《停念堂閑記》31

「日比憐休雑記」1

 

 《“笑い”の構造》1 ()

 

 むかし、むかし、そのむかし、ずーとむかしのことは、すっかり忘れてしまいましたとさ。だから、これでおしまい。

 始まったとたんにおしまいでは、格好がつきませんので、いくぶん記憶にあるむかし話に切り替えなければいけません。

 しかし、年をとると、そうそう記憶を持続させるのは、容易なことではありませんし、幾分記憶にある世の中は、既に複雑化し過ぎており、とても一筋縄では行かない状況になっていたので、どこから手をつけて良いのか分からなくなっています。

 わたし共の時代では、お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行けば事済む状況ではなくなっておりました。その日、その日の事情があ りますので、その時々の事情で、あっちへ行ったり、こっちへ来たり、あれをしたり、これをやったり、色んなことをしなければならなかったのだとさ。彼方此 方でバーゲンをやっているし、忙しいのにやって来る訪問販売の方のお相手をしなければならないし、ファクスやメールで了解もしていないことが飛び込んで来るし、オレオレ電話も来るし、もう大変です。貧乏暇なしで、けっこう多忙な毎日であったので、お爺さんもお婆さんも、夕食を済ませ、風呂に入ると、もう、バタンキューで寝てしまったんだとさ。と言うことでおしまい。また終わってしまった。これじゃー、しようがありません。

 そこで笑ってもらえるように、話を面白くする工夫が必要となります。といっても、にわかに笑える話はそうそう転がっているわけではありません。

 まず、笑える可笑しい話を作るには、予め“笑い”の構造について知っておく必要がありそうです。“笑い”の構造を心得た上で、可笑しい話を作っていく方が要領が良いというものです。

 そこで基本に立ち返り、“笑い”の構造について整理してみることにします。この手のことは、あまり手がけたことがないので、上手くいくかどうか、甚だ不安に満ちておりますが、試しにやってみることにします。何せ、定年退職後は、日々連休なものですので。

 仏頂面で過ごすより、笑って過ごす方がいいと思うひとが多いようです。時に、仏頂面こそ我が最大の楽しみ、と言う御仁もいらっしゃるようで すが・・・。ウオッチングするに値する存在のお方と言えそうです。平凡なお方を見ていてもあまり可笑しさは感じられません。平常から外れたところに位置さ れておられるお方を見ていた方が遥かに面白いようです。すなわち、平常ではない物事に遭遇した時、そこに笑いの要素がありがちで、人は自然と笑うことにな るようです。

 ところで、“笑い”とはどういうことなのでしょう。

 あまりにも日常的な事柄なので、構えて問われると、何と言ったら良いのか、些か戸惑ってしまいます。

 そこで、因に、“笑い”を国語辞典で引いてみたところ、幾つかの意味が書かれていましたが、まず、最初に「笑うこと」(スーパー大辞林) とあった。間違いない。「笑うこと」だ。しかし、思わずニヤリとしてしまった。たとえば、国語のテストで、“笑い”の意味を問われた場合、これに「笑うこ と」と解答したならば、○を貰えるだろうか。この解説をつけているお方も、何と解説すれば最も適切なのか、いろいろ悩むところがあったのではなかろうか。 結局、その編纂方針で、この手のことは、このように処理しょうと言うことになったのであろう。因に、“泣き”の項を見ると、最初に「泣くこと」とある。編 集方針はキチンと統一されているようである。しかし、大正解の解説ではあるが、いまひとつ説明になってないように思われる。

 そこで、なおしつこく、今度は“笑う”を引いてみたら(スーパー大辞林)、

  1 おかしさ、うれしさ、きまり悪さなどから、やさしい目付きになったり、口元をゆるめたりする。また、そうした気持ちで声を立てる。

  2 ばかにした気持ちを顔に表す。

  3 つぼみが開く、花が咲く。

  4 縫い目がほころびる。

  5 しまりがなくなり、十分に働かなくなる。

と解説されている。この知識があれば、上記の“笑い”の解説も幾分理解できる。

 しかし、“笑い”とは、という問いに対する回答として、“笑うこと”では、何とも答えになっておらず、ちょっと笑える事態ではある。

 余談であるが、上記の1・2は、日常よく見られることで、慣れているのでほとんど違和感なく理解される。

 しかし、3・4・5となると、日常めったにお目にかかることがないのではなかろうか。要するに文学的表現・比喩の類である。従って、適切に使用されている場合は、情景描写として極めて効果的であるが、一歩間違えると、それこそ笑える事態となる。

