ジンギスカンを用意していかないと、ダメでないかい」となるのですよ。

とにかく、語尾は「・・・かい」とやって、北海道弁を流行らせた方がいいんでないかい。

なんのために ? なんのためにって、いちいちそんな事、考えなくても、いいんでないかい。

「いかれる」は、「行く事が出来る」の意味でも使われますが、北海道では「壊れる」の意味で使われます。

「車 いかれちゃって 動かないんだよ」と言うように使います。

人を小馬鹿にする時には、「イカレポンチ」と言います。「この イカレポンチ」と言われると、ムカッとくるわけです。

「いくない」は、「良くない」と言うことです。

「いごい」は、苦味と渋味が混じった味とでも言いましょうか。人によって、味覚の表現は一様では御座いませんので、どのように表現するのが、的確でしようかね。

例えば、ジャガイモを日向に置いておくと、緑色がかってきます。この状態のを食べると、「いごい」と言う、食レポになるのですが、最近の若い人は、殆ど使わなくなってしまったようです。

「いご(の)く」は、「動く」と言うことです。「車が いかれちまって いご(の)かないんだよ」と使います。

さっさと、いご(の)けと言うのは、早くやりなさいの意味です。

「いたましい」・「いたわしい」は、「惜しい」「もったいない」と言った意味で使います。

「もう、それ相当くたびれちゃってるから、投げれば(捨てれば)。」と言われたら、「なんも、まだまだ使えるよ。いたましくって(惜しくって)、投げられ(捨てられ)ないよ。」と、言うように使います。

「いっつもかっつも」は、「いつもかつも・何時でも毎回毎回」の意味で使います。

「おまえ、いっつもかっつもミソラーメンばっかし、食べてるなー。」

と言われたら、「いっつもかっつもとは、限らないよ。時々、塩ラーメンだって食べるよ。」と言うように使います。

 

次に、「う」で始まる語について見て行きます。

これも、僅かしか見つけられませんでした。

うざ(ず)くらしい うそんき(こ) うるかす うるける

「うざ(ず)くらしい」は、スッキリしない樣です。

しばらく床屋さんに言ってないので、髪は伸びちゃって、ぼうぼう、無精髭がもじゃもじゃで、思いっきり、「うざ(ず)くらしい」顔になっちゃったなー。なんて使います。

「うざい」・「うざったい」に、幾分似通ったニュアンスを感じないでも無いのですが、こちらは、八王子地方の方言を元にしたものとか。発生の元は違うようですな。

「うそんき(こ)」は、「本気ではない」の意味で、小生の子供の頃、すなわち、昭和20~30年頃には使っていましたね。

「ほんき(本気)」の反対語です。

北海道では、冬期は雪が積もっているので、外での遊びが制限されます。女の子は、室内で、主にお手玉おはじきあやとりなどをして遊んでましたな。

お手玉は、北海道では、「あやっこ」と呼んでいましたよ。バッチワーク風の小切れ布にアズキを入れて縫い合わせたやつです。

おはじきは、直径1センチ程のペッタンコの丸いガラスです。いろいろな色がついてましたなー。テープルの上に、バラまいて、指で弾いて当てたり、狭い間を通したりしてましたよ。さしずめ、卓上小型カ-リング風(?)でしたなー。

男の子は、専らメンコでしたね。

北海道では、子供の頃は「メンコ」と言う呼称を知りませんでしたね。そんなこと言うヤツはおりませんで、専ら「バッチ」と呼んでました。東京の大学さ行ったら、広島君がいて、広島では、「メンコ」と言わず、「パッチン」と言ってたよ、と言っていました。北海道では「パッチ」でした。

数十センチの四角い板の上に、それぞれのバッチを置いて、ジャンケンで順番を決めて、パッチの取り合いをしましたね。

板の上に置かれた相手のパッチに、自分のパッチを打つけて、相手のパッチをひっくり返すと、頂きとなります。これ手を「おこし」と呼んでいました。

また、相手のバッチに打つけて、板の外に弾き出す手がありました。この時、自分のバッチは板の上に留まっていなくては、相手のパッチを取ることが出来ないルールで、相手のを板外に落しても、自分のも落ちてしまったら、取ることができません。この手を「きんこ」と言っていました。誰が付けた呼び方なのかねー。

それから、相手のパッチの下に、自分のパッチを滑り込ませる手がありました。通り越してはダメです。自分のパッチの上に相手のパッチが乗っかって、静止いないといけません。この手を「すいこみ」と称していました。

勝負手はこの三種です。大抵は、3~6人くらいでやりましたね。

なんとか、相手のを取ってやろうと、工夫をしましたね。

パッチは、円形のボール紙に武将や映画スターなどが印刷されもので、小型のは直径3センチくらいから、大型のは15センチくらいのがありましたね。

これを板上において、相手のを取るのですが、小型のに、大型のを取られると悔しくてね。

パッチの滑りが良い方が使い易い、と言うので、油をしみ込ませたり、ロウソクを塗ったりしましたね。それから、パッチの切り口を分厚くした方が使い易いと言う人もいて、切り口を爪で引っ掻いたりしましたなー。

