《停念堂閑記》88

「日比憐休独偏記」23

 

謝罪 ? 1」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお出で下さいました。

厚く御礼申し上げます。

本当に、よくいらっしゃいました。大歓迎で御座いますよ。

と申しましても、高価な美味しい物でおもてなしをするわけでも、肩をお揉みするわけでも、温泉に入って、冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますれば、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、良いのですよ。

夜、寝られなくなったりしませんからね。もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。なんとか、ヒマと言うものをあの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のないことを交えたりしましてね。

これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

私だってですね、たまには、気の利いた話をしたいものと、常日頃思わなくはないのですよ。

時には、少しは思うことも、たまには、ちょっとだけないこともないのですよ。

強いていえば、僅かながら、かすかにあるにはあるような気もするのですよ。

しかしですね、これが中々上手く行かないのですよ。思うだけではねー。

言うまでもなく、この手のことは、能力に関ることなのですよ。

持って生まれた能力は、残念ながら、俄に、どうこうできる代物では御座いませんよ。

嘆いても仕方御座いませんので、精々、得手・不得手と言うあたりで、何とかならないものかと、もがいたりするのですよ。

その結果が、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話と言う辺りに落ち着くことになる、と言う次第なので、御座いますよ。

さて、本日はですね。いつも通りの行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話と言うことには、なんら変わりは御座いません。

しかし、ですね。いくら下らない話とは言え、少しはですね、真面目な部分もあるのですよ。ホント。

 

どーかねー 、って ? ? ?

ホントですって。

ところが、真面目が入ると、たちどころに、面白味が減退してしまうのですよ。さーっと、引いてしまいますよ、

したがって、ちっとも、面白くなくなってしまうのですよ。

私の方と致しましては、面白くなくても、一向にかまいはしないのですが。お付合いくださる方はねー。やんなっちゃいますよねー。

しかし、世の中、面白い事ばかりでは、つまらないのですよ。

人間ツァー、勝手なものでしてね。面白い事ばかり続くと、ちょっと、おもしろくねぇーな。なんて感じたりするものなのですよ。

面白くないことの中に、面白いことが生ずると、これが、とっても、面白く感じられるのですよ。なんか、得しちゃった気がしたりしましてね。

面白いところに、面白いことがやって来ても、またかー、なんて感じたりするわけですよ。慣れっこになって、だれて来ますから。

だから、私は、思いっきり面白くない方の担当と言うことで、やらせて頂いているので御座いますよ。まー、人助けの一つとでも言いましょうかね。世のため、人のためですよ。慈善事業ですよ。

アホ抜かせって、ですか。

ですから、面白くなくても、私の方は、一向にかまわないのですよ。

要は、ヒマ潰しが出来れば、もー、大満足なのですから。

ところで、あのー、ですね。真面目な話、と前置きして、真面目な話をする人は、殆どおりませんよ。皆無と言って、いいですよ。

ただし、私を除いてはね。ホント。真面目な話。マジで。

皆様、どなたもご承知のとおり、正直な話と前置きして、本当に正直な話をなさる方は、殆どおりませんでしょ。

ウソは言っておりません。と力説される方で、ウソをつかない方は、めったにおりませんよ。私を除いてはね。ホント。

これは、正直な話、ウソでは御座いませんよ。ホント。ホント。マジで。

全く知りません。一切関係しておりません。絶対に、そのような事はありません。なんて言う人、よくテレビに出ていますよね。

あれは、ウソですよ、と言う別表現ですから。

一命を懸けて、とか、全身全霊で、なんて、いとも手軽におっしゃられる方をお見かけ致しますが、そう言う人に限って、ほとんど当てになるものでは御座いませんよ。

「全く」とか、「一切」とか、「絶対に」とかを好んで使う場合は、単にその場凌ぎの弁解にすぎませんよ。「全く」、「一切」、「絶対」などには、全く、一切、絶対に心が込められておりませんから。

「一命を懸けて」、なんと言って、本当に一命を掛けた方など、ついぞお会いした事は、御座いませんよ。

その場を凌げれば、後は野となれ山となれ、はたまた水溜りとなれ、池となれ、沼となれ、湖となれ、海となれ、と言うのが現実ですよ。何でも、並べれば良いと言うものでは御座いませんが。事は、ついでですから。悪しからず。

ついつい、すっかり、真面目な話に陥ってしまいました。

これでも、ですね。わたしゃー、世間では、真面目で通っているので御座いますよ。嘘ついた事など御座いませんから。

嘘吐きは、ドロボーの始まりと言われますから、嘘をついたら、末はドロボーになるしか手が御座いませんから。

嘘ばっかりついている政治家と言われている連中の行く末は、やっぱり・・・になるよりないのかね・・・?

