《停念堂閑記》109


「停念堂寄席」62
 

「何考えて生きてるの ?」1
 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。
厚く御礼申し上げます。
遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。
遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方は、おられないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。
とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。
もっとも、ロケットで来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。
ところで、本当のところは、徒歩でも、ジョギングでも、マラソンでも、泳いでも、自転車でも、車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、はたまたミサイルであろうと、実は、来ることが出来ないのですよ。
あなただけに、こっそりとお教えしますね。たいして、難しくは御座いませんよ。ただね、必要欠くべからざるものがあるのですよ。
それは、パソコンかスマホなのですよ。それでね、GoogleかYahooのサイトから、「otakatsuyaのブログ」を検索すれば、「停念堂閑記」に辿りつけますから。これだけでいいのですよ。一般の交通手段では、永久に辿り着けませんので、どうぞ、ご注意くださいませ。蛇足ながら。
辿り着いてくれさえすれば、大歓迎で御座いますよ。
とは申せ、大歓迎と言いましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。
ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。
粗茶の一杯すら出ませんよ。炉端焼きにだって、行くわけでは御座いませ。ポイントだって付きませんから。
このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。
しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。
 
強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。
おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。
まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めてしまいまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題の下に日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。
これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、たいして歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情のお方、このような同朋の御方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。
 
話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。
夜、眠れなくなったりしませんからね。
もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。
 
なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。
お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。
しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。
手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。
至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。
張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。
打倒、閑、ひま、ヒマーッ!
A A O!  エイエイ、オー!
ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。
 
 
さて、本日の話は、これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め、消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。
なんて、言う程の事はまったく御座いません。平凡極まりないムダ話で御座います。
歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。
 
ここの特徴は、前置きが長いと言うことですよ。毎回、殆ど変わりがありませんが。これがいいのですよ。手っ取り早くてね。
これが、毎回違えるとなりますと、これは大変ですよ。それだけで、1日終わっちゃいますからね。こうなると、オオゴトなのですよ。一晩寝たら、昨日の記憶が消えちゃったりするでしょう。そうなったら、また、一から出直しと言うことになるのですよ。こうなると、もはやエンドレスですよ。一晩寝たら、振り出しですからね。前進不可能。
ネ! ウソは言わないでしょう。前置きが長いのですよ。そのかわり、本文はなるべく短くしますから。と言いつつ、ダラダラとやるのが、好きなのですよ。下らないことをダラダラとね。ヒマ潰しのコツ。
再び、ネ! 前置きが長いでしょ。これが特徴なのですよ。
これじゃー、切りが御座いませんな。
 
では、参ります。
 
ようこそのお運びで、厚く御礼申し上げます。
毎度、バカバカしい話で、しばしお寛ぎ下さいませ。
エッ! バカバカしい話は、もう言わずとも、とっくに分ってらっしゃるって、ですか。
長い前置きで、すっかり了解しておられる。
そりゃー、まー、そーで御座いましょうね。念には、念を入れで、たっぷりやっておきましたからね。
これで、もし了解されていなかったら、念入りにやった、長い前置きは、いったい何だったのだ、もう一度やらなきゃーならないのか、と言うことになってしまいますからね。それは、さすがに勘弁して下さいよ。
まー、どうしてもと言われるのなら、遣らなくは御座いませんよ。嫌いでは御座いませんので。はい。
もー、いい。
さすがに、そーでしょーね。
 
ところで、急転直下、甚だ突然で御座いますが、ホンダイで御座います。
ホンダイと言っても、本 = ブックを買う為の予算の話では御座いませんよ。
ハナシのね。ハナシと言っても、歯槽膿漏になった結果の歯無しの話しでは御座いませんよ。ハナシ = すなわち、喋くりの中心となることですよ。
所詮、大したことでは御座いませんがね。
そんなことは、言われなくても分っているって、ですか。
今迄、大したことがあったタメシが無いってですか。
よく判ってらっしゃいますな。それなら、話が早いですよ。

さて、本日は、「何考えて生きてるの ?」と言うことをテーマとして、ヒマ潰しのそれはそれは下らない、取って置きの無駄話をしたいと、思うのですよ。

あのね。
私の知合いのご老人にね。
当然、後期高齢者という政府がお決めになられたレッテルを貼られた、れっきとした年寄りですよ。
先達て、その人に、毎日何考えて生きてるの、って聞いたことがあるのですよ。
そーしたら、何と言う答えが返って来たと思います。
何と何と、何も考えてねー。と言うのですだよ。
そこで、何も考えてねー、と言うことはねーでしょー。
たとえ取るに足らないことでも、何か考えてるものでしょー。と粘りましたがねー。
やっぱり、なんにも考えてねー、って宣うのですだよ。
しかし、人間、なんにも考えてねー、と言うことは、まずないよなー。たとえ、愚にもつかない、下らねーことでも、何か考えてますよ。きっと。
それを、なんにも考えてねー、だって。
ひょっとして、脳死してるのか?

それでも、何かは考えているだろうと、迫りましたよ。
そーしたら、遂に、脳死から復活したのですよ。
そんなに、言うのなら、今日は、特別に考えてやる、と来ましたよ。
すかさず、何考えた。と突っ込みましたところ、何と言ったと思います ?
何と何と、アリンコは、どうして自分がアリンコなんだ、と言うことを考えたことあるのかなー。だって。
脳死から復活したのかと思いきや、いきなり、これだよ。
そして、お前が、何か考えろと言うから、考えてやったのだ。
さー、アリンコが、どうして自分がアリンコなんだ、と言うことを考えたことあるかどうか、答えろ。と言いやがるのですだよ。
これには、弱ったねー。
しょうがないので、そんなこと、アリンコに聞けばわかるだろー。と言って、やったのですだよ。
そしたら、お前が聞いてこい、と言いやがるのですだよ。
いくらヒマだとは言え、こんなこと、アリンコに聞きに行けますか、ちゅーの。
大体、アリンコ語を知らねーから、聞くにも、聞きようがねーよ。
そもそも、アリンコ語なんちゅーものが、あるのかよ。
突然ですが、桃太郎さんも苦労しただろうね。
桃太郎さん、犬と猿と雉を従えて、鬼ヶ島へ乗り込んだのだよ。
この1人と、2匹と1羽は、何語を使って、意思疎通を図っていたのかね。
岡山弁か? 犬語か? 猿語か?、はたまた雉語か?
同時に話したら、ごちゃごちゃになって、何を話しているのか分かんねーだろうな。
実はね。この1人と、2匹と1羽には、共通ゴがあったのだよ。
桃太郎さんらは、おばあさんが作った特別のゴを使っていたのですだよ。
なんだ、それって。
決まっているでしょう。決まっているでしょう。
キビダンゴですだよ。キビダンゴ。
お腰につけたキビダンゴ、一つ私に頂戴よ。てなもんで、このゴで、意思疎通を図っていただよ。
エッ。アホくさい話だってですか。
そーなんですよ。実にアホくさい話なのですよ。ヒマつぶしの。
どうです。少しは参りましたか。
エッ。全然。
それでは、もう少し、頑張らなくてはなりませんなー。

アリンコが、頭を寄せ合って、なんやらモゾモゾやっているのを、見たことがありますよ。あれは、話をしていたのかねー。
なことは、ねーな。声が聞こえなかったものなー。
そしたら、お前は、このごろすっかり耳がとーくなってるから、聞こえなかっただけでねーの。
なんて、言いやがるのですだよ。
そんなことはねーだよ。アリンコが頭寄せ合ってモゾモゾしていたのを観察したのは、ずーっと以前の子供の頃だったから、まだ、耳は大丈夫だっただよ。
あれは、ジェスチャーで、何かを伝え合っていたのかねー。
さすれば、アリンコに顔を近づけて、モゾモゾやってみるか。
おー、なかなかえーじゃねーの。早いとこ、聞いてこいや。モゾモゾやって。
アホー。そんなことアリか、アリやーせんよ。
いやいや、アリ アリ。
オーアリ名古屋の金のシャチホコだよ。
おーっ、そうだ!
金のシャチホコまで登ったアリンコがいるかどうかも、確かめてこいや。
あのなアリンコの意識を聞き出すことだって、できっこねーのに、金のシャチホコまで登ったアリンコの捜査まで、出来るわけねーだろう。
いい加減にしろや。下らねーダジャレは、これでオワリだ。
これで、どうです。これで参りましたか。
このダジャレをやるのに、わざわざアリンコを持ち出したのか。ってですか。
バレちゃいましたか。予定の行動ですだよ。これぞ、無意味なヒマつぶし作戦ですだよ。

因みに、物事、出口、すなわち、結果を適切に把握してからやらなくては、ダメなのですよ。

たとえば、原発のようにね。目先の利益だけ見て、結果どうなるかを想定もせず、ただただ突っ走ってね。今になって、廃止の出口が全く見えず、どえらいことになっちゃってますなー。
しかし、惰性と言うものは怖いものですよ。ダメと分かっていても、走り出したら、止められなくなっちゃうのですよ。
未だに、原発による発電を止められず、核廃棄物を生産し続けてますからね。
核廃棄物の持込を承諾する所は、日本中探し回っても、どこにも御座いませんよ。
と言うことは、現在稼働している原発の場所から、核廃棄物を動かすことができない、という現状ですよ。
と言うこと、現在、原発のある場所が、核廃棄物の保管をする他なく、地震津波、台風等が発生する度に、未来永劫的にハラハラし続けなければ、ならないと言うことですよ。
はたまたテロの対象にもされ兼ねませんし、保管所での事故だって想定されるわけですから、心配は絶えませんな。
原発設置を受け入れた自治体がどのような利益を得たのか、よくは存じませんが、それに対する負債は余りにも重たい状況となっていますな。
出口を見誤ったのでしょうかね。

ところが、政府は、どこぞの国から、弾道弾が打ち込まれはしないか、という心配をことさらに宣伝して、その対応兵器に莫大な税金を投入することには、憚りませんが。
そんな政府を、国政選挙で、国民の大多数が支持する判断を示している現状ですなー。
国民は、何考えて、生きているの。嗚呼。
と、ボヤキは尽きることが、御座いませんが、ある御老人に、また。尋ねたことがあるのですよ。
何考えて、生きてるの? とね。
そしたら、何と言う答えがあった、と思います。
彼曰く、長生きすることだ、ちゅーのですよ。
とにかく、長生きしたい、と言うのですよ。
まー、分かり易く言ってしまえば、長生きすることが目的なんだ、ちゅーことらしいのですな。
長生きして、あれをしたい、あれをしなければ、これをしたい、これをしなければ、と言うことはともかくとして、まずは、ただただ長生きしたいのだ、と言うのですだよ。
長生きの目的は、長生きすることだ、ちゅーことなのですだよ。
とりあえず、長生き願望なのだ、て言うことは分かるのですがね。
何のために、と言うところが無いので、今ひとつ分かるようで、分からんところがあるような。
これで良いのか、そうでないのか、はっきりしないところがあるのですよ。
まー、とりあえず、長生きの目的は、長生き! と。
これでイーのだ ? ? ?

