《停念堂閑記》90

「日比憐休独偏記」25

 

謝罪 ? 3」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお出で下さいました。

厚く御礼申し上げます。

本当に、よくいらっしゃいました。大歓迎で御座いますよ。

と申しましても、高価な美味しい物でおもてなしをするわけでも、肩をお揉みするわけでも、温泉に入って、冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますれば、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、良いのですよ。

夜、寝られなくなったりしませんからね。もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。なんとか、ヒマと言うものをあの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のないことを交えたりしましてね。

これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

私だってですね、たまには、気の利いた話をしたいものと、常日頃思わなくはないのですよ。

時には、少しは思うことも、たまには、ちょっとだけないこともないのですよ。

強いていえば、僅かながら、かすかにあるにはあるような気もするのですよ。

しかしですね、これが中々上手く行かないのですよ。思うだけではねー。

言うまでもなく、この手のことは、能力に関ることなのですよ。

持って生まれた能力は、残念ながら、俄に、どうこうできる代物では御座いませんよ。

嘆いても仕方御座いませんので、精々、得手・不得手と言うあたりで、何とかならないものかと、もがいたりするのですよ。

その結果が、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話と言う辺りに落ち着くことになる、と言う次第なので、御座いますよ。

さて、本日はですね。いつも通りの行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話と言うことには、なんら変わりは御座いません。

しかし、ですね。いくら下らない話とは言え、少しはですね、真面目な部分もあるのですよ。ホント。

 

どーかねー 、って ? ? ?

ホントですって。

ところが、真面目が入ると、たちどころに、面白味が減退してしまうのですよ。さーっと、引いてしまいますよ、

したがって、ちっとも、面白くなくなってしまうのですよ。

私の方と致しましては、面白くなくても、一向にかまいはしないのですが。お付合いくださる方はねー。やんなっちゃいますよねー。

しかし、世の中、面白い事ばかりでは、つまらないのですよ。

人間ツァー、勝手なものでしてね。面白い事ばかり続くと、ちょっと、おもしろくねぇーな。なんて感じたりするものなのですよ。

面白くないことの中に、面白いことが生ずると、これが、とっても、面白く感じられるのですよ。なんか、得しちゃった気がしたりしましてね。

面白いところに、面白いことがやって来ても、またかー、なんて感じたりするわけですよ。慣れっこになって、だれて来ますから。

だから、私は、思いっきり面白くない方の担当と言うことで、やらせて頂いているので御座いますよ。まー、人助けの一つとでも言いましょうかね。世のため、人のためですよ。慈善事業ですよ。

アホ抜かせ、ってですか。

ですから、面白くなくても、私の方は、一向にかまわないのですよ。

要は、ヒマ潰しが出来れば、もー、大満足なのですから。

ところで、あのー、ですね。真面目な話、と前置きして、真面目な話をする人は、殆どおりませんよ。皆無と言って、いいですよ。

ただし、私を除いてはね。ホント。真面目な話。マジで。

皆様、どなたもご承知のとおり、正直な話と前置きして、本当に正直な話をなさる方は、殆どおりませんでしょ。

ウソは言っておりません。と力説される方で、ウソをつかない方は、めったにおりませんよ。私を除いてはね。ホント。

これは、正直な話、ウソでは御座いませんよ。ホント。ホント。マジで。

全く知りません。一切関係しておりません。絶対に、そのような事はありません。なんて言う人、よくテレビに出ていますよね。

あれは、ウソですよ、と言う別表現ですから。

一命を懸けて、とか、全身全霊で、なんて、いとも手軽におっしゃられる方をお見かけ致しますが、そう言う人に限って、ほとんど当てになるものでは御座いませんよ。

全く、とか、一切、とか、絶対に、とかを好んで使う場合は、単にその場凌ぎの弁解にすぎませんよ。全く、一切、絶対などには、全く、一切、絶対に心が込められておりませんから。

「一命を懸けて」、なんと言って、本当に一命を掛けた方など、ついぞお会いした事は、御座いませんよ。

その場を凌げれば、後は野となれ山となれ、はたまた水溜りとなれ、池となれ、沼となれ、湖となれ、海となれ、と言うのが現実ですよ。何でも、並べれば良いと言うものでは御座いませんが。事は、ついでですから。悪しからず。

ついつい、すっかり、真面目な話に陥ってしまいました。

これでも、でしてね。わたしゃー、世間では、真面目で通っているので御座いますよ。嘘ついた事など御座いませんから。

嘘吐きは、ドロボーの始まりと言われますから、嘘をついたら、末はドロボーになるしか手が御座いませんから。

嘘ばっかりついている政治家と言われている連中の行く末は、やっぱり・・・になるよりないのかね・・・?