それから、セコイやつがいまして、1枚のパッチを破いて、2枚、3枚にして使おうとするヤツがおりました。その対策として、破いても良いが、必ず、絵の中に眼がなくてはならないルールでしたね。

また、学生服のボタンを全部外したり、利き手のセーターの袖口を引っ張って伸ばしたりして、パッチを板に打ち付ける時に、風を起こして、相手のパッチを吹き飛ばそうなんて事もしましたね。この技法を「あおり」と言ってましたね。だから、始める前に、「あおり」禁止だからな、なんてルールを確認し合いましたね。

と言う訳で、パッチの取り合いをするのですが、相手のパッチを取った場合、本当に取った人の物にして良いのを「本気」と言い、相手のを取っても、最後に返してあげるのが、「うそんき」と言うわけなのですよ。

年下の小さい子とやる場合などは、本当に取っちゃうと泣かれたりするので、そんな時は、ルール上「うそんき」でやる訳です。

一冬「本気」の勝負をすると、結講、勝ちましてね。パッチが相当溜まるのですよ。昔は、ミカンが木箱に入れて売られていて、その箱を横に寝かせて積み重ねて、本棚などにして使ったりして、何かと重宝な箱だったのですが、それに一杯程、バッチが溜まるのですよ。

一度、満杯になったミカン箱を、宝物として、土の中に埋めて置いてことがあるのですよ。後で、掘り返したら、水が入っちゃって、使い物にならなくなってましたね。

雪が融けて、土が出ると、パッチからビー玉遊びに代わるのですよ。ビー玉も色々な遊び方がありましたが、専ら、ビー玉当てをしましたね。

数人で、お互いに相手と程良い距離にビー玉をおいて、順番を決めて、相手のビー玉めがけで、自分のビー玉を投げつけます。片目をつぶったりして、狙い定めて、相手のビー玉めがけて投げ、命中すれば、頂きとなるのですよ。相手との距離が 問題でして、近すぎると、相手にぶつけられて、あっけなく取られてしまいますので、相手の近くに止まらないように、気をつけなくてはならない訳ですよ。か といって、遠くては、自分の番に、当てることが難しくなり、命中率が落ちて、取れない訳ですよ。相手の腕前と、自分の腕前を見計らって、程よい距離を保たなければ、ならないのです。

相手のビー玉を狙ったところ、命中せずに、相手のビー玉の近くに、止まっちゃったりしたら、一巻の終りで、あっさり取られちゃう訳です。

これにも、「本気」と「うそんき」がありまして、自分で言うのも何で御座いますが、割合、命中率が良くて、これも結講溜まりましたね。

ズボンのポケットに、ビー玉を入れて、じゃらじゃら言わせて、歩いてましたね。ところが、ビー玉は、結講、目方があるのですよ。それで、たま あに、ボケットが破れちゃって、ビー玉を振りまく始末の人もいて、学校には、ビー玉を持って行ってはいけない決まりだったのに、廊下に振りまいちゃったり して、先生にバレちゃって、叱られていたのがいましたよ。

と言うわけで、「うそんき」は、パッチやビー玉遊びの時に使う用語でしたね。オハジキでも、遣り取りしましたね。

次に、「うるかす」・「うるける」ですが、「うるかす」は「水に浸す」ことで、「うるける」は、「うるかした結果、水分を多く含んだ状態」の事です。

たとえば、金時豆や虎豆や大豆な どで、煮豆を作るときには、これらの豆を水洗いして直に鍋に入れて煮ると、中々煮えません。柔らかく煮上がらないのです。そこで、これらの豆の場合は、一 昼夜くらい、予め「うるかして(水に浸して)おいて 、よく「うるけて」から、煮ると、短時間で柔らかく煮上がるわけです。

但し、アズキは「うるかさ」なくても良いのですよ。水洗いして、鍋に入れて直にガスにかけて良いのですよ。沸騰したら、煮汁を捨てて、新しい 水を補給して煮ると、アクがとれて、上手く煮上がります。二度アク取りをすると、一層旨くなりますよ。砂糖をたっぷり、塩を少々入れて、出来れば丸餅を入 れて、オシルコにすると、とっても旨いですよ。好みを言えば、餅は焼かないで、煮て柔らかして、よくノビルのが好きです。蛇足ながら、お粗末。