一般的に? この種の長生き願望が、多いのでは ? と思ったりする、昨今ですかねー。

さて、人それぞれ何らかの欲求を持ってますなー。

何が何でも長生きするぞー。
文句あるかー。

ご随意に、どうぞー。てなもんですなー。

欲求のない人なんておりませんよ。
言っちまえば、人間、どこを切っても欲求の金太郎飴ですわ。
ただし、生きている人間ね。死んじゃったら、人間、一巻のお終いだからね。
頭脳の機能が停止してしまうから、欲望なんて、考える余地なんぞ、御座いませんよ。
これが、生きている間は、常に欲望とご一緒ですな。生きていると言うことは、命を繋がなくてはならねー、と言うことで、これが断ち切れになっちまったら、一巻のお終い、と言うことですがな。
命を繋ぐには、まずは、基本的なこととして、衣食住を確保しなければなりませんな。
環境によっては、南の常夏の地域では、着る物、住む家はなくとも命を繋ぐことはできますわなー。
しかし、食は欠かせませんよ。食べ物がなくなっては、住んでいる場所は関係なく、一巻のお終いですわ。
食べ物を大事にしましょう。
食べ物を粗末にすると、目が潰れちゃうよ。
とよく言われたものだけれど、この頃ほとんど聞かなくなっちまいましたなー。
きっと、医学、薬学が進歩して、目が潰れずにすむようになったんだろうねー。
世の中、進歩してますなー。

しかし、世の中進歩すれば、また、それなりに、新たな欲求が発生してくるのでしょーな。

言い換えれば、世の中どう変わろーとも、それなりの欲求に従って、人間は、生きていると、と言うことでっしゃろうなー。

とりあえずは、誰しも衣食住を確保して、長生きするぞー。
てな事を考えて、生きているみたいですなー。

時に、ヒマな奴がいて、
「あなた、何考えて生きてるの ?」
何てこと、言う族がいたりもするのですだよ。

そんな事、大きなお世話さ。

そんなこと言ってきやがったら、すかさず、
「アリンコは、どうして自分がアリンコなんだ、と言うことを考えたことあるのかなー
と言うことを考えているのだよ。」
と言い返してやれば、いーのだよ。

あるいは、「長生きしてー、と考えているのだ。」
と言って、やればいーのだよ。
何のために、長生きしたいのだ、てなこと言うヤツがいたら、
「長生きの目的は、長生きだ!」
と言ってやればいーのだよ。

赤塚不二夫氏の天の声。
「これでいーのだ!」

ところで、何を言いたかったのだ。意味ねーぞ。
と言われたならば、それも、
これでいーのだ!
で済ませてしまえば、いーのですだよ。

とりあえず、本日のヒマ潰しにはなりました。
これでいーのだ!
全ては、酷暑のせいですだ。嗚呼 脳死

お疲れ様で御座いました。
またのお越しをお待ち申し上げます。


お後が、宜しいようで

《停念堂閑記》108

「停念堂寄席」61

 

「路頭に迷う ジジーの小言」

 

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方は、おられないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットで来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

ところで、本当のところは、徒歩でも、ジョギングでも、マラソンでも、泳いでも、自転車でも、車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、はたまたミサイルであろうと、実は、来ることが出来ないのですよ。

あなただけに、こっそりとお教えしますね。たいして、難しくは御座いませんよ。ただね、必要欠くべからざるものがあるのですよ。

それは、パソコンかスマホなのですよ。それでね、GoogleYahooのサイトから、「otakatsuyaのブログ」を検索すれば、「停念堂閑記」に辿りつけますから。これだけでいいのですよ。一般の交通手段では、永久に辿り着けませんので、どうぞ、ご注意くださいませ。蛇足ながら。

辿り着いてくれさえすれば、大歓迎で御座いますよ。

とは申せ、大歓迎と言いましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。炉端焼きにだって、行くわけでは御座いませ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めてしまいまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題の下に日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。

これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、たいして歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情のお方、このような同朋の御方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、閑、ひま、ヒマーッ!

A A O  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

 

さて、本日の話は、これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め、消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事はまったく御座いません。平凡極まりないムダ話で御座います。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

ここの特徴は、前置きが長いと言うことですよ。毎回、殆ど変わりがありませんが。これがいいのですよ。手っ取り早くてね。

これが、毎回違えるとなりますと、これは大変ですよ。それだけで、1日終わっちゃいますからね。こうなると、オオゴトなのですよ。一晩寝たら、昨日の記憶が消えちゃったりするでしょう。そうなったら、また、一から出直しと言うことになるのですよ。こうなると、もはやエンドレスですよ。一晩寝たら、振り出しですからね。前進不可能。

ネ! ウソは言わないでしょう。前置きが長いのですよ。そのかわり、本文はなるべく短くしますから。と言いつつ、ダラダラとやるのが、好きなのですよ。下らないことをダラダラとね。ヒマ潰しのコツ。

再び、ネ! 前置きが長いでしょ。これが特徴なのですよ。

これじゃー、切りが御座いませんな。

 

では、参ります。

 

ようこそのお運びで、厚く御礼申し上げます。

毎度、バカバカしい話で、しばしお寛ぎ下さいませ。

エッ! バカバカしい話は、もう言わずとも、とっくに分ってらっしゃるって、ですか。

長い前置きで、すっかり了解しておられる。

そりゃー、まー、そーで御座いましょうね。念には、念を入れで、たっぷりやっておきましたからね。

これで、もし了解されていなかったら、念入りにやった、長い前置きは、いったい何だったのだ、もう一度やらなきゃーならないのか、と言うことになってしまいますからね。それは、さすがに勘弁して下さいよ。

まー、どうしてもと言われるのなら、遣らなくは御座いませんよ。嫌いでは御座いませんので。はい。

もー、いい。

さすがに、そーでしょーね。

 

ところで、急転直下、甚だ突然で御座いますが、ホンダイで御座いますよ。

ホンダイと言っても、本 = ブックを買う為の予算の話では御座いませんよ。

ハナシのね。ハナシと言っても、歯槽膿漏になっちゃったハナシでは御座いませんよ。ハナシ = すなわち、喋くりの中心となることですよ。

所詮、大したことでは御座いませんがね。

そんなことは、言われなくても分っているって、ですか。

今迄、大したことがあったタメシが無いってですか。

よく判ってらっしゃいますな。それなら、話が早いですよ。

 

さて、本日は、ジジーが、ジジーの話をすることに致します。

ババー。アッ、失敬、失敬、おババー様も、登場いたしますよ。

平等に扱わないと、セクハラだ、差別だ、とたちまち反撃されますので、注意深く配慮しませんとね。エライことになり兼ねませんので、なんとも骨折しそう、いや間違い、骨が折れますなー。

とにかく、忖度、忖度の世の中ですので、気が抜けませんなー。

どっちかと言いますと、あまり忖度などに配慮せずに済む方が、お互いに、気楽で良いような気がしますが・・・。

しかし、当世は、忖度の時代ですから、とにかく相手の顔色を伺い、気分を害さない心遣いが必要のようですなー。

子供の躾も、この方向で行なわれるのですかねー。

就学前の子供から、顔色を伺われながら、応対されては、何だかんだ、世も末の感じがしますなー。

子供は、子供っぽくって、良いんじゃねーの。大人の顔色など、伺わせなさんな、ちゅーの。全く。

 

大人の社会では、やりそこなうと、直ぐに、場の空気の読めないヤツだ、なんて、手裏剣が、飛んできたりしますからなー。

ちゃんとした敬語や丁寧語になってれば良いですよ。

それが、訳のわからない、敬語風な言い回しや丁寧語風な言い方なんぞしおってさ。まともな日本語を使えっちゅーの。

それで、気をつかっておるので御座います。ちゅー顔されてもね。どーしたもんでしゃろーな。

厄介と言えば、厄介な世の中になりましたなー。

ほどほどにお願いしたいものですなー。

顔色ばかり伺っているより、ざっくばらんの方が、お互いに、過ごしやすいと思うのですが・・・。

皆さん、そーも行きませんようでして、骨折、いや骨が折れますなー。忖度骨折と言うやつだね。キット。

 

しかし、ですね。ジジーの話は、そーは参りませんよ。

なんちゅったって、ジジーの得意技は、小言幸兵衛ですからなー。

一般に、老いてくると、どうしても体力的に衰えがきまなー。

要するに、体が思うように動か無くなるのですよ。

ヨッコラショなんて掛声を掛けて見たところで、力仕事や長時間労働は、どうしても厳しくなりますなー。

ところが、衰えが目立たないところもあるのですよ。

それは、いわずと知れた、口ですわ。禍の元の口ですわ。

口は、衰えず、なかなか達者ですよ。

自分勝手な、訳の分からないことを、シャーシャーと言いますよ。

若い頃は、相手に対する忖度が先行しますから、言いたいことがあっても、遠慮がちになったりしますが、年寄はねー。

まー、年を重ねているうちに、遠慮と言うものが、だんだんと姿を消して、ズーズーしさが、思いっきり、表面に現れて参りますよ。

ジーの我儘。おっと、おババー様には、とても、足元にも及びませんが。ホントだよ。

ジーはね。とかく、一日中、茶をすすって、テレビばっかり、見ておりましてね。気に入らないタレントが出て来たりすると、テレビ画面に向かって、毒吐いたりしてますからね。

仕舞には、コラー、何とか言え、なんちゃってね。

その内に、応答するテレビができるでしょうな。話し掛けたら、応答するロボットが、既に出来てますからね。作ろうと思えば、応答型テレビなんざー、すぐにでも、作れるでしょうなー。

独居老人のために、早いところ作って下さいよ。頼んますよ。ホンマ。

そーなったら、結構ややこしくなりますかねー。

テレビに対しても、セクハラやパワハラが絡んで来ますかね。心して掛からないと、エライことになり兼ねませんよ。

テレビにまで、忖度か。たまりまへんなー。

その前に、大体、テレビ画面に話しかけるようになったら、要注意のようですよ。まずは、こっちの方に気をつけなくてはね。

 

人の顔さえ見れば、どうのこうのと小言ばかりおっしゃられる

御仁が、少なからず、いらっしゃいますよね。

待てよ。他人事じゃーネーナ。自覚があるなー。ある。ある。

若きし頃に身に付けた、いわゆる常識に合わないことに、出っくわすと、途端に、出ちゃうのですよ。

時代の変化について行けず、旧式の常識を振りかざすことに相成る次第なのですよ。

とは言っても、今風の常識が、何でも全て優れているとは思われませんよ。とイチャモンを付けることも、忘れてはいませんよ。ここが、ジジーの踏ん張りどころですからね。一日中スマホばっかり弄っている連中に、遅れを取ってなるものか、てんですよ。