私は、ウソ吐きと言われたことは御座いませんよ。専ら、ホント吐きと言われていますから。嘘じゃないよ。

エッ。ホント吐きなんて聞いた事は無いって、ですか。

そうでしょうね。私も初めて言いましたよ。

だから、最初に言ったでしょ。

真面目と前置きして、真面目な話をするヤツはいないって。

私の話には、ウソは御座いませんよ。ホンマ。

とにかく、本来、根が真面目なもんですので、すぐにお堅い話に向って行ってしまうのですよ。

エッ。何か疑問が御座いますか。

余計な疑問は、持たない方が、良いですよ。お互いの為に。

ねー、信頼しあってこそ、成り立つ世の中なのですから。

とにかく、他の人はともかく、私の真面目な話は、絶対に信用なさって、損は御座いませんから。疑問を持たれないように、念を押しておかなくてはね。念には念を入れ、万事、丁寧にと総理も言ってましたからね。

善悪はともかく、丁寧に、やっておかなくてはね。

待てよ。総理と一緒では、不利かな。人間性を疑われてしまいますからね。気をつけなくては。ホント。

さて、世の中には、アレー、ちょっと・・・?? と感ずる事が、時々御座いますよねー。

それで、今、アレー、ちょっと・・・?? と気に掛かっている些細な事とは、どのようなことかと言いますと、「謝罪」と言う事についてなのですよ。

お客様は、謝罪した事が御座いますか。

ない。

それは、よー御座いますな。謝るのは、格好が悪いですからね。

しかし、事と次第では、謝らなければならないことが、御座いますなー。

うちの子供が、友達のA君とケンカしたらしいのですよ。

お宅の息子さんに、うちの子Aが殴られて、タンコブが出来た、とA君の親御さんが怒鳴り込んで来たので、分かったのですが。

早い話が、さー、とっとと、謝らんかい、と迫られたのですよ。

そこで、それは申し訳御座いませんと、兎に角、謝罪したのですよ。息子も帰っていたようなので、謝らせようと、呼び寄せたところ、腕を布で釣っているではありませんか。どうしたの、と聞いたら、A君にやられて、骨折して、病院で手当をして来た、と言うのですよ。

途端に、立場逆転でしたよ。A君の親御さん、平謝りで、這う這うの手で、退散しましたよ。

後日、果物のお見舞いを携えて、治療費を支払いますから、と謝罪に来ましたよ。カッコ悪かったでしょうね。

なんて事、経験御座いませんか。

怒鳴り込んで行って、返り討ちにあって、謝って帰らなくてはならないハメに陥ったりしたら、そりゃ-、もー最悪ですよ。天から地へ、真っ逆さまですからね。

出来るなら、謝罪しなければならない立場には、なりたくないものですなー。

 

ところで、世の中、至る所で、しょっちゅう、日常的に「あやまれー」「謝罪せよ」と言う声が聞かれますなー。

謝って貰いたいという人、あいつを謝らせたいと思う人が、とにかく、いっぱい存在しておりますなー。

一方、早く謝りてー。さっさと、オレに謝らせろー。なんて言う人はいないでしょうね。謝りたい、と言う人は、少ないですよ。めったに居りませんよ。そんな人。いたとしたら、相当変わり者ですよ。きっと。

お客様だって、そーでしょ。謝るのは、嫌いですよね。

謝る時は、しょうがなく、しかたがなく、しぶしぶ謝るのですよね。まったく、たまんねーな、なんて心中でボヤキながらね。

 

さて、「謝罪」とは、文字通りに解釈すれば、罪を謝ると言うことですから、早い話が、やっちまった事が、罪に相当する場合に、それを謝ると言うことですな。勿論、罪となる事をやっちまった人が、謝るのですよ。当たり前。

 

