《停念堂閑記》104

「日比憐休独偏記」32

 

「ぜひ、人格形成教育を!」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方はいないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットで来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

とは申せ、大歓迎と言いましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。炉端焼きにだって、行くわけでは御座いませ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めてしまいまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題の下に日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、特に歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情のお方、このような同朋の御方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、閑、ひま、ヒマーッ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

 

さて、本日の話は、これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め、消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事はまったく御座いません。平凡極まりないムダ話で御座います。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

では、参ります。

 

最近、テレビのワイドショウで、盛んに取り上げられたのが、何と言っても川崎で起こった、殺傷事件でしょうな。

とにかく、最も起きて欲しくない事件が起きてしまい、被害者の方々には、お掛けする言葉も御座いません。お亡くなりになられたお二方には、月並みで甚だ恐縮で御座いますが、ご冥福をお祈り申し上げる次第で御座います。

怪我を負わされた御方々には、一日も早く完治し、通常の平穏な生活を取り戻して頂きたいものとお祈り申し上げる次第で御座います。

 

時間が経過するに従い、色々な事情が報じられて来てはおりますが、最も気になる加害者の犯行の動機に関る点については、加害者当人が自殺してしまっているので、当人から聞き出すことは、もはや不可能と言う状況です。

加害者が生存していて、当人から証言を取れれば、動機に繋がる点の解明に役立つこととは思われます。

 

しかし、このような事態に際して、仮には無いのですが、まったく仮にですね、加害者当人が生存していた場合、殺害に及んだ動機が全て明白になるか、と言うと、これがそうとも限らない可能性があることが、この種の問題の難しい点ですね。

仮に、加害者が一切口を噤んでしまえば、真相に迫ることは不可能です。

また、ウソの証言をしたならば、真相は判らないわけです。

当の本人がそのように言っているのだから、と言うだけで、それが真実とは、到底思われない場合もあると言うのが、むしろ一般的見方でしょうね。

人間は、ギリギリのところでは、自己の不利になる事は、言いたくなくなるものと推察されますね。

一般の裁判の時にも、自分に不利になる事は、言わなくても良い、と言う前提で裁判が進められる現状ですね。

さらに、裁判になると加害者側に弁護する人達が加わる事でしょうから、加害者の不利になることは、ますます表沙汰には、ならなくなる可能性がありますね。被害者はただただ無念と言う状況に追いやられるだけですね。

従って、加害者が生存しているからといって、加害者側から真実が語られるとは限らない可能性があります。証言が真実か否かは、当人しか判らないことであり、場合によっては、当人さえ認識出来きてない状態だって、あるでしょうね。

この点がこの種の問題の難しいところですね。

 

また、遺書や犯行に関ると思われるメモ類などの記録が見つけ出されれば、犯行の動機に迫ることができる手掛かりとなる事でしょう。

しかし、これとても、遺書や関係する記録に書かれていることをもって、犯行決行の真実か、と言うと、これがまた、判断の難しい側面が残されている場合がありますね。

端的に申し上げて、遺書にも、ウソを書く事は可能です。その他の関連すると思われる記録についても、同様の可能性が残されている場合が御座いますな。

人の心の中を窺うことは、どのような心理学者でも、完璧になし得る事ではないように思われるのですよ。

よく心理学者の先生方の中には、関係すると思われる統計を引き合いに出して、確率の高い部分に結論を見出そうとする手法を執られる方をお見受け致しますが、これはこれで一つの意義があるのでしょう。

しかし、この度の川崎の殺傷事件の解明などには、統計上の確率などは、どれほど役に立つものなのでしょうかね、と言う疑問が存在するのですよ。

まずは、この引き合いに用いられるこの種の統計の性格がどのようなものなのかが気に掛かりますね。果たして、この事件の解明に相応しい統計なのかが問題となるでしょうね。

この種の事件は、その事件の特殊性が問題ですから、一般化するのに使用する統計に照らして判断するには、かなり難しい側面を有しているのではなかろうかと言う感じがしますね。

動機の真相は、極めて難解な性格を有する厄介な問題ですな。

 

結局のところは、事実をこと細かに明らかにして、それに基づく判断を示すに留まらざるを得ないのが現実なのでしょうね。

 

また、この事件に関係して、加害者は自殺を遂げるのが目的では無かったのか、と言う推測がなされましたね。これに関連して、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う発言が出ましたね。