今風の常識ってーのが、何もかも気に入らねー、と言っているのでは御座いませんよ。

ただね。ちょっとね。馴染めねーな。と言うようなのがあるのですよ。

例えば、あえて昔と表現した方が無難ですかね。

昔は、子供の頃、小学生の頃には、知らない人に、「今日は」と声を掛けられたなら、ちゃんと「今日は」と、応対するものだよ、と躾られたものですよ。それが、人の道というものだったのですよ。

それが、今では、知らない子に、「今日は」なんと声でも掛けようものなら、否応なしに、変質者扱いで、逃げられてしまいますよ。ヘマすると、警察呼ばれてしまいますよ。

そんなことで、変質者扱いにされて、警察の取り調べを受けようものなら、世間の目つきが変わりますかね。

そしたら、無実なのに、あらぬ疑いを掛けられて、取り調べを受けた当人の世の中を見る目が、曲がってしまいますよ。善良な人が、グレちゃったりしますよ。

嫌な常識になってしまいましたなー。

確かに、子供を守るためには、必要なことかも知れませんが、いきなり、他人を見たらドロボー、いや変質者と思え、とストレートに教え込むのはねー。どうしたものでしょーかな。

登校・下校の送迎体制や監視体制等の整備とか、別に方法もあるのでは、と思ったりするのですが。

親御さん、ご父兄姉さんのご多忙な事情も判りますが、何とかなりませんかね。

また、地域の態勢として、何とか有効な方法もあると思うのですが。

と申しながら、都会では、地域共同体の結束が極めて希薄になってしまってますからね。

地震や大洪水の被災地では、被災の直後には、突然、声高に「絆」「絆」と叫ばれますが、時間の経過と共に、じきに、それも淋しく忘れ去られるようですから、普段の日常の「絆」は、ねー。あまり期待はできない現状でしょうな。

 

世の経済状態が良くなると、近隣の人達と特に関りを持たなくとも、一人で、生活が可能になりましたなー。

そうなったら、いきおい隣近所との関わりが、煩わしくなりますわなー。

さしずめ、「お早う御座います」 「今日は」 「今晩は」止まりですかね。これも省略の場合も、珍しくは御座いませんよ。

 

 

大げさに言うと、近隣地域の中では、各家庭は、引きこもりに近い状態になるのですよ。隣近所とあれこれ関係を持たない方が、気楽なのですよ。引きこもりの人の心境が分る気がしますなー。

近隣地域との関係は、薄い方がよっぽど楽、と言うのが、今風の常識と言うものなのでしょうな。

しかし、このような環境では、端的に言えば、経済的に問題がない、とか、健康的に問題がないという場合は、特に支障なく過ごすことができるのでしょうが、いろいろな意味での弱者には、生活しずらところがあるでしょうな。

例えば、慣れない育児とか、病人を抱えているとか、介護の必要な老人を抱えているとか、高齢者の一人暮らしと言った事情の人などにとっては、近隣の無関心は、中々きびしいところが御座いますよ。

まー、大雑把に言ってしまえば、近隣引き籠りの態勢は、健康な裕福な者にとっては、好都合だが、そうでない弱者には中々厳しい態勢と言うことになりますなー。

これが、現代社会の一般的な在り方になっている、すなわち、今風の常識となっている、と言うことですかねー。

とすれば、この今風の常識は、これで良しという訳には参りませんよ。

ジーの小言登場となる訳ですよ。

やっぱり弱者を見ない振りにするような環境は、良くありませんよ。災害時のことなども考慮して、近隣の協力体制が必要ですなー。煩わしさもあるけれども、良いこともあるのだから。

よりしっかりした地域共同体の在り方を見直さなくては、ならないのでは、ないでしょうかね。

手っ取り早くは、引きこもっているよりは、近隣にどんな人が住んでいるのかを把握しておく方が、何かと良いのでは、と思うのですよ。

 

だからね。例えば、小学生の登校・下校時には、地域の時間に余裕のある人が、例えば、リタイアしてヒマのある人が、要所、要所の監視、巡回をするとかね。

しかし、このような時に、「お早う」とか「気をつけるんだよ」なんて、声をかけようものなら、子供が一目散に逃げて行ったりすれば、そりゃー、淋しいものですよ。

子供の時期に、他人を見たらドロボウと思え、変質者と思えと言うように教え込まれて育った場合、成人したら、どのような人格の大人になるのでしょうかね。

 

そして、間もなく親になって、子供ができると、また、同じように躾ることになるのでしょうな。

物騒な世の中の自衛策とは申せ、せちがない世の中になりましたなー。

行政の方も、金持ちの方へばかり税金を投うぜず、弱者の方に回して欲しいものですな。

地域巡回の組織を作ったりね。大して費用をかけずに、方法は色々とあると思うのだけれど。

PTAもあることでしょうから。

 

要は、ヤル気の問題だね。やる気の。

地域の議員さんにやる気がなかったら、やっぱり、地域の人々が声をあげて、やらせるようにしなくてはなりませんなー。

ノホホーンとしてないでさ。

 

何よりも、一番大切なのは、反社会的な人格者が出現しないような対策を講ずることですな。

それには、そのための教育を徹底しなくてはなりませんなー。

幼い時期から、はたまた、成長して大人になってからも、執拗に、反社会的な行為を行ってはならない、と言う育を徹底するよりありませんな。

一般に、育と言うと、すぐに、学校で行うもの、と決めつけてしまう人は、いませんか。

学習に関わる知識の教育は、小学校から始まる学校教育で、中心的に行われますなー。

しかし、人格形成に関わる教育は、順を追って行くと、まずは、親による教育ですなー。

子供は、良きにつけ、悪しきにつけ、親の背中をみて成長して行くわけです。生まれた子供の教育に当たるのは、まずは、親です。

親は、自分の子供に対して、人間として生きて行くための最も基本となる事柄を教えなくてはならない存在なのですよ。この意味での責任は、重大です。

親は、今まで存在しなかった新たな生命を創り出すのです。そして、それを人間として生きて行くための基本を教え、一人前の人間に育てなくてはならないのです。

だから、親は、そのための適切な知識、技能を身に付けている必要があるのです。しっかりと、そのためのお勉強をしておかなくてはならないのです。

手抜きしてないでしょうな。ジジーが、ヒッョコリ監視してたりしますぞー。

生まれた赤ちゃんは、家庭内の生活に関わるマナーなどは、主に、親から学んでいくのですから。

お勉強の成果によって、昔から、親を見れば、子供が分かる。子供を見れば、親が分かる。と言われたものなのですよ。

 

親に次いで、教育的に重要な存在なのは、兄弟姉妹、祖父母など同じ屋根の下で生活をする家族でしょうな。

下の子供にとっては、お兄ちゃん、お姉ちゃんは、模範的先生としての存在ですよ。お兄ちゃん、お姉ちゃんのマネっこをして、大きくなっていきますからね。

しかし、お兄ちゃん、お姉ちゃんは、社会の経験があまり豊富では有りませんので、その点は、ちょっと、心配もあるのですよ。

さてさて、ここに、ジジー、おババー様の出番があるのですよ。親よりも遥かに豊富な経験を積んでいますので、この経験を生かして、新しい生命の成長に役立たせなくては行けませんな。

 

ジジャーン! お待たせ致しました。

ここに、ジジーの教育的小言の出番があるのですよ。

さー、朝起きてから、夜の就寝に至るまで、一日中、いやいや一年中、なんやかやと、あれこれと、重箱の隅をほじくるごときのジジーの小言が飛び出しますよ。

あまり張り切りすぎると、世間では、あそこの子、なんか年寄り染みていない。なんて、囁かれたりすることもありますよ。

ジーも、今風の常識の勉強も、大切ですよ。キット。

 

と言うように、新しい生命が育って行く時に、人格を形成して行く時に、まずは、親、兄弟姉妹、祖父母等家族による教育が大変大切な役割を担っていると、思われる訳ですが、これが、現今では、親と子一人という家族構成が、比較的一般的であるとすると、その子の人格形成に、兄弟姉妹、祖父母等による教育的効果が欠如する、と言うことになりますな。

結論的には、往々にして、幅の狭い人格になりかねない、と言うことが懸念される訳ですよ。

 

さて、家庭の次には、近隣地域による教育が御座いますよ。

隣近所には、また、家族とは異なる雰囲気の人々がおりまして、それぞれの価値感で、生活してますから、自分の家族にない、要素を学びますなー。

まー、ご近所に、しっかりした親切な立派な方がおられると、教育的には、随分助かりますなー。地域の環境も、大切ですなー。

保育所、幼稚園等での教育も大事ですよ。親、家族にない他人様から教わることも多いですよ。友達関係のことも、大いに学びますからね。世間勉強が行われますね。

そして、小学校から、いわゆる学校教育が展開されるようになり、また、一般社会に顔を出す機会も、だんだん増えてきますので、親、家族、近隣地域、保育所・幼稚園、学校の教職員、友達などと交わることによって、人としてやるべきこと、やってはならないことなどを学び、一人の人格が形成されて行くわけですなー。

と言うことで、親、家族、近隣者、保育所・幼稚園職員、学校の教職員、友達、一般社会など、これら全てが、一人一人の人間に対する、教育的役割があるわけで、従って、それに関わる人々は、そのことを良く弁えていなくてはなりませんなー。

ですから、教育は、学校で、と言う考えの方が多いように見受けられますが、そうではなく、広い社会の至るところで、教育が意識的に行われることが、望ましい、と言うことなのでしょうな。

人格形成に関わる教育は、学校教育でも行われることでしょうが、学校以外の場でも、絶えず行われているわけであって、こちらの教育は、時に見落とされ勝ちになりかねませんので、こちらの教育はより意識的に行われる必要がありそうですね。

 

しかし、例えば、行政面に目を向けると、現在の代議士先生は、金儲けに繋がる育に税金を投ずることは吝かでは御座いませんが、人格形成の育には、さっぱり興味を示しませんな。

三宅久之さんが、ご存命だったら、ポン助、デコ助と、酷評が飛んできますよ。パクって、その上を行く、ペケ助と呼びたいですなー。住み良い社会づくりに、真剣に取り組む代議士はいないものかね。

 

ボーッと、寝ぼけてんじゃーネーヨ !

