《停念堂閑記》89
「日比憐休独偏記」24
「謝罪 ? 2」
本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお出で下さいました。
厚く御礼申し上げます。
たまーに、やっておかないと、何だこれ、と言うお客様もおいでかと存じますので、久しぶりに解説しておきます。
と、申しますのは、「停念堂閑記」と言う名称についてで御座います。
「停念」は、思考が停止すると言う意味で使っているのですよ。そして、これが何と、定年退職の「定年」に懸けてあるのですよ。
早い話が、定年になって、思考が停止した状態を意味しているのですよ。
そして、「閑記」は、定年になって、とにかく、ヒマな時間が、出来ましたので、停止している思考で、ヒマ潰しに、何か書いみようと言うことなのですよ。
因に、号は「日比憐休」と言うのも使っていますよ。
「日比」は、初めはダイレクトに「日々」にしようかと思ったのですが、ちょっと捻りましてね、「日比」にしたのですよ。ひごろ = 日頃 = 日比と言う繫がりでね。
要するに、日ごろ、毎日の意味で使いました。
それから、定年になって、毎日連休になったものですから、連休をちょっと捻って、「憐休」にしました。定年前は、連休が待ち遠しかったものですが、定年後は、毎日連休、閑を持てあますので、「憐 = あわれむ」の方がピッタリかと思いまして、「憐休」にしました。
と言うことでして、日比憐休の「停念堂閑記」で、ヒマ潰しをやっていると言う次第で御座います。
と、言う次第でして、本当に、よくいらっしゃいました。大歓迎で御座いますよ。と言うことになるのですよ。
と申しましても、高価な美味しい物でおもてなしをするわけでも、肩をお揉みするわけでも、温泉に入って、冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも御座いません。
粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。
このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。
強いて、幾分カッコ付けて申し上げますれば、心の問題とでも言いましょうかね。
おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。
いくら込めても、心には、お金がかかりませんからね。ただただ気の持ち様の問題ですから、私のような貧乏人でも、何とかなると言うものなのですよ。
そんな訳で、気の持ち様に配慮致しまして、大歓迎と言うことで御座いますから、今日も、心置きなく、ヒマ潰しに、どうぞお付合い下さいませ。
話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、良いのですよ。
夜、寝られなくなったりしませんからね。もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。
なぜアホくさい、バカバカしい、クダラない話なのか、と問われますと、決まってるでは御座いませんか。そんなこと。
格言にあるような立派な話は、容易には出来ないからですよ。
私の考えつくような事は、既に、先人がみんな言っちゃつてますからね。二番煎じは、迫力、御座いませんよ。
でも、ヒマ潰しをしてはいけないと言う法は御座いませんから、しゃー、しゃーと図々しくやり続けると言うわけなのですよ。
そりゃーね。私だって、かねがね立派な、意義深い話をしたいものと、思わないではないのですよ。しかし、甚だ残念では御座いますが、難しくて旨く出来ないのですよ。
「うまく」と入力しますと、「旨く」になっちゃうのですから、なかなか上手くまいりません。
分かりました。ですって!
もー、分かっちゃったのですか ?
お客様、幾らなんでも、ちょっと、早過ぎはしませんか。
たとえ、分かっちゃっても、ですねー。
そんなことはないでしょー、とか。
ちょっと、ひと呼吸間をおいてからとか。
それくらいの気遣いがあっても、良いかなー、なんて思ったりもするのですよ。
世間では、忖度したあまり、国のお役所の公文書を改竄したりしているのですよ。
ああそれなのに、ろくに説明もしていないのに、いきなり分かられてもねー。
トホホホホー。なさけねー。
一人で、やってろ。ですって!