私は、嘘吐きと言われたことは御座いませんよ。専ら、ホント吐きと言われていますから。嘘じゃないよ。

エッ。ホント吐きなんて聞いた事はないって、ですか。

そうでしょうね。私も初めて言いましたよ。

だから、最初に言ったでしょ。

真面目と前置きして、真面目な話をするヤツはいないって。

私の話には、ウソは御座いませんよ。ホンマ。

とにかく、本来、根が真面目なもんですので、すぐにお堅い話に向って行ってしまうのですよ。

エッ。何か疑問が御座いますか。

余計な疑問は、持たない方が、良いですよ。お互いの為に。

ねー、信頼しあってこそ、成り立つ世の中なのですから。

とにかく、他の人はともかく、私の真面目な話は、絶対に信用なさって、損は御座いませんから。疑問を持たれないように、念を押しておかなくてはね。念には念を入れ、万事、丁寧にと総理も言ってましたからね。

善悪はともかく、丁寧に、やっておかなくてはね。

待てよ。総理と一緒では、不利かな。人間性を疑われてしまいますからね。気をつけなくては。ホント。

 

さて、世の中には、アレー、ちょっと・・・?? と感ずる事が、時々御座いますよねー。

それで、今、アレー、ちょっと・・・?? と気に掛かっている些細な事とは、どのようなことかと言いますと、「謝罪」と言う事についてなのですよ。

前回の続きで御座います。

前回、前々回の続きで御座います。

したがって、焼き直し、蒸し返しの連続で御座います。

初めに、謝っておきます。

御免なさい。勘弁して下さい。

 

世の中、至る所で、しょっちゅう、日常的に「あやまれー」「謝罪せよ」と言う声が聞かれますなー。

謝って貰いたいという人、あいつを謝らせたいと思う人が、とにかく、いっぱい存在しておりますなー。

 

人間、本来、謝ることは、あまり好きな事ではないですよね。

謝ったり、謝らせられる事は、格好が悪いことで、嫌なことですよね。

どっちかと言うと、仕方がねーや、としぶしぶやらなくてはならない事ですよ。

屈辱を感ずる、やなこってすよねー。

だと思うのですが、これが、何時も何時も、気軽に謝っている人が、実に多いのですよ。特徴的な日本文化の一つに上げてもいいでしょうなー。

謝る時に、よく使われる言葉は、

「すみません」

「御免なさい」

「申し訳御座いません」

「悪う御座いました」

などですよね。

八百屋さんの店先で、「すみませーん、大根1本下さい。」なんて、いきなり謝っちゃう人など、珍しくないですよ。

そーしたら、八百屋のオヤジが、「そーか。謝られたんでは、しゃーねーな。今日は、大根1本で赦してやる。」となるのですかね。な訳ないか。

と思うと、ラーメン食べに来た人が、ラーメン店に入って、いきなり謝ってますよ。「すみまーん。ミソひとつ」なんてやってるのですよ。ミソラーメン注文するのに、なんで、まず、謝ってからなのかねー。

留守の家に訪ねて来た人など、

「すみません」「申し訳ございません」「御免なさい」、スズキさーん。いらっしゃいますか。お留守ですかー。なんて、相手がいないのに、三階建てで、謝っている人がいたりしますよ。なにか、よっぽど、失礼なことなど仕出かして、謝りに来たのですかね。な訳ないか。

と、言うように、ですね、兎に角、気軽に謝る人が、やたら多く見かけますよ。

これからは、ロボットにいろいろ仕事をさせるようになりますが、お買い物ロボットなども、きっと開発されるでしょうな。売る側も、販売ロボットを使うでしょうな。そーしたら、お買い物ロボットがやって来て、「スミマセーン。ジュース1本クダサーイ。」とやるのでしょうな。そーしたら販売ロボットが「たった1本かよ。まー、謝られたんじゃー、しゃーねーな。今日は1本で赦してやる。次回は10本にしろよ。」なんてなるのですかね。まさかね。

