《停念堂閑記》87

「日比憐休独偏記」22

 

事実認識とその表現」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお出で下さいました。

厚く御礼申し上げます。

本当に、よくいらっしゃいました。大歓迎で御座いますよ。

と申しましても、高価な美味しい物でおもてなしをするわけでも、肩をお揉みするわけでも、温泉に入って、冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも御座いません。ポイントすら付きませんよ。

まー、強いて申し上げますれば、心の問題であります。

おヒマなお方、心より、大歓迎で御座います、と言う事ですよ。

今日も、ヒマ潰しに、どうぞお付合い下さいませ。

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。

なぜアホくさい、バカバカしい、クダラない話なのか、と問われますと、決まってるでは御座いませんか。そんなこと。

立派な、意義深い話は、甚だ残念では御座いますが、難しくて出来ないからですよ。

 

さて、本日はですね。真面目な話をしたいと思うのですよ。いつも通りの。

ところが、いつも通りと言った途端、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話と言う事になっちゃうのですよ。

しかし、生来根が真面目なものですから、何時も、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話を、極めて真面目にやらせて頂いているのですよ。当人と致しましては。

基本的には、真面目な話で御座いますから、つまるところ、あまり面白い話ではなくなってしまうのですよ。

正直に申しますと、はっきり言いまして、ちっとも、面白く御座いませんよ。

私の方と致しましては、面白くなくても、一向にかまわないのですよ。

大体、世の中、面白い事ばかりでは、つまらないでしょー。

面白くないことの中に、面白いことが起きると、これが、とっても、面白く感じられるのですよ。なんか、儲かっちゃった気がしますよね。

だから、私は面白くない方の担当と言うことで、やらせて頂いているので御座いますよ。まー、人助けの一つとでも言いましょうかね。

ですから、面白くなくても、私の方は、一向にかまわないのですよ。

要は、ヒマ潰しが出来れば、もー、大満足なのですから。

 

ところで、あのーですね。実を申しますと、真面目な話、と前置きして、真面目な話をする人は、私を除いては、殆どおりませんよ。皆無と言って、いいんでないかい。ホント。真面目な話。

皆様、どなたもご承知のとおり、正直な話と前置きして、本当に正直な話をなさる方は、ほとんどおりませんでしょ。

ウソは言っておりません。と力説される方で、ウソをつかない方は、めったにおりませんよ。私を除いては。ホント。

「ウソは申しません」と言うのは、本当のところは、これからウソを言いますよ、と言う前置きですから。

これは、正直な話、ウソでは御座いませんよ。ホント。ホント。

全く、一切、絶対に、そのような事はありません。なんて言う人、よくテレビに出ていますよね。

あれは、ウソですよ。と言う別表現ですから。

一命を懸けて、とか、全身全霊で、なんて、いとも手軽におっしゃられる方をお見かけしますが、ほとんど当てになるものでは御座いませんよ。

全く、とか、一切、とか、絶対に、とかを好んで使う場合は、単にその場凌ぎの弁解に過ぎませんから。全く、一切、絶対などには、全く、一切、絶対に心が込められておりませんから。

一命を懸けて、なんと言って、本当に一命を掛けた方など、ついぞお会いした事は、御座いませんよ。

その場を凌げれば、後は野となれ山となれ、はたまた水溜りとなれ、池となれ、湖となれ、海となれ、知った事かい、と言うのが現実ですよ。ホント。

ついつい、すっかり、真面目な話に陥ってしまいました。

これでは、ヒマ潰しには、不適ですよ。もっと、もっと、アホくさい、バカバカしい、クダラない話でなくてはなりませんな。

とにかく、本来根が真面目なもんですので、すぐにお堅い話に向いて行ってしまうのですよ。

エッ。何か疑問が御座いますか。

余計な疑問は、持たない方が、良いですよ。お互いの為に。

ねー、信頼しあってこそ、成り立つ世の中なのですから。

とにかく、他の人はともかく、私の真面目な話は、一切、全く、絶対にウソは御座いませんよ。本当のホントですから。

信用なさって損は、御座いませんから。

因に、損をなさっても、一切の保障は御座いませんよ。ホント。

ヒマ潰しにして下さいませ。

 

さて、世の中には、アレー、ちょっと変でないかい ? と言う事が、時々御座いますよねー。

些細なことが気になってしまうのが、私の悪い癖なのですよ。

些細ことが、気に掛かってしまうのが、ボクの悪い癖、と言うのは、杉下右京さんの口癖ですね。

因に、右京さんのあのセリフは、真っ赤なウソですよ。右京さんが気に掛ける些細な事は、いつも、問題解決の鍵になっているのですからね。

一方、私の気になる些細な事は、文字通り、些細な行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話ですよ。正直な話、絶対ウソでは御座いません。なにせ、ヒマ潰しの話ですから。