あのですねー。一人でって、こんなこと二人でやってられますか、ちゅーの。
こんなこと、二人で向かい合って、心太でもすすりながらやろうものなら、たまったものではございませんよ。ホント。
視線をどこに置けばいいのです。定まりませんよ。
とは言え、一人遊びは、けっこう慣れてますので、大して気にはなりませんが。
なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。なんとか、ヒマと言うものをあの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のないことを、くどくどと交えたりしましてね。
これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。
私だってですね、たまには、気の利いた話をしたいものと、常日頃思わなくはないのですよ。
時には、少しは思うことも、たまには、ちょっとだけないこともないのですよ。
強いていえば、僅かながら、かすかにあるにはあるような気もするのですよ。
しかしですね、これが中々旨く、いや上手く行かないのですよ。思うだけではねー。
言うまでもなく、この手のことは、能力に関ることなのですよ。
持って生まれた能力は、残念ながら、俄に、どうこうできる代物では御座いませんよ。
その上、停念状態になってしまいましたからね。
嘆いても仕方御座いませんので、精々、得手・不得手と言うあたりで、何とかならないものかと、もがいたりするのですよ。
その結果が、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話と言う辺りに落ち着くことになる、と言う次第なので、御座いますよ。
分かりました。ですって!
えー、もー、分かっちゃったのですか ?
また、お客様に、たちどころに、分かられちゃいましたなー。
たとえ、分かっちゃっても、ですよ。先ほども言ったでしょー。
そんなことはないでしょー、とか。
ちょっと、間をおいてからとか。
それくらいの気遣いがあっても、良いかなー、なんて思ったりしてね。
一人でやってろってんでしょー。
こっちだって、一度言われれば分かりますってーの。
一人でやるのは、けっこう慣れていますから。
ところで、マクラはこれっくれーに致しまして、本日の本題に取っ掛かる事にしましょう。
本題なんて偉そうに言ったところで、大した事では御座いませんよ。
最近は、とんと買わなくなってしまいましたので、ほんの (〈本 = ブック〉に掛けている積もり。お見逃しの無いように、お願いしますよ。) 僅かなものですよ。
おっと、これは、本代か。紛らわしいね。まったく。本当に(〈本 = ブック〉に掛けている積もり)。
ハイハイ。この手のことは、言われなくとも、一人でやりますよ。他所様のお方のお手を煩わせは致しませんから。どうぞ、ご安心を。
本日(まだ〈本 = ブック〉に懸けている積もり)は、ダジャレの解説付き、と言う特別のサービスを致しております。
さて、本日はですね。いつも通りの行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話をと思うのですよ。
そんなこと、初めから判ってらー、ですって。
またまた、判られてしまいましたなー。
まー、話が早くて、手間かからずで、結講な事ですわ。
しかし、ですね。いくら下らない話とは言え、少しはですね、真面目な部分もあるのですよ。ホント。
どーかねー 、って ? ? ?
ところが、真面目が入ると、たちどころに、面白味が減退してしまうのですよ。
したがって、ちっとも、面白く御座いませんよ。
私の方と致しましては、面白くなくても、一向にかまわないのですがね。
大体、世の中、面白い事ばかりでは、つまらないでしょー。
人間ツァー、勝手なものでしてね。面白い事ばかり続くと、ちょっと、おもしろくねぇーな。なんて感じたりするものなのですよ。
面白くないことの中に、面白いことが起きると、これが、とっても、面白く感じられるのですよ。なんか、儲かっちゃった気がしたりしましてね。
面白いところに、面白いことがやって来ると、またかー、なんて感じたりするわけですよ。慣れっこになって、だれて来ますから。
だから、私は、思いっきり面白くない方の担当と言うことで、やらせて頂いているので御座いますよ。まー、人助けの一つとでも言いましょうかね。
ですから、面白くなくても、私の方は、一向にかまわないのですよ。
要は、ヒマ潰しが出来れば、もー、大満足なのですから。
ところで、あのー、ですね。真面目な話、と前置きして、真面目な話をする人は、私を除いては、殆どおりませんよ。皆無と言って、いいかな。ホント。真面目な話。マジで。
皆様、どなたもご承知のとおり、正直な話と前置きして、本当に正直な話をなさる方は、殆どおりませんでしょ。
