《停念堂閑記》66

「日比憐休独偏記」1

 

「ジジイ放談 1 教育」

 

本日は、ようこそのお運びで、厚く御礼申し上げます。

早速で御座いますが、今日は「ジジイ放談」と言う演題でやらせて頂きます。

言うまでもなく、お分かりの通り、年寄りの「爺(じじい)」と今の出来事の「時事」を掛けましてね、駄洒落をやろうかと思っていたのですが、すぐに、ネタ切れになりそうなので、「ボヤキ」に致します。

「ボヤキ」はいいですよ。なんぼでもありますから。ネタは尽きません。

いささか、いやみったらしくなって、恐縮で御座いますが・・・。

私事(わたくしごと)から近隣の地域、日本から世界を股に掛けて、「ボヤキ」のネタは、なんぼでもありますな。無尽蔵です。

ネタがやたら豊富ですからね。これはこれで気をつけなくては、収集がつかなくなる恐れがありますから、何かに焦点を絞ったほうが、要領よくできそうで御座います。

と言うことで、はなはだ勝手ながら、最も身近な「教育」で、「ボヤキ」たいと思う次第でございます。

大体、「教育」なんて事をテーマに据えると、面白可笑しい話になるのか、堅苦しー、面白くもねー話になるのではないのか。

多分そのように思われるでしょうね。

まさに、そのとおーり。

今日の話は、ハッキリ言って、面白くありませんよ。

と言うと、何時ものは、面白いのかね。

とたちまち反撃を受けてしまうのですが。

今日のは、間違いなく、面白くないですよ。

時々、マジメに陥ったりするのではないか、と言う心配があるのですよ。

しかし、ですよ。基本は、あくまでも娯楽、寄席でのお笑いですから、所詮、定年後の古いタイプの半ボケのリタイアジジイの戯言(たわごと)と、笑い飛ばして頂ければ、と思う次第でございますよ。

できるだけ、アホ・ボケ路線に配慮致しますから。しばし、どーぞお付合いの程をお願い申し上げます。

それでは参ります。

 

さて、3月は、卒業式のシーズンですな。

幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学と卒業も色々ですが、いずれも人生の節目ですな。

それぞれのレベルで、色々と感じたり、考えさせられたりするところがあるのでしょうな。

卒業式と言えば、昔は,「蛍の光、窓の雪、文読む月日重ねつつ・・・」というのが定番でしたな。今でも「蛍の光」歌うのですかね。

この歌詞は、夜の暗い時には、蛍の発する光や雪に反射して窓から差し込む月の光を頼りに、文(ふみ)を読んだ。すなわち、勉強をした、と言うことですよ。苦学の代表例ですよ。

先生からは、このように、苦労をしながら勉強をした人がいたのです、と教えられた様に記憶しますな。

しかし、本当ですかね。

蛍の光、窓の雪灯りで、文(ふみ)読めますか。

大体、蛍は何処にでもいるとは限りませんよ。

その上、1匹や2匹の灯りでは、たかだか知れてますよ。

しかも、点滅しますからね。光った瞬間に、瞬(まばた)きしようものなら、アウトですよ。次ぎの点灯を息を凝らして、ジーッと待たなくてはなりませんよ。酸欠状態に陥りますよ。