と、チョコちゃんの喝が飛んできますよ。

 

たまに、マシかなと言う人が、立候補したりすることもあるのですが、大抵落っこっちゃうからね。国民のより多くの支持が得られないのですだよ。

国民有権者の大多数は、やっばり金儲け主義が大好きのようですなー。と、ぼやきたくなる訳ですよ。

財布の中身が充実してれば、満足感はあるのでしょうが。かく言う私だって、きらいでは、御座いませんよ。正直なところ。しかし、中味が若干淋しくとも、子供が安全、夜道も安全、病人ほかの弱者が救われる、と言うのも、大いに安心感がありますよ。キット。

 

ところがですね。ジジーが小言を言う場所が、すっかり狭まってしまった現状なのですよ。

言うまでもなく、核家族化が進みましてね。

ジーの小言の最もお得意さんであった、孫と同居することが、極めて少ない状況になってしまったのですよ。

孫と同居さえしていれば、ジジーの小言は、朝起きてから、夜寝るまで、ずーっと、チャンスがあるのですよ。いつでも気軽に、タイムリーヒットを打てるのですよ。

それはそれは絶好調ですよ。

ところが、息子、娘たちは、みんな独立して、気がつきャー、家には、おババー様と、二人っきり。

なるべく目を合わさないように、狸寝入りしたりしましてね。これが結構気を遣うのですよ。

これが、おババー様に、小言の一つも言って御覧なさいチューの。それはそれは、どエライ目にあうこと間違いこざいませんよ。迫力が全く違いますからね。

賢い人の喩えに、一を聞いて十を知ると言うのが御座いますが、これが、おババー様にやりそこなうと、一言言ったら、百言い返される、ちゅーもんですよ。

誰に、口を聞いてるの !  

偉そーに。

ふざけなさんな。

このタヌキジジー !  

ときますよ。これは、ほんの軽いジャブですよ。

本番は、これからですよ。なんぼでも、機関銃が発射されますよ。

・・・・・・・・・

・・・・・・・・・

・・・・・・・・・

              ※ (ここは、各自が、想像を逞しくして、納得の行 

                    く、 妄想をたっぷりお楽しみ下さいませ。)

 

こんなこと、おババー様の耳に入ってごらんなさい。ただでは済みませんよ。こっちとら命懸けですからね。くれぐれも、告口しないで下さいよ。ホント。

(時々、こうしたことを混ぜませんとね。お客さまに、飽きられちゃいますのでね。眠気ざましです。これでも、けっこう気を遣っているのですよ。ホント。)

 

話を戻します。

核家族が一般的となりまして、ジジーの小言のはけ口の場が無くなってしまったのですよ。

せいぜい年に、盆と正月に、孫と面会の機会があるかも知れませんが、たった、これだけの滅多にない機会に、孫の顔を見て、いきなり小言を言う根性のあるジジーは、まずおりませんよ。ここぞとばかり、目一杯良いところを見せなくてはね。と一人張り切ったりしてますから。

ジーだって、カッコーつけなくてはなりませんからなー。

とかく、いいカッコには、引き換えの損失がつきものなのですよ。

 

嗚呼 !   ジーの小言は、一体どこへ行けば良いのだ。

路頭に迷うジジーの小言 !

 

夏が過ぎて、そろそろ  Autumn  has  come  アキがきた頃では御座いませんでしょうか。

 

余談になりますが、突然ちょっと気がついたのですが、ここの話では、「ジジー」と後のジを伸ばす呼称で統一してますが、これが「ジージ」と前のジを伸ばす呼称もあるのですよ。

これが、「ジジー」と「ジージ」とでは、全然印象が違うのですよ。

勿論「ババー」と「バーバ」も同様ですな。

お孫さんのおられる方、お宅では、どっちかなー?

場合により、使い分けられている。そーでしょうな。

対抗手段を講じなくてはね。

お小遣いに差をつけるか ?

 

本日は、この辺りで、止めにします。毎度の御粗末。

 

どうも、お疲れ様で御座いました。

懲りずに、またのお越しをお待ち申し上げます。

 

 

お後がよろしいようで

《停念堂閑記》107

「停念堂寄席」60

 

「ノホホーンとしてんジャーネーヨ!」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方はいないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットで来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

ところで、本当のところは、徒歩でも、ジョギングでも、マラソンでも、泳いでも、自転車でも、車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、はたまたミサイルであろうと、実は、来ることが出来ないのですよ。

あなただけに、こっそりとお教えしますね。たいして、難しくは御座いませんよ。ただね、必要欠くべからざるものがあるのですよ。

それは、パソコンかスマホなのですよ。それでね、GoogleかYahooのサイトから、「otakatsuyaのブログ」を検索すれば、「停念堂閑記」に辿りつけますから。これだけでいいのですよ。一般の交通手段では、永久に辿り着けませんので、どうぞ、ご注意くださいませ。蛇足ながら。

辿り着いてくれさえすれば、大歓迎で御座いますよ。

とは申せ、大歓迎と言いましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。炉端焼きにだって、行くわけでは御座いませ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めてしまいまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題の下に日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、たいして歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情のお方、このような同朋の御方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、閑、ひま、ヒマーッ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

 

さて、本日の話は、これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め、消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事はまったく御座いません。平凡極まりないムダ話で御座います。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

ここの特徴は、前置きが長いと言うことですよ。毎回、殆ど変わりがありませんが。これがいいのですよ。手っ取り早くてね。

これが、毎回違えるとなりますと、これは大変ですよ。それだけで、1日終わっちゃいますからね。こうなると、オオゴトなのですよ。一晩寝たら、昨日の記憶が消えちゃったりするでしょう。そうなったら、また、一から出直しと言うことになるのですよ。こうなると、もはやエンドレスですよ。一晩寝たら、振り出しですからね。前進不可能。

ネ! ウソは言わないでしょう。前置きが長いのですよ。そのかわり、本文はなるべく短くしますから。と言いつつ、ダラダラとやるのが、好きなのですよ。下らないことをダラダラとね。ヒマ潰しのコツ。

再び、ネ! 前置きが長いでしょ。これが特徴なのですよ。

これじゃー、切りが御座いませんな。

 

では、参ります。

 

ようこそのお運びで、厚く御礼申し上げます。

毎度、バカバカしい話で、しばしお寛ぎ下さいませ。

エッ! バカバカしい話は、もう言わずとも、とっくに分ってらっしゃるって、ですか。

長い前置きで、すっかり了解しておられる。

そりゃー、まー、そーで御座いましょうね。念には、念を入れで、たっぷりやっておきましたからね。

これで、もし了解されていなかったら、念入りにやった、長い前置きは、いったい何だったのだ、もう一度やらなきゃーならないのか、と言うことになってしまいますからね。それは、さすがに勘弁して下さいよ。

まー、どうしてもと言われるのなら、遣らなくは御座いませんよ。嫌いでは御座いませんので。はい。

もー、いい。

さすがに、そーでしょーね。

 

ところで、急転直下、甚だ突然で御座いますが、ホンダイで御座いますよ。

ホンダイと言っても、本 = ブックを買う為の予算の話では御座いませんよ。

ハナシのね。ハナシと言っても、歯槽膿漏になっちゃったハナシでは御座いませんよ。ハナシ = すなわち、喋くりの中心となることですよ。

所詮、大したことでは御座いませんがね。

そんなことは、言われなくても分っているって、ですか。

今迄、大したことがあったタメシが無いってですか。

よく判ってらっしゃいますな。それなら、話が早いですよ。

 

 

はたまた突然で御座いますが、目下、世間を騒がせている話題が、あるようですな。

何だか分りますか。

そんなこと、判るかって、ですか。

なに、お判りになられない。

違うよ。沢山ありすぎて、どれだか判らないって、ですか。

さすがは、お客様。よく判ってらっしゃいますなー。大正解。

世間を騒がせている事は山積。いくらでもあるようですな。

国内外の難題が、実に、山積ですな。

 

国内問題では、何と言っても、参議院選挙ですかね。

しかし、今回の参院選は、今一つ盛り上がりが御座いませんな。

要するに、コレコレ、コレだよ、と言う論点が、今一つ御座いませんな。

この度の参院選は、政府、与党にとっては、さしたる問題点となる事柄がないのでしょうね。

どっちかと言う、公示直前の今になっても、未だ論点が定まらず、何か盛り上がる論点はないものかと、模索している感じですなー。

何を政策の目玉として掲げるのか、明白になってないご様子で、政党、立候補者は本気でやるつもりがあるのですかね。

公示の直前ですよ。スケジュール的には、参院選があることは、とっくのとーに、判っていたことですよ。

これが、どのような政策を掲げるのか決まっていないようで。

政党も立候補者も、ここまでノンビリしてるとはね。マンネリ化だね。

たまらず、チョコちゃんを出してしまいそうですよ。

ノホホーン、としてんジャーネーヨ!ってね。

 

政府、与党にとって、一つだけチョンボぎみで発生したのが、年金問題

標準的に65歳から年金を貰う事にしたなら、この先約30年程生きるとすれば、およそ2千万円程の蓄えが必要だ、とする平均的老後の生活費に関るモデルケースなるものが、ひょっこりとマスメディアが取り上げたので、一時、政府は火消しに躍起となりましたが、内容が判ってくると、これも、大して政府、与党にとっては、打撃となることはなし。鎮火ぎみですな。

大体は、老後の年金生活には“2千万円の蓄えが必要”と言う部分だけを、大袈裟に取り上げたマスメディアの御祖末と言った感じですなー。

鼻から、国民年金(基礎年金)だけで、老後の年金生活は安心と思っていた人は、殆どいなかったでしょうしな。

厚生年金や共済年金を貰うことが出来る人達だって、老後の生活が年金だけで安泰と思っていた人は、少ないでしょうからね。

誰しも、蓄えは必要と思っていたでしょうからね。

タンス預金ですだよ。タンス預金。

モデルケースと言ったって、ですなー。それぞれの居住地域、資産、生活の仕方等々、各自同じでは御座いませんよ。みんな違うのですから。

そこに、このモデルケースで2千万円蓄えて、せっせと株に、投資信託になどと投資に励みましょう。なんて言われたってねー。

そんなモデルどーりの老後を送れる人がいますかってんですよ。

証券会社の勧めに載っけられて、気がつきゃ−、元手がたったこんだけになっちゃってる、と証券会社に文句を着けてみても、投資は自己責任でと、最初に言ってあるでしょー、ちゃんと説明済みの判子も押してもらってますよ、なんて相手になってもらえませんからね。

大体、日本では、一般に投資に手出しする人は少ないでしょー。

素人が下手に手出しすると、大やけどするくらいにしか思っておりませんよ。

それが、停年を迎えるまで、全然手出ししたことのない人に、突然退職金で株を、投資信託の商品を買いなさい、なんて言ったってね、手出しの仕様がないからねー。

証券会社だって、日本中どこにでもあるわけではないよ。場所によっては、一日がかりでなきやー、証券会社に辿り着けない方々もいるのですよ。

ネットでやればって、かい。

あなたね。ネットで投資を思うようにできるようになるには、何年かかると思ってんです。一つキーを押し間違えただけで、スッテンテンのパーになっちゃうことだって、あるんですよ。儲ける以前に、元手がなくなっちゃったりして。

リスクも大きいのですよ。

トランプさんの気まぐれ突然のツイートで、株が急落。アアアー、と言う間に、大損害警報が発せられる前に、ノックアウトくらっちゃいますよー、てんですよ。

投資なんて、口で言う程に、簡単では御座いませんちゅーの。損失を政府が補填してくれればね。そんなモデルを作って御覧なさいっちゅーの。

チョコちゃんに、登場してもらうよりないね。

 

ノホホーン、としてんジャーネーヨ!