これに対して、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言うことを言わないで欲しい、と言う意見が出まして、メディア上で、大きな話題となりましたね。小生も、複数のテレビ番組などで、このような状況を目の当たりに致しました。

「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と発言された方は、何人もお見受けしましたね。

とかく、この種のことについては、メディアでは、インパクトの強い部分を切り取って、その強烈さを強調する手法が用いられますな。これは、メディアの常套手段になっていると言って良いでしょうね。

この度の「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言うフレーズも、これ単独で発せられたのではなく、この前後に色々な発言がある訳です。その発言の流れの中で、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う発言がなされた、と言うことですね。

ですから、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う発言の意味合いは、これに関る話の流れの中での意味があるわけで、単独に存在しているのではありませんね。小生の感じた限りでは、「自殺するのであれば、他人を巻き込まず、一人で死ねば良い。」すなわち、「他人に害を加えるな」と言う意味合いの別表現であった、と思うのですよ。

それが、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う部分だけ切り取られて、一人歩きし始めた、と言う事ではないのでしょうか。

そして、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う発言を巡っての賛否の論戦が展開される事になった、と言う事情のように見受けられます。

要するに、次元の異なることが、同一次元であれこれ、時に論理的に、時に感情的に、あれこれゴチャマゼに論じられている、と言うように見受けられますよね。

小生なりの視点で、判り易く言えば、何らかの目的・原因で他人を巻き添えにして、まさに自殺を決行しようとしている人に掛ける言葉と、色々な思わしくない事情に直面していて、自殺しようか否かと迷っている、極めて不安定な状況の人へかける言葉は、自ずと異なるのではないのか、と言う事です。

自殺と言う同じ表現でも、前者と後者では次元が異なっているのですよ。

 

何らかの目的・原因で、無関係な他人を巻き込んで、まさに自殺を決行しようとしている人へ、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。(他人に害を加えるな)」と呼びかけるのは、あながち否定されるべき事でもないとも思われますね。

 

悩みに悩んで、自殺しようかどうか考えているような極めて不安定な精神状態に陥っている人へ、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言いかけることは、良い結果を齎さない可能性がある、とする意見がありますね。

すなわち、自殺をするかどうかを悩んでいる人が、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う発言に接して、自殺を決意する切っ掛けになり兼ねない、更に、関係のない他人を巻き込んで攻撃を加えようと言う方向へ進みかねない、と言う気遣いの様ですね。

これに対する判断は、極めて難解ですね。

崖っぷちに追い込まれた状態の時、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言われた場合、あるいは自殺をやめる判断に進む個体も有るかも知れない。また、自殺の決行を決断する個体もあるかも知れない。またまた、自殺するに当たって、他人を巻き込んで攻撃してやる、と言う最も危険な方向へ進む場合もあるかも知れな、と言うような可能性が存在するでしょうね。

どうせ死ぬのなら、一つくらい世のため人の為になる事をしてやろう、と言う方向を見出す個体もあるかも知れませんな。可能性の話です。

結局は、個体の性格差、事情の違い等によって、どのようになるかは、極めて予期しずらいことであろうと思われますね。

そのような中にあって、自殺の決断や、また、自殺するに当たって、他人を巻き込んで攻撃してやる、と言う最も危険な方向へ進むのを食い止めるためには、

「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う事を言ってはいけない、と言う認識が存在するわけでしょうな。

 

大いに迷っている人が、相談に来た時に、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」とアドバイスするのは、さすがに無いでしょうね。

また、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。(他人に害を及ぼすな)」と言ってはならないのか、と言って、それならば「どうせ死ぬのなら、関係しない他人を巻き込んでも良い。思いっきり鬱憤を晴らしても良い。」と言うのは、これは論外ですね。

ですから、悩みの相談は、結局は、自殺と他人に害を加えることを回避させる方向で、行われなくてはならない、と言うことですね。

この方法は、おそらくケースバイケースで、標準的基準などと言うのは、あってもどの場合にでも、役立つと言う万能なものとは、なり難い側面を有しているのでしょうね。各ケースにより、極めて慎重に、丁寧にやらなくてはならないのでしょうね。とにかく難題ですね。

 

要は、如何に複雑な事情があろうとも、自殺をしない、他人に害を加えてはいけない、と言う強固な意志を持つ人を育てなくてはならない、と言う事が先決なのでしょうね。言葉にして書くこと、綺麗事を言うのは、容易ですが、・・・。何とも難しい現実ですね。