これを解消するには、蛍をものすごくいっぱい捉えなければなりませんよ。

もー、蛍の争奪戦が展開されますよ。

でも、心配は不要です。誰も、それまでして、勉強しようと言う子供はいませんから。

蛍、知ってますよね。飼育が難しいのですよ。

小さい頃、蛍をとってきて、夜、蚊帳の中に放して、楽しんだことがありますが、翌朝には、死んでますよ。

雪だって、降らないところは、いっぱいありますよ。

ねー、沖縄の方々はどーします。

夜は、いくら勉強したくても、環境が整っていませんよ。

窓の雪なんて言われたって、どーすれば良いのです。

カキ氷並べたって、明るくなりませんよ。

別の角度からすれば、沖縄はいいよなー。

夜は勉強しなくていーらいしいよ。と言うことになってしまいますよ。

幸か不幸か、私は、蛍がいて、雪も積もるところで、生まれ育ちましたよ。

しかし、ですよ。蛍の光、窓の雪をやった経験は、全くありませんよ。一度も。

蛍の光、窓の雪・・・」は、全く、実感が湧きませんな。

まして、今の子供ではね。

なんのこっちゃー、ですよね。きっと。

ケータイの光、スマホの灯りと言ったところですかね。

どーでしょう。こんなタッチで。アホ、ボケ路線になってますかね。

 

それから、すぐに、4月になると、今度は入学式。

ねー。新入学のピカピカの1年生。

いーですね。それよりもっとピカピカの付き添いのお母さん。光ってますよー。

先日、某所の小学校の卒業式風景を、某テレビ局で放映してましたけれど、今時の卒業式の現場は、スゴイことになっているのだなー、と感じましたね。

まー、日本の一般的な慣例としまして、七五三の時には、可愛く着飾って、お宮参り、と言うことが行われておりまして、微笑ましく見えますな。

ところが、小学校の卒業式は、これに輪をかけたような、ド派手さになっているところがあるのですな。どこでも、と言うわけではないのでしょうが。驚きですわ。

我が子の一世一代のイベント、と言うことなのでしょうか。

男の子の羽織袴姿。

落語家だって、あのド派手さは、ありませんよ。

黄色い着流し姿の方(かた)は、よくお見かけしますが。あの程度止りですよ。

実は、私、大ファンなんですよ。スットボケがお上手ですよね。

黄色を身に着けると、やっぱり、あのキャラになってしまうのですかね。

はたまた、本来あの手のキャラの方(かた)には、黄色がピッタリなのですかね。

相乗効果があるのでしょうな。

男の子の原色系の羽織袴姿。

言ってはなんですが、思い切って、言ってしまいますか。

 

まるで、赤青黄色の信号機。

当然、付き添いのお母様も、お揃いで。

交通安全のキャンぺーンのオーデションかと、間違えますよ。

 

あのー、勘違いなさらないで下さいませ。

批難しているのではありませんよ。

悪いと言っているのではありませんから。

ありのままを、表現しただけですから。

どんな装いをしようが、日本は、自由な国。

表現の自由は保証されていますから。何ら問題はごだいません。

私のほうも、言論の自由表現の自由が保証されているので、ぬけぬけとこのように表現できるわけでして。

しみじみ自由は、いーですな。

くれぐれも、勘違いなさらないで下さいませ。

ド派手な衣装が悪いと言う評価をしている訳ではございませんから。

 

強いて表現すれば、とおーに旬を過ぎた、ふるーいタイプのリタイアジジイの嘆き的ボヤキですから。

今のお父さん・お母さん、あるいは、ママ・ハパの多くは、ご自分の卒業式には親御さんにそのようにしてもらい、あの忘られぬ感激を我が子にも、と言う事情なのですかね。

あるいは、事情があって、自分はして貰えなくて、残念な思いが残った。そのような思いを我が子にはさせたくない、と言う、精一杯の親心と言う事情もあるのでしょうか。

きっと、色々とご事情がおありなのでしょうね。

前に、言いましたように、どんなにド派手だからと言って、それを咎めている訳では、御座いませんよ。自由にやって頂いて、結講なのですよ。

 

強いて、結論的なことを言わせてもらえるならば、一つの現象として、それらの事から、どうも最近は、社会全体の傾向が、極端な表現をすれば、幼稚化してしまっているのではないのか。また、幼稚化の方向へどんどん進んで行っているのでは、と感じて、それを嘆き、ぼやいている訳ですよ。

社会全体が、「カワイー!」で、動いているような気がしたりするのですよ。

あのー、これは、私の独断と偏見ですからね。

気になさらないで下さいませ。

 

