《停念堂閑記》13

「停念堂寄席」13

 

『判断の素』 (2015-12024)

 

本日は、ようこそのお運びで、厚く御礼申し上げます。

今日も、ひとつバカバカしいお笑いで、一時の幸せを味わって頂ければ、幸甚で御座います。

さて、生きておりますと、色々とやらなければならないことがございますな。

飛びついて、真っ先にしたいこと。良いとこ先取り。

時間限定のバイキングでは、まず、カニのところへすっ飛んで行きますな。

モー 取り皿に、カニの足をてんこ盛り。

あとは、会話もせずに、ただただ もくもくとカニ足と格闘するだけ。

これも至福の時ですね。

寄席落語を聞くのと、カニ足と格闘するの どっちが良いかって。

そんな判りきった事を聞きますか。

それでは、フグ刺し食べ放題と、カニ足では、どうしますって。

バイキングでしょ。

両方頂くに決まっているではないですか。

いきなり、話がずれてきちゃいましたな。

慣れないもの食べると、調子がくるいますな。

 

話を戻しますよ。

 

カニやフグとは正反対に、是非是非お断り申し上げたいこと、と言うのがありますな。

小学生の頃、教室で算数の時間などは、先生に当てられたくない。

とにかく先生と視線を合わせると、まず、アウト。

机の上に開かれた教科書に、ただただ視線を落して、当てもなく泳がすのがコツ。当然、何にも読んでなんかいませんよ。

そっと、隣のヤツを見ると、同じことしてやがんの。ヤッパリ、オレの友だわ。って、思う訳よ。

先生、早く他の誰かに当てて、そこで、なるべく長く時間を掛て下さいよ。

時間終了のベルよ、早く鳴ってくれー。

神様、仏様、お願いしますよ。なんてね。

そう言うことって、あったでしょう。

 

どちらかと言うと、したい訳ではないけれども、生きて行くには、しなければしょうがないこと。

ありますでしょ。

しかし、やらなくてはならないのですよ。

今日も、鞄を下げて、満員電車でもまれながら会社へ。

会社では、部長や課長などと、なるべく視線を合わせないように。

小学生の算数の時間の訓練が、こんなところで役に立つのですよ。

やっぱり義務教育と言うのは、大事ですなー。

パソコンの画面を食い入るように、見つめる。

実は、ただ見ているだけ。思考停止

考えてることといえば、早く昼休みになれ。今日は、牛丼で安く上げるか。なんてね。

あるでしょー。

 

特に考えることもなく、ただただ何となく惰性でやっていることもありますね。

日常生活で、最も多い事柄ですね。気がついたら、毎度同じことをしてますよ。

ちょっとね、工夫すれば、やりよくなるのに、めんどくさいから、ヘボイことを、凡々と繰り返す。考えなくて良いことは、とにかく楽なのですよ。

いろいろと気を遣って、緊張しているよりは。

気楽にやることが、一番要領の良いことかも知れませんね。

 

実に、色んなことがございますな。

そのような実に複雑な御事情の中、今日は、こうして寄席にお越し頂くことを、第1位に選んで頂きまして、まことにありがとう存じます。

寄席は良いですよ。何たって、小難しいことを考えなくて良いですからね。

健康にも良いですからね。

バカバカしい話で、大口おっ広げて、思いつきり笑う。

アッハッハ イッヒッヒ ウッフッフ エッヘッへ オッホッホ

おのね、笑う時は、ア行(あぎょう)でやって下さいよ。

これが、カ行(かぎょう)だと、

カッカッカ これは、いわゆる豪傑笑いと言うやつで、これはこれでいいのですが、

キッキッキ となると もう猿になっちまいますから、キをつけなければなりませんよ。

クックック これは噛み殺しわらいですね 時々やるでしょう。

ケッケッケ これは なんか人を小馬鹿にしているように聞こえますよ

コッコッコ これになると ニワトリですからね。卵産まなくてはなりませんよ。

カ行(かぎょう)は、気をつけて下さい。

サ行(さぎょう)・タ行・ナ行は、笑いには不向きです。

ハ行は、いいですよ。

ハハハハ ヒヒヒヒ フフフフ へヘへへ ホホホホ

ですからね。笑いには、一番適しています。

マ行・ヤ行・ラ行は、いけませんよ。

ワ行は大丈夫です。

いいですか、笑う時は、ア行・ハ行・ワ行でやるようにしましょう。

カ行は、気をつけてやりましょう。他の行(ぎょう)はだめですよ。

タ行でやったりしたら、タッタッタとなって、何処かへ行ってしまいますから。

 

