《停念堂閑記》105

「日比憐休独偏記」33

 

「ひきこもり?」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方はいないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットで来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

とは申せ、大歓迎と言いましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。炉端焼きにだって、行くわけでは御座いませ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めてしまいまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題の下に日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、特に歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情のお方、このような同朋の御方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、閑、ひま、ヒマーッ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

  

さて、本日の話は、これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め、消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事はまったく御座いません。平凡極まりないムダ話で御座います。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

では、参ります。

 

本日は、いわゆる「ひきこもり」について、ド素人の思い付きを書くことにしたいと思います。

最初に謝っておきます。この種のことについては、全く門外漢です。ですから、見当違い、誤解、独断と偏見が散見することになりそうで、御座います。

だったら、最初から止めとけといわれますね。

そう言われてしまえば、実に、その通りなので御座いますが、歳をとるに従い、どうもヒトコト言いたくなる感傷に囚われることが、あるのですよ。

今朝も、2時過ぎにトイレに立って、目が覚めてしまい、再眠(こんな言葉はあまり見かけませんよね。でも何となく意味が通じそうですよね。)不可能の状態に陥りまして、この時に、ふと「ひきこもり」と言うのが、半分寝ぼけている頭を横切ちゃったのですよ。なんだかは、当の本人も、全然分りません。関係する夢を見ていた訳ではありませんし、多分、寝ぼけていた脳ミソの一部が、「ひきこもり」と言う記憶に、何かの拍子で繋がってしまったのでしょうね。自分の脳ミソに違いないのですが、何だか本人の意志とは、無関係に活動をしている時があるようですね。

それで、全く予定していないのに、「ひきこもり」となってしまった次第なのですよ。全然、予期しない行き当たりバッタリに発生してしまった、偶然と言う他ない事態なのですよ。

しかし、一旦気に掛かってしまうと、慣れない事だけに、あれこれと疑問が湧くことになる訳でして、結局、年寄りの我が侭で、こうした駄文に臨む事になってしまったのですよ。

そのような事情ですので、本来ならば、この種の話題は、先ずは関係する文献をあれこれ調査の上、臨むべきことなので御座いますが、半ば寝ぼけた脳ミソの所産ですので、所詮、ド素人の戯言と、お聞き流し頂ければ、幸甚で御座います。

要は、世に「ひきこもり」と言われていることがどう言う事か、それが社会的にどのように扱われているのか、と言うような素人の素朴な疑問とか、このようなことをしてみたらどうであろうか、と言うような素人的提案をしてみたい、と言う趣旨でありまして、一般的に言われている「ひきこもり」の是非を問おうと言うような目的は、全く御座いませんので、どうぞその点をご理解下さいますようお願い致します。

 

逃げ口上は、これくらいに致しまして、先ずは、「ひきこもり」の概念を何とかしておかなくては、話にならないだろうなー、と思うのですよ。

そこで、手っ取り早く、手元の『広辞苑』を見ましたところ、版が相当古い(第四版 1991発行)せいなのでしょうね。なんと「ひきこもり」は、載っておりませんでした。但し、「ひき-こも-る 引き籠る」が載っていました。そして「退いて内にこもる。閉じこもる。ひっこもる。」と言う解説が付けられていました。

ですから「ひきこもり」は、この名詞形でしょうから、「退いて内にこもること。閉じこもること。ひっこもること。」となるでしょうね。これが、国語的な「ひきこもり」の意味と見て良いでしょうね。

必要もないことですが、易しく言えば、早い話が「とじこもること」と言う意味ですね。

 

次いで、インターネットで、検索してみることにしました。一例を示しますと、次ぎのようです。

 

《1》 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

引きこもり(引き籠もり、ひきこもり、英語表記 hikikomori)とは、仕事や学校に行けず家に籠り、家族以外とほとんど交流がない人の状況を指す。現時点では、日本の厚生労働省はこうした状態が6か月以上続いた場合を定義としている。また内閣府は引きこもりの実態を把握するために、15歳〜39歳までの若年層を対象に調査してきたが、引きこもりが長期化する人が増えていることから、2018年12月、40歳から64歳を対象とする初めての調査を行い、40歳から64歳で引きこもりの人は、推計で61万3,000人に上り、15歳から39歳を対象にした調査で推計した54万1,000人より多くなっている。