ちょっと、違う例になりますが、某所の議員さんが、経費の使用を巡って、不正の疑惑がもたれ、弁明の記者会見の場で、これまで例のないような、だだっ子の泣き叫び状態を呈しましたよね。

公職選挙法に則って、選出されて来た議員さんがですよ。

就学前の幼児が、自分の思い通りに行かない時に、駄駄を捏ねているのと、全く同レベルですよ。それ以下かも。もう、何とも評しようがありませんな。

また、その裁判の時の傍聴を希望して集まって来た人・人・人。これまたスゴイ数だったですよね。

裁判の性格としては、たいして興味が持たれるもののようには、思われませんでしたよ。不正使用を認めるか、否認するか、ですからね。

それに、あの人数が集まるのですよ。何を期待して集まったのか、と言うと。まー、それぞれのご事情がお有りなのでしょうね。

とは、思いますよ。しかし、しかし、ですよ。

もし、泣き泣きジダンダのあのシーンよもう一度、と期待して集まったとしたら、もはや、ドッチもドッチですなー。双方、良い勝負ですよ。

まー、日本は、自由な国だから、いーですが。

 

他にも、例に事欠きませんよ。

スマホゲームの熱中さ加減。電車の中の情景を見ると、実に、あの熱心さには感動させられますな。

座席の光景が、みーんな同じ。画一されたゲームマシーンのようですな。

ヤヤッコしい現実から逃れられて、自分の好きな世界に没頭できるのが良いのでしょうかね。

こちらも、見ように依っては、就学前の幼児が、好きなオモチャに没頭している光景そのものにみえますな。

私の独断と偏見ですから。気になさらないで下さい。

いーんですよ。全然気にすることは無いのですよ。日本は、自由な国なのですから、スマホに没頭したって。単なる、とおーに旬を過ぎた、賞味期限を過ぎた、ふるーいタイプのリタイアジジイのヒガミ、嘆き的ボヤキなのですから。

 

それから、よくある短絡的な犯罪。身勝手と思える親による幼児への虐待。大人の行為とは、到底思えないことが起きてますなー。

言ってしまえば、まだ、世間的・社会的判断の出来ない幼児の行動と大差ありませんなー。

当然、すごくしっかりした方々は、沢山おられますよ。

蛇足乍ら。念のために。これは、独断と偏見の所産ではありませんから。

えっ、嫌味に聞こえる、ですって。

バレちまったんでは、しようがありませんな。

ジョーダンですよ。ジョーダン

と言うのが、ジョーダンだったりしましてね。

本当に、本当に、ジョーダンですから。

どうです。こんなタッチで。

エッ、ダメ。

ダメって言われても、もー、言っちゃいましたからね。

聞かなかったことにしてくれって、お願いするよりないですね。

お気にさわられたお方は、すぐさま、聞こえなかったことにして下さいよ。

頼みますよ。ホント。

 

しかし、この一般的とも思える、社会の幼稚化現象

一体、どうしてしまったのですかねー。

思うに、思うにですよ。

ひょっとして、教育に問題があるのではないのか、と思われるのですよ。

教育と言うと、すぐに学校教育を思い浮かべる方(かた)が多いかと思いますが。

学校教育も、言うまでもなく、大事なのですよ。

しかし、その前段階の、親による教育、家庭内教育、社会教育などと言われる存在の教育があるのですよ。

学校教育は、修学年齢に関わる、一定期間の教育ですが、親による教育、家庭内教育、社会教育などは、年齢、地域に関わらず、絶えず存在しますからね。実に大切なのですよ。

 

ちょっと、マジモードに陥ってきましたかね。

少しの間、我慢して下さいよ。トイレに行くのも、ちょっとだけ、我慢して下さいよ。

失礼。トイレは我慢しないで下さい。すぐに、行って下さいよ。

身体に悪いですからね。そこのドアを出まして、少し行った右側ですから。

あのー、場所によって、違いますからね。

何時でも、何処でも、ドアを出た少し行った右側とは限りませんよ。

幾ら行っても、右側になんぞ無かった、と言われましてもね。

その場、その場で、適切に判断して下さいよ。お願いしますよ。

この場での幼稚化は、お漏らしとなりますからね。

こりゃまた失敬。聞こえなかった事にして下さいよ。

 

