《停念堂閑記》60

「停念堂寄席」51

 

「誤魔化しのテクニック

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお出で下さいました。

厚く御礼申し上げます。

本当に、よくいらっしゃいました。大歓迎で御座いますよ。

おヒマなお方、無条件に、大歓迎で御座いますから。

今日も、ヒマ潰しに、どうぞお付合い下さいませ。

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラナイの三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラナイ話で御座います。

とにかく、ヒマ潰しが、そもそもの主たる目的で御座いますから、この路線から外れないように、極力配慮して、参らなければならないのですよ。

ところで、ヒマ潰しには、擂鉢(スリバチ)と擂粉木(スリコギ)が、無くてはならない、必需品なのですよ。

まず、スリバチに、ヒマの素を適量入れまして、ヒマに任せて、スリコギで、トントン、ゴリゴリと、砕き、擂り潰していく分けであります。

極めて、単純な作業でありますが、これがヒマ潰しには、持って来いなのでございますよ。

ヒマな時は、是非是非お試し下さいませ。

すぐに、飽きてしまいますから。

但し、腹の立つことの素を入れた場合には、注意して下さいよ。

頭に来たあまり、ついつい力が入りすぎて、スリバチを壊してしまう恐れが御座いますから、ほどほどがよう御座いますよ。

スリコギを振り回して、手当たり次第に、周囲に当たりちらしては、いけませんよ。

どうぞお気をつけ下さいませ。

 

さて、本日のヒマの素は、政治家さんらがよく使う「誤魔化しのテクニック」と言うことで行きたいと思うのですよ。

まずは、ヒマの素「誤魔化しのテクニック」を、適量スリバチに放り込みますよ。

それでは、これをヒマにまかせて、トントン、ゴリゴリといきますよ。

さー、皆さんは、参りますよ。

トントン、ゴリゴリ。

 

突然で、恐縮で御座いますが。

みなさん、大ピンチに陥った事は御座いませんか?

そーですよ。あれが、あれが、バレれちゃいましてね。

もー、弁解にしどろもどろ、と言った経験は御座いませんか。

御座いませんか、なんちゅー、月並みものでは御座いません。ちゅーような事態で御座いますか。

御座います。御座います。御座いますのコンコンチキだっちゅーの。なので御座いますか。

御座います、ちゅーの。御座いますの御座候、ちゅーもんよ。ですって。

それは、それは、大層お困りのご様子で、御座いますなー。

エッ。どうなさったので御座いますかって、早く尋ねろよ。ですって。

いえいえ、今は、ちょっと、この展開では、そこまで立ち入る気分がですね。いささか、萎えている状態なので御座いますよ。

御座いますよ、なんて言ってないで、さっさと、聞けっちゅーの。で御座いますか。

御座います、ちゅーの。さー聞け。

これは、弱りましたなー。どうしても、聞かなくてはいけませんで御座いますか。

いけませんで御座います、ちゅーの。何回言わせる気だ、ちゅーの。

そこまで、おっしゃられると、もー、聞かない分けには、参らないので御座いましょうなー。

そうだ。参らないのだ、ちゅーの。さー、聞け、ちゅーの。さー、さー、さー。

それでは、参りますよ。どうぞ、お手柔らかにお願い、申し上げますよ。

トントン、ゴリゴリ。

では、どうなさいましたので、御座いますか?

・・・・・もし。どうなさいました?