まー、このように、日常的に、習慣的に、「すみません」と前置きする人が、やたら多いでしょうが、これには、殆ど謝罪的な意味合いは無いのでしょうね。

きっと、本来的には、他人に手を煩わせるような場合には、お忙しいところ、申し訳御座いませんね。と言うような意味合いで、「すみません ね」、などと言ったのでしょうが。それが、慣例化して、特に、相手にお手を煩わせる場面でもないのに、つい、口から出てしまう、と言うくらいの事なのでは ないのでしょうかね。

きっと、ヨーロッパなどでは、あまり見かけない慣例なのでしょうな。

パリのシャンゼリゼの高級宝石店で、「すみませーん。ダイヤとサファイヤとルビーの指輪を三個ずつ下さーい。」って言ってる人は、見かけないでしょうね。

もし見かけたら、それは間違い無く日本人ですよ。きっと。

別に、悪い事をするでも無いのに、いきなり「すみません」と謝っちまうのですから。外人には、分かりづらいでしょうな。

日本のこような文化は、なかなか分かり難い微妙な側面を持っていますなー。

とにかく、当世、色々な場面で、「謝罪」云々に関ることが、頻繁に取り沙汰されておりますなー。

例えば、障害で逮捕された者があると、テレビで、直に取り上げられますなー。そうして、裁判が進行して来ると、それに関る報道がありますが、その時に、犯人からの謝罪の有無が、必ずと言って良い程、問題にされますな。

その後、加害者は、自己の犯した罪を深く反省し、被害者に申し訳ない事をした、と謝罪している、とか、謝罪の言葉は何も有りません、とか、テレビでは、必ずと言って良い程に、謝罪の有無が取り沙汰されますなー。

日本社会においては、謝罪の有無が、随分大きく取り上げられる傾向にあるようですなー。

要するに、謝罪の有無は、加害者、被害者が、持つ心情に関ること、と言って良いでしょうなー。

一般に、「謝罪」に関しては、謝る側と謝られる側が存在しますなー。ここでは、便宜上、謝る側を「謝罪者」、謝られる側を「被謝罪者」と表現することにします。

 

世間には、謝って貰いたいという人、あいつを謝らせたいと思う人が、とにかく、いっぱい存在しておりますなー。

ところで、「謝る」、「謝れ」と言う「謝罪」は、どうして発生するのでしようかね。

謝って貰いたい、あいつを謝らせたいと言う、心情はどうして起こるのか、と言うことについて、アーでもない、コーでもないと、アホくさい、バカバカしい、クダラない話をするのが、本日の主テーマで御座います。宜しく。

子供がなにかやっちまった時に、「謝りなさい。御免なさいは。」と母親が、叱り飛ばし、謝罪を強要てしいるような場面を、よく見かけますよね。ドラマなどで。

対して、子供は、そー易々とは、謝らないことがありますよ。

たとえば、子供には、謝るべき罪の認識が無い場合ですね。

要は、やっちまった内容に関ることでしょうが。

子供は、なんで謝らなくてはならないのか、よく判らない場合がありますよ。

オレは、なにも悪い事はしていない。なんで。謝るもんか、と思いますよ。

母親は、母親の立場、事情と言うものがありますので、そちら方面から、謝罪を強要しますよ。

しかし、子供には、母親の立場や事情などと言うものは、往々にして、理解して無い場合がありますから、そう、易々と謝る気分にはなれませんよ。

やっぱり、大人が、なぜ謝らなくてはならないかの、その理由、状況などを判り易く子供に説明して、だから、謝りなさい、と持って行く必要がありますよね。それを頭ごなしに、ただただ謝れ、と強要されても、子供はそんな気にはなりませんよね。きっと。

それから、素朴に、なんでいちいち謝んなくちゃー、なんねーのだよ。なんて思ったりも、しますよ。

大体、なんで、謝んなくては、ならないのかねー。

考えたことありますか ?

分かり切ったアホなことをぬかすでねーって、ですか ?