とにかくですね、人格形成には、教育が大切だと思うのですよ。

まず、個人の誕生から順を追ってみますと、誰かが、何処かで誕生したとしますと、その後の展開は、色々なケースがあろうと思われますが、ごく一般的な場合を想定しますと、まず、その赤ちゃんは、父親と母親およびその系統の方々の遺伝子を引き継いだ存在となるのでしょうね。

すなわち、特定の個性を有した1個体として、存在することになった訳でしょうね。

早い話が、特定の性格を持った、赤ちゃんが存在する事になった。と言うことですよ。

生まれた段階では、既に、ある性格を持っているけれども、まだ、その環境からの影響、すなわち、学習をした状況ではないのでしょうね。

早い話が、まだ、教育を受けた状態では無い、と言うことですわ。

しかし、その赤ちゃんは、生まれたとたんに、いわゆる五感を通して、色々なことを覚えていくのでしょうね。

すなわち、学習を開始することになる訳ですよ。

初めの内は、なんでもかでも、とにかく、五感を通して、覚えて行くのでしょうな。

この状態の時から、特別な事情がなければ、一番多く関わるのが、一般的には、母親と言うことになるのでしょうね。

すなわち、赤ちゃんは、まずは、母親から、色んな事を学習して行くのでしょうな。

意識していようが、してなかろうが、教育的観点からすれば、母親がまずは、その赤ちゃんの先生なのですよ。きっと。

もー、手当たり次第、なんでも、母親を通して、赤ちゃんは、学習して行くのでしょうね。

おっぱいの感触を覚え(触覚)、お乳を味わい(味覚)、その匂いも覚えて(臭覚)、そして、当然母親の声も覚えるでしょう(聴覚)。そして、間もなく、目が見えるようになって、母親の顔を覚えることになるでしょう(視覚)。

私も、成長したら、この顔になるのかな ? 

ご安心下さい。カワイー。と大喜びしますよ。たぶん。

 

要するに、赤ちゃんは、触覚、味覚、臭覚、聴覚、視覚の五感を通して、何でも、どんどん覚えていくのでしょうね。

その最初は、とにかく、母親を通して、色んな事を覚えるのでしょうな。

母親は、その赤ちゃんの最大の先生ですからね。

その内、きっと、父親も関わってくることになるわけですね。

イクメンも見られるようになってきましたからね。

すなわち、親による教育が展開されることになるわけですよ。

人は、まずは、親による教育の場で、最も基本的なことを身につけて行く事になるのでしょうね。これは、否応無しに、そのようになるのが、一般的なのでしょうね。

そして、長男、長女の場合は、先輩兄弟姉妹からの教育を受ける事はできませんが、次男、次女以下であれば、先輩兄弟姉妹からも、大いに教育され、色んな事を覚えていくのですよ。

先輩兄弟姉妹は、すぐにチョッカイを出してきますよ。

ツッツイたり、ヒッパッたり。

更に、ジイちゃん、バアちゃんと同居している場合は、これまた、ジイちゃん、バアちゃんを通して、色んな事を覚えて行きますよ。

勝手気ままな、ジジ、ババ教育。失敬失敬。

好き放題でやってきますよ。失敬失敬。

聞こえなかったことにして下さいませ。

すなわち、家庭教育が展開されてきますよ。

 