どうなさいましたって、突然言われても。

何の話だったっけ。

お客さん。頼みますよ。さんざん引っぱっておいて、いまさら何の話だなんて。

さんざん引っぱったのは、あんたの方ではないの。

あんたが、四の五の言って、引っぱっている内に、何の事やら、ころっと忘れちゃったではないの。

それでは、お客さん。笑点の黄色い人と、同じではないですか。

さんざ手を挙げておいて、当てられた途端に、けろっと忘れちゃってるあの方。

否定はしないよ。かなり似ている。

だからと言って、座布団をとるなよ。

そんな。座布団など、最初から御座いませんから。

えっ。今日は、家から座布団を持参した。ですって。

そうだよ。この座布団をとられたら、帰って、バアさんに叱られる、ですって。

そうですか、そうですか。

座布団をとったりしませんから、ご安心下さいませ。

大体、座布団係の山田クンも、おりませんから。

それにしても、時間が掛かった割には、内容の方がね。

牛乳9割のアメリカン コーヒーですな。

何です。それはって、ですか。

薄いと言うことですよ。

内容が、無いと言うことですよ。

そりゃー、内容は、ナイよー。

内容は、ナイよー、って、駄洒落で御座いますか。

まさか、まさか。こんなペラペラの駄洒落のために、ここまで引っぱったのではないでしょうね。

それは、ナイよー。

内容が、薄くても、十分役に立ったろう、ですって。

そうだよ。たったこれだけのことで、それなりに、ヒマ潰しになったでしょー。

って、ですか。

それは、ナイよー。

 

と言う分けで御座いまして、実に、バカバカしい話で御座いました。

 

準備運動は、これくらいに致しまして、それでは、本題に移ることに致しましょう。

トントン、ゴリゴリ。

さて、世の中には、色々な方がいらっしゃいますな。

いつも穏やかで、にこやかで、実直で、親切で、まさに今ここにおいでになっていらっしゃられるような方などは、どなたにも好まれる、望ましい存在で御座いますな。

・・・めったには、おりませんが・・・。

 

これとは正反対で、いつも乱暴で、怒っていて、嘘ばっかりついて、不親切で、「停念堂閑記」などには絶対においでになられないような方などは、どなたにも好まれない、嫌われ者の困った存在で御座いますなー。

・・・よくお見かけ致しますが・・・。

ここでは、テレビの国会中継で良くお見かけする、一見、穏やかそうで、真面目そうで、国民の為に身を粉にして働くような素振りで、立派そうなことをおっしゃいますが、実は、そうとは限らない正反対の方々の、ものの言い方、表現のしかたに、注目してみますよ。

トントン、ゴリゴリ。

まず、手始めに、明確にハッキリしたものの言い方から、段々ハッキリしないものの言い方になる例を見てみますよ。

たとえば、事実をハッキリと言う例は、次のようですよ。

「私は、リンゴを、食べた。」

この文章は、「私は、リンゴを、食べた。」と言うことを、明確に表現しおりましてね。私は、リンゴを、食べたと言う以外の解釈のしようがない、事実を明確に表したもので、御座いますな。

若し、これが、「私は」の部分、すなわち主語を示さず、「リンゴを、食べた。」では、一体、誰がリンゴを食べたのか、明確でなくなる分けですな。

時に、最初から計算づくで、わざと主語を明白に示さない話し方をする方がおりますな。

主語を明白に示さないと言うことは、解釈を複雑にする、表現上のテクニックの一つなのですよ。

話の持っていきようで、太郎さんが食べたことになるかも知れないし、花子さんが食べたことにされるかも知れないのです。

すなわち、話の成り行きで、どうとでもされてしまう可能性があるのです。

ですから、大事な話の時には、主語をキチンと確認しながら、話を進める必要が御座いますよ。

トントン、ゴリゴリ。

次に、リンゴの部分について、「リンゴ」と言い切ってしまえば、食べたのは、「リンゴ」以外には無いと言うことになりますが、ここをぼやかして言う表現方法が御座いますよ。

たとえば、「リンゴ」と断定せず、「リンゴらしきもの」とか、「リンゴのようなもの」、「リンゴと思われるもの」、「リンゴみたいなもの」などと表現すると、リンゴの可能性はありますが、リンゴに似た他のものの可能性が含まれて来るわけです。

すなわち、曖昧な解釈ができるようになるわけですな。

これが、話の持っていきようで、「リンゴ」の部分が、いつのまにか「フルーツ」と表現されるようになり、さらに「フルーツ」から「スウィーツ」へと転化して、「モンブラン」となり、「モンブラン」から、図らずしも「栗」の話となって、見事に「リンゴ」が「栗」に変身してしまったりすることが御座いますからね。