ウソは言っておりません。と力説される方で、ウソをつかない方は、めったにおりませんよ。私を除いては。ホント。
これは、正直な話、ウソでは御座いませんよ。ホント。ホント。
全く知りません。一切関係しておりません。絶対に、そのような事はありません。なんて言う人、よくテレビに出ていますよね。
あれは、ウソですよ、と言う別表現ですから。
一命を懸けて、とか、全身全霊で、なんて、いとも手軽におっしゃられる方をお見かけ致しますが、そう言う人に限って、ほとんど当てになるものでは御座いませんよ。
全く、とか、一切、とか、絶対に、とかを好んで使う場合は、単にその場凌ぎの弁解にすぎませんよ。全く、一切、絶対などには、全く、一切、絶対に心が込められておりませんから。
「一命を懸けて」、なんと言って、本当に一命を掛けた方など、ついぞお会いした事は、御座いませんよ。
その場を凌げれば、後は野となれ山となれ、はたまた水溜りとなれ、池となれ、沼となれ、湖となれ、海となれ、と言うのが現実ですよ。何でも、並べれば良いと言うものでは御座いませんが。事は、ついでですから。悪しからず。
ついつい、すっかり、真面目な話に陥ってしまいました。
これでは、ヒマ潰しには、不向きですな。もっと、もっと、アホくさい、バカバカしい、クダラない話で無くてはなりませんよ。
とにかく、本来、根が真面目なもんですので、すぐにお堅い話に向って行ってしまうのですよ。
エッ。何か疑問が御座いますか。
余計な疑問は、持たない方が、良いですよ。お互いの為に。
ねー、信頼しあってこそ、成り立つ世の中なのですから。
とにかく、他の人はともかく、私の真面目な話は、絶対に信用なさって、損は御座いませんから。疑問を持たれないように、念を押しておかなくてはね。念には念を入れ、万事、丁寧にと総理も言ってましたからね。
善悪はともかく、丁寧に、こま目にやっておかなくてはね。
待てよ。総理と一緒では、不利かな。人間性を疑われてしまいますからね。気をつけなくては。ホント。
さて、世の中には、アレー、ちょっと・・・?? と感ずる事が、時々御座いますよねー。
つい先日も、竜巻発生の後の被害状況が、テレビで、放映されていた時ですが、実況中継の某テレビ局の若いアナウンサー(リポーター)が「屋根の瓦が、完全に吹き飛ばされております」と状況を報じているのですが、映像では、瓦が全然飛ばされていない屋根が放映されているのですよ。アナウンサー(リポーター)さん、見え見えのウソを言ってはいけませんよ。と言う場面がありましたね。
あれは、予め作っておいた原稿を読んじゃったのかね。実況の映像と、合っていなかったりして。
竜巻のすごさ、被害の状況を、大袈裟に言いたい気持ちが、逸(はや)ってしまうのですかね。混乱している時こそ、冷静沈着な報道に努めて頂きたいものです。
些細なことが気になってしまうのが、私の悪い癖なのですよ。
些細なことが、気に掛かってしまうのが、ボクの悪い癖、と言うのは、杉下右京さんの口癖ですね。
因に、右京さんのあのセリフは、真っ赤なウソですよ。右京さんが気に掛ける些細な事は、いつも、問題解決の鍵になっているのですからね。
一方、私の気になる些細な事は、文字通り、些細な行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話ですよ。正直な話、絶対ウソでは御座いません。当人が断言していますから。なにせ、気楽なヒマ潰しの話ですからね。
それで、今、アレー・・・?? ちょっと、と気に掛かっている些細な事とは、どのようなことかと言いますと、「謝罪」と言う事についてなのですよ。
これが、なんと、前回の続きのようなのですよ。
だから、重複するところが、あるのですよ。
よって、初めに、謝っちゃおーと。
どうも、相済みません。御免なさい。御勘弁して下さい。
所詮、ヒマ潰しですので、悪しからず、ご海容のほどを、お願い致します。
世の中、至る所で、しょっちゅう、日常的に「あやまれー」「謝罪せよ」と言う叫びが聞かれますなー。
謝って貰いたいという人、あいつを謝らせたいと思う人が、とにかく、いっぱい存在しておりますなー。
謝りたくてしようがない人は、あまりいないようですが。
しかし、すぐに謝っちゃう人は、多く見かけますよね。
八百屋さんの店先で、謝っている人などよく見かけますよ。
たかだか、大根1本を買うのにね。
「すみませーん」、大根1本下さい。なんてね。
缶ジュース1本買う時にでも、まとめて100本買う時も、まずは、「すみませーん」と言う謝りの言葉で、始める人が多いようですよ。
たった1本で、お手数をお掛けして、「すみません」ね、と言う意味ですかね。
はたまた、100本もまとめ買いして、「すみません」ね、と言う意味ですかね。
それでは、何本だったら、「すみませーん」とやらなくていいのかね ?