家庭教育と言えば、その典型が、分かってますよね。

そうです。“サザエさん 一家”ですよ。

ジイちゃん・バアちゃん、父さん・母さん、兄弟姉妹・お孫さん。

ネコのタマだっていますよ。

ところで、タマとは、誰が付けた名前なのですかね。他にも、ミケとか、コネ次郎とか、いろいろあったろうにね。

推察するに、タマと命名したのは、おそらく、波平さんではないか、と思うのですよ。

なぜならば、波平さんの頭、かなり特徴的ですよね。

だから、それを強調しようと、波平さんは、「アタマ」と名付けたのですよ。

それを、そそっかしいサザエさんが、聞き間違えて、単に「タマ」となってしまったのですよ。きっと。

エッ、どうせやるなら、もっと、マシな駄洒落にしろって、ですか。

ごもっともですね。タマタマ、ちょっと思いついたものですからね。

しかし、こんなお粗末なのは、タマにしか、しませんよ。

もー、よせって、ですか。

そんなに怒らないで下さいよ。この程度の事で、怒られては、タマったものではありませんよ。

ダマレッ、てんですか。あれ、濁点がついてますよ。

ダマされませんよ。

もー、しつこい。いい加減しろってですか。

はいはい。御叱咤。心して、うけタマわりました。

ところで、サザエさん一家は、一通りの家族の要素が、揃っていますよ。

強いて、バランスを考えれば、カツオ君の男兄弟をもう1人と言う事になりますかね。

しかし、それは、マスオさんとタラちゃんがカバーしているのでしょうね。

それから、タラちゃんの兄弟姉妹、もう1人ぐらいいれば、バランスがとれると言うものですが、これは、カツオ君とワカメちゃんで、カバーされているのでしょうね。

あと2人増えたりしたら9人家族。大家族すぎて、かえって動きが悪くなったりしますから、7人ぐらいが適当なのでしょうね。

私ごとで恐縮で御座いますが、私の小さい頃は、9人家族の時がありましたよ。

たいして、多すぎると言う感じはありませんでしたけどねー。

色々な個性が集まっていて、話題に事欠かないのでしょうね。

いろいろな角度から、色々な話が展開されますな。

この色々が、子供の人格形成に大切なのでしょうね。

堅苦しくいえば、多種多様な価値観が出現するわけですね。

波平さん、マスオさん、カツオ君。

舟さん、サザエさんワカメちゃん

それぞれ皆んな個性的ですね。多様な価値観をぶつけ合うのですよ。

このような環境で、タラちゃんの人格が、どんどん形成されていくのでしょうね。

ただし、タラちゃん、一向に大きくならないですね。

野暮なことですが、サザエさん一家、歳をとりませんなー。

サザエさん 24歳、マスオさん 28歳、波平さん 54歳、舟さん 52歳、カツオ君 11歳、ワカメちゃん 9歳、タラちゃん 3歳、と言う年齢構成なんだって。知ってました。

単純計算では、ワカメちゃんは、波平さん 45歳、舟さん 43歳の時の子という勘定ですな。割合、歳行ってから頑張ったのですな。

新聞連載が始まったのは、1946年昭和21年と言いますから、戦後間もなく始められたのですね。

と言うことは、今から70年以前と言うことになりますよ。

初めの頃、サザエさんが何歳であったのかは、存じませんが、たとえば、分かりやすく二十歳とすれば、今年は、90歳と言うことになりますよ。

波平さんは、サザエさんより21歳年上だから、今年は、111歳。1月11日、それとも11月1日生まれですかね。

舟さんはそれより2歳下だから、109歳ですよ。

今だと、ありえるかも知れませかよ。

このリアル年齢で、一度、やってもらいたいものですね。サザエさん一家。どうなりますかね。

111歳の波平さんが、「カツオー」と呼びつけたら、失敗しでかした81歳のカツオ君が、頭をかきかき現れますかね。杖突いてたりして。頭は、ヤッパリ、波平さんカットになってしまってますかね。

90歳のサザエさんは、ひよっとして、車椅子で、お魚くわえたドラネコを追っかけ回していますかね。ドラコネだって、お魚だって、相当な歳になってますよ。きっと。

タラちゃんだって、もー、いい歳になってますよ。おそらく、結婚して子供のタラコちゃんがおりまして、さらに、タラコちゃんも結婚していて、その子は、辛子明太子ちゃんですかね。