餅を作る時も、餅米を予め「うるかして」おいて、よく「うるけた」餅米を、蒸すと、短時間で蒸し上がるし、蒸しむらもできず、臼で搗(つ)く のも、楽に出来る事になるのです。「うるかさない」でやると、蒸し上がりに時間がかかり、蒸しムラもできたりして、搗(つ)くのにも時間をようし、良く潰 れない米も出来たりして、なめらかな餅に仕上がらないのですよ。そんなこと、モチ論ご承知ですよね。蛇足でした。

長湯すると、指先の渦巻き面が、「うるけ」ちゃいますよ。

 

次に、「え」で始まる用語について見ます。少数です。

えぐ(ご)い  えんこ 

「えぐ(ご)い」は、前項で見た「いごい」と同じで、苦味と渋味が混じったような味を表す語です。

「えんこ」は、二つの意味で使われます。

一つは、「故障」する意味で使われます。エンジン故障の略語ですかね。

「車がえんこしちゃった。」と言うように使いますが、拡大して、「内の母ちゃんが、えんこしちゃった。」と言うように、使っていた旦那さんもいましたよ。

これは、「内の奥さんが、言う事をきいてくれなくなってしまった。」と嘆いているのですよ。

もう一つは、地方によって、「う」と「え」の発音が、移動しがちな傾向が御座いますな。だから、一般的には、「う」であるところが、「え」に代わることがある訳です。 

それで、些か尾籠な話になりまして恐縮で御座いますが、一般的な「うんこ」が「えんこ」に変身したと思われます。

一般的に、幼児語で、足を前に放り出して座ることを「えんこする」と言うようです。元は縁側に座る形から来たものとか。

北海道では、幼児語で、座ることは、「おっちゃんこする」とか「おったんこする」と言いますので、「えんこする」と言うのは、聞いた事が無く、知りませんでした。

それが、東京で、知人宅にお邪魔した時、お孫さんをダッコしてお祖父ちゃんが現れ、「そりでは、えんこしな。」と言ったので、おいおいここでさせるのかよ、とびっくりしたことが御座いますよ。

幼児を連れて、北海道へ行った時には、くれぐれも「ここに えんこしな」なんて言っては、いけませんよ。顰蹙(ひんしゅく)を買っちゃいますから。

以上、「え」で始まる用語でした。

次に、「お」で始まる用語に移ります。これは、結講な数が御座います。

オーラ オーラ  おがる  おここ  おこーこ  おこわ  おしょろこま  おぞい  おそなえ  おだつ(る)  おたんこなす  おたんちん  

おっかない  おっくりかえす  おったくる  おったんこする  

おっぱじめる  おっぱなす  おっぱりだす  おばちゃん  おばんです  おもしい  おらぶ  おん  おんこ  おんじ  おんた  おんちゃん  おんぶさる  おんぶる  おんぼやき  おんまける

「オーラ オーラ」は、「オーライ オーライ」と言う事です。

さすがに、今はこれを使っている人はいないでしょうね。子供の頃は、車のバックを誘導する時には、皆んな「オーラ オーラ」とやっていたものです。      

「おがる」は、「大きくなる」と言う事です。

今年は、6月から7月の半ばにかけて、低温で、雨が続き、日照不足で農作物の生育が悪かったですよ。胡瓜もトマト茄子も、さっぱり「おがらず」まいりましたなー。

おー、赤ちゃん、ちょっと見ない内に、随分「おがったなー」と言ったりします。

「おここ  おこーこ」は、「香の物」すなわち、「漬物」の事です。主に、大根の糠漬け、タクアンのことをこのように呼んでいたと記憶します。

「おこわ」は、「こわめし」、お目出度い時には「赤飯」、不祝儀の時には「黒飯」となります。

「赤飯」は、一般的に見られるのは、小豆を混ぜたものですが、北海道の場合は、小豆のもありますが、通常は金時豆の甘納豆を混ぜたものです。甘くて、とっても旨いです。

やっぱり赤飯は、甘納豆「おこわ」に限りますわ。

因に、黒飯に甘納豆は使用しません。黒豆です。蛇足ながら。

「おぞい」は、北海道の代表的な方言の一つと言えるでしょうね。

「疲れた  祖末  貧弱」などの意味で使います。

隣の奥さん、働き過ぎて、「おぞい」顔してるわ。などと使います。

 

「おそなえ」は、「鏡餅」の事です。子供の頃は、「おかがみさん」とさん付けで呼んだりもしてましたね。

「おだつ(る) 」は、北海道の方言の代表的な一つですね。

「調子に乗って、大はしゃぎする」意味で使います。

状況としましては、子供に多く見られますが、特別褒められたりすると、大声を発するは、走り回るは、でんぐり返しをするは、変顔をするはで、兎に角はしゃぎ回る事です。

子供が「おだつ(る)」と、もー、騒々しくて、手がつけられなくなります。そこで、大人が「コラー おだつ(る)なー」、とどなりつけるハメと相なる次第なのですよ。

「おたんこなす  おたんちん」は、「アホ バカ マヌケ」などの意味で使われます。一般的ですね。

  