お店屋さんの方は、商売だから、1本であろうと、100本であろうと、買ってもらえれば、良いわけでしょ。売ってやったからと言って、謝られるこたーねーでしょうなー。
しかし、いちいち「すみません」をやる方が多いですよ。
よほど、謝るのが好きなのでしょうかね。
しかし、いくら、謝るのが好きな人だって、自動販売機に謝る人は、いないでしょうな。
いますか ? たった1本で、「ごめん」「ごめん」と謝ってるヤツは、いませんよね。
ヌっ! いる ??? 昨日見たって。
ちょっとやばくねー。
まー、このように、日常的に、習慣的に、「すみません」と前置きする方は多いでしょうが、これは、殆ど謝罪的な意味合いは無いのでしょうね。
きっと、本来的には、他人の手を煩わせるような場合には、お忙しいところ、申し訳御座いませんね。と言うような意味合いで、「すみません ね」、などと言ったのでしょうが。それが、慣例化して、特に、相手にお手を煩わせる場面でもないのに、つい、口から出てしまう、と言うくらいの事なのでは ないのでしょうかね。
きっと、ヨーロッパなどでは、あまり見かけない慣例なのでしょうな。
日本のこような文化は、なかなか分かり難い側面を持っていますなー。
普通は、謝罪が好きで、すぐにしたがる人は、極めて稀と言って良いでしょうなー。
しかし、とにかく、当世、色々な場面で、「謝罪」云々に関ることが、取り沙汰されておりますなー。
最近、「謝罪」に関して、世間で騒がれたのは、日大アメフト部のルール違反に関る反則事件ですなー。
関西学院大学のアメフト部との試合で、日大チームの1選手が、やってはならない、あってはならない反則プレーをしでかし、関西学院大チームの選手を怪我させてしまった。
このプレーが、大々的にマスメディアで取り上げられましたな。
このプレーを巡って、マスメディアの主張は、反則を犯した日大側は、速やかに「謝罪」すべきなのに、なかなかそれが無い、と批判的な報道を、毎日毎日、繰り返し繰り返し、報じ続けましたな。
なんと言いますか、マスメディア側は、日大側の謝罪がないので、じれている感じがしましたね。
きっと、早々に、良く見かける企業の謝罪会見のように、日大の幹部数名が、報道のカメラ・マイクに向かって、最敬礼するシーンを欲していたのでしょうね。
ところが、それがなかなか御座いませんでしたね。
そして、しばらくしてから、反則ブレーをしてしまった日大の選手が、単独で謝罪会見に臨みましたな。
待ちに待っていた報道側は、飛びつきましたな。
そして、反則プレーをしてしまった選手から、スポーツマンとして、やってはならない行為をしてしまった事を認め、関係者に対する謝罪の弁が御座いましたな。そして、反則行為を行うに至った選手側の認識についての説明もありましたな。
対して、マスメディア側の応対はと言うと、言ってはなんですが、大歓迎的な印象を感じましたな。
端的にいえば、顔を晒して、自己の犯した反則プレーを認め、それに対する謝罪を率直に行った行為を勇気と評し、大変高く評価し、反則プレーをした選手の謝罪行為を誉め称えていましたな。
このマスメディア、特に、ワイドショー系の番組のはしゃぎぶりに、アレー、チョット・・・? と言う感じはありませんでしたか。
所詮、偏見でございましょうが、反則プレーなんぞは何処かへ、飛んで行ってしまった感が御座いましたよ。
うんと分かりよく言えば、勇気を出して謝罪した選手は偉い、反対に謝罪していない大学側は、どうなっているのだ、と言う批判にまっしぐらに突き進んでいきましたなー。
そして、ワイドショー系の番組では、早急に謝罪会見に臨むべきなのに、そうしない大学側の批判を大々的に展開し始めましたなー。
結局は、日大の危機管理体制は、どうなってるのだ、と言う方向へ直進しましたね。
さっさと謝罪しなければ、日大の評判にかかわりますよ。在学生だって、就活の時に、不利になりはしませんか。ひいては、受験生が減ってしまいはしませんか、と日大の将来の心配を報じだした次第でしたよ。