当然、カツオ君も、ワカメちゃんも、もー、孫がいるでしょうから、サザエさん一家は、すごい大家族になっていることでしょうなー。

それはそれは、色々多彩なキャラの大集合体になっていて、その中で子育てが展開されるとすれば、きっと、バランスのとれた、いー子が育つでしょうね。

 

話を戻します。 

赤ちゃんをとりまく環境は、どんどん広がっていきますよ。

おせっかいなトナリのオバちゃんも、すかさずチョッカイを出してきますよ。

スキを窺って、無精ヒゲのオッちゃんが、スリスリしようと、ねらってますよ。

外に出る機会も多くなって来て、五感にうったえてくる事柄は、多種多様になってきますよ。

いわゆる社会教育が、展開されていきますよ。

親による教育、家庭内教育、社会教育は、年齢、時、所をかまわず、展開されますからね。人格形成に関しては、学校教育の比ではありませんね。きっと。

しかし、子供の教育と言えば、学校教育ばかりに目が行き勝ちでは御座いませんか。学校では色んな事を学びますが、このごろは、どっちかと言うと、受験に必要な知識教育に偏っていませんかね。

親も社会も、それを優先的に望んでいるらしくて。

赤ちゃんにとっては、周りは誰でも皆んな、何でもかでも、先生ですよ。

ねー、あのクリクリとしたツブラな瞳で、大人のようにクスンダ色眼鏡を掛けていない、曇りの無い瞳で、見ているのですよ。

そして、見たもの全部を、ストレートに吸収して行くのですよ。

お父さん、お母さん、見られてますよ。

単に、見られているのではないですよ。赤ちゃんは、それを覚え、自分の身につけていっているのですよ。

赤ちゃんは、果敢に、人格を形成していってますからね。

 

どうです。大分肩が凝ってきたでしょう。

ちょと、気分転換と行きますか。

それでは、ここで、小話を一つ。

ちょっと、ちょっと、あの人の鼻、ちょっと、小さくない ?

小鼻の話でした。小話。

ダメ。かえって、どっと、疲れが出たって、ですか。弱りましたなー。

それでは、疲労回復に、もう一つ。

ワー、一万円札が風で飛んじゃったぞー。

厄介な所におこっちゃったなー。

なんとか、拾わなくては。

よーし、拾おう、拾おう。

やっと、拾ったぞ。回復したぞー。ひろー 回復だ。

ダメ。全然。弱ったね。どーも。

それでは、もう一つ。

エッ、いい加減にしろって。

ヘエヘエ、切りがありませんからね。

 

話は、続きに戻りますが。

それから忘れてならないのは、赤ちゃんの持って生まれた性格ですよ。

一人一人個性を持ってますからね。性格が異なるのですよ。

これは、環境がどうのと言う以前の問題ですから。

DNAと言うやつですよ。ダッコして、仲良く、遊んでー、の略ですかね。

これは、まさに運命と言うものですよ。きっと。誰のせいでもありませんよ。

当の赤ちゃん本人のせいでも無いですよね。

命の誕生と共に、備わったものですから。

この持って生まれた性格と環境から得られたことが、融合して、人格が形成されるのでしょうね。

個性豊かな赤ちゃんがいますからね。

周囲から喜ばれるのは、愛想の良い子ですよ。

いつも、ニコニコしていて、ちょっとのチョッカイで、ものすごく喜んでくれる子がいますよね。

ベロベロバーで、もう大喜びをする子。

かと思えば、ベロベロバーなどやろうものなら、火のついたように、反っくり返って、わめき散らす子。昼間寝てて、夜泣きする子。

かと思えば、我関せず、といった実に無表情な子。

色々ですなー。

また、親御さんをはじめ、周囲で接する人々も、それぞれ性格が異なりますからね。なかなか関係は複雑怪奇なのですよ。

相性が良ければ、問題は少ないでしょうが、相性の良くない場合は、・・・・・悲しむべき事態と成ったりし兼ねませんからね。

とにかく、個々の性格を持って、環境から、色んな事を吸収して、その子の人格が形作られて行くのでしょうなー。

ですから、個性と共に環境が問題となるのですなー。

 