 

それでは、自殺をしない、他人に害を加えてはいけない、と言う強固な意志を持つ人を育てるには、どのようにしたら良いのか、と言うことになりますね。

これは、一言で言えば、この種の教育を徹底する、と言うことに尽きるのではないでしょうか。

まずは、一つの生命が誕生したなら、その初期から親が、自殺してはならない、他人に害を加えてはいけない、と言う方向でこの種の教育をしなくてはいけないと言うことですね。やはり親がしっかりとこの種の教育を行うと言うのが基本でしょうね。そして、家族で、さらに地域ぐるみで、保育園・幼稚園で、義務教育の場で、あらゆる機会を通じて、この種の教育を徹底する必要が御座いますな。嫌がる子供もいる事でしょうが、そんな子供にこそ諭し教えることが必要なのでしょうね。それは、大人の義務ですね。このところに、ついつい手抜きが発生しているのではないのでしょうか ? 

それから、自殺をしたり、他人に危害を加える事がしにくい環境をつくる事が大事でしょうね。

手っ取り早くは、この種の監視体制をしっかり作らなければならない、と言うことですね。

防犯カメラの設置がかなり進んでは来てますね。しかし、防犯カメラは、専ら犯人捜査に役立てられている感が御座いますな。顔認証システムの進化と合わせて、犯人捜査には有効な存在となっていますな。

しかし、犯罪予防に使用するとなると、これが、必ず個人の監視問題と衝突することになりますな。ようするに、防犯カメラによる情報を誰が、どのように管理・使用するのか、と言う問題がある訳で、これが方向を誤ると、個々人のプライバシーが侵されることに繋がるわけですな。

この問題は、以前からズーッと続いており、中々スッキリとした結論に達していませんな。

想像しますに、結局のところは、現実の力に押し切られて、犯罪予防に利用されることになるのでしょうね。防犯カメラによる情報の管理者は警察と言うことに落ち着くのでしょうね。個人のプライバシーが侵害される恐れがあるとする主張と、弱者、子供の生命の安全を天秤に掛けられると、現実には、弱者、子供の安全に分がありそうですね。プライバシーについては、法に触れること無く普通に暮らしていれば、特に侵害される心配は無いのではないのか、と言う理屈をつけられますよ。きっとね。

しかし、防犯カメラによる情報を、管理しているのが、警察と言うことになると、やはり日常生活を常に警察に見張られていると言うことになりますから、たとえ法に触れる事をしていなくとも、幾分の息苦しさを拭い去ることは、難しいですな。

この息苦しさが、犯罪の抑止力となるのですら、何とも難しいところが残りますな。

ですから、警察による情報の管理方法を工夫して、個々人のプライバシーを侵害しない、より良いシステムの開発が必要とされますな。

防犯カメラによる情報の管理は、警備会社であったり、スーパーやコンビニであったり、個々の企業であったり、更に個人だったりしているのが現実ですね。ですから、都会では、いたるところで防犯カメラに捉えられていると言うのが現状ですよ。ただその情報の管理のあり方は、慎重であらねばなりませんな。

 

それから、川崎の殺傷事件などに類する殺人事件は、被害者の方々にどうしょうもない無念さを残す結果を生み出す訳です。たとえ加害者が捉えられて、犯行の動機も解明された。裁判の結果、当加害者は死刑となったとします。

とは言え、法的にはこのように処置されて、終結したのかも知れませんが、しかし、被害者に取っては取られた命が戻ってくる訳では無いのです。加害者が極刑に処されても、犯行以前の状態が復される事は無いのです。結局は、被害者はたとえ賠償を得ることになったとしても、無念さは変わらず残る訳で、この種の犯罪の極悪さは、この点にあるのですよ。

どのようにしても、取返しが着かないのですよ。無念ではありますが、被害者側は、泣寝入りするよりない状態なのですよ。理不尽極まりないと言ってみても、とにかくどうしょうもない決して取り返しの不可能な事態に置かれてしまうより無いのですよ。いくら、犯行現場にお花の山ができて、多数の人々に手を合わせてもらっても、殺された命は二度と戻っては来ないのですよ。この真の無念さは、被害者側以外には、到底実感できないでしょうね。

