《停念堂閑記》34

「日比憐休雑記」4

 

 《“笑い”の構造》4

 

 〔きまり悪さ〕

 

 〔おかしさ〕、〔うれしさ〕と共に、〔きまり悪さ〕が“笑い”を誘う要素として上げられている。

 〔きまり悪さ〕がなぜ“笑い”の要素となるのか、と言うと、よくは分からない。強いて推測すれば、個体差が あろうが、それは人が「恥と感ずるもの」を持ち合わせており、それはあまり他人に見せたくはない部分のようである。これが何かの拍子で、表に現れた場合、 ここで取り上げる〔きまり悪さ〕を感じることになるものと思われる。「恥ずかしい」と言う感情が現れる。そして、この〔きまり悪さ〕をカバーする行為が発 生する場合があるように思われる。時に、照れたり、恥ずかしがったり、弁解したり、泣いたり、怒ったり、攻撃的になったり、その場から逃走したりする。こ のような行為の一つとして、“笑う”ことが位置しているのではなかろうか。

 見られたくないものを見られて、〔きまり悪さ〕を感じ、ここで笑ってみせる。と言うことは、照れ隠し的なものであったり、とにかく、何とか誤摩化そうとする性格を含む“笑い”のように思われる。なんとか“笑い”で場を納めたいと言う行為なのではなかろうか。

 ここに、〔おかしさ〕による“笑い”とも〔うれしさ〕による“笑い”とも性格を異にする〔きまり悪さ〕の“笑い”があるのであろう。「照れ笑い」とか「ごまかし笑い」などと表現される“笑い”である。

 時によっては、笑って場を取り繕うよりない場合がありますよね。笑って誤摩化すつもりか、とお叱りを受けることもありますが・・・。ことに よりけりかも知れないけれど、泣いたり、喚いたり、怒鳴ったり、攻撃的になったりするより、“笑い”で納めることの方が、効果的な場合があるのではないで しょうか。いわゆる大人の仕法と言うものでしょかね。誤摩化しを肯定するわけではありませんが。(つづく)