 

それで、気に掛かっている些細な事とは、どのようなことかと申しますと、出来事の事実認識マスメディアのその伝達表現に関ることなのですよ。

以前は、正しい日本語が使われなくなってしまったと、日本語の乱れを嘆いておられる方がよくございましたが、なんだか、最近あまり聞かなくなってしまった気がするのですよ。もう諦められちゃったのですかね。私の気のせいでしょうか。

言葉は生き物と言われて来ていますから、社会の変化と共に、言葉も使い方が変化するものなのでしょうが、変化してそれが定着してしまえば、違和感も持たれなくなりますが、しかし、変化の途上にある場合は、時に、違和感を感ずることがありますな。

特に、ある事態を伝達する時に、どのような表現で伝えるか、と言うことですよ。

これは、伝達表現の以前に、伝達しようとする側が、伝田しようとする事態をどのように、把握・認識しているか、と言うことが、まず、問題のようです。

要するに、事態の認識と、それを伝える表現の問題です。

その一コマで、ヒマ潰しをしようと思います。

ほとんど面白くは御座いませんよ。これホント。

 

さて、先日、大阪北部を震源とする大地震がございましたね。

これは、ひょっとすると大きな被害が出たのではなかろうかと、テレビを見ていましたところ、「プールの壁に、子供が挟まれた」、と言うニュースが飛び込んで来ましたね。

これはえらい事だ、と思いつつも、一瞬、その状況がイメージできませんでしたね。

「プールの壁に挟まれた」状況と言うのが、どのような状況なのか思い描けなかったのですよ。

「プールの壁」と聞いた途端、どんな壁か、と言う疑問を感じましたよ。

プールと言うのだから、まずは、水泳用のプールか、と思いましたよ。そこで、水泳用の「プールの壁」って、どの部分を言うのだ、と言うことですよ。

水を蓄えるためのプールの内側の壁のことか ?

時節柄、プールには水が張られているであろうから、このようなプールの壁に挟まれた、と言うのであれば、具体的にどう言う状況なのか、と言うことですよ。事態が飲み込めませんでしたね。イメージが乏しいもので。

地震発生の直後のことですから、例えば、ビルの壁に挟まれた、と言う表現に出会えば、ビルとビルの間にいた人が、ビルの壁に挟まれたのであろうと、認識し易いのですが、これが「ブールの壁に挟まれた」と言うと、プールのどこの壁に挟まれたのか、想像が付き難かったのですよ。

そうこうしている間に、その「プールの壁」の実況映像が流れて来ましたね。

見ますと、プールの壁と表現されていたものは、小学校のプールと、それに隣接する道路との間に設けられているブロック塀のことでしたね。

最近のメディアは、このようなプロック塀を、「プールの壁」と表現するのですなー。

私のようなイメージの乏しい人には、「プールの壁」と言う表現よりも、「ブロック塀」と表現してもらった方が、遥かに判り易いのですが・・・。

しかも、「プールの壁に挟まれた」と言われると、「挟まれた」状況の理解が極めて難しいのですよ。

その時、私の見ていたテレビ局だけが、このような表現をしているのかなー、と思って、他局へチャンネルを切り換えても、どのテレビ局でも、「ブールの壁に挟まれた」とやっておりましたね。

このニュースの最初の発信元が何処か知りませんが、そこからの当該情報を得て、テレビ局側は、編集して自局の情報として流すことになるのでしょう。

これが、各テレビ局が、一斉に「プールの壁に挟まれた」と言う表現でやっているのは、この情報の出所が、同一なのだろうな、と想像できましたね。

各テレビ局で、この情報を得て、どのような表現で自局から発信するのが最適か、と言うことを当然考えるでしょうね。

当該状況の映像が未だテレビ局で確認できていない場合は、テレビ局側としては、言語表現だけで、発信しなくてはなりませんね。

その時に、「ブールの壁に挟まれた」と言う情報を得た場合、テレビ局側の編集・発信の決断をする責任者がいる事でしょうが、その立場にある方 は、この情報の事態を具体的にどのような状況と把握されていたのでしょうね。「プールの壁に挟まれた」と言う状況を具体的に把握出来ていたのでしょうか。

このような情報を得た場合、テレビ局側としては、いち早く自局から当該情報を発信したいでしょうね。他局よりも1秒でも早く発信したい、と言う欲求を常に持っていることでしょうね。

しかし、このような場合には、速報性と共に、正確性が問題になりますね。極めて関心度の高い情報を得た場合、テレビ局側としては、素早く発信と言うことに、関心が注がれることは、言うまでもないことでしょうが、その時に正確性が、おざなりになっては、元も子もなくなりますね。