謝罪」と言う事については、謝る側と謝られる側が存在するわけですな。

やっちまった事が罪に相当する場合は、やっちまった側が謝る側、一方、やられちまって迷惑や損害などを受ける事になった側が、謝られる側、と言うことですな。当たり前。

因に、ここでは便宜上、謝る側を「謝罪側」、謝られる側を「被謝罪側」と表現することにしますよ。甚だ勝手では御座いますが。

ここで問題となるのは、「謝罪者」から言えば、やっちまった事が、罪に相当するか否か。「被謝罪者」から言えば、やられちまった事が、罪に相当するか否か、と言う事が、謝罪に繋がる要素と言う事になりますな。

そしてまた、罪の内容が問題となるでしょうな。

結論的には、「謝罪者」と「被謝罪者」および時には、第三者の心情的な迷惑や損害などに関る点が、謝罪に関る要素と言うことになるのでしょうな。

金銭的、物品的な損害などについては、多分、謝罪だけでは解決にならず、金銭的、物品的な損害賠償と言うことになるのでしょうな。

もっとも、やられちまった内容によっては、金銭的、物品的な賠償に加えて、心情的な謝罪要求したり、されたりと言う事情が伴うことがあると思われますが、謝罪に絞れば、心情的側面が特徴と言うことができるでしょうな。

と言うわけで、ここでは、取り敢えず、謝罪は、「謝罪者」と「被謝罪者」と、時に第三者を加えた、それぞれの心情的な事象と言うことにしておきますよ。

と言うことで、謝罪については、「謝罪者」と「被謝罪者」双方、あるいは時に第三者の心情的認識がどのようか、と言う事が問題となりますな。

すなわち、判り易く言えば、「謝罪者」からすれば、やっちまったことが、特定の人、あるいは不特定の人に、迷惑や損害などを掛けた、と認識すれば、それは罪に相当する事になるのでしょうね。

反対に、「被謝罪者」からして、やられちまったことが、迷惑や損害などを受けた、と認識すれば、「謝罪者」のやっちまった事が、罪と認識される事になるのでしょうね。

さらに、第三者が外側から見ていて、「謝罪者」がやっちまった事が、「被謝罪者」に謝るべき事と認識されれば、「謝罪者」のやっちまった事は、罪になると言うことになるのでしょうね。当たり前。

ただし、この三者の判断が、正解か誤りか、と言う問題が別に存在しますなー。

また、謝罪については、やっちまったなー、迷惑を掛けたなー、と思った側、即ち、「謝罪者」がその行為を罪と認識した時に、二つ選択肢がありますなー。

一つは、まー、いーか。と、うっちゃらかしてしまう選択ですな。

すっとぼけて、気がつかなかった振りなんかして。

もう一つは、迷惑を掛けた「被謝罪者」に、謝ると言う選択ですなー。

この場合には、更に、三つっ選択肢が存在してますなー。

一つは、「謝罪者」が、自発的謝罪する選択がありますなー。

もう一つは、「被謝罪者」側から、謝罪要求があった場合に、謝罪する選択ですな。

そして、いま一つは、「被謝罪者」ではなく、第三者の介入によって、謝罪しなければならなくなる、と言う場合ですな。

世の中には、お節介な御仁がおられまして、他人事にすぐに、兎や角、口出しして来る、厄介な方がおられますなー。

このごろは、めったに聞かなくなりましたが、昔はよく聞きましたよ。

「横から口出す土瓶口」ってね。他人事に、何でも介入してくる人ですよ。

あんた、謝った方がいいよ、謝んなさいよ、なんて言ってくるのですよ。

この大型化したのが、マスメディア、特に、ワイドイョウ番組ですな。こちらは、影響力が強いですからね。全国ネットですからね。いわゆる番組の常識と称する事を盾にして、やって来ますよ。

番組の方向を決めるのは、担当のディレクターさんなのでしょうが、そのディレクターさんの意を受けて、番組の現場を仕切っているのは、大抵は芸能人ですよね。番組は、実際的には、この方の常識らしきもので進められる事になるのでしょうが。しかし、一般的には、芸能界・芸能人の常識は、一般社会の常識とかなりズレがありますからね。

しかし、マスメディア能動的で、庶民受動的ですから、庶民の常識は、芸能界の常識に押されてしまうのですよ。それで、芸能界の常識が、一般社会の常識と化してしまう傾向にあるのですよね。

一般社会の常識と、ギャプの最も大きいのは、永田町の御方々のようですが。この方々が、出して来る政策の元は、選挙対策ばかりですからね。この人々の政策は、万事、選挙対策ですから。