                       [脚注を省略しています。]

(中略)

もともと「引きこもり」とは英語からの訳語で、出典はアメリカ精神医学会編纂の『DSM-III』の診断基準におけるSocial Withdrawal(社会的撤退)という用語だった。

「引きこもり」の意味は時代とともに変化している。かつては、後述のように、隠遁や病気療養を指して使われたが、現在の厚生労働省は次のように定義している。

  「仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6    

   か月以上続けて自宅にひきこもっている状態」 時々は買い物などで外出

   することもあるという場合も「ひきこもり」に含める  -厚生労働省

 

(中略)

大辞泉』では「長期間にわたり自宅や自室にこもり、社会的な活動に参加しない状態が続くこと。」とし、「補説」を加えており、「周囲との摩擦によるスト レスや精神疾患が原因で引きこもる場合、原因を特定できないまま引きこもる場合などがある。厚生労働省は、「さまざまな要因によって社会的な参加の場面が せばまり、就労や就学などの自宅以外での生活の場が長期にわたって失われている状態」と定義する。

          [脚注を省略しています。前後の記事を省略しています。]

 

《2》 【ニコニコ大百科

 

概略

引きこもるから引きこもり。立てこもるなら立てこもり。閉じこもるなら閉じこもり。

 元々「引きこもる」という言葉は同じ場所にじっといることや、外部との接触を断って過ごすことを意味する。

「引きこもる」という言葉自体は大昔からある言葉だが、1990年代後半から自宅に引きこもって外出しない若者を「自宅引きこもり」などと呼び、単に「引きこもり」という単だけでこの状態像をすことが極端に増えた。

 2000年代初頭では、自分の部屋から出てこずに学校にも行かない・仕事にも行かない人を「引きこもり」としてテレビや雑誌などで度々大きく取り上げられることも多かった。(”引きこもりを矯正する仕事人”のような事業や人もニュースで特集されたりなどもした)

 また、自宅から出てこない「自宅引きこもり」や、自分の部屋から出てこない「自室引きこもり」以外にも、社会から引きこもり、病的にまで進展すれば「社会的ひきこもり(英:social withdrawalの訳とされる)」等と言ったりする。

social withdrawalとは、元々「精神障害の診断と統計の手引き」(通称「DSM」)に病気の症状として扱われている概念である。

                   [前後の記事を省略しています。]

 

他にも、色々な記事が見られますが、きりがないので省略します。

「ひきこもり」は、本来は、分り易く言えば、「とじこもること。とじこもる人。」と言った意味なのでしょうが、20世紀の末から、特別な意味を有する語として使用され出したようですな。即ち、社会的な問題として、マスメディアで時々取り上げられるようになったようで、特定の条件が付された意味で使用されるようになったようです。そして、行政的に対処する必要も生じて、厚生労働省が概念規定をおこなった。と言う経緯のようですな。

しかし、マスメディアでは、現在でも、厚生労働省の規定した通りではなく、かなり広い枠で「ひきこもり」を扱っているようですね。

厚生労働省の規定では、時々買物などで外出することを含めるが、「仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6か月以上続けて自宅にひきこもっている状態」と言うことのようですね。

「時々買物など」の「など」の範囲はどこまでなのでしょうかね。また、「家族以外の人との交流をほとんどせず」の「ほとんど」の範囲はどこまでなのでしょうかね。幾分大雑把な表現をしていますが、一方「6か月以上続けて自宅にひきこもっている状態」と、ここでは、きっちりと「6か月以上」と期間を区切っていますな。

すぐに、5か月と28日では、「ひきこもり」の範疇に入らないのか、とケチをつけたくなりますな。きっと、行政的処置の実施や裁判などで問題となった時などには、厚生労働省の立場としては、「5か月と28日」では、「ひきこもり」とは見なさない、と言う立場を取るのでしょうね。

すなわち、行政的には、どこかでキッチリした区分をしておく必要があるのでしょう。実に、お役所的な処置の仕方を感じますな。

しかし、何でピッタリ「6か月」なのでしょうかね。きっと、何らかの判断基準があるのでしょうね。国会で質問されたらちゃんと説明しなくてはなりませんでしょうからね。

 