このような事を、意図的に目論む方がおられるのですよ。

この間も、話が縺れてきたあたりになって、「加計学園」を「今治市」に変えてしまった方がおりましたよ。

自分の都合の良い方向へ、平然と話を変えてしまおうとする方は、しょっちゅう見られますな。

目的語をぼやかしに掛かってくる方には、気をつけましょうね。

とりあえず、「・・・のような」とか、「・・・みたいな」「・・・らしい」「・・・と見られる」なんていう、目的語をぼやかしたがる族には、十分要注意ですよ。

トントン、ゴリゴリ。

それから、人を誑(たぶら)かそうとする族の大好きな表現方法は、述語を断定的に使用しない、と言うのがありますよ。

「私は、リンゴを、食べた。」と表現してしまえば、後になって、何かの都合で、食べていない方が具合がいいと言う情況が生じた場合に、「食べていない。」とは、言いづらくなってしまうのですよ。

もっとも、質の悪い政治家さんは、以前に、「私は、リンゴを、食べた。」と言っておきながら、それは記憶違いであった。良く記憶を辿り直したら、食べて無かった。などと言う方が、珍しくは御座いませんが。

これは、表現に掛かる解釈の仕方で、何とか自分に都合の良い情況に持ち込もう、と言うのではなく、嘘をついて、人を騙しても、自分の都合の良い情況にしようと言う、厚かましくも、図々しいやり方にほか御座いませんな。

述語の使い方については、「・・・のようである。」とか、「・・・みたいなようだ。」「・・・らしい。」「・・・と見られる。」と言う類の表現を使う場合は、後で、責任を問われる事態になった場合などを、予め想定して、最初から予防線をはっている分けです。

「・・・です。」と言うのは断言ですが、「・・・と考えられる。」とか「・・・と思われる。」と言うのは、断言していない表現方法で、後で、全く違う解釈が出来うる場合があるわけです。

後で、責任問題が発生するかも知れないような事柄については、このような述語の使い方を最初から施しておく、と言うのが、官僚政治家の表現方法として、一般的にとられていますなー。

と言うように、「とられています」と断言すると、後で、おまえは、「官僚政治家の表現方法として、一般的にとられています」と言い切ったな、などとクレームを着けられると、都合が悪いので、そうは持っていかず、「一般的にとられているように聞いています。」などと表現した方が賢明のようですなー。

そうすれば、私が言ったのではなく、私はそう言うことを聞いたことがある、と言うことになり、責任を問われなくなる、と言う事なのですよ。

「私は、リンゴを、食べた。」と断定的に表現しては、後で、ツブシが効かなくなるので、要領の良い方は、主語を省き「リンゴらしきフルーツを、食べたような気がすることもある。」などと言う曖昧な表現をとっておけば、ひょっとして、リンゴを食べたことについての責任回避が可能となるかも知れませんな。

トントン、ゴリゴリ。

しかし、官僚も時に、ヘマをやることがあるようですな。

先日、南スーダン国連平和維持活動(PKО)に派遣された陸上自衛隊部隊の「日報」問題の特別防衛監察の調査結果が公表されましたが、自衛官から防衛大臣に、「日報」の保管の有無について、防衛大臣へ報告されたか否かの疑問について、報告された可能性を否定出来ない。と言っておきながら、その後段で、書面などによる報告の事実は認められない。よって、防衛大臣へ報告された事実は無い。と言うような表現をして、物議をかもしていましたな。

前段で、報告された可能性を否定出来ない、としておきながら、後段で、報告された事実は無い、と断定したので、それは何じゃ、と言うことになったのですなー。論理が一貫しておらず、矛盾した表現になっているわけですな。

要は、防衛大臣へ報告された事実がある、とするのか。そのような事実は無い、とするのか。あるいは、その事実は、明確でない、とするのか、といった当りの明確な判断が、出来ていなかった、と言うことなのでしょうな。

トントン、ゴリゴリ。

それから、ぼやかしのテクニックとして、最も一般的に使われるのが、「など」「等」を予め付しておいて、特定されては都合が悪い場合に、何でも適用できるようにしておく、と言うやりかたがありますなー。

「リンゴと梨と柿」と限定してしまっては、後で、具合が悪くなるかも知れない、と思われる場合は、「リンゴと梨と柿等」と「等」の一字を付けておけば、この三種に限らず、ブドウも栗もカボチャもサツマイモも、要するに、何でも彼でも、ぜーんぶ対象とする解釈ができることになる、と言うわけですな。官僚の作文の冴えたる例とされてますなー。