国会議員と言う顔をしながら、国民の方を向いていませんからね。全部、党利党略議員の私利私欲に関る、その根底にある国政選挙対策の方ばかり、気にしていますからね。与野党違わずにですね。嗚呼、困ったもんだ。

まー、このようにして、一般社会の常識が変化を遂げて行く側面があるようなのですな。

兎に角、マスメディアは、世論を焚き付けて、「謝罪者」に、社会的鉄槌を喰らわせてやる、と言う勢いで攻めて来ますからね。やっちまった人は、たちまち標的にされますよ。

しかし、一定期間を過ぎると、決まって、オータム ハズ カム。アキが来て、別の話題に移って行ってしまいますがね。その時々の旬が、ネタなのでしょうから。

反対に、迷惑を掛けられちゃった側にも、三つっの選択肢がありますなー。

一つは、まー、いーか、と、うっちゃらかしてしまう選択ですな。

もう一つは、我慢ならねー、謝って貰いたい、と言う謝罪を積極的に要求する選択ですなー。

そして、いま一つは、第三者の介入による、どちらかと言えば、謝罪消極的要求、と言う選択ですな。

まー、謝罪に関しては、色々な側面が御座いますな。

 

前に、言った様に、自分の仕出かした事が、相手に、迷惑や損害などを掛ける事になる、或はなった、と自覚して、これは何はともあれ、謝罪しなくてはならないと、自主的に謝罪する場合がありますな。

これは「謝罪者」側の事情によるもので、謝罪しないとスッキリしない、と言う「謝罪者」側の心情に関る事ですな。

要するに、さっさと謝って、清々、サッバリしたいと言う、「謝罪者」の都合によるものですな。

それから、とにかく早く謝罪しておかないと、後々、ややっこしい事になり、損しちゃう事態が発生する事になるかも知れない、と言う心配から、謝罪する場合がありますな。

要するに、さっさと謝って、受ける事になるかもしれない損害を、無か出来るだけ少なくしょうと言う打算から、謝罪する場合ですな。

また、「被謝罪者」としては、迷惑や損害などを掛けられたので、とりあえず謝って欲しい、と言う心情的欲求で、「謝罪者」に謝らせたい、と言うことで「謝罪」を要求する場合がありますな。

更に、この事によって、後々、金銭や物品による損害賠償要求するために、取り合えずは、謝罪の弁をとって置きたい。と言う、謝罪要求の場合がありますな。

およそこのような事によって、謝る、謝れ、と言う謝罪問題が、発生しますな。

再三になりますが、自発的に「謝罪者」になりたい希望者は、殆どいませんよね。

これに対して、迷惑や損害を掛けられた、さー、謝れ、と要求する「被謝罪者」は、実に多く存在しますな。

とにかく、「謝罪者」となる相手に非を認めさせて、謝罪させなくては、腹の虫が納まらない、と言う方は、多いですよね。

首尾よく行って、「謝罪者」に謝らせることが出来た時には、「被謝罪者」の心情はどのようなのですかね。

やったぜー。遂に謝らせてやったぞ。ザマー見ろ。溜飲が降りたわ。

あー、あー、清々した。気分爽快、となるのでしょうかね。

さぞかし、勝ち誇った、勝利の喜びに浸ることが出来て、大満足感を味わう、と言うことになるのですかね。

さらに、勝利者の気分を味わい、引いては、偉くなった気分になるのでしょうかね。

まー、個々人の性格による事なのでしょうが、謝らせて、大満足と言う人も居られることでしょうが、性格によっては、謝らせた結果、なんか後味の悪さを感じてしまう人もおるでしょうね。

その時には、張り切って、勢いで、謝らせちまったけれど、後で、やり過ぎだったなー。この次ぎに逢う時には、ちょっと、気まずいなー。なんてね。

次に逢った時には、この間は、強い事言っちゃって、悪かったなー。なんて、謝っちゃったりしてね。その後の関係修復に、却って、骨が折れたりして。なかなか厄介なものですよねー。

しかし、謝罪要求する人は、一般に、強気の人が多いようですから、やはり謝らせた時には、爽快感が強いのでしょうね。その後の人間関係などに心を使わない人も多いでしょうからね。目先の爽快感、征服感のようなものが、優先するのでしょうね。

ところで、余談ですが、と言っても、全部余談の様なものですからお断りする迄も無いことですが、偏見と独断によりますと、くれぐれも、偏見と独断ですからね。一般的に、通用するものとは限りませんよ、誤解の無いように、お願いしますよ。