今日、話題として取り上げたのは、社会現象の幼稚化と言うことですが、この現象は、現在の社会を構成している人々、一人一人に原因の一つがあるのではないのでしょうか。

そして、大事なのは、今後の社会を形成して行く、若い人の人格形成をどうするのか。と言うことですなー。

幼い子を一人前に育てなくてはなりませんが、親御さん的にも、家庭的にも、社会的にも、望ましいと思われる条件が揃っていれば、まだしも、それぞれに事情を抱えていますからね。中々思い通りには、参らないと言うのが、現実ですなー。

しかし、ですよ。今日、話題として取り上げた、社会の幼稚化について、これでいいのかなー、と言う観点から、子育てを考えることは、誰でも、どのような環境ででも、出来ることではないでしょうかね。

どのような社会を目指すかは、それぞれの好み、価値観で異なるでしょうが。いずれにせよ、現状よりは、良くなって欲しい、と言うのは共通した願望でしょうからね。

課題は、良くするには、どうすれば良いのか。どのような行動をとればベターなのか、と言うことではないのでしようか。

これは、個々の判断に任せられることでしょうねー。民主主義的には。

民主主義は、取り敢えずは、皆んなの意見を聞くと言うことですよね。

そして、色々な意見をどのように集約して、実現化して行くか、と言うことのようですね。

一つの方法として、親による教育の充実、と言うことが考えられますよね。

しかし、両親が揃っている場合。事情があって片方がいない場合。さらに、両方と生活を共にしない場合だってありますよね。

色々事情があってのことでしょうが。

保育所不足が話題になっていますね。

経済的に、母親が仕事に出なくてはならない事情がありますしね。

はたまた、お父さんの競馬場通いばかり、許してはおけませんよ。

お母さんだって、自分のしたいことを優先させたい事もあるでしょうしね。

とにかく、事態は簡単ではないですよね。

そこをできるだけ、望ましい方向で考えなくては、ならないと言う事ですよね。

分かっちゃいるのですが、・・・・なかなかね。

家庭内教育についても、なかなかサザエさん一家のようには参りませんよ。

ワープロで変換して行ったら、皮肉にも、「家庭無い」と出ちゃいましたよ。

事情によって、そのような場合も発生しますよね。

シングルママ、シングルパパのケースもあることでしょうね。この場合は、親による教育が、イコール家庭内教育、と言うことになりなすからね。

赤ちゃん、子供さんの環境は、どうしても、狭く、限定的になってしまいますよね。

親は一人で子供に立ち向かわなければなりませんね。大変ですね。何時もかつも、元気、ニコニコではいられませんよ。

しかし、子供も、一人の親と対峙しなければならないので、こっちも、大変ですよ。何時もニコニコしてらんないのですよ。1対1の勝負ですからね。

赤ちゃんは、グズリますよ。泣き叫びますよ。ストレートに来ますよ。

もー、双方、泣きたくなりますね。

社会教育も、その範囲が広いだけに、何処を切っても、厄介な事の金太郎飴状態ですね。

隣近所、少し広がって町内、更に広がって自治体レベル等による教育に関わる環境が御座いますな。

いずれにしても、親子、家族関係とは、かなり異質な環境となりますな。

以前は、今よりは、地域社会との関係が蜜でしたよ。その方が、生活しやすかったのですよ。近隣地域での相互扶助がなくては、生きて行き難い状態だったのですね。地域共同体から離れると、著しく、困ることが多かったのですよ。子育てにおいても、地域共同体のお世話なしには、大変だったのですよ。

特徴は、人と関わる機会が、とにかく多かったのですよ。

その中で、人格形成が行われたのですね。

しかし、戦後しばらくして、経済状態、考え方が大いに変化し、地域共同体にお世話にならなくとも、個人で生活が可能となる事態へ変化しまして、かえって、地域共同体に関わると面倒だ、と感ずる人が多くなってしまったのですね。