 「このところ急に陽気がよくなって、固く口を閉じていた桜の蕾も、かわいらしく二つ三つ笑い始め、満開も間もなくとなりました。」(ナン チャッテ)とくれば、ほのぼのとした春の陽気も漂うというものですが(?)、これが“お笑い”になると「このところめっきり陽気がよくなって、固く口を閉 じていた桜の蕾も、ようやく二つ三つ笑い始め、間もなく大笑いとなることでしょう。」となる。また、「このところの陽気で、公園の桜が一斉に笑いだし、も うやかましいの何のって・・・」となるとけっこう笑える。

 さらに、「4 縫い目がほころびる。」に関して、「花見の席で、課長がさ、しゃがんだとたんに、ズボンの尻の縫い目が笑っちゃって、中からキティちゃん柄のパンツがのぞいちゃってさ、もう笑った、笑った・・・」、と大笑いできる。

 「5 しまりがなくなり、十分に働かなくなる。」は、言うまでもなく、「昨日、富士山に登ったよ。このところ運動不足だ からさ、下山の時にはもう膝が笑っちゃってさ、よたよただったよ。」などと使われる。「6人のグループで行ったんだけど、全員膝が笑っちゃってさ、もう笑 い声の大合唱で、喧しいのなんのって・・・。」となるとお笑いになる。はたまた、「彼はこのごろどうしたのだろう。笑っているな。」を「彼はこのごろどう したのだろう。しまりがなくなり、十分に働かなくなっているな。」の意味を喚起させようなどとすると、これは中々骨がおれる。「笑う=しまりがなくなり、十分に働かなくなる」の意味を、事前にかなり念入りに摺り込んでおく必要がある。何事も、成功に導くためには、下ごしらえが大切です。備えあれば、憂いなし。準備万端が肝要。

 文学的表現・比喩的表現には気をつけなければならない。但し、“笑い”のネタになるので記憶しておく必要がある。

 さて、ここでは、上記1・2の意味の“笑い”について取り上げることにする。

  1 おかしさ、うれしさ、きまり悪さなどから、やさしい目付きになったり、口元をゆるめたりする。また、そうした気持ちで声を立てる。

 「おかしさ、うれしさ、きまり悪さなど」は人の心の動き、気持ちであり、「やさしい目付きになったり、口元をゆるめたりする。また、そうした気持ちで声を立てる。」ことは、人の心の動き、気持ちの表現の一つということができる。  

  2 ばかにした気持ちを顔に表す。

 こちらも、「ばかにした気持ち」は文字通り人の心の動き、気持ちであり、「顔に表す」も、文字通りその表現ということになる。

 すなわち、普遍化すれば、

  [“笑い”とは、人が「おかしさ、うれしさ、きまり悪さ、また、何かを馬鹿にした時など」の感情表現の一つ]

ということになる。“笑い”とは、おおむねこんなことのようである。

 とすれば、“笑い”を誘う感情を明確にして、それをネタとする話を作れば、“笑い”を引き起こすことができるということである。

 人間の感情を表現する語として、「喜怒哀楽」という語がある。人間の感情を比較的よくカバーできている表現として、便利に使用されている。

 「喜」は言うまでもなく、感情のうち「よろこび」、「怒」は「いかり」、「哀」は「かなしみ」、「楽」は「たのしみ」を意味している。人間の持つ感情が全てこの四文字熟語に含まれるかと言うと、どうもそう簡単には行かないようである。

 「喜び、悲しみ、怒り、不安、嫌悪」を5大感情としている方もあるが、これにおさまるような単純なものとも思えない。「人の数だけ感情がある」と言ってしまえば、身もふたもなくなるかも知れないが、なかなか複雑なもののようである。

   ※ 「感情」とは何か、と言うことになると、些か厄介になりますので、生理学心理学、脳学等々に関わるようなややっこしい話には触れないでおく方が無難なようです。(つづく)