と、前置きしてですね、皮肉な事に、強く謝罪要求する人は、実は、往々にしてですよ。多分、多分、おそらくですよ。このような人は、自分は謝るのが大嫌いな人ではないでしょうか ? 謝るのが大嫌いな人に限って、謝りなさいよー、と大声をあげる人が多いようですよ。

たとえば、責任に付いても、ですよ。責任、責任と大声を発する人、強烈に責任を追求する方は、えてして、自分の責任には無頓着であったり、必至で回避する傾向が、強いようですよ。

序でに、たとえば、反省についてもですよ。自己主張の強い人は、反省をしないと言う特徴があるようですよ。自分のことは、棚に上げて、他人の批判をあれこれ言うのが大好きみたいですよ。

蛇足でした。これは偏見と独断によるところですからね。多分、多分のおそらくですからね。断定は致しませんから。誤解なさらないで下さいませよ。マジで。

ここは、あまり深入りしない方が、良いかも知れませんなー。後で、謝罪要求が来たりして。

先に、謝っちゃおーっと。軽卒なことを言っちゃって、申しわけ御座いません。御免、御免。勘弁して下さい。

 

ところで、謝罪しなくてはならないとか、謝罪しなくとも良いとかは、一体、誰が決めただよ。憲法で決まってるのか ?

誰が決めただと。憲法だと。

ふざけた事、言うんじゃねーよ。

そんなことは、とーの昔から決まってることだよ。昔のそれは、それは、とても、とても、えれー人が決めただよ。

えれー人って、誰だよ。

えれー人は、えれー人よ。

たとえば、誰だよ。

たとえば、たとえば、それは、お釈迦様だよ。

釈迦様に文句あるだか ? 

おめー、お釈迦様にタテつく気か ?

釈迦様に、タテつく気かって。

釈迦様が、そんなこと決めた証拠があるのか ?

あるだよ。あるだよ。おら-、堅く信じているだよ。

そんなこと言うなら、お釈迦様は、決めなかったと言う証拠を出せよ。

出してみろってんだよ。

何だと、決めたと言う証拠を出しもしねーで。

おら、信じてるだと。それなら、決めてねー、とオラは信じてるだど。

大体において、お釈迦様は、煩悩を捨てるように、説いているだぞ。

煩悩とは、簡単に言えば、欲望のことだよ。

だから、欲望を持ち続ければ、その欲望が叶わないと、不平を言ったり、不満を持ったりして、苦悩するハメに陥るだぞ。

だから、欲望を捨ててしまえば、不満なんぞ起きないと言うことよ。

だから、謝って欲しい、と言うことも、一つの欲望だから、そんな欲望を持っているから、相手が謝罪してくれなければ、腹の虫が納まらねー、とムカムカしなければ、ならねーのだよ。精神衛生上、良くネーだぞ。

謝って欲しい、などと言う欲望を捨ててしまえば、謝罪がどうのこうのと言う、小めんどくさい事は、発生しないのよ。

だから、お釈迦様は、迷惑や損害などを掛けた場合には、謝罪しなければならない、なんと言うケチなことは、決めっこねーんだよ。分かったか。

おー、おー、長々と小賢しい事言うではないかい。

釈迦様に、聞いて来たような事言いやがって。

だいたい、おめー、お釈迦様に逢ったことがあるのかー。

おまえなー、無茶言うなよ。お釈迦様は、紀元前のそれは、それは大昔の人だよ。いくらなんでも、逢えるわけねーだろうが。バカ言うでねーだよ。

バカで悪かったな。ああ、バカで悪うござんしたね。どうも済みませんでしたね。バカで。

おいおい、そーふてるなよ。ハズミで言っただけなんだから。気分を害したか。悪かったなー。謝る。ゴメン。

おっ、やけに素直でねーか。いーよ。オラー心が広いから、こんなことくれーで、謝れだのどうのとか、兎や角は言わねーだから。政治家みてーに、素直に御免と言わずに、遺憾に思うなどと、誤摩化さねーところが、気に入ったよ。

大体、誰が決めようが、決めなかろーが、他人に迷惑掛けたら謝るのが当たりめーではないか。このスカポンタン

オット、今度は、スカポンタンと来なすったな。

そしたら、結果的に、相手に、迷惑や損害などが掛ったとしても、わざとやった訳ではないし、悪い事したと思っていなければ、謝罪する必要はないわけだなー。

それは、謝罪どうのこうのと言う以前の問題だよ。迷惑掛けたと気づいていねーんだから。謝りっこねーよ。

相手から、謝罪要求が出されて、初めて、事態に気が付くだよ。

そーしたら、相手が、迷惑や損害などを掛けられてはいないと思っている場合は、どーなるだよ ?