相手に、迷惑や損害などを掛けたヤツが、その行為を罪と認識して、相手に謝る、これは当然の事ではないかい。

また、迷惑や損害などを掛けられた側が、その掛けたヤツに、犯した罪を認めて、謝るように要求する事は、当たり前の事ではねーの。

相手に、迷惑や損害などを掛けるヤツがいなければ、「謝罪」どうのこうのと言う事態は、発生しないのだよ。決まっているではねーの。ねー。

なるほどねー。これは、失礼致しやした。分かりきったことをお聞き致しまして。どーも、無駄なお手数をお掛け致しやした。申し訳御座いませんでした。取り敢えず、謝罪謝罪。すんまへん。御免よ、勘弁な。

しかし、ですよ、そこまでは納得できるとして、ですよ。

そこで、次に、「謝る」「謝れ」と言う発想は、どうして生ずるのですかね ?

どーしてってー ?

だから、言ってるだろう。相手に、迷惑や損害などを掛けたので、済まねーと、謝るのだよ。

迷惑や損害を被った側は、謝って貰らいたいだよ。

だから、そこまでは、納得できる、と申し上げているだよ。

要するに、相手に、迷惑や損害などを掛けた時に、なぜ「謝罪」することになるのか、ちゅーことだよ。相手に、迷惑や損害などを掛けられた場合に、なぜ「謝罪」を求めることになるのか、ちゅー事だよ。

おめー、分からねーやっちゃなー。

相手に、迷惑や損害などを掛けたので、済まねーと、謝るのだよ。迷惑をかけられたから、謝れー、と要求するだよ。いい加減にしろよ。

何度も、同じ事を言わせるな。ホント。

だから、それは分かった。と言ってるだよ。

ようするに、迷惑や損害などを掛けてしまった場合、謝るのはどうしてだ。迷惑や被害を受けた場合、謝って貰いたいと思うのは、どうしてだ。と言うことを聞いているだよ。

例えば、どうして、謝らなくてはなんねーのか、どうして謝って貰わなくてはなんねーのか、ちゅーことだよ。

いい加減にしろよ。他人に迷惑や損害などを掛けておきながら、謝らなくていー、と言うのか。この無礼者め。

オッと。無礼者め、とおいでなすったね。

そいじゃー、分かり易く言うよ。他の人に迷惑や損害などを掛けられた場合、その賠償をして貰いたいと思うよな。その賠償を求める場合に、示談が成立すれば、双方納得と言う事で、一段落となるな。

しかし、示談が成立しない時には、民事訴訟を起こすことになるな。

そして、裁判所は、結論として、判決を下すことになるな。

賠償金3千円とか、3兆円とか。

3千円と3兆円? どえらい違いだな。どんな裁判だ。ふざけんじゃーねーぞ。

たとえばだよ、たとえば。分かり易いようにだよ。分かり易いように。

損害賠償の場合は、結論が判りいいよ。賠償金銭や物品で示されるから、判かりいいだよ。

ところが、「謝罪」の場合はどうだ。金銭や物品等による賠償要求するのではないだよ。

たとえば、「謝罪」だけを要求する裁判を起こせるのか ?  ちゅうことだよ。

9千億兆回、「済みませんでした」と、謝って欲しい、なんて言う訴えを、裁判所で受理するか。

よしんば、裁判所が、謝罪要求の訴えを受理したとしてだよ。判決に及んで、「土下座して、9千億兆回、申し訳御座いませんでした、と謝るべし。」と言う判決が出るか。

こら、いい加減にしろよ。9千億兆回だと。どんな判決だ。判決のとおり、まともに謝り続けたものなら、何年かかると思うの。死んじゃうぞ。実質、死刑と同じだぞ。バーロー

だから、たとえばだよ。たとえば。分かり易いようにと言う喩えだよ。

だから、金銭・物品等による賠償求めない、「謝罪」だけの訴えは、裁判にはなり難いのかなー、なんて思ったりもするのよ。

しかし、新聞への謝罪文の掲載要求などは、出来るようにも、思われるしね。また、テレビでの謝罪会見の放映なども、要求出来ないこともないのかなー。なんて、思ったりもするわけよ。

土下座して、額を地面にすりつけている謝罪の光景を、テレビで放映して欲しい、と言う訴えは、できるのかねー。出来ない訳ではないような気もするのだけれども、どーなんですかね。

あのー、分かり易くするための喩えですからね。このような要求をする側の感覚が疑われる可能性も大ありですから、現実的にはどうか、分かりませんが、しかし、それくらいの謝罪をして貰わなくては腹の虫が納まらない、と言う状況も無い事もないでしょうから。どーなんですかね。