「おっかない」は、「恐ろしい 怖い」の意味合いで使われます。

「お前んちの父ちゃん おっかない顔してるなー。」なんてね。

スズメバチに追っかけられて、「おっかなかったなー。」なんて。

「おっくりかえす」は、「ひっくり返す」の意味で使います。

時に「とっくり返す」「ヘっくり返す」などとも言ったりしますよ。

「おったくる」は、「追い払う」の意味です。

カラスが、すぐゴミをあさりに来るので、「おったくる」のに大変だよ。なんて使います。「ぼったくる」とも言ったりしますね。こちらは、必要以上の金銭を巻き上げる時に、「ぼったくる」と使いますが、「追い払う」時にも、使いましたね。「追い払う」うことを、「ぼう」とも言いますよ。

「おったんこする おっちゃんこする」は、幼児語で、「座る」の意味です。

「ご飯だよ サー おった(ちゃ)んこしなさい。」なんてね。

  

「おっぱじめる」は、「始める」のぞんざいな表現ですね。

「おっぱなす」は、「放す」のぞんざいな表現です。

 

「おっぱりだす」は、「ほうりだす」のぞんざいな表現です。

「おばちゃん」は、「叔母」のことです。

名前を付して、「花子おばちゃん」とか、住んでいる地名を付して、「稚内のおばちゃん」とか言いますね。

「おばんです」は、「今晩は」の夕方の挨拶ですね。北海道東北地方の方言として、よく知られてますね。

以前、漫才師コロンビア トップライトのトップさんが、東北の出身だったのでしょう、夕方・夜の番組に出演する時は、第一声を「お晩でごぜーやす」とやって、「お晩です」を全国的に普及させたことが御座いましたな。

近年は、テレビの影響が大きいのでしょう、北海道でも、夕方・夜の挨拶は、「今晩は」が多くなったようです。

「お晩です」は、丁寧に言う場合は、「お晩でございます」となります。目上の人などに、一応敬意を表する場合には、「お晩でございます」でしたね。

「今晩は」は、敬意を表す場合には、ちょっと不向きですな。まさか、「今晩でござすます」とは、なかなかやりずらいですよ。

以前、ソロバンをもって、カチャカチャやりながら漫談をやった、トニー谷さんは、夕方・夜の番組に出演する時は、第一声を「お今晩は」とやってましたなー。「今晩は」を丁寧に言う時は、「お今晩は」になるのですかねー。敬意を払う前に、おちょっくってるのかになりそうですなー。

「おもしい」は、「おもしろい」と言うことです。

「おもしろかった」を「おもしかった」と言ったりします。

「おらぶ」は、「叫ぶ」ことです。要するに、大声で言うことです。

たとえば、用事で来ていたAさんが帰ったばかりのところ、用事を告げるのを忘れた事に気づいたような場合、今すぐ、「ぼっかけて(追いかけて)」行って、思いっきり「おらべば」聞こえるかも知れないよ、などと使います。

 

「おん おんた」は、「牡」の事です。動物の場合に使います。

牛の子が生まれたわ。「おん(おんた)」だった。なんて。

「おんこ」は、「一位」の事です。

因に、一等・トップの事では御座いません。樹木の一種です。

秋にかけて直径5ミリ程の実がなります。これが「おんこの実」です。熟すると、真っ赤になります。枝一面になると、実に奇麗ですよ。果肉の赤 い部分は、熟すると甘くて旨いですよ。手のひらに、いっぱいとって、一度にパクリと口に入れるのですよ。口の中いっぱいあっさりした甘さにつつまれます よ。但し、中にタネがあって、これは噛むとすごく苦く、毒が含まれているようです。食べられません。

庭木に最適で、「おんこ」の生け垣は最高です。大きく成長した木は、床の間の柱に最適です。赤みを帯びた、気品のある色合いで、床柱に好まれます。かなり良い値段がします。

「おんじ」は、「叔父」の事です。

時に、「弟」の意味で使われることもあるようです。

「おんた」は、「牡」の事です。前出「おん」と同じです。動物について言う時に使います。  

「おんちゃん」は、「叔父」の事です。前出「おばちゃん」が「叔母」で、こちらは「叔父」です。

「おんぶさる」は、「おぶさる」のことです。

「おんぶる」は、「おぶさる」の事です。

「おんぼやき」は、「火葬場で働く人」です。今は、もう死語でしょうね。

「おんまける」は、「こぼす」・「散らかす」・「散蒔(ばらま)ける」の意味です。

オモチャ、ようやく片付けたのに、もー「おんまけちゃってー」と、子供は、しょっちゅうコゴトを言われていますよ。

買物袋が破れちゃって、道路に、ミカンを「おんまけ」ちゃった。なんてね。

 