従来のテレビ局の放映状況を振り返りますと、公の機関から得られた情報は、その発せられた表現をそのまま、発信すると言う特徴があるように見られるますね。

例えば、警視庁記者会見で発表されたことは、警視庁側の表現通りに、テレビ局から、放映されますね。

これは、これで意味のあることでしょうね。

しかし、警視庁側の表現は、時として、曖昧で判りずらいことが、しばしば御座いますな。

警視庁側は、正確性に自信のある事に関しては、明解に、断定的に表現しますが、事態の把握が未だ十分でない場合は、後々誤りであったら責任上問題である、と心配されるような事態については、断定せず、曖昧な表現を用いるようです。

このような曖昧な表現の情報を得たテレビ局は、曖昧な表現をそのまま放映するのが常のようです。

このように放映されたものを見せられる視聴者側は、そのとおり曖昧にしか受けとめるが出来ないのですよ。

したがって、記者会見の 際に、記者は曖昧さを感じた点については、きちんと質問し、曖昧である事情を確認する必要があると思いますよ。そして、どうして曖昧になっているのか、そ の事情を視聴者に伝えてもらいたい、と思うのですよ。そうすれば、視聴者はそれなりに、認識を確かにすることができるのですよ。

 

と言う訳で、「プールの壁に挟まれた」と言う表現は、テレビ局側が得た情報を、そのまま報道したものではなかろうかと、推測されるのですよ。

しかし、テレビ局でも、さすがに「プールの壁に挟まれた」と言う表現については、違和感を感じていたようですな。

「プールの壁に挟まれた」と表現されていた現場の映像がテレビ局に持ち込まれると、「ブロック塀の下敷きになった」と言う表現に変わりました ね。ただし、一部の局では、その崩れたブロック塀の映像を放映しながら、まだ、「プールの壁に挟まれた」と言う表現を続けていた局もございました が・・・。嗚呼!

しばらくして、どの局も、「ブロック塀の下敷きになった」と言う表現になりまたね。

その後、どこぞの局では、「ブロック塀に巻き込まれた」と言う表現に変えた局がありましたなー。

これは、どうしたものですかね。私の見た限りでは、ブロック塀が壊れて落下し、その下にいた小学生が下敷きになったように理解されたのですが、この状況を「巻き込まれた」と表現しているのですが、どうですかね。

とにかく、初期に発信されていた、「プールの壁に挟まれた」状況ではなかった、と言うのが実情のようですな。

何故、このような表現について、気に掛かるのかと申しますと、言うまでもなく、マスメディアの流す情報には、「事実を正確に」と言う事を期待するからです。

ちょうど大阪地震の少し前に、メディアでは、日大アメフト部の選手・監督・コーチに関るアンフェアな反則プレーについて、大々的に取り上げていたのですよ。

この時も、最初の発信元のメディアについては、どのメディかについては存じませんが、テレビでは、どの局も一様に、日大チームの監督が、同チームの特定の選手に対して、対戦相手の関西学院大学の選手を「壊す」ようにと言う指示をしていた。あるいは、指示していたようだ。と言う類いの表現で報じていたように記憶しています。

私の記憶では、テレビ局は、一様に各局「壊す」と言う表現を用いていましたね。この「壊す」と言う表現が、気に掛かったのですよ。些細な事が気になる悪い癖を持っているもので。

誰が指示を出したのか、否かについての真相は別問題として、各テレビ局が「壊す」と表現をしていた事は事実です。

ところが、しばらくして、アンフェアな危険な反則行為をした日大の当該選手が、謝罪の会見を行い、その中で「相手の選手を潰すように」と、コーチから告げられた、と言う内容のことを話しましたな。

当の反則を実行した選手は、「潰す」と言う表現をとり、「壊す」と言う表現はしなかったのですよ。

この会見後、各テレビ局は、一斉に「潰す」と言う表現に一変しましたね。

暫くの間、毎日報道していた「壊す」と言う表現を一切使わなくなり、「潰す」と言う表現になりましたね。

この会見前に、これを見よ、と言わんばかりに、使われていた「壊す」と言う表現は、一体何だったのでしょうね。

最初、「壊す」と言う表現を発したのは、誰だったのでしょうね。

この「壊す」と言う言葉は、日大の監督、コーチ、選手の特定個人の発言として報道されていたものです。

すなわち、発言の事実に関る事なのです。

「壊す」「潰す」は、同じような事態を表現するのに、よく使われますよね。

しかし、全く同じ事態を表す表現か、と言うと、聞き手によっては、ニュアンスが異なることがあるようですね。

例えば、東京で日常軽く「バカ」とする表現は、大阪では、一般的には「アホ」と表現するようですね。

この場合、大阪の人には、「バカ」と言う表現は、かなりきつく聞こえるようです。すなわち、カチンとくる表現のようです。

同様に、「壊す」と「潰す」にも、幾分のニュアンスの違いを感じるのですよ。

知人の大阪育ちの方がおられまして、昨日、車を電柱にぶつけて、潰してしもた、と言うのですよ。車がぺしゃんこになって、もう、使えない状態になったのかと思いきや、バンパーがちょっとへこんだ程度のようでしたよ。