それは、謝罪要求はしないだべ。迷惑かけられた、と思ってねーんだから。

おらー迷惑や損害などを掛けたので、謝ろうと、思ってる場合があるな。

要するに、相手はともあれ、謝らなくては、自分の腹の虫が納まらねー、って言うことがあるな。

あるか、そんなこと。変わりもんではないのか。

いーかい。「謝罪者」が謝ると言ってんだよ。それを、「被謝罪者」が断ったとしたら、どうなる。

謝罪者」は、相手の「被謝罪者」のことを思って、謝りてー、と言ってんだよ。それを断るとは、どー言うことだ。失礼というものだよ。失礼な事をした場合は、素直に謝らなくてはなんねーだよ。

おまえなー、取って付けた、屁理屈を言うんじゃーねーよ。

謝らなくて、いーと言ってるヤツには、謝んなくていーの。

 

人間、その集りである社会と言うのは、とにかくヤヤコしいところが御座いまして、たとえば、この謝るべき事と謝りを求めるべき事が、ハッキリしている場合と、そうではなく、ハッキリしていない場合もありますな。

何か具合の良くないことを、やっちまったなと感じた場合に、すぐに謝っちゃう人も、そーでない人もおりますな。

要するに、謝る側と謝られる側当事者間で、謝罪云々についての同じ認識が成立した時に、謝る、謝られると言う事態が起こるわけですな。当たり前か。

 

さて、「謝罪者」は、端的に言ってしまえば、当たり前のことですが、謝るべき罪となる行為をしでかした側ですな。

これは、一個人の場合も、複数人の場合も、また、人ではなく、一機関であったり、複数の機関であったりする場合が御座いますな。

一方、「被謝罪者」側は、これも一個人の場合も、複数人の場合も、また、人ではなく、一機関であったり、複数の機関であったりする場合が御座いますな。

このようにですね、「謝罪者」、「被謝罪者」と申しましても、色々存在しておりまして、このいずれかの組合わせで、謝ったり、謝られたりするのですな。

ところで、国会などでは、しょっちゅう謝っている人がいますなー。

謝罪なれしちまっていち、一向に、謝罪しているようには、見え無いのが、特徴ですな。

某大臣の言動が、そのことによって、被害を受けた人から、謝罪を求められると、加害者とされた大臣は、最初は中々謝罪をするに至りませんが、時が経過するに及び、マスコミの騒ぎ方が半端無くなると、これ以上不利になってはと、しぶしぶ謝罪に応じる事になったり、時には、止むを得ず大臣の職を辞したりする事態になったりしますなー。

これで当加害者の謝罪問題は、ひとまず決着するわけですが、今度は、次に、当該加害者を大臣に任命した総理の責任を問う事態へと進展するのが、一般的ですな。

そこで、事態がどうも不利であると自覚した任命権者の総理は、まずは、謝罪しなければならないハメに陥ったりする場合が御座いますな。

その時、総理は、決まって、この度の某大臣の任命責任は私にある。よって、この事については、謝罪したいと思っております、などと、いとも簡単に、言いのけますな。まるで、もはや、人ごとのようですよ。

この総理の発言よって、マスメディアの多くは、総理謝罪したように報じるのが一般的となっているように感じますな。

しかし、この総理の発言は、謝罪になってないのですよ。

謝罪したいと思っている、と言う、総理の思いを述べただけで、正式に、謝罪する主体が、「被謝罪者」に対して、謝罪をした、と言う事態ではないのですよね。

例えば、お金を借りて、返済を求められた時に、「返済したいと思っている」と言うだけでは、返済したことにならないでしょう。

だから、謝罪したいと思うだけでは、多分、総理は自己の犯した罪を認めて、大いに反省し、そのことによって迷惑・損害を被った人(側)に、謝罪したとは思っていないでしょうね。正直な話。