法律専門家に問い合わせれば、すぐに分かることでしょうが。

 

要するに、「謝罪」については、「謝罪者」と「被謝罪者」がいて、この双方の心情に関ることでしょうから、結局のところは、当面は、この両者の心情が、どのようであるのか、と言う問題なのでしょうな。

例えば、「謝罪者」は、自分のとある行為が、罪に相当すると気づいて、これは、迷惑や損害などを掛ける事になる対象に、謝罪したい。

と言う場合、これによる「謝罪」には、幾つかの意味が存在するでしょうなー。

一つは、迷惑や損害などを掛けることになる、あるいはなった対象に、謝って、自分の仕出かした罪を赦してもらいたい、と言う欲求がある場合ですな。

もう一つは、迷惑や損害などを掛けることになる、あるいはなった対象の心情はともかく、「謝罪者」側の心情として、謝罪しなくては、自分自身の心が納得しない。スッキリしないのだ、と言う場合ですな。

この二つとも、言ってしまえば、「謝罪者」側の都合と言うことですな。

それから、「謝罪者」となる、あるいはされる側が、「謝罪者」としての自らの認識は無かったのであるが、「被謝罪者」から、謝罪要求を受けた結果、謝罪しなければならないハメに陥った。

あるいは、第三者が、謝罪すべきと騒ぎ立てたので、結果、謝罪しなければならなくなった、と言う場合もありますな。

それから、「被謝罪者」側としても、幾通りかの意味が存在する様ですなー。

一つは、迷惑や損害などを掛けられたので、「謝罪者」に謝罪要求する場合がありますな。

もう一つは、自分は「被謝罪者」であると言う認識が無いのに、「謝罪者」が現れて、いきなり謝られた、と言う場合がありますよ。

この場合は、幾分、ややこしくなる可能性が御座いますよ。

謝罪者」を名乗る者が、突然手土産なぞ携えて、やって来ましてね。

やたら丁重に謝るのですよ。

しかし、いきなり「被謝罪者」にされた方は、自分には謝られる心当りが無いので、謝られる謂れはござんせん、なんて、取り合わなかったりしましてね。ところが、「謝罪者」は、深く反省しておりましてね。2時間も並んで、漸く手に入れた大人気のスイーツを携えて、とにかく、早いところ謝っちまって、清々しようと、意気込んでやって来たのに、知らねーよ、なんて冷たくあしらわれ、大人気のスイーツを突っ返されたひにゃー、たまたったものでは御座いませんよ。

謝りに来た方は、本来の目的を忘れちゃって、オレの手土産を受け取れねー、っちゅうのか。それは失礼だろうよ。なんて、すごんじゃったりして。

片や、すごまれてしまった、俄に「被謝罪者」に仕立てられた方は、どうも済みません、なんて謝っちゃったりしましてね。

まてよ、なんで、オレが謝らなくてはならないのだ、とぼやくハメに陥ったりするのですよ。

はたまた、「謝罪者」と「被謝罪者」共に、謝罪に関る認識がないのに、どこからかネタを拾い集めて、謝罪があって然るべきだ、なんてマスメディアが、特に、某局のワイドショーと呼ばれる番組で、騒わがれましてね。ああだこうだ言っている間に、「謝罪者」と「被謝罪者」が成立させられまして、謝るべきだろう、謝罪を求めるべきだろう、なんと言う事態になったりしましてね。

双方、カメラの前に引っぱり出されて、謝ったり、謝られたりしましてね。

マスメディアの方は、世論の鉄槌を食わせた、これが正義だと、張り切っていたりして。

なんだか、訳が分からない事態が出来したりしますよ。

 

さて、ここで問題になるのは、前の部分で言いましたように、どうして、謝ったり、謝らせたくなるのでしょうね。この解明(?)が、中々、厄介な事なのですよ。

 

一般的には、「謝罪者」側は、謝罪に対して消極的、「被謝罪者」側が、積極的である場合が多いのでしょうな。

さて、本題に戻しますと、「謝罪者」のとった、とある行為を巡って、「謝罪」云々と言う事態が発生する。

すなわち、謝罪する、謝罪させたいと言う事態は、「謝罪者」のとった、とある行為を巡って、「謝罪者」と「被謝罪者」の心情に根があるのではないのか、と言うことになりそうですな。