だから、お隣さんは顔も知らないし、出会っても、当然挨拶も交わさない。と言う事態になるのですよね。

すなわち、人との関係が希薄化したのですよ。それでも、まー、生きては行けるのですよ。

このような状態で、子供の人格形成が行われる事態ですね。

当然のこととして、人との関わりが上手く出来ない人格が、形成されても、なんらおかしくありませんよね。

ここに、更に、コンピュータだ、タブレットだ、携帯だ、スマホだ、という媒体が、ものすごくはびこりましてね。直接、人と顔を突き合わせての関わりが不要となって来たのですよ。

このような環境での、人格形成が展開されている訳でして、果たして、この状態でいいのかなー、とつくづくボヤキたくなるのですよ。

 

3・4歳までの間に、その個体の基本的な人格が、形成されると言われますからね。

この期間に、人間として生きて行く上で、最も大事な事を教育する必要があるのですね。

 

このような事は、誰でも知っていることなのですが・・・。

とにかく、時間がかかっても、修正する必要があるようですね。

根気よく、教育改革をやるより仕方ないようですなー。

カッコつけて。好きな事言いやがって。

お前は、どーなんだ。と言われると、一言もございませんよ。

お互い様に !

えっ、一言余計だって。失敬。失敬。勘弁して下さい。

ついつい、自由を盾に、気侭な事を言って、申し訳ございません。

 

どうでしょう。かなりお疲れになられましたでしょーね。肩がコリコリ ?

よもや、今日の寄席で、誰でも知っている事を、くどくどと聞かされることになろうとは、想定しておられなかったでしょうね。

そうなんですよ。

災いは、突然降って来たり、湧いて来たりすることがあるのですよ。一瞬のスキが問題なのですよ。

しかも、後を引く場合があるのですよ。

今日、お越しのお客樣。ご帰宅になられましたら、ちょうど、成長期のお子さんがおられるお宅では、

オッ、見られてるな、

迂闊な事は出来ないぞ、

と身構えるハメに陥りますよ。きっと。緊張の日々が続きますよ。

肩の凝る状態に陥りますなー。

なかば、脅迫めいて参りましたよ。

えーっ、電車に乗ったとたんに、忘れちゃうから、全然問題ないですって。

しかしねー、帰宅するなり、小さなお子さんが「お父さん」「お母さん」「おじいちゃん」「おばあちゃん」今日、何処へ行って来たの、と聞いて来ますよ。

でも、今日は良かったですね。ちょっとハジク玉の強度の調査に、パチンコ屋さんへとか、お馬さんの健康状態を調べるために競馬場へなどと、苦しい弁解をしなくて済みますから。

今日は、社会の幼稚化の問題に関わる講演会に行って来たのさ。と堂々と言えますからね。

そうしたら、ねー、ねー、何処であったの。ときますよ。

そこで、たじろいてはいけませんよ。

寄席に決まってるだろう。」とキッパリ言ってやりましょう。

いきなりコケますよ。きっと。

まずは、帰宅されましたら、うっすら伸びたヒゲのアゴで、お孫さんのホッペをスリスリして上げて下さいませ。

きっと、心ゆたかな良い子に育ちますから。

豊かな心の人は、他人の心をも察せられる人ですから。

えっ、うちに孫はいないって。

そんな事、私のせいでは御座いませんよ。

そんな場合は、手近なところで、お婆さんに、スリスリしてみれば。

いきなり、救急車のお世話になる展開になったりして。

救急隊員の方(かた)に、オホに流れている血は、どうしたのです。

と聞かれた時に、お婆さんに、スリスリして、ひっかかれた、なんて言うのカッコわるいですから。

お気をつけて下さいませ。

相変わらずの拙い話で、ご海容の程を、お願い申し上げます。

 

どうも、お疲れ様で御座いました。お後が宜しいようで。