トントン、ゴリゴリ。

主語や目的語を特定せず、ぼやかしておくとか、述語を断定的表現にしておかない、と言うやり方は、後で、なにか問題とされた場合に、解釈がどうとでもできるようにしておくテクニックですな。言い逃れのテクニックですな。

このような表現を好んでする人は、責任をとりたくありませんよ、と言っているに等しいですな。

こんな人は、信用出来ない場合が多く、責任問題になると、のらりくらりとハグラカしてしまう人なので、注意しましょう。

トントン、ゴリゴリ。

次に気に掛かるのは、話の中核をぼやかす手法です。

話題の中心となることを議論し続けると、どうも具合が良くない、と感ずる人がいます。

その時は、話を中核から次第に遠ざけて、自分に不利にならないようにする。と言う手があります。

たとえば、話の成り行きで、どうも自分に責任があるとされて、謝罪しなければならない雰囲気となってしまった。

しかし、自分としては、率直に謝罪するのは、立場上まずい。と言う時に、話の中核は、謝罪することにあるのだけれど、これをどうにかして、謝罪しなくて済む方向へ展開しようとするのですよ。

よく見られるのは、謝罪をすると言うことは、端的に言えば、「どうも済みません。」と言って、頭を下げることですが、このようにはせず、「私としては、甚だ遺憾に思っております。」などと言う表現をとる事です。

要するに、自分としては、このような事態になってしまったことに対しては、甚だ残念に思っている、と言う意志を表し、頭を下げずに、終わらせてしまおうと言う方法です。

要するに、核心が、済みませんと言うことにあるのを、残念だと言う方向にすり替えてしまう方法です。

トントン、ゴリゴリ。

このように、問題を他にすり替えて、不都合な事態を乗り切ろうとする方法があります。

国会における質疑応答には、頻繁に見られるようですなー。

当該問題について、正面からまともに取り組んでは、具合が悪い。議論の中核となっている点を、兎に角、議論から遠ざけ、違うものにしようとしますな。

最近でも、数々御座いますよ。

例えば、先ほど取り上げました、南スーダン国連平和維持活動(PKО)に派遣された陸上自衛隊部隊の「日報」の問題がそうですな。

そもそもの問題は、派遣された自衛隊の活動している現場が、大砲や鉄砲の玉などが飛び交っている情況なのか、どうか、と言うことにある訳です。

それが、「日報」に「戦闘」と言う言葉で表現されていた。と言うことが、明るみに出て、問題化した分けで、普通「戦闘」と表現されれば、そこは、まさに弾丸の飛び交う戦場であり、自衛隊派遣してはならない地域なのですよ。

となると、そのような地域に自衛隊派遣たことに対する責任問題が浮上する分けですし、その前に、そのような地域から自衛隊を、早急に撤退させなければ、と言う判断に迫られる分けです。