そんなの最初から分かってた、ってですか。

それは、そーでしょうが、それでは、ヒマ潰しにならないでしょー。

どうでも良いようなことを、あーだ、こーだ、と捻(ひね)くり回さないと、ヒマは潰れないのですよ。

何だかだと、ようやくここまで引っ張って来たのですから、アー、そーだったのと、初めて気がついたように、お願いしますよ。これこそ、場の空気を読んで、忖度忖度ですよ。ここでの忖度は、犯罪に繋がりませんから。公金とはなんら関係してませんから。

それでは、仕切り直しといきますよ。

チョット待って下さいよ。仕切り直し、と来ては、ひとこと言って置かなくてはなりませんよ。

大相撲では、とにかく、立合いが重視されますなー。

両者気があって、立ち上がっているのに、両手がついてなかったなどと言って、行司がマッタをかける事がありますなー。

両者が、気が合って立ったのだから、いーじゃん。と思いませんか。

双方気が合って立ったのに、行司マッタが掛けられた後の立合いは、なんだか、気合いが入りませんなー。もー、どっ白らけ。

相撲の勝負で、なんと言っても、立合いが肝心ですから、両者に平等でなくてはなりませんなー。

だったら、平等に、両者に、最初から、仕切り線に、両手をつかせて、行司の「はっけよい〈のこった〉」の号令で、スタートさせれば、いーではありませんか。

これで、立ち後れた場合は、遅れた方が不利になっても、仕方がありませんよ。

〈のこった〉の号令前に、片方が突っかけちゃったなら、これは失格にすれば、いいのですよ。

陸上競技の100メートル走などは、フライング一発で失格ですよ。出場停止、退場ですから。

ねー、そんなに両手が同時に着いた、着かないを問題にするのなら、最初から両手を着かせて、行司の号令一発、用意、ドンの方が、分かりよく御座いませんか、ちゅーの。

ねー、こんな話で少しばかり、ヒマ潰しが出来たでしよー。ヒマ潰しのコツなんですよ。

さて、それでは、再度の仕切り直しといきますよ。ちょっと、白けましたが。

謝罪する、謝罪させたいと言う事態は、「謝罪者」のとった、とある行為を巡って、「謝罪者」と「被謝罪者」の心情に根があるのではないのか、と言うことになりそうですな。

ここで、アー、そーだったの、と来るでしょー。

そー来なくてはダメですよ。

そこで、待ってましたとばかりに、この心情の根と言うのが、疑問を解くカギなのですよ、と行く訳ですよ。これで、準備はOK

この心情の根は、当然の事として、個々人で違いますよ。個々人特有のものですな。個性ですよ。

穏やかな人もいれば、激しい人もおりますよ。

ノンビリ屋さんもいれば、セッカチ屋さんもおりますよ。

親切な人もいれば、不親切な人もおりますよ。

気前の良い人もいれば、ケチな人もおりますよ。

拘(こだわ)りの強い人もいれば、無頓着な人もおりますよ。

人の良い人もいれば、小意地の悪い人もおりますよ。

威張る人もいれば、戦(おのの)く人もいますよ。

謙虚な人もいれば、傲慢な人もいますよ。

主張の強い人もいれば、すぐに譲ってしまう人もいます。

乱暴な人もいれば、丁寧な人もおります。

強気な人もいれば、弱気の人もおります。

攻撃的な人もいれば、防御的な人もおります。

などなど、限りが御座いませんな。

実に色々で、十人十色ですよ。似ていても、どこか違いますから。

このように、実に多様な個性の個人が、あるいは「謝罪者」となり、あるいは「被謝罪者」となって、謝る、謝れと言う「謝罪」関係を形成するわけですな。

従って、この組合わせによって、「謝罪」が割合簡単に済んだり、あるいは極めて難航したりすることになるのでしょうな。

穏やかな人・ノンビリ屋さん・親切な人・人の良い人などの場合は、あまり、ややこしくはならないでしょうが、小意地の悪い人・威張る人・傲慢な人・乱暴な人・強気な人・攻撃的な人などの場合は、特に、このような相手が「被謝罪者」だった場合は、「謝罪者」は災難と言うべきでしょうかね。

謝罪者」には、謝罪すべき原因がありますから、謝るのは当然、あるいは仕方のないことなのですが、「被謝罪者」の余りにも強力な謝罪要求がなされる場合は、中々大変ですな。