以上、今回は、北海道でよく使う、よく使われた言葉の内、〈い~お〉で始まる言葉を、思いつき様に羅列してみました。

 

最近は、テレビの影響でしょうか。いわゆる東京弁が一般的に使われる傾向が強く、方言や地方独特の言い回し方が、影を潜めてしまう傾向がありますね。

時代の推移とともに、言葉も変わって行きますなー。

では、お疲れ様でした。お後がよろしいようで。

《停念堂閑記》96

「日比憐休雑記」12

 

「いーかい ? そだねー いーんでないかい」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお出で下さいました。

厚く御礼申し上げます。

本当に、よくいらっしゃいました。大歓迎で御座いますよ。

おヒマなお方、心より、大歓迎で御座いますから。

今日も、ヒマ潰しに、どうぞお付合い下さいませ。

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないの三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。

なぜアホくさい、バカバカしい、クダラない話なのか、と問われますと、決まってるでは御座いませんか。そんなこと。

立派な、意義深い話は、甚だ残念では御座いますが、難しくて出来ないからですよ。

分かりました。ですって。

もー。分かっちゃったって。

お客様、幾らなんでも、ちょっと、早過ぎはしませんか。

たとえ、分かっちゃっても、ですねー。そんなことはないでしょー、とか。

ちょっと、間をおいてからとか。それくらいの気遣いがあっても、良いかなー、なんて思ったりもするのですよ。

三顧の礼とまではいかなくともさ。

ろくに説明もしていないのに、いきなり分かられてもねー。

一人でやってろ。ですって。

あねのー。一人でって、こんなこと二人で出来ますか、ちゅーの。

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。なんとか、ヒマと言うものをあの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。

そこでですね、たとえつまらなくとも、こんなことを言うハメと相成る次第なのですよ。

これで、ケッコウ手間隙かかるのですから。

 

私だってですね、たまには、気の利いた話をしたいものと、常日頃思わなくはないのですよ。少しは思うことも、たまには、ちょっとだけないこともないのですよ。強いていえば、あるにはあるような気もするのですよ。

しかしですね、これが中々上手く行かないのですよ。思うだけではねー。

言うまでもなく、この手のことは、能力に関ることなのですよ。

持って生まれた能力は、残念ながら、俄に、どうこうできる代物では御座いませんよ。

嘆いても仕方御座いませんので、精々、得手・不得手と言うあたりで、何とかならないものかと、もがいたりするのですよ。

その結果が、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話と言う辺りに落ち着くことになる、と言う訳なので、御座いますよ。

 

分かりました。ですって。

もー。分かっちゃったって。

また、お客様に、たちどころに、分かられちゃいましたなー。

たとえ、分かっちゃっても、ですよ。先ほども言ったでしょー。

そんなことはないでしょー、とか。

ちょっと、間をおいてからとか。

それくらいの気遣いがあっても、良いかなー、なんて思ったりね。

一人でやってろ、ってでしょー。

こっちだって、一度言われれば分かりますってーの。

 

ところで、マクラはこれっくれーで、「いーかい」。

 

「いーかい そだねー」は、カーリング北見の選手によって、一躍、有名になりましたが、実は、「いーかい」ダケでは、本場の北海道では、ちょっと物足りないのですよ。

本当は、「いーかい」ときたら、「そだねー」と、まー通常はいくわけですよ。しかし、これでは十分では御座いませんよ。

「いーかい」「そだねー」ときたら、迷わず「いーんでないかい」とこなくてはならないのですよ。これで、一応、完結です。

では、正しいところを、もう一度。

「いーかい」「そだねー」「いーんでないかい」。

これで、いーんでないかい。

と言う話題かあるところで、本日は、先に、「停念堂閑記」3と4で、北海道でよく使われる言葉に関することを取り上げましたが、多少重複するところがあるかと思いますが、復習ぎみに、道産子がよく遣う用語について、取り上げ、ヒマ潰しにしたいと思います。

 

駅弁。デパートの物産展で、人気のあるのが、弁当コーナーで御座います。

あちこちに名物弁当がありますが、中でも、特に、カニ・ウニ・イクラ・タラコにホッキなど、色とりどりの具がタップリのっかった弁当。

そうです “北海道弁”が、人気が御座います。

旨そうですね。

今日は、その《北海道弁》の話。

では御座いませんよ。残念でした。

ここでの《北海道弁》は、北海道でよく遣われる方言や言い回しの方です。

“あずましくない” “あっぺくさい” “いのく” “うるける” “おだる” “がおる” “がする”などなど、弁当のネタ数など問題にならないほど、こちらのネタは豊富で御座います。

それらを調理して、旨い、いや可笑しい話を作ろうと言うわけなんです。が、旨く行きますかね。何ら保障は御座いません。

さて、何から行きましょうか。やはり、基本は、

“・・・べ”

ですかね。

“へ”じゃありませんよ。濁点はあるが、ニオイの無い方です。

同意を求めたりする時、語尻に、“べ”をつけるんですよ。

たとえば、標準語で、

「そうではありませんか」

「そうでしょう」

因に、大阪弁で、

「そやおまへんか」

「そうでっしゃろう」

ななどと言うところを、《北海道弁》では、

「そうだべ」

「そうだべさ」

「そうだべや」

などとやるんです。

そうです。“べ”の三段活用というやつです ?