と言うわけで、笑い方の基本を会得しましたら、思いっきり笑いましょう。

これが精神衛生上、この上ない大事なことなのですよ。

なぜかって、この大口をおっ広げて、思いつきり笑っている時が、すなわち

至福の時なのですよ。

人間、誰しも第一に望むことは、幸せになりたいと言うことのようですよ。

その内に、幸せを掴んでやる。と志して、日々頑張っておられる方々が、多くいらっしゃると思います。

しかしですね、幸福なんて、そんなに頑張らなくたって、すぐになれますよ。

早い話が、寄席に来ましてね、噺家が時々おかしいこと言いますから、その時にね、思いっきり大口おっ広げて、馬鹿笑いすれば、それだけでいいのですよ。

 

ちょっと、練習してみますか。

良いですか ? ア行かハ行でお願いしますよ。

かーるい駄洒落を、一発行きますよ。

 

ネコが、ヤネから落っこちて、下の木のネッコに、頭をぶつけて、

ネコんじゃった。まー ヤーネ。」

 

エッ 全然可笑しくない。笑えるかーって。

お客さん。何を好んで、不幸になろうとしているのです。

ここは、四の五の言わす、大口おっ広げて、大笑いするところですよ。

馬鹿笑いしている時に、ああなんてわたしゃー不幸なんだろう、なんて思う人は、いないのですから。

大笑いしすぎて、アゴ外しちゃって、不幸になった人はいますよ。

それを見て、さらに大笑いした人が居ましてね。

その人がまた、アゴを外して、爆笑を呼んだことがね、未だありませんが・・・。

そうそうタイミング良くは、参りませんよ。

たまにね。あっ、いけねー。こんな程度の低い駄洒落で笑ってしまった。

取り返しのつかない失態をしでかした。なんて落ち込んでおられるお方を、時々お見受けしますけどね。

そんなの全然かまわないですよ。

一回笑わせてしまえば、もー、こっちのものですからね。

 

幸せ、幸福なんて、たかだかこれだけのことなのですよ。

ところが、なかなか幸福にはなれず、落ち込んでおられる方が多数いらっしゃるようなのですよ。

自分は不幸だ、と始終思っている方がいらっしゃるでしょ。

何で私だけ、なんておもっちゃったりしましてね。

それはそれで、個々に御事情がおありでしょうが、大体は、幸せの感じ方を知らない人のようですよ。

例えばですよ。友人が、「宝くじがあたったから、今日は昼飯を奢ってやる。ついて来い。」と言うので、すたこら着いて行ったら、なんとラーメンを奢ってくれた。

このような時に、

今日はツイテル。ラーメン奢ってもらっちゃった。大盛り食って良いと言うので、特大を食ってやった。割合旨いラーメンだったな。オー 満足 満足。

と思う人は、幸福になれるタイプの人なのですよ。

日常は、たいていの場合は、こうした小さな事の寄り集まりですから、その小さな事の一つ一つに、おおむね満足を感じられる方は、幸せを感ずることのできる、早い話がすぐに幸せになれる人のようですよ。

ところがですよ。

昼飯奢ってくれるって言うので、期待して着いて来たら、なんだラーメンかよ。せめて焼き肉くらいには、ありつけるのではと思っていたのに、ケチな野郎だ。

と思いつつ、ラーメンをすする人は、あまり幸せに巡り会うことがない人のようです。

幸せ、幸福をどのように定義するかは、人それぞれかも知れませんが、一般的には、自己の希望が叶った時に感ずる満足感が、すなわち、幸福と言われているようですな。

ですから、日常の小さな出来事の一つ一つに、まあまあ特別に不満を感じない性格のお方は、おおむね幸せな状態にある。幸せな日々をおくっている、と言うことになるようです。

だから一つ一つの出来事に、常に高いハードルを設定している人は、なかなか満足感を得ることが難しく、中々思うように行かねーな、と事ある毎に、不満を感じ、不平を言わなければならない、すなわち、不幸にならざるを得ないことになるようですよ。