 

まー、ボヤキは絶えませんがね。

「老後の年金生活には“2千万円の蓄えが必要”」の話題も、もー、マスメディアは飽きて取り上げなくなり、あえなく鎮火の状況で、野党の間抜けの対応も、政府・与党に大して打撃ともならず、効果なし。参議院選挙には、この点については、ほとんど影響も無い見通しとなったのでしょうな。

実に、気合いの入らない参院選ですなー。

本来、参議院の存在なんてね。大して・・・だからね・・・。

 

他にも、話のネタは、幾つも御座いますよ。

 

たとえば、少子高齢化の問題と言うのが御座いますそうで。

子供が少なくなっちゃって、代わりにジジ・ババ、あっ、失敬、失敬、御免なさいね。ご老人ですよ。お御老人樣。

とにかく、ご老人がいっぱい増えちゃったのですよ。後期高齢者のレッテルを張られた当のジジーが、このように申しているのですから、間違い御座いませんよ。

そんなこと改めて指摘されなくても、分りますわなー。周囲をぐるっと見回すと、殆どジジ・ババ、あっ、またまた御免なさいね。お年をお召しになられたご老人、お御老人樣ばっかし。

しかし、まー、良く増えましたなー。お見事!

これには、これなりの理由が御座いますのよ。

戦後、負けちゃったとは言え、戦争のない平和な時期が訪れたのですよ。

戦死なされた御方々には、何ともおかけする言葉も御座いませんが、戦地からお帰りになられた方々は、漸く家庭生活を取り戻すことができる様になったのですよ。

それで、苦しいながらも、家族の立て直しが、始められたのですなー。

その結果、終戦から2年後、1947年から1949年にかけて、実に沢山の赤ちゃんが生まれましたな。

第一次ベビーブームと呼ばれる時期を迎えましたな。この3年間に、合計すると凡そ800万人程の出生があった、と言うことですよ。

ウソ800では御座いませんよ。本当の、本当の800万人に近い出生があったのですよ。

1949年の出生数は、なんと270万人に迫ったそうですよ。

みんな寝るのを惜しんで、ガンバッタね。

今となっては、本当に、夢のような時期でしたな。

終戦から4、5年後、ちょうどアタシャー、小学校に入学した頃でしたね。

私の育った地域には、まだ電気が来ていませんでしたよ。ガス、水道なども勿論引かれておりません。

だから、電話も洗濯機もテレビも存在すら知りませんでしたよ。

それでも、皆んな当り前に、普通に生活してましたね。

物不足はひどかったですがね。食べ物、着る者、とにかく何でも不足、不足でしたなー。

交通だって、当時国鉄の最寄り駅までは、ちょうど1里、4キロでしたね。バスは通っておりませんでしたので、もっぱら徒歩ですわ。

冬は雪が降ってね。除雪車なんぞ来る分けも無く、積もった雪をケチらして、学校まで3キロを毎日往復しましたね。

夕飯の時などは、もー、草臥れちゃって、ご飯食べながら、居眠りしてましたからね。みそ汁ひっくり返したりしてね。

大体は、体力勝負の生活だったようですなー。

 

この頃ご近所では、彼方此方で、赤ちゃんが産まれた、赤ちゃんが産まれたと、賑やかでしたね。

戦後まだまだ経済的には、ドン底の状態だったわけ、スーパーマーケットも,コンビにも無く、今からみると、万事生活は不便だったし、家計はどこも極めて苦しい時期でしたが、皆んな頑張って子育てしていましたね。

戦後のドン底を脱出するには、次世代に期待するより無かったのでしょうな。

どんな貧乏な家だって、車も、テレビも、冷蔵庫も、パソコンも、スマホも何にもなかったけれど、子供はいたね。鼻っ垂れで、ヘソ出してね。

どこの親御さんも、子供とじゃれ合っていることが、何よりの楽しみだったのでしぅな。

 

この第一次ベビーブームの期間に生まれた世代は、団塊の世代と呼ばれておりましてね。誰でも知ってますよね。

現在、これがまとまって70歳を超える年頃を迎えまして、高齢化の代表的存在となっている、と言うわけですな。企業戦士などと称されて、日本の経済発展に寄与しましたなー。

それが、今では国難の元と言われてますよ。

 

次に、1971年から1974年までは、出生数が200万人を超えているのですな。ようするにね。第一次ベービーブームに産まれた人達が、25歳を過ぎる年頃を迎えましてね。当然の結果でしょうかね。沢山子供をつくってくれた、と言うことなのでしょうな。

こうして、第二次ベビーブーム到来ですな。

1973年の出生数は、209万を超えたそうですよ。

 

この法則に従えば、第二次ベビーブームに産まれた人達が、たとえば25歳になるのは、1998年からと言う事になりますな。大雑把に言って、2000年頃には、また、出生数が伸びるはずだったのですよ。

それが、どっこいそうは行かなかったのですなー。

1993年ころから、出生数はずーっと下がり気味となりまして、じり貧の現在に至っている状況ですなー。

2017年には、出生数がなんと95万人に及ばない状況に落ち込んじゃったそうですから、少子化も極限に迫った感じが、しますなー。

 

早い話が、子供をつくることに関る意識や環境に、ただならぬ変化が生じたのでしょうな。

どこに基本的な問題があったのですかねー。

経済状態は、終戦当時と比べると、もの凄く良くなったはずですなー。

しかし、諸事生活レベルが向上してきて、まずは、洗濯機、テレビを欲しがった時期が御座いましたな。

次いで、マイカーも欲しくなりましたよ。

さらに、家も、戸建て、マンションも欲しくなりましたよ。

さらに、さらに、海外旅行もしたいものですよ。

と、それぞれに合わせた生活をしようとすると、日々の生活は、相変わらず楽ではなく、せっせと子づくりに励むまでには、至らなかったのですかねー。

また、一方では、経済的に余裕が出て来ると、仕事に対する意識も、随分変わってきましたなー。

フリーターなんていうのが、出現しましたな。

特定の職業に着かなくとも、生活できる。自分好みのアルバイト的な労働で、食って行くのに支障はない、とする人々が現れましたな。

金が必要になると、好きなアルバイトをしましてね。当面の必要経費を稼ぐと、仕事はせず、好きな事をして過ごすと言う生活スタイルですな。

特定の仕事にとらわれない、気楽な生活スタイルですよ。

しかし、定職についていないので、生活の安定感は、薄かったのでしょうな。

いきおい、結婚なんて言うのは、遠のきますわな。当然の結果として、子供の出生数も少なくなりますわな。

経済も何時もいつも、好調とは限りませんよ。金の必要な時だけ、稼げば良いと言う、好都合が続くことにはならなかったわけですな。

それで、40歳にもなると、就職が思うように出来なくなる事情がやって来て、結局は、定職につけず、低賃金のイヤイヤながらのバイトで食いつながなくてはならないハメに陥っちゃったりしましてね。

結婚し、家庭を持って、子づくりなんて、ほど遠い状態になったりした人も、少なくないのでは。

 

女性の意識も随分変わりましたな。

結婚して、家庭に閉じこり勝ちな生活は、つまらなく感じたでしょうな。

旦那は、俺が稼いで食わせてやっているのだ、と言うデカイ顔をしている場合が、多く見られたのではないのかなー。

だったら、いっそのこと、結婚はチョット考えるか。

働けば、それなりに楽しいこともあり、収入もあるわ。

結婚して、家庭に閉じこもって、旦那にデカイ顔されて過ごすより、よっぽどいいや。と言うことにもなりますよ。

政府も女性の社会での活躍にテコ入れしましたし。十分ではないでしょうが、少しばかりの優遇策をちらつかせたりして。

 

そんなこんなで、家庭に閉じこもらず、外に出て働く女性が増加しましたな。

それが、少子化に繋がったのかと言うと、どうでしょうかね。影響なかったと言えないかもしけないけれど。

仕事をしながら結婚して、子供をもうける女性も、多数おりますよ。

しかし、仕事と子育ての両立は、なかなか大変ですよ。それでも、頑張っている女性は沢山いますよ。

妊娠、出産、育児、実に大変ですぜー。

男だったら、まずは、ダメだね。

妊娠、出産は逆立ちしても、でんぐり返しをしても、出来ませんから。男には。

せいぜい、イクメンになるよりないね。

しかし、イクメンも大丈夫なのかねー。これは親側の都合だからね。赤ちゃんにとって、イクメンは歓迎なのかなー。ひょっとしてヤバいかもよ。

パパにダッコされると泣き叫ぶ子が、ママにダッコされると、途端にニコニコしちゃう場合が多いようだから。イクメンもつらいよ。

 

そんな折がら、少子化が労働力不足の原因だ。

高齢者に支給すべき年金が不足となる。

ますます少子化が進み、労働人口が減少すると、高齢者に支給する年金を支える年齢層も不足する。年金制度がもたない。

これは困る。

この状況において、時々、出現しますなー。たちどころに、返り討ちにあうのに、懲りませんな−。

女性は、子供をもっと産め、と無茶を言う代議士。

何とも能天気な代議士先生ですな。たちまち、セクハラで返り討ちになってますが。懲りないね。全く。

年金を支える若者が減少しちゃうから、さー、子供を産め、と言われて、女性が、ハイ、産みましょー。となるとお思いですかちゅーの。

産もうと思っていた人だって、止めたくなっちゃうよ。

大体ね。いくら女性の社会進出が進み、大活躍の女性も現れ、女性の能力が賞賛されても、女性ひとりで子供を産めますかっちゅーの。

女性だけでは、子供を産めませんよ。無理だよ。完全に。

コレばかりは、男女協力し合わないとね。

それを、一方的に、上から目線で、女性だけに、沢山子供産め、なんて言ったって。所詮、無理なものは無理。出来まへん。

無茶言っては、いけませんよ。

そんなこと言うアンタは、何人子供産んだの。

男のアンタが、子供産めるものなら、産んでみせてよ。

さー、産めよって、迫られますよ。

 

仕様が無いから、男性にも頼んでみたら−。

子供つくって、イクメンやれよ。養育のために、せっせと働け、と。

男性にも、ソッポ向かれたりしてね。

 

はたまた、最後の手段として、国会議事堂の前に、男性代議士さんが勢揃いして、カメラに向かって、せーので、最敬礼して、うったえてみては。

頼む。赤ちゃん産んで、と。

 

ヒョトして・・・。

・・・しないね。キット。もはやダメだね。

 

こうなっては、やっぱり、チョコちゃんの登場ですな。

ノホホーン、としてんジャーネーヨ!