その証拠に、同じような過ちを、何度も繰り返し、その度に「責任は、私にある。ご迷惑をお掛けしたことに対しては、謝罪したいと、思っている。」と、しょっちゅう繰り返していますよね。心当たりあるでしょ。

このような場合は、言葉では「謝罪」と言いますが、それはまさに形式的・儀式的なもので、心は全然込められておりませんよね。心など、スッカラカン、空っぽですよね。

 

このような、例に見られるように、謝罪には、心が込められ謝た罪と、全然心が込められていない謝罪が存在するのですね。

これが、謝罪云々に関る一つの問題点ですなー。

謝罪者」と「被謝罪者」が個人の場合は、謝る側と謝られる側が、明確ですから、謝罪に心が込められているか否かは、当事者間の心情に関わることですなー。

結局は、「謝罪者」が心から謝っているか、形だけのものなのかの判断は、「被謝罪者」の受け止め方にあると言うことになりますなー。つまるところは、信じるか、信じないかの世界ですなー。

所詮、他人の心の中は、本当のところを、知ることが出来ませんから、信じるか、信じられないか留まりになるより仕方がありませんな。となれば、当事者の性格による、と言うことになりますかねー。

これが、個人ではなく、複数の場合とか組織の場合は、心が込められている謝罪か否かは、極めて難しい判断となりますなー。

 

テレビなどで良く見られる企業の謝罪会見などは、率直な話、心がどうのこうのと言う事態では御座いませんな。

問題は、企業の利益に関る行為としか見えませんな。だから、謝罪と言っても、思いっきり形式的なものですな。言ってしまえば、するか、しないかの違いに重きがあり、することが、当該企業の利益に繋がる、と言うことですよ。

企業の謝罪会見なんて、実に、意味の無い側面があったりするのですよ。

企業の謝罪会見では、通常、数名の役員の方々が、マスメディアのカメラ・マイクに最敬礼しておりますなー。

この役員さんの心中を慮(おもんぱか)りますに、まさに、自分がやっちまった罪であれば、謝罪するに足る存在でしょうが、何代か以前の連中の失敗が、今になって問題化され、謝罪しなければならない事態であれば、現在当該企業の代表役員であるから、立場上、謝罪の場に臨まなければならないのは、止むを得ないことであろうが、謝罪の内容は、自分とは何ら関係の無いことなのですよ。

と言うような、ケースは往々にして、御座いますね。

私は、本来全然関係がないのに、何で、こんなにとっちめられ、謝罪させられるのだ。

会社の立場上、やらなきゃならないだけで、原因を作った連中は、いい退職金を手にして、とっくに、おさらばかよ。

なんで、最敬礼している時間を、比べられなきゃならないのだ。長けりゃいーというものでもあるまいし。しかし、すぐに頭をあげたら、とたん に、どうのこうのと言われるし。たまったもんじゃーねーや。と言う思いが、どこかにあるのではないでしょうか。きっと、ありますよね。お察しいたします よ。

だから、企業の謝罪会見など、本来的にあまり、意味が御座いませんなー。

でも、ちゃんと形式を整えて、やらないとねー。営業成績にかかわりますからねー。

 

これは、個々人間の謝罪にも同様なところが御座いますな。

前に言ったように、人間の心の中は、本当には知ることが、不可能ですからね。

表面的には、いくら丁寧につくろっても、心中で、アカンベーしているかも知れませんしね。

とすると、「被謝罪者」は、何故に、強く謝罪を求めるのか、と言いますと、それは、表面的に、頭をさげさせる、その行為をさせるため、と言うことになるのでしょうかね。

結局のところは、「謝罪者」に格好の悪いことを行わせ、判り易く言うと、無様な格好を行わせることにより、「被謝罪者」が溜飲を降ろす、と言うことなのでしょうか。

簡単に言えば、「謝罪者」に屈辱的な行為をさせる事により、「被謝罪者」はスッキリし、清々し、優越感を感じ、偉くなったような気分を味わう。と言うのが、謝罪の実の内容であったりするのですかね。

結局は、個々人間の謝罪は、「謝罪者」側と、「被謝罪者」側の気分の問題と言うことなのでしょうね。気分となれば、個々人の性格に根ざすものなのでしょうね。

 

てな事でして、この辺で、一度、止めにします。

謝罪に関するアホくさい、バカバカしい、クダラないヒマ潰しの話でした。

落ちが無いのが、落ちだね。

お疲れ様で、御座いました。

 

お後がよろしいようで。