見てますとね、実にね、不幸になるのに、上手な方がおられるのですよ。

不幸の種ばかり、拾って歩いておられる方ね。どうしても、不幸へ近づいていくのですよ。

たとえば、宝クジを買って、1万円当たって、ヤッター ヤッターと大喜びできる人は、幸せな人。

ところが、そちらに行かないで、1万円当たったのに、たった1万円か。また、5億円外した。と落ち込んむのが好きな方がいらっしゃるのですよ。

もう天才的に、不幸が好きな方がね。

5億円などと、とてつもない高いハードルを設定して、毎回外れたと不満たらたらの人は、一生涯幸せにはなれない、不幸な生涯を送らなければならない人のようですよ。

5億円なんて、当たりっこないんだから。そうそう幸せなんか、来ヤーしませんよ。ホント。

繰り返しますが、早い話が、寄席に来て、たわいもない駄洒落を聞いて、大笑いすれば、すなわち幸福と言うものなのですよ。誰にでも、簡単に出来る事なのです。

さー 全国の皆さん、寄席に来て、さっさと幸せになりましょう。

 

これくらい能天気に行かないとダメですよ。

とは言うものの、日常生活、能天気一筋では、なかなか上手く行かない事情もございますな。

人間生きている限り、毎日毎日、来る日も来る日も、とにかく何かをしなければならない。何かをしているのですよ。

暇を持て余しているお年寄りの中には、「今日も一日、何にもしなかったなー」とぼやいている方がいますが、この方、何もしなかったのではないのですよ。

何にもしないことをしていたのですよ。

ちょっとくらい何かすれば良いのにね。器用にねー、ボケーとね。

でも、ポケーとはしているのですから、何もしない訳ではないのですよ。

何もしなくなるのは、あの世とやらへ行ってからのことですよ。きっと。

兎に角、寝ている時だって、寝ることをしているのですからね。

生きている人間には、行動がつきものです。

 

ここで、ちょっと、考えて下さい。

人間、生きている限り、一時も休むことなく、とにかく何かをしているのですよ。

この何かをすると言う時には、大きく分けると、例えば、熟慮の末、脳から指令が発せられて、行動する場合と、脳から指令が来ていないのに、身体が動いている場合があるようですよ。

何か行動を起こそうと言う時は、脳がどのようにすべきかを判断し、その指令に従って、行動する。当たり前のことですね。

ところが、脳の判断・その指令とは、無関係に、身体のある部分が動いている、と言うことがあるのですよ。きっと、自律神経とやらの仕業のようですが。

そうです。例えば、心臓ですよ。動いているでしょう。いちいち動かしてやろう、なんて考えなくても、動いているのですよ。どうもいちいち脳の指令を受けなくても、心臓は、勝手に動いているようですよ。

心臓も毎日毎日働きっぱなしで、さぞかし疲れているだろうから、ちょっと休ませてやろう、と思って、心臓止まれ、と思ったくらいでは止らないでしょう。

あのー。無茶して止めてはいけませんよ。

死んじゃったら、元も功もなくなりますからね。

そのくせ、止っちゃーダメ、止るな、と言って聞かせているのに、勝手に止る場合があるのですよ。

心臓とは、まったく、言うことを聞かない奴なのですよ。

それとも、やっぱり心臓も脳からのなんらかの指令があって、それによって動いたり、止ったりする場合もあるのですかね。

例えば、年頃の男性だったら、好みの奇麗なお姉ちゃんと、バッタリ出くわしたら、心臓がドキンとしますよね。

このような時には、心臓自体が「アッ 奇麗なお姉ちゃんだ」なんて、勝手に認識して、ドッキンとするとは、思えませんよね。

やはり、脳から何らかの指令が行って、その指令を受けた心臓が、ドッキンとするのではないのでしょうかね。

 

詳しくは、知りませんが。脳への血流を止めても、すなわち、脳が活動を停止しても、外部から養分を補給すれば、心臓は活動し続けるのですかね。

自立神経だけではなく、脳からの何らかの指令のもとに、心臓の活動が維持されているとすれば、

言い方を換えれば、心臓は、脳の指令によって、活動を維持してい部分がある、と言うことになりますね。

そうすると、脳と心臓は運命を共にしている、と言うことになりますかね。

要するに、心臓が動いていると言うことは、脳が活動している、と言うことになるのですかね。

とすると、脳死の考え方が大変なことになりかねませんね。

心臓が活動している間は、脳もある種の活動をしている。すなわち、脳は死んではいない、ある種の活動を継続している。と言うことになりますからね。

 