このような事態に、稲田防衛大臣は、「戦闘」と言う言葉を使うとまずいと判断して、「衝突」と言う言葉に置き換えて、事態を押さえようと企図したわけですな。

言葉のすり替えで、法律上生ずるかも知れない、不利な事態を逃れようとしたわけですな。

もっとも、この場合は、すり替えにもなっていませんがね。

「衝突」の中身には、弾丸が飛び交っている可能性を含んでいますからね。

とりあえず、第1には、この「戦闘」と表された現場の情況が、弾丸の飛び交う、要するに戦場であったのかどうか、と言う、基本的な問題があるわけですな。

それから、稲田防衛大臣が、「戦闘」ではまずいと判断して、「衝突」へとすり替えたことが、正当であったか、どうかと言う、第2の問題が発生したわけですな。

更に、ジャーナリストが、この「日報」の公開を要求したのに対し、防衛省側が、すでに存在しないとして、公開に応じなかったことが、第3の問題として発生したわけです。

機密の保持上、公開出来ないとするのではなく、当該「日報」は既に存在しないので、公開出来ないのだ、としたのが、まずかったのでしょうね。

ここに及んで、当該「日報」の存在確認の要求が強くなり、調査の結果、存在していることが明らかになったのですな。

ところが、当該「日報」の存在が明らかになったけれども、これを公開すべきか否かと言う問題は残っていたのですよ。

そこで、防衛省側では、当該「日報」の存在すること、および公開することはしないことにしたいと言うことを、稲田防衛大臣へ報告した、と主張しているのですよ。

ところが、これに対して、稲田防衛大臣は、はじめ報告を受けなかったとは断言せず、報告を受けた「認識」は無い、と言う的をづらせた私的な見解を述べたのですよ。

くだいて平易に言うと、報告を受けた、受けていないの事実には触れず、私は受けたようには思っていない、と言う自分の受け止め方を明らかにした、と言うことなのですな。

この意味不明瞭な認識という語の使用で、事態が明確を欠くことになったのが、第5の問題発生となったのですよ。

その後、稲田防衛大臣は、報告を受けていない、と言うことで、乗り切れると言う判断を示すようになりになりましたがね。

トントン、ゴリゴリ。

「日報」で「戦闘」と表された現場の情況が、弾丸の飛び交う、要するに、自衛隊派遣してはならない戦場であったのかどうか、と言う、基本的な問題と、稲田防衛大臣が、「戦闘」ではまずいと判断して、「衝突」へとすり替えたことが、正当であったか、どうかと言うことが、本来的な問題の核心なのですよ。

この問題の本質は、稲田防衛大臣の資質に関わることで、「戦闘」を「衝突」に置き換えることで、法律的な責任の回避が出来るのではないか、と言うことから来ているように感じられるのですよ。

分かりよく言えば、口先で事態の本質を誤摩化そうとしていることに他ならないのではないか、と言う事です。

「戦闘」と表されようが、「衝突」と表されようが、その実態は同一のものなのですよ。

「戦闘」を「衝突」に置き換えれば、弾丸が、派遣されている自衛隊を避けて飛んでくれるとでも言うのですか、と言うことですよ。

国会では、当該「日報」の存在の有無にすり換えられ、有った、無かったの議論に多くの時間を費やす事態となり、さらに、「日報」の存在が明らかになった後には、その存在を稲田防衛大臣に報告した、報告されていない、と言ういわば枝葉の議論にすり替えられて、南スーダン自衛隊派遣されている現場が、銃弾の飛び交う戦場なのか、否かと言う中核となる判断についての何ら実のある議論がなされないまま、時間がきたので、国会は閉会します。と言う事で、阿倍政権は片付けてしまおうと企んだのですよ。

トントン、ゴリゴリ。

それから、言葉の持つ意味を、自分の都合の良い方向へねじ曲げる方法もよく見られるところです。

たとえば、問題にされている事態に対して、説明責任をとるように迫られた時に、核心を外した説明をたらたらと長ったらしく行い、こんなに長い時間を掛けて説明した、と頑張る方法です。

そして、説明をした。説明したのだから、説明責任を果たした、と主張するやり方です。

これは、しょっちゅう行われますな。問題の核心になっている点を具体的に説明し、明確にすることが目的で、これを説明責任として望んでいるのに、核心にかかることを外し、ただただダラダラと愚にもつかない説明を行って、説明はした、説明をしたのだから、説明責任を果たした、とする手法ですな。

トントン、ゴリゴリ。

最近これと似た手法をとり始めたことが御座いますよ。

これが「丁寧」に説明する。と言うヤツですな。

「丁寧に説明する」とか「丁寧に取り組む」なんと言う表現は、表面的には、中々耳触りが良く感じられるものです。

丁寧と言うことは、通常は、「細かなところまで気を配り、入念にする」とか、「言動が礼儀正しく、配慮が行き届いている」と言った意味合いで使われる言葉です。言動の対処の仕方についての事でありますなー。

気をつけて下さい。話の内容について、言っている事では無いのですよ。

言動の仕方と話の内容は別物なのですからね。

例えば、「この卵を、割らないように、細かなところまで気を配り、慎重に取り扱って下さい。」と言うのが、「この卵を、丁寧に扱って下さい。」と言うことで、この卵が、新鮮なものか、腐っているのかについては、丁寧に扱うことに含まれていないのです。

すなわち、話の内容を伝える態度として、自分の不利にならないように、細かなところまで気を配って入念に行い、且つ、話方については、失礼の無いように、十分配慮を行き届かせる、と言うことが、安倍総理の丁寧に行う、と言う本当の意味するところなのです。

