《停念堂閑記》39

「日比憐休雑記」9

 

 《“笑い”の構造》9

 

 〔笑わせ方の基本〕4

 

【ネタの出し方】

 

 次に、ネタの披露の仕方が大事である。この点については、ネタの如何によることなので、ネタに相応しい仕方がよりベターと言うしかありません。

 好みで言わせてもらえれば、やはりお客が期待していることをやってのけるというのが、笑いに繋がるようである。

 例えば、“たけちゃん”である。“コマネチ”は受けましたね。子供からお年寄りまで、大喜びした。“たけちゃん”登場→“コマネチ”、 誰もの期待が一致していた。一発芸の最高峰といった感じである。また、“たけちゃん”は、近くに段差や階段があれば、必ずコケてくれる。若干はなれていて も、わざわざ行ってコケてくれる。もうお決まりである。これが平坦な躓きそうなものが何もない場所の場合、“たけちゃん”が手頃な石でも持って現れ、程よ いところに石を設置して、出直してそこへ行ってケッつまずいてコケてくれでもしたらもう大満足である。“たけちゃん”登場→コケてくれる。これは皆が期待 していることであり、期待通りやってくれると、これがついつい嬉しくなり“笑い”がこぼれるということになる。

 このように、欽ちゃん欽ちゃん走り、二郎さん→飛びます、飛びます、カトちゃん→ヒックッション等々期待されているネタは色々ありました。期待通り出して欲しいものです。

 次に、ネタの性格にもよるが、単発で終わるよりも、重ね重ねして連発する方が効果的な場合が多いようです。

 例えば、いたずら小僧が、落とし穴を掘り、それに我が子が落っこちて痛がっている光景を見たその子の親は、もう怒らずにはいられないであろう。笑うどころではない。

 そこで我が子を助け、いたずら小僧をたしなめようと勢い良く飛び出して行ったところ、もう一個の落とし穴にはまってスッテンコロリンしたとすると、その光景を見ていた人は、悲惨な状況ではあるが、思わず笑ってしまうであろう。

 また、勉強もしないで、こんな悪さばかりしているいたずら小僧の親がこの光景を見ていたら、もう情けなくって涙が出てくるかも知れない。そ して、我が子を叱り飛ばそうと、また飛び出して行ったところが、第3の落とし穴にはまった光景が発生でもしたら、それを見ていた人は、もう笑うよりほかな いであろう。タイミングよくこのようなことが起こるわけはないであろうが、そこは“お笑い”であるから仕方が無い。

 以前からこの手の笑い話がある。トイレで用を足し終わって、紙で拭いたところ、不覚にも指にウンチがついてしまった。きったねーと、とっさにおもいっきり手を振ってしまった。ウン悪くこれが壁に当たって激痛がはしり、思わず「いてー」と指を口にもっていてしまった。と言うやつである。

 最も典型的なのは、落語の「寿限無(じゅ げむ)」である。子供の名前を付けるに及んで、候補として出て来た縁起の良いものを次から次へと並べていって、とてつもなく長ったらしい名前になる噺であ る。この候補として登場する名前が、常日頃では滅多なことではお目にかかることのない珍品(?)ばかりで、最後のシメの「長助」ぐらいは馴染みがあるが、 あとはなかなか分かり難いものばかりである。はなしの過程で、解説されているものもあるが、そうでないものが多い。「ポンポコピー」などはどこが縁起が良いのか見当もつかないが、そこが“お笑い”のネタのネタたる由縁であろう。とにかく、この長ったらしい名前がやたら繰り返される。噺家さんもクタクタになって、息切れしながら、繰り返すはめとなる。このようにして、“笑い”をとろうというのである。

 本来的に、“笑い”の要素を一度だけではなく、重ねると一段と“笑い”の深度が深くなるようである。 

【ネタの進め方】

 次に、これもネタの性格にるので、みんな引っ括ってこうだとはいかないが、話のテンポは、おおむね適度にスピーディーである方が好まれるようである。勿論トロくささをネタとしている場合は、相応にトロクやらなくてはならない。トロイと聞き手に当然イライラ感情が湧いて来る。そこが付け目であろうから、トロくさくやらなくてはならない。しかし、遣りようによっては、イライラ感が強くなってしまうと、不快感が勝って、“笑い”から遠ざかってしまう場合もあるから、難しいところであろう。

【咬んだ時】

 次に、いわゆる“咬んだ”時の対処の仕方である。途中で台詞を忘れたり、言い違えたり、正確に言えなかったりした場合、昔は手っ取り早く 謝ってしまったり、テレ笑いで誤摩化したりして、取り敢えずその場を凌いだものであるが、最近は、咬んだこと自体を“笑い”にして凌ぐ方法が一般的になっ ているように見受けられる。お客も芸人さんが“咬む”と、待つてましたとばかりに喜ぶ場合が多いようだ。〔何かをばかにした時〕に出る“笑い”が飛び出し て来るようである。こうなっては、「どーだ、ワイルドだろー」と言うよりは「ろーら、ワイルロらろー」とやった方が、受けるかも知れない。

 このようなろれつが回らないことをネタにした“お笑い”は、昔からあった。早口言葉などは今でもよく使われているようである。最近は、もう “咬む”であろうことを期待したような芸名と思われるタレントさんも出現して、司会者はちゃんと言えず、もうキャムキャム状態になって、楽しんでいる光景 も見る。

 きりがないので、もう打ち切りとするが、人を笑わせようとする場合は、それなりの準備をしておかなければならないのが、基本中の基本のようである。あとは、準備したネタを場の空気に合わせて、いろいろな手を駆使して披露することが肝要のようである。

 なお、蛇足であるが、以前大学で、学生さん相手に、駄洒落の講釈をしたことがある。と言っても、たいそうなことではない。当時、駄洒落に接すると、「さぶー」と応対するのが、お決まりになっているのか、駄洒落をとばすと必ず「サブー」とやってくれた。

 そのころ学生さんの中にも、時に駄洒落を飛ばす子がいたのだが、それがほとんど「そのまんま」というやつで、掛詞になっていない場合が甚だ 多く、小生としては、聊か気になっていたわけである。こちらの駄洒落に対しては、なにこれかまわず、「サブー」とやるくせに、君らのは、そもそも駄洒落に もなっていないのではないか、と聊かの不満があったわけである。そこで、かつて何方(どなた)であったか失念してしまったが、ある有名な噺家さんであっと思うがが、恐らくテレビで、駄洒落のいろはを教えてくれていたのを見たことがあった。

 「空地に囲いができたってねー」「へー」

というのを例に易しく解説してくれていた。

 そこで、これをパクリで伝授した。

 「空地に立派な塀ができたってねー」「カッコいー」なんて、バリエーションをちょっと変えたりして。当然「サブー」とくるのは分かっていたので、「今日は、思いっきり冷やしてやる」と前置きしてからやった。

 そうしたら、そんなこと、とっくの昔から知ってるよー、という雰囲気ではあったが、その割には彼・彼女らのは洒落になっておらず、「サブー」を連発しているばかりで、なんの面白味もないのである。

 その後、2・3日過ぎたころ、一人の女学生が、「先生、できたよー」とやって来て、

 「空地に変わった囲いができたよー」「ヘンスねー」

と言うのを持って来てくれた。やっぱり、教育って大切だと、痛感した次第であった。

 ところで、文珍師匠円楽師匠は、大学で授業を行っておられる由、どのような内容のことをご担当なのでしょうね。 若し、“笑い”に関わるようなことであれば、一度本物の授業を受けてみたいものです。〔おわり〕