心臓の他はどうですかね。

肺はどうでしょうね。これも、通常は、自律神経さんが宜しくやってくれているのでしょうね。

しかし、脳の方で、一時的に、呼吸を止めよう、と考えて、その指令を発すると、呼吸を止めることができますよね。

ここで呼吸をしてはダメ、と言う緊急時に対応できるような仕組みになってますよね。

ただし、長くは続きませんよ。もうダメ、我慢できない、と言う時には、勝手に呼吸を始めますね。

この場合は、このままではダメだ。呼吸を始めろ。と脳が指令を発するのですかね。このへんの詳細は知りませんけどね。肺は、幾分ヤヤッコしいところがありますな。

胃はどうでしょうね。ちょっと、固い物を食べたなー。と思った時、よし、一所懸命動かそう、と思ったら、胃を活発に動かすことができるのでしょうかね。

脳と胃の現場で、勝手にやり取りして、胃の方で、固い物のが送り込まれてきたぞー。と脳へ伝達し、これを受けた脳が、そーか、それでは何時もより活発に動けー、と胃に指令するのですかね。

そー、都合良くはいきそうにないですね。

きっと、これは無意識の状態で行われるシステムなのでしょうね。

しかしね、すごい精神的なショックを受けたりした時に、食欲が無くなったりしますが、胃自体がショックを感知して、食欲が無くなる分けではないのでしょうね。あくまでもショックを感知するのは、脳の方で、その結果、脳の判断で食欲をおとしたりする現象が起こるのでしょうね。胃が精神的ショックを直接自体で感知するわけないものね。

と言うことは、胃の活動と脳の判断は、何らかの関係があると言うことになりますな。

イー関係だとイーなー。ノーだって。

下らねーこと言ってんじゃねーって。御尤も、御尤も。

肝臓は、どうでしょうね。

飲み過ぎたりすると、やっぱり脳から肝臓へ、何らかの指令が行くのでしょうかね。飲み過ぎ、飲み過ぎ、なんてね。

飲み過ぎると、胃にも良くないので、

飲み過ぎは、イカンゾーなんてね。

そうそう甘草(かんぞう)と言う漢方薬があるの知ってますか。

胃潰瘍や胃痙攣の症状に効果があるらしいですよ。

当然、カンゾーと言うだけに、肝障害に効くとの事ですよ。

それならね、カンゾーだけではなく、

イカンゾーと言う名前にすれば良いのにね。

えっ、紛らわしくて、イカンゾーだって。

一つのネタを、使い回して、恐縮ですね。どーも。

その他、大腸・小腸・十二指腸・腎臓・胆嚢・膵臓脾臓等々、色々と有りますなー。

各内蔵は、それぞれ皆、脳から何らかの指令があって、活動しているの部分があるのですかね。

ちょっと、話がそれますが、脾臓は、なかなか見つけにくい所にあるらしいですよ。隠れてるみたいで。秘蔵されているんだって。

さらに、話が逸れますが、男性にはない、女性にしかないのが、子宮ですね。子宮頸ガンワクチンが、話題になっていますが、兎に角、子宮の調子がおかしいと気がついたら、大急ぎで病院へいった方が良いですよ。

大至急ね。

どうも下らない駄洒落が続き、恐縮しますな。

あのね、お客様。この駄洒落は、ここで話してるのは、噺家の私ですがね。

作ったのは、私ではありませんからね。私は、喋ってるだけ。分業です。

下らねー、とお思いの方は、落語作家さんの方に、文句を言って下さいよ。

少しは、上等なのにしろ、とね。

現場の私が白い目で見られるのですから。たまったもんじゃーありませんよ。まったく。これで、色々とあるのですよ。

私ら噺家は、寄席でお客さんを笑わせてナンボの商売ですからね。

まさに、笑いを売ると言う笑売(商売)ですからね。

たまには、うまいこと言うでしょう。

えっ、ちょっと意味がわからなかったって。

こんな時、今のは、どこが可笑しいのか、と言うと、とオチの解説したのが、先代の昭和の爆笑王林家三平師匠

噺家が、一番悲しむべきことはですね、ここで笑いをとらなくては、と面白いことを言ったはずが、これが、お客さんに通ぜず、全然受けなかった時、笑いがなかった時、ではないのですよ。