話の内容は、くれぐれも自分の不利になることには触れず、自分の都合が良くなるように、細心の配慮し、入念に行う、と言うことなのですね。

トントン、ゴリゴリ。

ところが、これを勘違いする人がいるのですよ。

丁寧に行うと言うことは、事実を具体的に有りのまま正直に話すと言うように、勝手に解釈してしまう人がいるのですよ。

コッチは、話の内容についての事と決めつけている分けです。

しかし、片方は、言葉を選んで、失礼が無いように、興奮せず、声を荒げず、にこやかに、そのような態度をとると言うことに専念すると言う分けです。

すなわち、丁寧に取り組むといえば、事実を具体的に正直に有りのままに話すと言うように解釈する愚かな人がいるであろう事を、予め想定して、丁寧に取り組むと表現しているのですね。

ですから、国会の閉会中に、特別に委員会を開催して、参考人を呼んで、加計問題について、いくら野党が事実を具体的に正直に答えろ、丁寧に対応すると言ったではないか、と迫ったところで、肝腎の話の核心については、一向に具体的とはならず、以前と大差ない結果に終わってしまうのですね。

答弁する側は、言葉を選んで、失礼が無いように、興奮せず、声を荒げず、にこやかに、以前と変わらない事を、何度でも丁寧に、繰り返すだけなのですよ。

丁寧になんと言うマヤカシの表現にひっかからず、嘘をつかず、本当の事実を具体的に、証拠を上げて説明せよと、迫れば良いのですが、お門違いの丁寧な手法に翻弄されるだけなのですね。

トントン、ゴリゴリ。

意味不明の事を言って、誑かす方法がございますな。

閣僚が、相次いでドジの連続、と言うか、そもそも資質に欠ける人が、要職に着けられたので、能力が追いついていかない事の続出と言うことですな。

それに加えて、その任命責任者である阿倍さんご本人の資質が問われる事が連続的に発生し、ために、阿倍内閣支持率は、急降下するところとなり、大慌てですな。この事態に対処して、内閣改造に踏み切らざるを得なくなりましたな。

ここに及んで、阿倍さん得意の誑かし作戦に出ましたな。

なんと、組閣をし直して、「人心一新」を図ると、公言したのですよ。

人心とは、分かりよく言えば、国民の心・意志のことですな。

一新とは、分かりよく言えば、今迄のことを取りやめて、全て新しくする、と言うことですよ。

すなわち、阿倍さんは、内閣改造によって、国民の考え方を、全て新しくする、と意気込んで見せたのですわ。

一新」なんて聞くと、まず、思い起こされるのは、200数十年続いた徳川幕府が倒れ、いわゆる明治政府へとかわった、あの「御一新」、すなわち、明治維新ですなー。あのような変革によって、まさに「人心一新」がなされたのですよ。

これが、たかだかヘボ大臣の首をすげ替えるだけで、「人心一新」をはかると、ぶち打ち上げたのですよ。

どの顔で、万事丁寧に取り組むと言ったのですかね。

ポカーン。明いた口が、開きっぱなし。何だこりゃ。ですよ。

言いたい放題。謙虚さは微塵も感じられませんなー。

とんだ丁寧ですなー。

トントン、ゴリゴリ。

普通、失敗続きで、改造を余儀なくされた内閣が、新たな顔ぶれで出直す場合は、「心機一転」気を引き締めて、とかなんとか自戒を込めて、謙虚な姿勢を示すものでしょう。

それが、なんと、まさに御上が、「人心一新」を図る、と言い放っているのだから、もー、何をか況んやと言うほか御座いませんな。

何様になってしまわれたのでしょうかねー。

民主的独裁制(民主的選挙で選出された者が、独裁者的になってしまった状態のこと)になってしまったのですかねー。

まさか、「阿倍一強。阿倍の後は、阿倍しかない」なんて言う、メディアの世辞を鵜呑みにしているのではないでしょうなー。

大体、前内閣支持率の低下のそもそもの原因は、安倍さん自身の人品、いわば不誠実なのぼせ上がった言動に、国民が嫌気を表した、と言うことですよ。だから、内閣を改造するのであれば、まずは、内閣総理大臣が交代しなくては意味がないわけでしょー。そこが、核心の部分なのですから。