 

以前の国政選挙の時に、「少子高齢化問題と北朝鮮問題は、国難だ。」と言うスローガンを掲げて臨み、結果、大勝して、現在の政権が続いますな。

国民有権者の多数は、ご尤もと、支持したのですな。

少子化国難、高齢者の増加は国難、と言われて、賛成者が多数いたと言う結果ですな。

高齢化は、前に言ったように、第一次ベビーブーム、第二次ベビーブームなんて言われることがありまして、それが今、順調に歳を重ねた、その結果。

さらに、歴代政府は、医療に沢山の税金を注ぎ込みまして、結果、ガンなど早期発見で、治らない病気ではなくなりましたな。

ガンだけでは御座いませんよ。病気全般、食料、栄養全般の向上に尽力しましたな。コレも長生き、高齢化に寄与しているのでは。

さんざ税金を注ぎ込んで、長生きさせておいて、その挙げ句は、高齢化は国難と言って憚らない政府が出現しているのだから、どうしたものかね。

 

少子化も、まえに言った通り、国難、すなわち、易しく言えば、国にとって、甚だ迷惑な困ったことだ、と言うわけですな。

産まれて来る子供が少なくなると、良いこともありますよ。

要するに、人口が減少するということだね。

人口が減少すれば、まず、食料の必要量も少なくて済むようになりますよ。

電車だって、混雑しなくなりますよ。何時も、座って通学、通勤、行楽などなど、随分楽になりますよ。

子育てだって、子供が少ないと、万事経費が削減できますよ。

保育所だって、増設しなくても、好きなところに入れますよ。

受験だって、競争率がぐっと下がり、希望の学校に入り易くなりますよ。

就職だって、好きな会社に入り易くなりますよ。

なんたって、将来、老人が減少しますしね。

年金問題だって、心配いらなくなりますよ。

結構ずくめでは御座いませんか。

 

てな、分けに行くかねー。

きっと、チョコちんに、叱られるよ。

ノホホーン、としてんジャーネーヨ!

ダラダラと、くだんネーコこと、喋くってんジャーネーヨ!

ってね。

 

これでも、こっちとら、素直なジジーですからね。

止めろと言われても、何時迄も議員の椅子にしがみつく人とは違いまっせ。

スパーッと止めます。

 

どうもお疲れ様でした。

ヒマ潰しになりましたでしょうか。

 

またのお越しをお待ち申し上げます。

 

お後がよろしいようで

 

《停念堂閑記》106

「日比憐休独偏記」34

 

「自投ブーメラン?」

  

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方はいないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットで来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

とは申せ、大歓迎と言いましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。炉端焼きにだって、行くわけでは御座いませ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めてしまいまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題の下に日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、特に歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情のお方、このような同朋の御方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、閑、ひま、ヒマーッ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

さて、本日の話は、これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め、消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事はまったく御座いません。平凡極まりないムダ話で御座います。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

では、参ります。

 

本日は、いわゆる今現在国民的に最も盛り上がっている大関心事と言える「国民年金」をツマミに、思いっきり辛辣、本日は「辛辣」にポイントをおいて、憎々しげにボヤイて、みたいと企んでいるので御座いますよ。

きっと、もー、見るに絶えず、読むに絶えず、ディスプレーに五寸釘をぶち込みたくなる感情に掻き立てられるような駄文をズラズラと並べたいと思うのですよ。と申しましても、言うまでもなく、既に能力に限界が見えていますので、威勢の良いハッタリをかけても、実態が伴うかどうかは、全く当てになるものではない、と言う甚だ残念な結果が見えている気がするのですが。

要するに、政府から後期高齢者のレッテルをはられたジジーの何時もの、マンネリ気味の小言幸兵衛的ボヤキなのですよ。

たまには、良いのではないでしょうか。

エッ! しょっちゅうやっているではないか、ですって。

いやいや、それは誤解ですよ。

何時も、常識を踏まえた、極めて穏健な駄文を並べていますよ。タブン。

結局は、駄洒落を言いたかっただけかよ、ってですっか。

大正解、その通りなのですよ。よく気がついてくれましたね。気がついて貰えなかったら、ここまで引っ張った努力は、何だったのかと、ぼやかなくてはならないところでした。努力をすれば、どっかで報われることがあると信じて、本日は辛辣に、辛辣街道を進むことにします。

辛辣に評される方に、問題があるのですからね。

きっと、誰かさんの言いたい事も、混じっているかも知れませんよ。乞う、ご期待。きっと、外れると思いますが。

 

先ず最初に、「年金」て何だ? と言う疑問について、ある程度の解説が必要かな、と思ったりするのですよ。

このような時、インターネットは便利ですね。「年金とは」で検索すると、実に多数の解説的情報が提供されてきます。沢山有り過ぎて、どれを見たら良いか、迷ってしまいます。全部見るには、時間と根気が伴いませんな。だから、はじめの部分に紹介されている情報を、自分の要求に合うものがないかなー、とざっと見る事にしますなー。

運がよければ、割合早く巡り会えたり、悪ければ、なかなか巡り会う迄、時間を要する場合もありますなー。

幸い、今回は、「コトバンク」と言うサイトに、小生の求めていたのに近い情報があるのを見つけました。ちょっと、長いかも知れませんが、下に引用して示します。

 

年金(読み) ねんきん (英語表記) pension

 

翻訳|pension

 

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

 

年金

ねんきん

pension

一家を支える者が老齢障害死亡により所得を喪失,あるいは減少した場合,長期にわたって定期的に金銭給付を行なう社会保障制度。国が運営・管理する公的年金と民間で任意に行なう私的年金とがある。日本の公的年金は原則として強制加入で(→強制保険),国民年金厚生年金保険共済組合の 3種に分かれている。私的年金企業年金個人年金など。歴史的には,ヨーロッパで 19世紀頃から加入者が保険料を負担する拠出制年金制度が各国に普及した。日本の年金制度は 1875年にできた軍人の恩給制度が始まりで,のちに公共企業体の職員,国家公務員,地方公務員などを対象に共済組合が発足した。一方,1942年に工場労働者を対象とした労働者年金保険法(昭和16年法律60号)が施行され,1944年には対象を企業で働く男女従業員に拡大して厚生年金保険法(昭和19年法律21号)が制定された。1959年に従来の制度の適用を受けられなかった自営業者などを対象とした国民年金法が制定され,1961年の全面施行により国民皆年金体制が確立した。その間,厚生年金の適用対象であった私立学校教職員と農林漁業団体職員は,それぞれ 1954,1958年に共済組合を創設した。1986年には専業主婦の強制加入,制度の一元化と制度間の給付水準格差の是正,安定した年金財政の確立を目的に,すべての国民共通の基礎年金制度が導入され,今日の年金制度の骨格ができた(→基礎年金番号制)。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報                     (「コトバンク」より引用)

 

「年金」とは、概略このような事のようですよ。勿論、細かな事については、分らないところが多々ありますが、おおよそのところは何となく分かったような気がしますね。

てなことで、分ったような顔をして、次に進めることにします。

人間体裁を気にしますからね。分かったような顔で、というところがミソなのですよ。こうしないと、前へ進めませんから。分らない顔で、グズグズしていると、一向に前進できませんから。勘違いでも構うことは御座いませんよ。分かった顔が、前進のための肝心なところですよ。

分かった顔して七十余年、政府から後期高齢者と言うレッキとしたレッテルをはって頂けるまで、分かった顔がもとで、一度も死んだことは御座いません。図々しく生き延びることが出来ていますからね。実証済みです。

分らないことがあっても、大丈夫なのですよ。大事なのは、分かったような顔をする、と言うことなのですよ。分ったような顔をして、アレコレ言う自由が認められているのですよ。ここに小言幸兵衛の出番が回ってくると言うものなのですよ。これで、若干のヒマ潰しができると言うものなのですよ。

 

最近問題となっている年金関係のことは、政府が以前に言い切った、“年金は100年間は大丈夫”、というような内容のことに関ることですね。と分かったような事を言うわけですよ。

 

これが、最近、金融庁などから65歳で年金を受け取ることになる夫婦が、仮に100歳近くまで生きるとすれば、どれくらいの生活費が必要になるのか。これと受給できる年金との関係はどうなるのか、と言った勝手に拵えたモデルケースが示されて、現行の年金制度で生活するには、この場合約2〜3千万円不足である。すなわち、現行の制度で、年金生活を送るには、約2〜3千万円の蓄えが必要である、とされるような情報がマスメディアなどで取り沙汰され、これが、“2〜3千万円の蓄えが無くては、老後の年金生活が出来ない”と言うような風評となり、これが一気に広がり、政府が以前に言い切った、“年金は100年間は大丈夫”と言うのは、いったいどうなっているのだ、と言うようなことに発展し、国会でも問題となって、物議をかもしだす結果となっているようですね。と、まー、分ったようなまとめをするのですよ。ちょっと、文章が長くなっちまいましたがね。多少分かり難くても、ここでは分かった顔がミソなのですよ。しっこい様ですが。

 

概略、上記のようなことで、国民の老後の不安が、一気に吹き上がっちまった、と言うところですな。

 

しかし、ちょっと待って下さいよ。そもそも政府が以前に言い切った、“年金は、100年間は大丈夫”と言うことを、国民はどのように受け止めていたのでしょうかね。

幾らなんでも、これから先100年間、老後の生活は、年金で保障される、大丈夫と思ってはいなかったでしょうね。まさか、そんなお方は、いらっしゃらないとは思いますが、万一、万一ですね・・・・・、としたらと言うことですよ。

 

もしも、このように思っておられた方は、ずーっと一年中お正月をやっておられるようなお方ですよ。(解説 → お目出度い方と言う意味です。ここが過激な辛辣な部分なのですよ。どうですか、ムカッと来ましたか。でも、大丈夫ですよ。正月には正月の事情があり、言い分があるのですから。)

現行の年金制度で支給される国民年金だけで、老後の生活が、ちゃんと保障される人は、殆ど居ないと思われますよ。蓄えは別ですよ。国民年金だけで、と言う意味です。

周囲を見て御覧なさい、っちゅーの。基礎年金=いわゆる国民年金だけで、悠々と余裕のある生活を送っておられる方がいますか。基礎年金、65歳からまるまる貰っている人だって、1人、月6万5千円ほどですよ。これで、衣食住をはじめ、生活費全部を賄いなさい、と言われたって、どうにもならないですよ。税金だって、納めなくてはならないのですよ。と言うのが実情では御座いませんか? 今現在で、ですよ。このような状態なのに、100年先まで、大丈夫、なんて思っている方がおられるとすれば、それは紛れもなく、年中お正月の方ですよ。(辛辣で御免なさいね)

 

年金は、ある程度貰えるでしょうが、それだけで安心して年金生活を送れるとは、どなたも思ってはいなかったのではないでしょうか。足りないな。その為には、蓄えが必要だな、と皆んな思っていたのではないでしょうか。