笑いが生じなかったのは、お客さんが笑わなかっただけですから。

早い話が、お客さんのせいですから。

笑わない、お客さんが、悪いんだから。

アノー、今のは冗談ですからね。ケンカうるつもりはありませんから。

ほんのちょっと、本音が出ただけですから。

ところで、噺家が、一番悲しむべきことはですね、

今のは、ここが面白いはずだったのですよ、と受けなかった駄洒落のオチの解説をしなければならない時なのですよ。

自分の未熟さを痛感させられる分けですよ。

だから、たとえ笑いがとれなかったとしても、直ちに、そのオチの解説をするような噺家は、まず、いないのですよ。屈辱感を味わいますからね。

ところが、受けないネタをネタにして、オチの解説をすると言う手法で、遮二無二笑いを取りにいったのが、先代の三平師匠でしたからね。

今のではないですよ。先代の林家三平師匠ですよ。

突然「よーしー子さん」なんて叫んだりしましてね。

“よーしー子さん”。

私は、三平師匠の奥さんの名前だとばっかり思っていましたからね。

奥さんは、ご存知の通り、海老名香葉子(かよこ)さんとおっしゃるのですからね。噺家の言うことは、当てになりませんよ。本当に、気をつけて下さいよ。

 

ところで、何の話をしていたのでしたかね。

噺家の話は、いい加減だと言う話ではなかったような気がするのですが。

何でしたかね。

こう言う時には、振り返って見ることが大切です。

えっ、振り返ってみたら、背後霊が見えたって。

それは一大事ですよ。背後霊が見えるようになったら、直に、病院へ行った方が良いですよ。救急車、救急車。

早期発見。早期治療が肝心ですから。

早期治療と言えば・・・。

まてよ。こっちに行っちゃうと、収束にちょっと時間がかかるぞ。戻そう。

どこまで戻るかと言うと、そうだ。

人間が行動をおこす時、脳からの指令がある、と言う話だったな。

内蔵は、脳からの指令で動いているのか、脳からの指令なしで動いているのか、素人には、分かりにくいところがあるな、と言う話だったな。きっと。

その辺りの続きをやれば、何とかなりそうだな。

 

以前にですね、人間はもくもくと日常生活を送っているけれど、日常生活の行動の主要な判断基準は、実にA(C)(えーかっこしー)にあるのではないか、と言うことを指摘したことがあるのですよ。

私が初めて言ったわけではなく、遠の昔に誰かが指摘しているのでしょうが。私もそのように思うと言うことですよ。

要するに、人は何か行動する時に、上手にやりたい、格好良くやりたい、と言う願望があって、とにかく、格好を気にする。

早い話が、なんでも格好よくやろうとするようだ、と言うことですよ。

ひっくり返して言えば、格好悪いのは嫌だ。格好の悪いのは、いわば恥だ。恥はかきたくない。と言う強い願望があるのだと思うわけですよ。

誰でも、何かをする時には、とにかく上手くやりたい、格好良くやりたい、と思うわけですよ。

これを上方的お笑いの表現にすれば、A(C)(えーかっこしー)と言うことになるのですよ。

ところが、世の中そう単純ではありませんよ。A(C)(えーかっこしー)だけで生きてはいけません。

A(C)(えーかっこしー)以外にも、人間の行動の根源、すなわち行動の〈判断の素〉と思われる判断基準があるのですよ。

 

さーて。それは何かと問われたら。

“好き”“嫌い” “好き”“嫌い” と言うやつですよ。

日常生活の人間の行動は、実に、この“好き”“嫌い”と言う判断基準によるところが大なのですよ。きっと。

お客さん。何かにつけて、 “好き”“嫌い”と言う判断基準で、行動を起こしていませんか。

 

昼飯に行くか。うな重なんか、いいな。などと言う人がいたら、

ウナギ、大 大 大好き、と言う女の子いませんか。

うな重、旨いけど、このごろ値上がりして、へますると3000円はいっちゃうぞー。と言った途端に、女の子、私ウナギ嫌い。とくるかも、知れませんよ。

この娘さんは、表現を間違えているのですよ。

本当は、ウナギは大好きなのですからね。

嫌いなのは、3000円の出費の方なのですから。

人間、誰しも“好き”“嫌い”があるでしょう。

いや、私は“好き”“嫌い”と言う判断基準による行動はしません。なんて言う人が、いませんか。ちょっと、A(C)しちゃったりしてさ。

気がついていないかも知れませんが、そのような方は、実は、“好き”とか、“嫌い”とか区別をしないことが、好きなのですよ。“好き”・“嫌い”の区別をするのが嫌いなのですよ。