この点、言っちゃーなんですが、マスメディアではかなり好い加減ですな。たとえば「ひきこもり」に関る事件などを報道する時に、いちいち6か月以上か否か迄は、裏をとる事はないでしょうね。ご近所の井戸端会議的「ひきこもっていたらしいよ」というような噂を拾ってきて、「ひきこもり」だったらしいよ、てなことで報じられる場合もあるかも知れませんね。「ひきこもり」に限ったことではありませんが、とあるワイドショーなどでは、事件の性質に依っては、当テレビ局員による現地取材を殆どおこなわず、新聞や週刊誌やスポーツ紙やネットの情報などを拾い集めて(このような手法を孫引きと言いますよ。)、番組を作ってしまっている場合も見受けられたりしましてね。

新しい情報が入りました。それによると事実はこうです。なんてやっているのですよ。昨日報じた事実とは、違う場合など、しょっちゅう見受けられますから。昨日報じた事実と今日報じた事実が違っちゃっているのだから。本来、昨日であろうと、今日であろうと、事実は事実、一つなのですからね。

とにかく、現地踏査をキチンとして下さいよ。そうしたら、「・・・らしいよ」とか、「・・・と推測される」と言うような曖昧な表現をしなくとも済みますし、また「確かな事は分っていませんが・・・」なんて言う前置きをしなくて済む場合があるのですよ。要するに、これはこうだ、今はここ迄の事が明らかだ、この部分はまだ分っていない、などと自分の目で確かめた報道ができるのですよ。孫引きは往々にして、間違いの元となりますよ。

 

ちょっと、小言幸兵衛的ボヤキが入ってしまいましたが、世間で言われる「ひきこもり」は、それぞれのメディアで、それぞれの時に、内容の違いがあるのが、現状のようである、と言うことですよ。

 

それから一つ気になる事は、例えば、前掲の《1》《2》《3》に見られる「ひきこもり」の概念的なものは、端的に言えば「ひきこもっている人」側からの言い分が殆ど含まれていないのですよ。

「ひきこもっている」と見なした側から見たもので、「ひきこもっている人」とされる側からする概念的要素は、一切含まれていないようです。

良くは分りませんが、いわゆる「ひきこもり」と言うレッテルを貼られた人達には、個々の性格、事情などの違いがあるので、一概に言えないところがありますが、彼らには、彼らの世界があるのでは無いのでしょうか。対して、いわゆる「ひきこもり」をしていない人達には、その人達の世界があり、多分、それぞれの言い分があるのではないのでしょうか。

一般的には、数的に断然多数のいわゆる「ひきこもり」で無い世界の人達が、少数派のいわゆる「ひきこもり」と言われている人を、「ひきこもり」で無い人々の世界に引き込もうと、努力していることが窺われますね。そして、それが、正しいあり方と信じていますね。いわゆる「ひきこもり」の人を、いわゆる「ひきこもり」で無い人々の世界に引き込んで、結果、それがまるく収まったとすれば、それはそれで、OKと言う事でしょうね。

しかし、いわゆる「ひきこもり」の人を、いわゆる「ひきこもり」で無い人々の世界に、無理やり引き込んでも、結果、まるく収まらない場合もありますね。

ですから、どうしても、いわゆる「ひきこもり」で無い人々の世界に馴染めない人を、何が何でも、「ひきこもり」で無い人々の世界に引き込もうとする行為は、かなり無理がある場合が御座いますね。

ですから、いわゆる「ひきこもり」で無い人々の世界に馴染めない人々の世界を認知する方法をも考えなくてはならないのではないのか、とも思われるのですよ。

このような傾向は、たとえば、今は、身体と心の性の不適合の方達の存在を認めて、それなりの無理でない状態を認知する方向にありますね。それから、同性婚も認められる傾向にありますね。

ですから、これらと同様に、いわゆる「ひきこもり」で無い人々の世界に馴染めない人々の世界を認知しても良いのではないのか、と言う方向があるのではないでしょうかね。そうすると、「ひきこもり」と言うレッテルを貼ったり、貼られたりせずに、お互いに悩まず、住み分けることができるかも知れませんね。

もしも、このような方向をとるとすれば、色々な対策が必要とされるでしょうね。しかし、現在いわゆる「ひきこもり」の問題が、社会問題となっているのも現状ですから、何かの対策が、必要とされていることは、間違い御座しませんな。

頭の良い方、英知を絞り出して、良い対策を考えて下さい。期待しています。

言いっぱなしで済みません。

 