政府が以前に言い切った、“年金は、100年間大丈夫”の意味は、その時に制定した年金制度は、100年間は、制度として維持できる、と言うことで、この制度で、100年間国民の老後の生活が大丈夫と言うものではなかったのですよ。この制度は、その時々の経済の状況に見合う年金の支給が可能である、と言うことで、分り易いように、極端な事を言えば、経済状態がすっかり冷えきっても、現行の年金制度では、年金の支給が出来るのですよ。但し、月々の支給額は、300円になるかも知れませんが。一日平均10円。と言うことで、制度は保持できるが、老後安心してやって行ける金額の支給が、可能だなんて、最初から言ってませんよ。制度は100年間だって、大丈夫と言うことだったのですよ。

 

それを国民の中には、大雑把に、判り良く言えば、今後、100年間は老後の生活するに足る年金が貰える、と勘違いして記憶していた方がいたのではないでしょうか。

それが、この度、標準65歳から年金を貰うことにすれば、約2〜3千万円の蓄えを持っていなければならならず、その蓄えを切り崩しながらやらなくては、老後の年金生活が出来ない、と突然言われたので、なんだなんだ、“政府が年金は、100年間は大丈夫”と言い切っていたのは、ウソだったのか、と騒ぎ立てることになったのですよ。

 

このように、勘違いして理解していた国民がおられるとすれば、こう言ってはお気を悪くされるでしょうが、そうとうお正月的、すなわち、お目出度いと言うことになりはしませんか。(辛辣でしょう。)

普通、3、4年先のことですら、どのようになるのかハッキリしないご時世なのに、100年先まで大丈夫といわれて、はいはい左様で御座いましょうね、と思う人がおりますか。国家財政は疲弊し切って、もう返済不可能な莫大な借金をかかえていている現状で、100年先まで大丈夫と言われて、ケッコウ、ケッコウと納得しておられるのですか、ちゅーの。ニワトリじゃーあんまいし。(どうです。重ね重ね辛辣でしょう。)

 

国民の誤解、もしもそうならば、呆れ返るばかりの現状でしょうが、この辺りをキチンと説明せず、この先100年間は、年金で老後の生活が保障されると言うがごとき錯覚を与えたのが、政府、政党、国会議員(全員とは申しておりません)の連中でしょうなー。選挙の時の票集めのためには、耳触りの言いことを言って、国民を誤解、錯覚に陥れたのでしょうな。と疑いが持たれているのですよ。(「国民を誤解、錯覚に陥れた」と言う部分だけを切り取って、四の五の言わないで下さいよ。全体のなかで、判断して下さいませよ。)

 

と言うことで、みんな心配していたように、特に、20〜40才代の人々は、誰もが自分らは、年金の掛け金は納めさせられる、老後に年金は貰えないであろうと、思ってはいませんか。(これも誤解ですよ。全然貰えないと言うことではありません。ちょびっとは貰えそーですよ。)

なんちゅったって、掛け金を支払らう年齢層よりも、年金を貰う年寄りの方が、圧倒的に多数なのだから、単純計算では、掛け金を支払らう年齢層の掛け金で、年寄りを支えられる訳が無いではありませんか。

この事は、随分以前から、マスメディアでも報じられていた事ではありませんか。それでも、将来標準で65歳から、年金を貰って、悠々自適の老後をおくることが出来ると思っていたのですか。そんなことを思っていた人がいたなら、それは、やっぱり正真正銘のお正月・お盆人と思われてもしようがないかも知れませんよ。(どうです。しっこく辛辣でしょう。)

 

誤解しないで下さいよ。歴代政府が築き上げてきた年金制度が、立派と褒めている訳ではないのですよ。どちらかというと、その反対です。

現行の年金制度の欠点は、老後、安心な年金を貰えない、と言うことも去ることながら、最大の欠点は、もー、複雑過ぎて、何がどうなっているのか、全然分らなくなっている、と言うことですよ。

 

根本的に基礎から、造り直さなくては、どうにもならなくなってしまっていると言う現状ですよ。

 

それは、歴代の政府・政党・国会議員および官僚らが、目先のことにしか関心がなく、具合が悪い箇所が露見すれと、取り敢えず、絆創膏をはり、ガムテープでくっつけ、時に包帯をするなど、その場しのぎの対策しか講じてこなかった。基本となるところには手を着けず、応急処置に応急処置を重ねて、本体がどうなっているのか見えない状態とするどころか、かなり資金が溜まっているぞ、なんて、これも目先の関心だけで、必要とされてもいない、とんでもない箱物施設を次々に建設し、挙げ句の果て赤字経営となるや、億を投じて造った施設を、なんと、なんと100円で民間に払い下げると言う案を国会に提出したことがあるくらいですよ。野党に突かれたら、なんと、なんと、それじゃー10倍にすると答弁した政府があったのですよ。一気に10倍だよ。10倍。一般的には、もの凄い倍率ですよ。

早い話が、それなら10倍にして1000円にする、と答弁したのですよ。国民をこれほど愚弄した政府を見たことが無かったですな。皆さん、ケロッと忘れてはいませんでしたか。その次ぎの国政選挙で、またまた同じ人を選出しませんでしたか。まー、このようなのが、お好きならば、選出しても、何ら構いませんが。

それから、何処へ行っちゃったか分らなくしてしまった年金の処理、どうなっちゃったの。当時の政府は、最後の一人まで、明らかにすると、高らかに言い切ったのですよ。このごろは、見向きもしなくなりましたね。そんな政府から、100年間大丈夫と言われて、本当に信じちゃったの??? 嗚呼! 嗚呼! 嗚呼!

 

とにかく、現行の年金制度は、複雑混沌としていて、まったく分りづらい代物となっていますよ。

ただし、最も大事な点は、明白なのですよ。それは、老後、年金だけでは生活ができませんよ、と言う制度だ、と言うことですよ。これが、結論です。

だから、2〜3千万円貯めておきなさい。それも、タンスにしまって置いてはダメだよ。投資に回しなさい。但し、投資は自己責任でやんなさいよ。スッテンテンになったとしても、それは、自分の責任だよ。と言う次第ですなー。

 

 

さて、振り返って見ますれば、このような年金制度を作ったのが、国会議員と呼ばれてきた人達なのですよ。すなわち、国民有権者が国政選挙で選出した代議士さん達が、今のような状況を作った元凶なのですよ。国民有権者が、そんな代議士さんを当選させたのですよ。と同時に、選挙に行かない無関心の人達も加わってつくり出した状態とも言えるかも知れないのですよ。

 

なにも年金問題に限った事では御座いませんよ。難題山積でございますよ。

現在の日本の最大の問題が、ここにあると思うのですよ。

国政選挙で選出された国会議員が、選出した有権者が納得できない政策を進める、ここに最大の問題があるのですよ。きっと。

この事態について、偏独(偏見と独断の略語)ながら、極めて分り易い一つの切り口を示すと、有権者に選出された国会議員に問題があるのか、選出した有権者に問題があるのか、と言うことですよ。あくまでも、一つの切り口です。

この観点から、見ると、そもそもの問題は、国政選挙の実情に根っ子があるのではなかろうか、と思われるわけですよ。

国政選挙の度に有権者のボヤキ声が、聞こえるのですよ。それも、かなり多数のね。

投票場へ行っても、この人は自分の代表として信頼できる、投票用紙にこの人の名前を書きたという人が、立候補者の中にいない、と言う声ですよ。多数聞こえていますよ。ホント。

このような何とも無惨な状況で、国政選挙が毎回、毎回実施されている現実があるのですよ。

しかし、このような有権者は、こんな人の名前を書きたくない、と言う無念さがあるのですが、仕様が無いから、立候補者中の誰かさんの名前を、シブシブ投票用紙に記入して、投票箱に入れて帰ってくるのですよ。手間隙けてね。

実に、無惨な状況ですよ。膨大な費用と手間隙をかけて、こんなことを繰り返し、繰り返し、ズーッとやっているのですよ。

 

うちのお兄ちゃんが、随分大きくなって、去年のTシャツが着れなくなった。と言ってイニクロへ出掛けて、色々と物色したけれど、ちょうど合うサイズが見つからなかった。と言う時に、しゃーないな、まー、いーか、と言って、着ることの出来ない、サイズの合わないシャツを買ってきますか。そんな愚かなことをする人はいませんよね。

 

それが、選挙に行って、候補者の中に信頼ができる人がいないのに、まー、いーか、てんで、なんで納得の行かない人の名前を書いて、投票箱にいれちゃうかねー。もー、少し真面目にやって下さいよ。本当に。

 

だって、候補者の中に、選出したい人がいないのに、どうすれば良いのさ。って、ですか。そこが問題のところですなー。実に、打つ手が無いのですよ。信頼できる人が立候補していなければ、いくら誰かを選べ、と言われても、無理、選べないのですよ。

 

しかし、選びたい人が、いないのに、適当に誰かの名前を書いて、投票する、と言うのも可笑しいことですよ。

そこで、あたしゃーね、以前、シャクだから、素直になって、選びたくても、選ぶに相応しい人がいないのだから、「該当者なし」と書いて投票したことがあるのですよ。

むろん無効票扱いになりますね。

しかし、信用ならないやつの名前を書く訳にいきませんからね。

これが、棄権してはダメですよ。ただサボッタだけと見なされてしまいますからね。

白票は、一応批判票と見なされる場合もあるかも知れませんが、ふざけたヤツだ、と見なされ兼ねませんからね。

それだったら、「該当者なし」と書いて、こちらの意思表示を明確にしてやろう、と思ったのですよ。結果は、全然問題にもされなかったことは、言うに及びませんが・・・。

しかし、一矢報いないとね。これが、仮に、仮にですよ、かなりまとまった票となれば、選挙管理委員会でも無視するわけには、行かなくなり、社会的に無視出来ない事態が到来するはずなのですよ。そうすると、政党も立候補者側も、相当考えなければならない事態となるのですよ。はかない抵抗ですが・・・。だまって、どうにも仕様の無い国政選挙を重ねて行くよりは、マシだと思うのですが。非力なジジーの空しい抵抗です。

だけど、「デコポンペケ助」だけは、絶対に投票用紙に名前を書いてやらないからね。

 

突然で御座いますが、「デコポンペケ助」について、知らない方々のために、ちょっと一言解説しておきます。

以前、三宅久之さんと言うお方が、政治評論をしておられました。そうです。思い出されたお方もおられるでしょうね。内部も外見もピカピカ頭の評論家。2012年にお亡くなりになられまして、久しくなってしまいましたが。