分かりますか。一歩踏み込むと、実は、この“好き”“嫌い”の基準に基づいて多くの場合、判断しているのですよ。

A(C)(えーかっこしー)判断基準の上に位置しているのが、この判断基準“好き”“嫌い”なのですよ。そうです。A(C)(えーかっこしー) に、こだわるか、こだわらないかの判断も、この“好き”“嫌い”による判断によっているのですよ。

 

人間の心理は複雑、不可解のところが多々ありますからね。

例えば、お互いに好きだと言う判断で、結婚したとしますね。

それが、ある日、突然、奥様が、

「あなた、私と結婚したこと後悔してるでしょう。」と来るのですよ。

旦那さん、いいですか。この場合は、奥さんが、私は料理が下手、掃除も嫌いで、部屋は散らかし放題、洗濯なんか当然大嫌い、アイロンかけ等めんどくさい、無駄遣いはし放題、家計は赤字続き、こんな私で、あなたは当てが外れ、さぞかし後悔しているのでしょうね。

なんて思っているかと言うと、とんでもないことですよ。

世の奥様方が、旦那樣に「私と結婚したこと後悔してるでしょう」と切り出した時は、

奥様が「私は、あなたと結婚して後悔してるのよ」と言う宣言ですからね。

これは、間違いおまへん。ほんまでっせ。

後悔しているのですよ。こんなはずではなかったのにと。

まったく、見込み違いで、甲斐性がないのだから。旦那は、と。

 

旦那様の方は、ちょっと置くとしましてね。

何で、ちょっと置くのだって。それはですね、ちょっと置くのが好きだからですよ。

 

さて、この奥樣族、いや、広く女性全般の判断基準の趨勢は、まさに“好き”“嫌い”一辺倒と言って良いところがありますからね。“全員とは言いませんよ”の一言を付けておかなくてはね。後が怖いから・・・。

この “好き”“嫌い”は、“カワイイー”に置き換えると、すごく分かり良くなりますよ。

“好き”は勿論“カワイイー”です。したがって“嫌い”は、その反対ですから、可愛くないと言う事です。

1日で良いですから、女性をウオッチングしてみて下さい。

おそらく、ほとんど一日中、“カワイイー”で過ごしていますから。

身に着ける物、食べる物、見るもの、使うものなどなど、これらを選ぶ時には、ぜーんぶ、“カワイイー”で選んでいるのですからね。

近所に越して来た若いイケメン男性を見て、まずは“カワイイー”ですよ。

テレビに出ている、イケメンタレントを見て、“カワイイー”ですよ。

とにかく、一日いっぱい、“カワイイー”の連呼ですから。

それは、勝手にやってれば、良いことですがね。

振り返って、旦那を見て、何て言ったか、知ってますか。

“ダサー”だって。

 

ひどいと思いませんか。旦那さん。

こんな時は、すかさず、反撃に転じた方がいいですよ。

やられっぱなしは、しゃくにさわりますからね。

方法は、簡単ですよ。ちょっと準備が必要ですけどね。

準備ったって、簡単なことですよ。

手鏡1枚、用意すれば良いことですから。

奥さんが、“ダサー”って来た時に、すかさず、手鏡をパットと、かざすだけでいいのですよ。

コツを間違えてはいけませんよ。手鏡の表を奥さんの顔の前にもって行かなくては、効果がありません。

そーしたら、奥さん、“キャー”って、びっくりして、腰を抜かしますから。

効き過ぎには要注意ですよ。気を失っちゃったら一大事ですよ。

救急車を呼ぶハメになったら大変ですからね。

救急隊員に、“どうしました ? ”と尋ねられた時、

鏡の中の自分の顔見て、気絶しちゃった、何て説明するの格好悪いですよ。

かと思うとね。とんだドジな旦那さんがいたのですよ。

奥さんが、“ダサー”って来た時に、ここぞと、手鏡をパットと、かざしたのですよ。そしたら、なんと裏・表、間違えちゃって、いきなり自分の顔とご対面。

 