だから、この種の犯罪は、起こしてはならない、起こってはならないのですよ。処理のしようがないのですから。

だから、決して起こしてはならない、起こってはならない、と言う対策が必要なのですが、なかなか進展していない、と言う実情ですね。

始終、国民の生命と財産を守る事が、我々政治家の使命であると、大声で叫んでいる政治家を見かけますが、どうなっているのでしょうね。

金儲けに直結する外国語教育、IT教育などには、制度を整備し、多額の予算をつける事はしますが、すなわち、国民の財産に繋がる教育政策は積極的に展開するが、一方、国民の生命を守るための教育政策に対しては、関心が極めて希薄ですね。こちらは、金儲けに直接繋がりませんからね。

政治家について言えば、票に繋がりませんからね。

川崎の殺傷事件のような事件は、発生の当初は、メディアで多いに騒がれますが、時間の経過にともない、次第に関心が希薄化し、ついには、忘れ去られることになるのですね。

そもそもは、この様な事件は、それに直接関係が無い立場の人は、どうしても関心が薄い訳で、騒がれている当初は、花を供えて、手を合わせる人がいても、時間の経過にともない、どうしても関心が薄まってしまいますよね。

人間の自然の成り行きと言ってしまえば、それっきりですが・・・。

しかし、この類の事件は、起こしてはならないし、起こってはならないことは、時間の経過に拘わらず、忘れては、ならないことで、一つの生命が誕生したなら、その初期から、自殺をしてはいけない、他人に害を加えてはいけない、と言う方向で、まず親がこの種の教育を徹底しなくてはいけない事情にありますね。やはり親がしっかりとこの種の教育を行うと言うのが基本中の基本でしょうね。そして、家族で、さらに地域ぐるみで、保育園・幼稚園で、義務教育の場で、更に広く社会のあらゆる所、あらゆる機会を通じて、この種の教育を徹底する必要が御座いますな。これより、効果的な方法が見つからないのですよ。

 

このような事柄に関る教育は、伝統的には、道徳教育と言う名で展開されていたと思われます。

ところが第二次大戦後、日本の教育の現場では、この道徳教育なる語は、著しく敬遠された感がありますね。

すなわち、道徳教育となると、戦前の国家主義的教育のイメージが極めて強く、学校教育者の殆どは、もうコリゴリだ、と感じていたのでしょうね。政府の方から道徳教育に関する政策が出て来ると、最初から聞く耳を持たないと言う立場で、猛反対が展開される事が多かったように記憶していますな。

憲法改正の問題もそうでしたね。最初から検討することすら問題外という扱いをされていたように記憶していますが、この問題については、保守政党とその政府が、猛烈にエネルギーを注いで参りましたね。その結果、現状では、論議もせずに放り出される傾向にあった問題が、かなり大きく取り上げられる存在となっていますな。

比べて、道徳教育の方には、極めて力をいれて、エネルギーを注ぐ政党も政府もございませんでしたね。関連する幾分の改革は加えられてきているでしょうが、金儲けに繋がる教育や受験のための教育に比べると、道徳に関る教育は、随分関心が薄く、取り残された状況では御座いませんでしょうか。

 

この問題点の一つが、戦前の教育を引きずるイメージの強い道徳と言う表現を踏襲しようと言う所にあるのではないのか、と言うことが考えられます。

これまで、道徳教育に拒絶反応を示し続けた学校教育の現場でも、いわば人格の形成に関る内容の教育を、拒否していた訳ではなく、別の表現で幾分の改革を行ってきてはいると思われます。

ですから、良くない内容のイメージが付いて回る道徳と言う名称を使わず、別の適切な名称を使えば良いのではないでしょうか。

例えば人格形成とか。ちょっと堅いかな!

 

要するに、人格形成教育の希薄が一因となっていると見て良いのではないかと思われる凶悪な事件が後を絶たない現状からすると、従来幾分の改革は行われて来てはいますが、人格形成に関る教育は、結果的にまだまだ不十分なのでは無かろうかと、感じられるのですよ。

 

その最大の原因は、きっと国民の関心がどうしても今一つ薄い、と言うところに基本的要因があるのではないのか、と思われるのですよね。

すなわち、日本は言うまでもなく、国民国家でありますが、それは代表民主制により運営される訳です。

国民の代表を選出し、選出した代議士に、国家運営を任せると言う方法の民主制が行われているのです。

従って、国政選挙において、人格形成教育の充実を第一に主張する政党とか候補者がいなければ、国民は、人格形成の教育を押し進めたいと言う政党や代表者を、選出する術が無いのです。