これが、ちゃんと出来ないと、直ぐにもぐりの道産子とばれてしまいますよ。

“・・・べ”は、日常、最も一般的につかわれています。

東北地方でも、同様に“べ”が使われます。

ところが、予想外に、驚いたことに“浜っ子”= 横浜の人がこれを使うのですよ。今となっては、使っていたと言うべき時期になっておりますかね。

まだ使っていますかね。昭和の末ごろには、まだ若い人も使っていましたが。今はどうでしょう。

昭和三十年代後半期に、北海道の田舎の高校を卒業して、東京の大学さやって来ました。彼方此方から色んな人が集まっていました。北海道や東北から来た人は、あまり“べ”を使わないように、気をつかっていたようですが、中によく「・・・べ」を使う人がいたのですよ。しかも、どうどうと。

彼は《浜っ子》でしたね。

札幌に長く住んでいた親戚が、横浜に越して来ていたので、挨拶かたがた遊びに行ったら、おばさんが横浜でも、“べ”を使うんだよ、と教えてくれたんですよ。以外でしたね。

余談ですが、上京して間もない時に“オイラ”に出会いましたよ。東京の〈下町育ち君(くん)〉でしたね。

私の育った北海道では、たしか三橋美智也さんのヒット曲でしたかね 

オイラーはなー 生まれながらの炭坑夫・・・」

と言うのが、ラジヲから流れていましたが、日常の会話の時の“オイラ”はおりませんでしたね。

たいていは、みんな“オレ” “オラ”でしたよ。

これが、“オイラ”とこられては、ちょっと構えてしまいましたね。

北野タケシさんは、“オイラ”をやりますね。東京下町では一般的だったのでしょうね。

続きの余談ですが、突然でありますが、大学1年生の時、英語の時間に、先生に和訳を当てられた〈名古屋君〉が、「畠鼠」と訳した時に起きた一悶着を思い出しました。先生は「野鼠」だろうと言う。いや「畠鼠」だと言って、頑として引かなかった〈名古屋君〉、どうしていますかね・・・。

今でも、名古屋では野鼠が畠鼠なのですかね。

余計なことでした。

北海道では、“・・・べ”は、とにかくよく使います。

“・・・べ”に似た使い方をするのに、

“・・・でないかい”

というのがありますよ。

北海道弁》の代表的なやつですね。

「そうだべさ」とやってもいいのだけれど、

「そうでないかい」とやるわけですよ。

若干 心持ち 柔らかく感じますかね。

大阪の人が、

「そーやろう」とやってもいいところを、

「そーとちゃいますか」とやるのと、ちよっと似ているのではないかい。

それから、

“・・・べ”

“・・・でないかい”

の他に

“・・・でしょ”

というのもよく使われます。

「そーだべさ」とやってもいいのだけれど、

「そーでないかい」とやってもいいのだけれど、

ちょっと、念押し気味になりますかね、

“そーでしょ”とよく言います。

標準語ですと、

“でしょう”

となるところを、“でしょ”と詰めるところがミソですね。

“・・・べ”

“・・・でないかい”

“・・・でしょ”

は、日常会話の基本中の基本ですね。

ちょっと、面白いのに、

“・・・でした”

と言う、過去形のように思われる使用例がありますよ。

夕方の挨拶で、“お晩です”とやります。

これは良く知られていますね。

東北でもよく使われます。

以前、漫才師コロンビア・トップ・ライトさんのトップさんが、「お晩でごぜやす」と言うのを、全国的に広めましたよね。

このごろは、テレビの影響でしょう、北海道でも“今晩は”と言うのが、一般的に使われるようになってきましたが、私の子供の頃は、“こん晩は”と聞くと、内地 = 本州から来た人だと思いましたね。

専ら“お晩です”でした。

丁寧には“お晩でございます”でしたね。

こっちの方が、“今晩は”より、幾分複雑にできてますね。

“今晩は”を丁寧にした形は、どうなるんですかね。

“今晩でございます”とは、よう言いまへんでっしゃろうなー。

これがですね 北海道では、

“お晩です” 丁寧には“お晩でございます”が、

“お晩でした” 丁寧には“お晩でございました”

になるんですよ。

現在進行中のまっただ中で、“お晩でした”は可笑しいですかね。

これだけではありませんよ。

お店屋さんに行って、店頭に目的の品物が見えなかった時、店員さんに、○○ありませんか、と聞くと、奥へ行って、ごそごそやっていたかと思うと、○○と思われる品物を持って来て、

“これでよかったですか”とくるのですよ。

その品物が、目的の品物であった時には、お客は

“それで よかったですよ”とやるわけですよ。

北海道では、これでいいのだ!