「潰れた」と表現する場合も、ケースバイケースなのでしょうが、関西では、「壊す」と言う表現よりは、「潰す」と言う表現の方が、どちらかと 言うと、柔らかいニュアンスを持っているのではないのでしょうか。「壊す」と言う表現は、どちらかと言うと、きつい感じがするのではないのでしょうか。

と言うことで、「相手のクォーターバックを壊せ」と言う表現と「相手のクォーターバックを潰せ」と言う表現では、関西学院大学側の受けとるニュアンスが、幾分異なるのではないのか、と感じられるのですよ。

「壊せ」の方が、かなりきつく感じられるのでは、と思われるのですよ。

これは、関西の人に聞いてみればすぐにわかることですが。

東京でも、「壊せ」と言う方が、きつく感じますね。小生の偏見でしょうかね。

ラグビーの試合の場合などでは、スクラムが「潰された」と言うような表現は、よく聞かれるように思います。すなわち、馴染みがあるので、違和感が無いのですが、これが仮に「相手のスクラムを壊せ」と言う表現に出会うと、ちょっと、違和感があるのですよ。小生の偏見では。

と言うことで、どう表現されたのか、と言うことは、事実の確認上、気に掛かるのですよ。

この点について、最初のマスメディアが流した「壊せ」と言う表現が、どのようにして作られ、発信・伝達されたのか。

そして、「壊せ」から「潰せ」に表現を変更した事に関して、テレビ局側のコメントは、どの局からも聞こえませんでしたね。

誤報だったとすれば、一言訂正・謝罪めいたコメントの一つもあっていいのではないでしょうか。

政治家官僚さんであれば、この表現の違いは大変なことですよ。

先日、国会の証人に招集された総理元秘書が、「首相」と面会した云々と文書にあるが、これについてはどうだ、と言う質問を受けた時、私は、「首相」と言う表現は使わない。「総理」と表現する。従って、「首相」とある文書は、信用できるものではない、と言う答弁をしていましたねー。

同様のことが、今回のアメフト事件においても、問題になり兼ねないのですよ。「壊せ」などと言う指示は出していない。なんてね。

とにかく、マスメディアの発する情報は、強い影響力を持つものですから、事態の正確な確認と、その伝達に当たっては、適切な表現が求められますなー。

と言う事態があったのですよ。些細なことが気になっていた時に、今度は「プールの壁に挟まれた」ですよ。テレビ局の事実(事態)確認とそれを伝達する適切な表現のチェックは、どうなってしまったのでしょうね。

ついでに言えば、その後、崩れたブロック塀の後始末に関る報道が 流されましたが、今度は倒れた「ブロック塀」の「修復」が開始された、と言う表現で報じられていましたね。映像を見る限りでは、素早くブロック塀の「修 復」作業が開始された、と言うよりは、とりあえず、崩れ散らばっているブロッ塀の残骸の後片付けがなされただけに見えたのですが、「ブロック塀」の「修 復」が始まったと言う事態だったのでしょうかね。? ? ? と言うような疑問が発生するのですよ。

どうも、メディアに関る人々の事態の把握とそれを伝える表現は、大丈夫かと心配されるのですよ。

一般に、通常発生した事態が、正しく認識され、適切な表現で、誤解されないように報道されているのか、不安になるのですよ。

特に、政治、経済、社会等に関る事態については、どのように認識すべきか、どのような表現で報道すべきかについては、微妙なニュアンスの違いが存在することが、常と言って過言ではないでしょうね。

そのような事態に関る、例えばテレビによる情報伝達は、適切に行われているのか、待てよ、おざなりになされており、事実はちょっと違うのではないのか、と言った疑問が付きまとうのですよ。

 

現在のテレビをはじめとするマスメディアでは、あまりにも速報性に傾き、正確な事実確認が、どうもおざなりになり勝ちな傾向にあるのではないのか、と感じられるところがあるのですよ。

分かり易く言えば、不確かな噂を、振り撒かれたのでは、たまったものではございません、と言うことですよ。

マスメディア報道が、社会に与える影響が絶大だけにね。

シッカリ、タノンマッセ! ホンマ。

 

本日は、マスメディア報道に関る一コマを題材とした、アホくさい、バカバカしい、クダラない話でした。

どうです。つまらない、面白くもない、話でしたでしょう。

しかし、幾分かのヒマ潰しになったとすれば、まずまずなのですよ。

 

どうも、お疲れ様で御座いました。

お後がよろしいようで。