ところが、国政選挙の実態は、いつも国民生活の経済的向上に関する、判り良く言えば、経済的に豊かな生活ができるようにと言う政策が第一に掲げられるわけで、人格形成教育を国政選挙の争点として掲げる政党、候補者は殆ど現れないのですよ。

各政党も立候補者も、人格形成教育の必要性は、感じている事でしょう。しかし、それでは、人格形成教育を掲げて、国政選挙でより有利に票を獲得することが現実的に有効か、と言うことになると、残念ながら経済的に豊かな生活の実現を謳う政策の方が、全然、票の獲得に有利なのですよ。現実的には。

もっと、判り良く言えば、国民が何を一番望んでいるか、これに最も食い込む政策でないと、票を獲得しづらいわけです。

だから、何時まで経っても、経済的に豊かな生活の実現を第一とする人が圧倒的に多数のために、人格形成に関る政策は、国政選挙の大きな争点とはならないのですね。

たとえば、子育てに関する政策は、集票政策となる現状が御座いますな。しかし、それは教育費の無償化や保育所の増設とか、と言うことで、結局は経済的な援助策であって、人格形成に関る政策では無いのです。

もっと、判り良く言ってしまえば、人格形成の教育についての国民の関心は、あまり強くなくいと、政党・立候補者は読んでいるのですよ。

実際に、これまでの国政選挙における多くの有権者の判断は、これに尽きていると言えるでしょうね。これが、これ迄の国民の選択、その選択の結果が、現状と言うことですね。

経済的に豊かな生活の実現化は、無論、大変大事な要素である事は、今さら指摘するに及びません。

しかし、取り返しの不可能な凶悪事件の発生は、後を断たないのが実情ですし、常識では考えられないような幼児を虐待する親の事件も、後を断ちませんな。

事件が報じられる度に、なんとかならないものかと、皆んな思っていることですね。

政府は、大きな事件が発生すると、取り敢えず、取り締まりの強化や防犯環境の整備に関る施策を口にしますが、このような対策は、必要ではありますが、これだけでは、凶悪事件の発生を無くすことは出来ないのですよ。

凶悪な行為を起こさない人を育てなくては。これには、教育より手がないのですよ。早急にこちらの対策を希望しますね。

 

以上、行き当たりバッタリに、駄文を連ねてまいりましたが、大分疲れが出て参りました。取り上げた話題が話題ですから、どうしても、堅苦しい表現を並べなくてはなりませんでしたね。

だから、面白可笑しい要素は、全くないわけで、堅苦しい文章が連なる結果となりました。

書く方が疲れちゃうのですから、これを読まされる側は、モーすっかりウンザリでしょうな。

分っちゃいるのですよ。

なにを分かり切った綺麗事をグタグタ並べてんだ。と言う声も、ちゃんと聞こえているのですよ。

分っちゃいるのですよ。

更に、それなら、お前は何をしたんだ。と言われますと、実に残念ながら、面目無いの一言に尽きるのですよ。本当に情けない次第なのですよ。

 

老化が進むと、物忘れがはげしくなり、加えて、独断と偏見も度を増して参ります。

きっと、大事なポイントとなることの欠如をお感じになられた方も多数おられる事でしょう。また、価値観の相違からくるであろうと思われる、異なる意見も御座いますでしょう。

お気に障ることが多々ある事で御座いましょう。

しかし、馬齢を重ねて参りますと、小言幸兵衛的能力だけは、割合衰えないようなのですよ。否、却って図々しさは、年を重ねれば重ねるほど、成長するようなのですよ。

ネッ! 高齢の政治家は、常識では、エエーッて感ずることを平然とヌケヌケと、当然の事のように言い放つでしょう。あれは、きっと老化の証左では無いでしょうか。さっさと後進に道を譲って、引退すべきでしょうな。

若い政治家でも、とんでもないことを言い切るヤツがいますが、あれは、まさしく人格形成教育の欠如の成せる業でしょうね

 

でも、年を取ると、ヌケヌケと思うのですよ。

少しでも、寛容のお心がございましたら、非力なジジーの戯言とご容赦をお願い申し上げる次第で御座います、などと。

 

どうもお疲れ樣で御座いました。

懲りずに、またのお越しをお待ち申し上げます。

 

お後がよろしいようで