穏やかな人・ノンビリ屋さん・親切な人・人の良い人などの場合は、あまり強い要求は出しませんね。

きっと、たとえ謝罪されても、あまり清々しい気分を味わえないのではないのでしょうかね。「謝罪者」が悪いのだから、謝らせて当然なのでしょうが、「被謝罪者」の性格によっては、謝らせた結果、清々するどころか、返って後味の悪さが残ったりすることがあるでしょうね。

謝罪者」が、全く見知らぬ人ならばともかく、日ごろの顔見知りの場合は、特に、強く出て、謝らせちゃったりしたら、その後、具合の良くない状態になったりしますからね。

一方、強気の人は、誰彼構わず、相手が悪いのだから、謝らせるのは当たり前だ、と思うのでしょうね。

場所も弁えず、大声を張り上げて、一般大衆の面前で、謝罪要求をなさる人を見かけることがありますね。多分、「謝罪者」が、悪いのだろうから、致し方ないのかも知れませんが、あまり度を超す、行き過ぎた要求をしている場合は、見ていて、どうかと思うことが御座いますよね。

強い謝罪要求をしている時の「被謝罪者」の心理は、どう言うのでしょうかね。謝罪の内容によるでしょうが、一般的に、相手に、頭を下げさせて、謝罪の弁を言わせる時には、快感・優越感のようなものを感ずるのでしょうかね。簡単に言っちまえば、偉くなった気持ちになれるのでしょうかね。

特に、日ごろ馬が合わず、しっくり行っていない関係の人に、迷惑や損害などをかけられた場合には、ここぞとばかり、攻勢に出て、分かりよく言 えば、ペシャンコにやっつけることが、出来た時などは、強気な性格の人は、どうだ、見たか、と言う気分になって、きっと、さぞかし晴れ晴れとして、爽快な 気分になれるのでしょうな。弱気な性格の人の謝らせた後に味わう、苦々しさとは、対照的なのでしょうなー。

対して、「謝罪者」には、初めから、謝りたくいな人は、「遺憾に存じます」なんて言って、誤摩化そうと言う人をよく見かけますなー。政治家先生に多いようですよ。ちゃんと、謝らずに誤摩化しちゃうのですよ。当の本人は、心中でわたしゃー、謝っちゃーいねーぞ、なんてほくそ笑んでいたりして。

と、まー色々なケースが考えられますが、このような個々人の「心情の根」がどこにあるのか、と言うことが、疑問のタネと言うことになるのですよね。

「心情の根」は、どこからやって来るのでしょうか。

あの空越えて、雲越えて、光の国から来るのかなー。

突然で申し訳御座いません。「朝はどこから」と言う唱歌が御座います。この1番の歌詞の出だしが、「朝はどこから来るかしら あの空越えて 雲越えて 光の国から来るかしら」と言うのが御座いまして、突然のヒラメキでこれに引っ掛けたので御座います。

と、申しますのは、私事で甚だ恐縮で御座いますが、小学生の時に、学芸会でどうした選定の誤りか。多分、クラス担任の失敗だったと思うのですが、なんと小生が独唱で、この歌をお集り頂いた御父兄の皆様に、ご披露するハメに陥ってしまったのですよ。

心配していたとおり、アガリショウの小生は、本番で、多数の御父兄の前で、心臓ドキドキ、バクバク、歌詞を間違えちゃったのですよ。事件発生ですよ。

これが、いわゆるトラウマになりましてね。トラだかライオンだか、ウマだかシカだか知りませんが、以来、人前で、歌を歌う、芸をするのが、大嫌いになりましたね。朝がどこから来ようが、そんなこと、知ったこっちゃー御座いませんよ。

と言うような事が御座いましたが、これが、どうしたことか、忽然と繋がりましてね。

あの空越えて、雲越えて、光の国から来るのかなー。と言うハメに、なっちゃったのですよ。

てな事でして、こんな事が、ここで、ヒマ潰しのネタになろうとは、思いもしませんでしたよ。お釈迦さまでもねー、まさかねー。ヒマ潰し、ヒマ潰し。使えるネタは、総動員で、ヒマ潰しです。

話を戻します。

「心情の根」は、どこあるのでしょうか ? 