どうなったと思います。

“なるほど”と、“ダサー”に納得しちゃった、と言うのですよ。何とも、情けない話ですよ。

くれぐれも、鏡の表・裏を間違えないように、お願いしますよ。

 

と言う次第で、人間男女を問わず、“好き”“嫌い”で、自己の行動を決めることが、兎に角、多いのですよ。

他人(ひと)のことばかり、言ってられませんよ。当の自分もそうなんですから。

先ほども言ったように、人間、毎日毎日、兎に角、何もしないと言う日はない訳です。

毎日、重大な事、些細な事、色々とありますが、その事に当たって、どのように行動するかは、全て、脳からの指令によっている訳です。

どのような指令を発するかは、当該個人の脳によることは、言うまでもありません。

要するに、直面する事にあたって、常に、その個人の脳が持っている〈決断の素〉になる判断基準によるわけです。

対処しなければならない物事は、多種多様ですから、その時々に、必要となる判断基準も、実に、沢山存在していると言うことになります。

この数ある〈決断の素〉になる判断基準の中で、誰もが、一番多用しているのが、“好き”“嫌い”と言う判断基準ではないか、と思うのですよ。

どうでしょうね。お客さん。

 

ところでですね、お客さん。

結局は、“好き”“嫌い”と言う判断基準の範疇に落ち着くことになるのですが、この“好き”“嫌い”と言う判断基準に、ちょっかいを出す、別の判断基準があるのですよ。

何だと思いますか。お客さん。心当たりございませんか。

これも、何かを選択する時などに、しょっちゅう顔を出すヤツがいるのですよ。

そーです。“損”“得”に関する判断基準なのですよ。

何かを選択する時などに、センタクと言っても、汚れを落そうと言う洗濯ではありませんよ。何かを選ぶ時などにですよ、これにしようかな、あれにしょうかな、と言う場面で、どっちにするのかを決める時、まずは、“好き”“嫌い”の判断基準基準が、顔を出しますよ。

この時は、こっちの方が好きと言うことで、好きな方を選ぶことになるのですよ。

ところが、おいおい、チョット待った。と顔を出して来るのが、損得勘定と言うヤツなのですよ。

チョット、チョット、それは、少々高過ぎは、しませんか。と来ますよ。

ここで、“好き”“嫌い”と言う判断基準と“損得勘定”の判断基準が、バトルを開始することになるのですよ。

なにさ、こっちの方が、私、断然好きなんだから。

なに言ってんのよ。値段が違うでしょ。値段が。

それがどーだと言うのさ。これが好きなんです。

とどめは、財布の中身と相談しなさいよ。

この一言で、勝負は決まるのですけどね。

ところで、これ 何のバトルだったと思います?

これがね、これが昼飯のね、タヌキうどんと、カレーうどんのバトルだったのですよ。

この手のバトルは、毎日のように発生しますよ。

ナポリタン対ミートソース。

カレーライスラーメン

ハンバーガー対サンドウィチ。

これがね、なかなか良い勝負をするのですよ。

どーです。結講、セコイでしょー。

しかし、日常、しょっちゅうあることなのですよ。

このセコサの素が、損得勘定なのですよ。

エッ、奥様の場合は、ダイヤ対サファイア

でも、バトルにはならないの、両方と言うことで、直に妥協しますからって。

それは、どうもお見それ致しました。

たまには、損得勘定は登場しない場合も、お有りのようで、大変羨ましいケースもあるようですが。

しかし、多くの場合は、打算勘定で、決断する場合が多いですよね。

もー、日常茶飯事ですよ。私なんか。

とにかく、結論に達するのが、手っ取り早いですからね。

ない袖は、振れないのです。

現実は、キビシー。

 

と言うような次第で、どうも、日常生活では、行動判断の決定おいては、“好き嫌い”による基準で、行動を判断する場合が多いようです。

これに、A(C)・打算勘定などの〈判断の素〉も、多用されている気がするのですが。どうでしょうか。

 

エッ、寄席に来た時は、面白いか、面白くないかの判断基準があるのみですって。

これは、チョット風の方向が悪くなってきましたよ。

このような時には、君子危うきに近寄らず。

逃げるが勝ちで御座います。

 

どうもお粗末さまでした。

お後が宜しいようで。