「欲しいものがみつかって、いかった いかった」 これは駄洒落。

もっとインパクトがあるのは、電話で、ですね。

電話が鳴ったので、大家さんが受話器をとると

「もしもし、木村でした。大家さんでしたか。」ときますよ。

そうしたら、大家さんは「これはこれは、木村さんでしたか。大家でした。」とやるのが、北海道のマナーというものですよ ?

私ごとですが、故郷の北海道をはなれ、東京に住むようになって、数十年後、用事が出来て、故郷の知合いの○○さんに電話を入れたところ、いきなり

「○○でした」と来ましたよ。

この応答には、しばらく出会っていなかったので、面食らいましてね、おもわず、「そうでしたか」と言いそうになりましたよ。

この動詞の過去形みたいな用法は、過去形なのですかね。

過去形ではなく、何か別の用法ではないのでしょうかね。

国語学の方に聞いてみた方が、いいかもしれませんね。

このごろの若い人は、殆ど使わなくなりましたけどね。

“・・・べ” と 

“・・・でないかい” と

“・・・でしょ” と

“・・・でした”

を旨く使えるようになると、半ば道産子と言ってもいーんでないかい。そだなー 道産子と言っても、いーべ。いーしょ。いーんでないかい。

次に,“なんも なんも”も、よく使われますよ。これを知っておくと、便利ですよ。

力仕事を頼まれたりしてね。「いやー、世話かけたねー。疲れたしょ」と言われたら、すかかさず“なんも なんも”とやるのですよ。

言わずと知れた、いいえ、そのようなことは、ありませんよ、と言う意味です。

いたるところで、御礼を言われたり、労りの言葉をかけられたら、とにかく、“なんも なんも”で、一件落着です。

 

さて、日常の会話の基本はこれくらいにして、特選の《北海道弁》を順番に

見ていくことにしますか。明解単純に、五十音順で行くことにします。

いろいろあるけれども、ア行では、まずは、

“あずましい” “あずましくない”

かな。

ついでに、

“おだる”

もやっておくことにします。

「正月に、兄一家がやって来て、子供が6才を頭に、年子で3人いるの。

お年玉をあげたら、 もう“おだっちゃって”さー、

“あずましくない”のなんのって、もう、疲れたわ。」

よくある光景です。

“おだる”は、調子に乗って大はしゃぎすることです。

濁点のないのは、“おたる”。

“おたる”は、運河の町・小樽ガラスの町。

シャケフライがいいよ。タルタルソース掛けたの。ちょっとお上品に“お”なんかつけたりしてさ。

“おタルタルソース”なんちゃって。駄洒落です。

寿司も旨いよ。

“あずましい”は、のんびりできるさまです。

“あずましくない”は、否定形ですから、のんびりできない、落ち着かない、心安らかでないことです。だから

「正月に、兄一家がやって来て、子供が6才を頭に、年子で3人いるの。

お年玉あげたら、もう“調子に乗って大はしゃぎしちゃってさ”、

“落ち着かない”のなんのって、もう、疲れたわ」

と言うことです。

子供達が“おだって”いる時には、大人は、

“おだるナー”と、どなりますよ。

一家が、帰った後は、

「ようやく“あずましく”できるわ。やれやれ。」

と言うことになる次第です。

次に、

“あずる”

ですかね。

“あずる”なんて、聞き慣れないのを、いきなり引っ張り出されて、“あずり”ましたか。

“あずる”は、<処理に困る> <手に負えなくなる> <手こずる>などの意味で使います。

今朝の大雪でよー。車、下水の溝に突っ込んじゃってよー。周りに、手伝ってくれる人、だーれもいなくてよー。もー“あずった” “あずった”。

と言うように使います。

赤ん坊、二人も押し付けられてよ。泣き喚くやら、ウンチするわで、もー、“あずった”わ。お手上げよ。

なんて、言いますよ。

因に、アナウンサーの“あずみ”さん。帯広市出身の安住紳一郎さんは、“あずる”とは、特に、関係は御座いません。無関係です。強いて言えば、3文字中、2字が同じです。蛇足ながら。北海道繫がりで、ちょっと、出場してもらいました。悪しからず。ほんのヒマ潰しです。

次に、

“あっちゃこっちゃ”

にいきますよ。「あちら こちら」・「逆」の意味で使いますよ。

「うちの父ちゃんは、何時も“あっちゃこっちゃ”ほっき歩いてばかりいる。」とか、

「うちの子は、すぐに靴を左右“あっちゃこっちゃ”にはくのだから。」

などと使います。

また、

 