新たな組閣も、ヘボは交代させなければならなかったのは当たり前で、その後釜を担った面々の多くは、因循姑息の香り豊かな旧態依然自民党の古狸ですよ。もー、これ以上、ボロを出して欲しくない、の一点に絞ったような組閣ですな。

中核となる骨組みは、これ迄と全く変化なしでしょう。新鮮味は、ゼロですな。

どの辺りが、「人心一新」と言うことなのですかねー。ホント。

「人心一新」なんて、実に分けの分からないことを打ち上げて、国民を煙に巻いて、誑かそうとするのが、阿倍さんの常套手段ですなー。

最初は、「美しい日本」をつくる、なんて、分けの分からないことを打ち上げましたなー。

現在も基本的には、この方向を邁進しているのでしょうな。

どこが、分けが分からないのか、と言うと、「美しい」の内容が、何なのか、と言うことですよ。

「美しい」のは何か、どう言うことなのかと言うことが、具体的にさっぱり分からないのですわ。

そして、最も困った事は、阿倍さんが美しいと認識していることの内容と、一般国民が美しいと認識することが、一致するのか、と言うと、どうもかなりかけ離れているのではないのか、と言う事ですわ。

例えば、憲法の解釈を改め、自衛隊によるアメリカ軍の後方支援を法的に是としましたな。

同盟国軍の支援を強化する友情厚き日本は美しい。と言うのが、阿倍さんの美しいの中身のようですなー。

世界に誇れる戦争放棄をうたった日本から、脱却しましたな。

これが、美しい日本になって来た、と言うことなのですかねー。

親友が経営する加計学園に、獣医学部開設を特別の計らいで認可しましたなー。厚き友情は、実に美しい。と言うのが、どうも阿倍さんのおっしゃる美しいの中身のようですなー。

戦後の歴代政権は、世界における核兵器の存在を、頑に非難し、核の根絶を叫んで来ましたね。

これが、阿倍政権では、核兵器根絶の世界声明に加わることを拒否しましたよ。

事情によっては、核の保有も致し方ない、という方向を示しましたよ。

これに対して、日本の国民は、殆ど無反応でしたなー。

段々、阿倍さんの目指す、美しい日本になって来てますよ。

小難しいことには、首を突っ込まない、美しい日本の国民達、と言った感じですね。

阿倍さんの最大の狙いは、憲法を改める、と言うところに有るようです。

改正なのか??? 改悪なのか!!!

これを行って、ようやく、阿倍さんの目指す、「戦後レジーム」を脱却して

美しい日本ができるらしいですな。

本当かよ ???

トントン、ゴリゴリ。

ム! 何かおかしかないかい。

なんだか、美しい日本だとか、丁寧に対応するとか、人心一新とか、一見耳触りの良さそうなことを言い触らして、何だかだやっている内に、段々、戦場に近づいてきている気がしませんか。

戦争は、いやでしょう。

中東の戦場となっている街中で、逃げ惑う子供達の画像を見て、誰しも、あのような現場に生まれ育たなくて良かったと感ずるでしょう。

日本に生まれて、本当に良かった。と思うでしょう。

戦争の賛否に、理屈は不要ですよ。殺し、殺されるのは、兎に角、嫌でしょう。理屈を捏ねる必要は御座いませんよ。

日本が世界に向かって、胸を張って、言えることは、日本はもう戦争をしないのだ、と言う、戦争放棄宣言なのですよ。

これは、太平洋戦争で、犠牲になった敵味方の多大な命の上に築かれた、戦争には負けたが、その結果として得た、最大の財産なのですよ。

と、どなたかが、言っておられましたよ。

これを、何だかだ屁理屈をつけて、崩しに掛かっている政治家の存在が、気に掛かりはしませんか。

時々、そのような連中を、スリバチに放り込んで、トントン、ゴリゴリしなくては、ダメなようですなー。

誤摩化しのテクニックに、ひっかかっては、いけませんよ。

それでは、放り込みますよ。

そーれ。ドバッと。

思いっきり、トントン、ゴリゴリ。トントン、ゴリゴリ。トントン、ゴリゴリですよ。

興奮して、スリバチを壊さないで下さいよ。

 

どうもお疲れさまで御座いました。

またのお越しを、お待ち致しております。

お後が宜しいようで。