それから、もう一つ気になっていることがあるのですよ。

それは、いわゆる「ひきこもり」は、時々社会問題として、マスメディアでとりあげられ、なんとかしなくてはならない注目される問題とはなっているのですが、今一つ世の関心が薄いのではないのか、と言う感じが拭えないと言うことですよ。

関心の薄さは、いわゆる「ひきこもり」は、引き蘢っている当人およびその家族の問題という認識に由来しているのでは無かろうか、と推測されますね。直接関係していない人にとっては、判り良く言ってしまえば、他人事なのではないのでしょうか。

だから自ずと関心を寄せるにも限界がある。と言う性格が横たわっているのではないのでしょうか。

従って、いわゆる「ひきこもり」に対する対策は、関係の強い一部の人達の関心事に留まっている実情ではないのか、と思われるのですよ。

しかし、不登校とか出勤拒否など、社会的に困っている人々が、かなり存在していることは確かで、前掲《1》の記事に依れば、内閣府の推計では、600万人を超えるいわゆる「ひきこもり」の存在が推測されていますから(2018年調べ)、これは、他人事と言ってはいられない事態と言えるでしょうね。

何とかより良い解決法を考えなくては、ならない事態ですよ。

この事態に対応することに、まずは、国民がより強い関心を持たなくてはなりませんね。

国民の強い関心は、きっと、事態を解決に近づけることになると思うのですよ。

例えば、その成功例は、ガン対策に明瞭ですね。

ガンに苦しむ人々は、実に、沢山いた訳で、国民あげて何とかならないものかと、声を上げていましたね。

結果、とかく腰の重い政府も、ガン対策には、極めて積極的に取り組むことになりましたね。ガンの治療と研究に多大の予算が付けられましたね。他の分野と比較すると、ガン関係の分野には、とてつもない国税が注ぎ込まれましたな。その結果が、現在の状況をよく物語っておりますね。早期に見つけ出す手法が開発され、治療も格段に進化し、早期に見つけさえすれば、ガンは治らない病気ではなくなりましたね。

これは、国民がやる気になれば、やれると言うことを実証した例ですね。まだ続いていますが。

ですから、「ひきこもり」問題にも、多額の予算をつけて、解決の方向に前進さえすれば、それなりの成果は必ず上がると思われますね。現状よりは、絶対に良くなることが、明らかですよ。

これは、国民の関心に懸かっているわけで、政治家や政府任せにしておいては、何時まで経っても、埒があきまへんな。国民が「ひきこもり」の解決策を掲げ、票に結びつくぞー、と圧力をかけなければ、事態は動きませんな。今の政党、政治家と称される人達は、票に結びつかないことには、見向きもしませんから。

票に結びつかないと判断すれば、自ら頼んでおいた専門委員会の報告書だって、そんなもの受け取れるか、と放り出すのだから。そんなご都合主義の政府、政党、政治家を生み出した片棒を担いだのは、言うまでもなく、国民有権者なのだから、その点をよくよく熟慮しなくてはなりませんな。有権者の1票が、間違いなく国民にブーメランのように、帰ってきますから。しまって、行かなくてはね。

 

てな訳でして、だいたいこの辺りに参りますと、例のごとく疲れが出てくるのですよ。

お付合い下さったお方々にも、夏が過ぎてアキがやって来る、と言うことになるわけですよ。

てなことで、この辺りで本日の打ち止めと致しますが、コラコラ、綺麗事の言いっぱなしかよ、お前は何をしたと言うんだよ、と言いたくなるでしょうね。

そのように言われちゃうと、何時もの通り、面目次第も御座らぬの一言あるのみなのですよ。

しかし、何時もやられっぱなしではシャクなので、本日は、次ぎのようなフレーズを用意したのですよ。

「コラコラ、綺麗事の言いっぱなしかよ、お前は何をしたと言うんだよ。」と言われたら、「コラコラ、綺麗事の言いっぱなしかよ、お前は何をしたと言うんだよ、と何にもしていない人に言われたりしましてね。」と言うフレーズを用意してみたのですよ。あまり迫力は御座いませんな。

まー、こんなところですよ。世の中お互い樣、と言うところがあっても良いでは御座いませんか。

 

お疲れ樣で御座いました。懲りずに、またのお越しをお待ち申しあげます。

 

お後がよろしいようで