これは、小生ごときでは、とても手におえる課題では、御座いませんな。

全然、判りませーん。

どなたか、教えて下さーい。

しかし、ですね。好きで始めた事とは申せ、アホくさい、バカバカしい、クダラない話でも、落ちが必要なのですよ。

まったく、弱りましたねー。

困った時の神頼み。神様、お願いしますよ。

困ることは、しょっちゅう御座います。その度に、神様・・・、と言うことになるのですが、一度たりとも、現れたことは御座いませんな。神様は。

神様は何処。完全に、無視、見放されちゃってますよ。

今は、きっと、豪雨の被害地での人助けに、大忙しなのでしょうかね。

としたら、最初から、豪雨など降らせなければ、良いのにね。

そーだ。神様も色々で、この度は、豪雨を降らせる神様の力が勝っちゃったのですなー。きっと。

そー言えば、日本の神様は、どっちかと言うと、怖い、恐ろしい存在でしたなー。だから、人々は、神を怒らせては大変なことになるので、立派な社殿に御祭りし、いつもご機嫌をとらなければ、ならなかったのですよ。

そもそも、本来は、世を治めるのは神の仕事で、それを代わって人間にやらせることになり、うまく、順調に治めている時は、神は満足していて、ご機嫌麗しく、おはしましますのですが、神の御心に反する統治が出現した場合には、途端に御機嫌がお悪くなり、人間に天罰を下す事になる、と古代から考えられて来ましたなー。

と言うことは、今の統治に、神は甚だご不満で、お怒りになられ、豪雨をもたらせた、と言うことになりますなー。

しかし、それならば、神様、まずは、永田町に雷の一発も、と言うのが、順序では御座いませんか。それが、何故、西日本から中部日本一帯の広範囲と言うことになるのでしょうかね。神様の情報収拾は、大丈夫なのかなー。頼みますよ、神様。

と言うことで、神様は中々ねー。腰が重いのですよ。神様も、お年を召してしまったのかなー。

と言うことは、やっぱり自分で始末をつけなくては、ならないのでしょうな。こうなれば、仕方御座いませんよ。頼りになるのは、ただ一つ。

偏見と独断ですわ。これですよ。これが切り札ですなー。

勝ち目はないのですが、勝負ですなー。

 

さて、個々人の心情は、と言いますと、それはその人の生き方と密接な関係がありそうですな。

と言うことは、生き方と密接な関係にあるのが、言わずと知れた、生命、すなわち「命」と言うことにはなりませんか。大飛躍で御座います。低空ながら、飛んでますねー。バタバタ。

ここ一番と言う時は、偏見と独断の出番ですよ。これ以外には、御座いませんよ。大飛躍偏見独断大明神

そうなのですよ。個々人の心情などと言うものをコントロールしているのは、その個々人の「命」に他ならないのですよ。決め!

アントニオ・イノチ(アントニオ・猪木氏)でも、イノッチ(井ノ原快彦氏)とは関係が御座いませんよ。念のために。余計なことでした。御免。陳謝。

 

「命」、The lifeですよ。

「心情の根」は、「命」なのですよ。ホントかな ???

謝って貰いたい、あいつを謝らせたいと言う、心情はどうして起こるのか、と言う答がでましたね。

それはまさに、個々人の「命」に根源を持つものなのですよ。窮した時の偏見と独断による結論です。

人間のみならず、動物は皆つねに行動しますね。これは、生きて行くために、欠かせない事だからです。行動の源は、「命」の維持、発展にあるのです。

これは、植物とて同じです。日の光を求めて、我こそはと、伸びようとしていますね。

生命を持つものの最も基本的な行為は、本能に基づくものである、と言われますね。結局は、本能の元は、生命、「命」なのでしょうね。

これで、一件落着で御座います。

これが、窮地における偏見と独断の限界ですなー。メイッパイですなー。

謝る人も、謝られる人も、「命」が懸かってますよ。

頑張りましょう。

しかし、傲慢にはならない方が、良いですよ。きっと。

 

幾分のヒマ潰しになりましたでしょうか。

どなた樣でも、とーにお判りのところに、落すのが、良いのですよ。

エッ、ダメですって。

オマケして下さいよ。

こんなところで、本日のアホくさい、バカバカしい、クダラない話の打ち止めと致します。

長々と、どーも、済みませんでした。御免なさい。勘弁して下さい。

 

どうも、お疲れ様で御座いました。

お後がよろしいようで。