“あっぺ” “あっぺこっぺ”

も“逆”の意味でつかいますよ。

ついでに、

“あっぺくさい”(“あっぱくさい”)

をやっておきます。

“あっぺ”に、臭いが着いたら “あっぺくさい”(“あっぱくさい”)となります。

これは、上の“あっぺ”(“あっぺこっぺ”)とは、関係ありませんよ。

注意して下さい。“あっぺこっぺくさい”とは、言いませんから。

“あっぺくさい”(“あっぱくさい”)はですね、

“あっぺ”とか“あっぱ”と言われる物があってですね、これが腐るとすごい悪臭を発するのですよ。てなことは、嘘ですよ。

“そこにあるでしょう”と言うことを“そこに あっぺ”と言う栃木弁とも関係がありません。念のため。

余計なこと言うなって。ゴメン。

“あっぺくさい”(“あっぱくさい”)はですね、

“簡単だ”・“すぐ出来てしまう”・“相手にならない”などの意味で使います。

「鉄棒で逆上がりできるかい」と聞かれたら、

“そんなの あっぺ(ぱ)くさいよ( = 簡単だよ・わけないよ)”とこたえるわけです。

「○○君と相撲をとったら、勝てるかい」と聞かれたら、

“あー あんなやつ あっペ(ぱ)くさいよ(= 相手にならないよ)”とこたえるわけです。

くれぐれも、「北海道に行って、“あっぺ”食べさせられて、臭かったー」

などと言わないように。

因に、“コッぺ”(= コッペパン)に、アイヌネギ炒めを挟んだのは、臭いよ。

ただし、これをコっぺ臭いとは、言いませんよ。

が、しかし、

“コッペクサイ”

は、御座いますよ。

これは、「おませ」「おしゃま」「こまっしゃくれている」の意味で使います。

「姉の子供が、まだ、3歳なんだけれど、これが“コッペクサイ”のよ」などと使います。

似たようなニュアンスで、「こなまいきだ」と言うような意味合いで、彼方此方で使われているようですね。

次に、幾分まとめて行きますよ。

“あっこ” 〈あそこ〉

“あったこった” 〈あれこれ〉

“あったらこったら” 〈あれこれ〉

“あったらこと” 〈あんな事〉

“あったらとこ” 〈あんな所〉

“あったらばっこ” 〈あんな少し〉

“あったらやつ” 〈あんな奴〉

いずれも、幾分、少々荒っぽい表現になりますなー。

気の置けない同士で、よく使われますよ。

例えば、“あったらばっこ”〈あんな少し〉は、

この間は、タラコをごっつおさんだったねー。いやいや、“あったらばっこ”なんも なんも。

となります。「この間は、タラコを頂きまして、ご馳走さまでした。いえいえ、あんな少しばかり、なにも礼を言われるほどの事では御座いません。」と言ったところですなー。

次は、

“あまされる”

に行きます。

“あまされる”は、

〈持て余される〉・〈仲間に入れてもらえない(仲間はずれにされる)〉と言うような意味で使われます。

引いては〈嫌われる〉に近いニッュアンスを持っているようです。

年寄はいつも余される。余され者だ。」(「年寄は何時も仲間に入れてもらえない。厄介者だ。」)と嘆くのである。

「あいつは、ごごとばかり言っている“余されもんだ”」(「あいつは、こごとばかり言っている厄介者〔嫌われ者〕だ」)。

“あまされたら”あまりいい気持ちはしないものです。

次は、

“あめる”

に行きます。

“あめる”は、アメをなめることです。ウソです。

雨が降ることを言うのです。これもウソです。

毛糸買って来たけど、マフラー編める? この<あめる>とも、違います。

「このところ蒸し暑くて、雨続きだったので、この飴、“あめた”かなー。」

「雨だったからと言って、飴は、“あめ”ないべさ。」

「今日は、蒸し暑かったので、おかずが“あめた”みたいだな。ほら、糸引いてるよ。納豆が。」

納豆は、“あめ”なくても、大体糸引いているんでないかい。」

などと使います。

“あめる”は、〈腐敗する・腐る・いたむ〉の意味で使います。

知らない方だと、見当がつき難い方言ですね。方言らしい方言です。

次は、

“あんべえ”

です。

これは、<具合>の意味で使います。

「あんべえ 良い」は、具合が良い、調子が良い、体調が良いの意味です。

「あんべえ 悪い」は、具合が悪い、事情・体調などが不調なことです。

 

それでは、あまり長くなると、「あんべえ 悪い」と思うので、本日は、これで終りとします。

ア行から始めて、ア段で終りです。

次ぎは、イ段からやりたいと思います。

ヒマ潰しになりましたでしょうか。

どうもお疲れさまで御座いました。

またのお越しを、お待ち申し上げます。