本来は、日大アメフト部の反則行為がテーマだったのでは御座いませんか。
それが、あっという間に、日大の将来を心配いているのか・・・。
と、言う事態の出来に、アレー、チョット・・・? と感じませんでしたか。
そもそも、日大の危機管理体制の是非などは、日大側の心配する問題であって、外部の推奨する形で、行われなくてはならないものなのですかね。
第三者が、どうなっているのだ、と大騒ぎして、心配する存在でもないような気がするのですが。そのように思うこっちが、常識はずれなのでしょうかね。
そして、さらに、専ら日大の大学としての経営のあり方へと、視点を向けていきまして、反則プレーの方は、どうなっちゃったのか、と言う感じでしたよ。
このような状況を見せられますと、とにかく、ワイドショウ系の番組の常識は、謝罪は一刻でも早く行うべし。それも、「謝罪者」側の最高幹部が勢揃いして、最敬礼のスタイルで行うべし。そして、頭を下げる時間は長い方が良し。と言うスタイルである、と言う感じが致しますなー。
これが、マスメディア、特に、ワイドショー系の番組が推奨する現今の「謝罪」のあり方の常識なのか、と言う感じがしますね。頭を下げている時間をストップウオッチで、計測しているような有様ですよ。
ねー、ねー、ちょっと・・・・・? と感じませんか。
失敗を犯したと感じたら、兎にも角にも、マスメディアを通して謝罪会見を行い、謝っちまう形態を整える事が、危機管理体制がしっかりしている、と評価されることになるのですかね。
日大のアメフト反則事件も、直ちに、日大の幹部が勢揃いして、謝罪会見を行い、どうも済みませんでした、以後、二度とこのようなことの無いように、誓います。とやってしまえば、この事件は、一件落着、収束を迎え、日大の危機管理体制はさすがだ、と評価されることになるのですかねー。
なんか、チョット・・・ ? と、言う感じがしませんか。
すなわち、「謝罪」は、形式を整えることが、まずは肝心なのだ、という風潮が気に掛かるのですよ。
もっとも、「謝罪」自体は、前に言いましたように、「謝罪者」と「被謝罪者」の心情に関る事と思われます。
心情、すなわち心の中は、当の本人にしか分からないものですから、「謝罪」と言っても、心が込められたものか、頭は下げるが、腹の中では、アカンベーで舌を出しているのか、知れたものでは無い側面があるのですよ。
ですから、「謝罪」の本当の内実は、「謝罪者」のみが知ることで、「被謝罪者」側では、信ずるか、信じないかの問題と言うことですなー。
「謝罪」の捉え方は、色々であろうと思われますが、心情に関る事であるので、「謝罪者」の心の中迄は、見透かすことが出来ないのですよ。
「謝罪」は、本来的に、このような性格の側面を持つものですから、ここにおいて、外部からみえる形式に重みを置かざるを得ない側面がある、と言うことになるのでしょうね。
謝罪する事は、一般的に、格好の良くない事です。例えば、恥となる嫌な事です。そこで、「被謝罪者」は、「謝罪者」の心の中のことはともかくとして、外部からでも確認できる「謝罪者」が恥となる嫌な形式を求めることになるのでしょうね。
それが、マスメディアの下す社会的制裁だ、と言うことになるのでしょうね。
と言うような訳でして、世間で騒がれる「謝罪」の一側面について、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた立場から、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた話に仕立ててみたのですが、ヒマ潰しのお役にたったでしょうか。
「謝罪」は、まだまだ色々な側面を有しているように思われますので、続きは、また、次回にと言うことにしたい、と思います。
面白くもない話で、誠に申し訳御座いませんでした。深くお詫び申し上げます。陳謝。陳謝。
それでは、どうもお疲れ様でした。
お後がよろしいようで。