なかなか鋭い分り易い評論で、定評がありましたよね。

この三宅氏が、「ポン助」「デコ助」を多発しておられましたね。「ペケ助」は不肖小生が付け加えさせて頂いたオマケみたいなものであります。

棒にも箸にも掛からない代議士が、「ポン助」であります。実に、要を得た、説明不要のムダの無い命名であります。

そして、「ポン助」を上回る阿呆な存在が「デコ助」であります。この両刀で、どうしょうもない代議士を、バッタバッタと撫で斬りにしてましたね。

ところが、最近は「ポン助」、「デコ助」の更に上を行く代議士が、続出ですので、ここで「ペケ助」の登場となったのですよ。

そうです。各自、それぞれ想像をたくましゅうして下さいませ。あの御祖末な代議士が「ポン助」、更に、その上を行っているあの代議士が「デコ助」なのですよ。そして、そして、更に、更に、その上にあらせられる、あの代議士が「ペケ助」なのですよ。

以上、「デコポンペケ助」の解説で御座います。

なんと驚くことに、容易に「デコポンペケ助」を想像することができるでしょう。この手の代議士ばっかり。国民の望むことの議員立法一つ、その作成、成立に努力出来ない代議士。あなた達、ホントに国民の代表者なの。

 

しかし、悲しむべきことに、この「デコポンペケ助」さん、みんな国政選挙で当選した御方々なのですよ。そうです、国民有権者が選出した、自身の代表者なのですよ。

 

投げたブーメランは、ちゃんとそれなりの役目を果たして、投げた当人のところに返ってきますなー。

 

国民有権者は、自分が投げたブーメランで、自分がなぎ倒されたに等しい状況を作っていると言う事では御座いませんでしょうか。これを以前から、ズーッと、ズーッと続けているのですよ。何回も、何回も、国政選挙を重ねても、基本的にはこの状況から脱していないのですよ。いい加減なんとかしてよ。ホント。

 

と言う次第でして、最も大事なことは、国民がもっともっと賢くならなくてはならない、と言う一事だと思うのですよ。

辛辣に表現すれば、国会議員に「デコポンペケ助」がいっぱいいるのではないのか、と言うことは、取りも直さず、国民に「デコポンペケ助」がいっぱいいると言うことに他ならない、と言うことになってしまう訳なのですよ。

だから、国民は、もっともっと賢くならなくては、と言うことですね。

そのためには、早い話が、真面目に勉強もしなくてはならない、と言うことでしょうな。

イベント通いで、目先の楽しみを成就するのも良いですよ。大いに楽しんでケッコウだと思うのですが。でないと、やってらんないところが御座いますからね。

しかし、ですね。決めなきゃならない場合は、思いっきり真面目に、決めないと、いい加減なブーメランを投げると、いい加減な結果を携えて、ちゃんと自分のところに返ってきますからね。

とにかく、多少は勉強しないとね。少しでもやって見ると、ちょっと分かった顔ができるようになって、前進できると思うのですよ。

 

と、まー、例のごとくの綺麗事を並べて、それじゃー、お前はなにをした、と言われると、これまた例のごとく、残念ながら、面目御座らぬの一言あるのみなのですよ。

 

年金の話は、どうなった、ってですか?

現行年金の制度は、もー、とにかく複雑過ぎて、分らなくなっている、と言うことでしょうな。基本から立て直さなくては、応急処置では、どうにもならない事態に立ち至ってしまっている、と思われますな。

 

以前、国民年金=基礎年金しか受給できていない方々から、サラリーマンは、沢山年金が貰えて、いーなー。不公平だ。と言う声が上がったことがありますなー。

国民年金=基礎年金を貰う為には、その為の資格を得るために、それ相当の掛け金を納めなければならないのですよね。

サラリーマンは、国民年金=基礎年の他に、厚生年金や共済年金を貰うので、手取りの年金額は、国民年金=基礎年金しか受給できていない方より、随分多額になる訳です。

しかし、厚生年金や共済年金を貰うには、毎月、毎月の給料から、それ相当の掛け金を納めなくてはならないのですよ。

これが、結講な額でしてね。

簡単に言えば、月給から自動的に退職金のための掛け金が天引きされ、厚生年金や共済年金のための掛け金が天引きされるのですよ。それが後に、退職金や年金となって、戻って来る、と言う仕組みで。だからサラリーマンの年金の方が、多くなるのですよ。この掛け金の額が、半端ではないのですよ。

これは、有無を言わせない天引きですからね。一度で良いから、天引きされない給料を、振込ではなくゲンナマで受け取ってみたかったですなー。

この他に、所得税地方税を納めなくてはならず、国民健康保険料、介護料等々が差し引かれると、月給の額面より、手取りの方はもの凄く激減しているのですよ。月々の生活は、原則、この手取りで遣繰りしなくてはならないので、実に大変なのですよ。消費税率も間もなく引き上げられるしね。

どっこい、政府は、月給は着実に上がっている。と言い張るのですよ。政府の言う月給は、もちろん額面の方ですよ。手取りではないのですよ。

その上、働き方改革で、残業させるな、するなと言うのですよ。サラリーマンの方は、多少とも手取りを多くしょうと思えば、残業が必要なのですよ。残業代が無くなっては、手取りは、どうなります。

 

一方、労働人口の激減で、労働力不足が大問題となっていますなー。そこに、残業させるな、するなでは、労働力不足の方はどうなるのでしょう。

無論、ブラックはいけませんよ。ブラックは。ブラックは、残業させておいて、残業代を支給しない、と言うようなところに問題があるのではないのですか。

残業については、全て悪とするような考えは、如何なものでしょうかね。要は、バランスの問題では無いのでしょうか。需要と供給の関係で、労使双方が納得のいく、無理でない場合は、ケースバイケースの判断があって、然るべきと思われるのですが。何でも業種一律と言うような、単純な考え方ではなくね。

 

小言幸兵衛があらぬ方向へと進んでしまいましたが、話を戻すと、サラリーマンの年金が多く見えるのは、長期に渡るそれなりの掛け金を納めているからなのですよ。

このような事は、今では誰でも承知していますでしょうが、以前は、そうではありませんでしたね。サラリーマンは良い年金を貰っている、でしたよ。

要するに、年金制度が、よく理解されていなかったのですよ。このような側面は、現行年金の制度においては、山ほど御座いますよ。ちっとやそっと、説明を受けたとて、分る代物では御座いませんよ。

更に、年金問題も含めて、福祉政策全般に関る金がないから、消費税律を10%に引き上げてやる、と言うことのようですなー。

このような目先の難題を、小手先の応急処置で乗り切ろうと言うのが、現在の政府、政党、国会議員の多くなのですよ。

大体、消費税律を10%に引き上げただけで、福祉問題が解決すると思ってんですかっちょーの。すぐさま、引上げ、また引上げ、また又引上げの連続になることが見え見えでは御座いませんか。

国家運営費の収支方法を根本的に考え直さなくては、何にも解決に向かわないのでは。

しかし、「デコポンペケ助」の集りではね。嗚呼、アー。

こんな時こそ、官僚がしっかりしていてくれれば、と思うのですが。こちらも、スカポンタンかなー。忖度、忖度で。要するに、牽引する機関車の部分が、忖度、忖度のスカポンタンになっちゃってはねー。嗚呼、アー。

かくなる上は、国民がしっかりするより無いですなー。

今度の参議院選挙では、どうなるかなー。またまた、嗚呼、アーかな。

気長に、待ちましょう。きっと、もっと良い日が来るかもよ。

 

この辺りで、本日の過激辛辣小言幸兵衛の退場とします。

決まり台詞。こんなことで、面目次第も御座らぬ。

分っちゃいるけどねー。なかなかねー。

 

どうもお疲れ様でした。

またのお越しをお待ち申し上げます。

 

お後がよろしいようで

《停念堂閑記》105

「日比憐休独偏記」33

 

「ひきこもり?」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方はいないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットで来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

とは申せ、大歓迎と言いましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。炉端焼きにだって、行くわけでは御座いませ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めてしまいまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題の下に日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、特に歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情のお方、このような同朋の御方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、閑、ひま、ヒマーッ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

  

さて、本日の話は、これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め、消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事はまったく御座いません。平凡極まりないムダ話で御座います。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

では、参ります。

 

本日は、いわゆる「ひきこもり」について、ド素人の思い付きを書くことにしたいと思います。

最初に謝っておきます。この種のことについては、全く門外漢です。ですから、見当違い、誤解、独断と偏見が散見することになりそうで、御座います。

だったら、最初から止めとけといわれますね。

そう言われてしまえば、実に、その通りなので御座いますが、歳をとるに従い、どうもヒトコト言いたくなる感傷に囚われることが、あるのですよ。

今朝も、2時過ぎにトイレに立って、目が覚めてしまい、再眠(こんな言葉はあまり見かけませんよね。でも何となく意味が通じそうですよね。)不可能の状態に陥りまして、この時に、ふと「ひきこもり」と言うのが、半分寝ぼけている頭を横切ちゃったのですよ。なんだかは、当の本人も、全然分りません。関係する夢を見ていた訳ではありませんし、多分、寝ぼけていた脳ミソの一部が、「ひきこもり」と言う記憶に、何かの拍子で繋がってしまったのでしょうね。自分の脳ミソに違いないのですが、何だか本人の意志とは、無関係に活動をしている時があるようですね。

それで、全く予定していないのに、「ひきこもり」となってしまった次第なのですよ。全然、予期しない行き当たりバッタリに発生してしまった、偶然と言う他ない事態なのですよ。

しかし、一旦気に掛かってしまうと、慣れない事だけに、あれこれと疑問が湧くことになる訳でして、結局、年寄りの我が侭で、こうした駄文に臨む事になってしまったのですよ。

そのような事情ですので、本来ならば、この種の話題は、先ずは関係する文献をあれこれ調査の上、臨むべきことなので御座いますが、半ば寝ぼけた脳ミソの所産ですので、所詮、ド素人の戯言と、お聞き流し頂ければ、幸甚で御座います。

要は、世に「ひきこもり」と言われていることがどう言う事か、それが社会的にどのように扱われているのか、と言うような素人の素朴な疑問とか、このようなことをしてみたらどうであろうか、と言うような素人的提案をしてみたい、と言う趣旨でありまして、一般的に言われている「ひきこもり」の是非を問おうと言うような目的は、全く御座いませんので、どうぞその点をご理解下さいますようお願い致します。

 

逃げ口上は、これくらいに致しまして、先ずは、「ひきこもり」の概念を何とかしておかなくては、話にならないだろうなー、と思うのですよ。

そこで、手っ取り早く、手元の『広辞苑』を見ましたところ、版が相当古い(第四版 1991発行)せいなのでしょうね。なんと「ひきこもり」は、載っておりませんでした。但し、「ひき-こも-る 引き籠る」が載っていました。そして「退いて内にこもる。閉じこもる。ひっこもる。」と言う解説が付けられていました。

ですから「ひきこもり」は、この名詞形でしょうから、「退いて内にこもること。閉じこもること。ひっこもること。」となるでしょうね。これが、国語的な「ひきこもり」の意味と見て良いでしょうね。

必要もないことですが、易しく言えば、早い話が「とじこもること」と言う意味ですね。

 

次いで、インターネットで、検索してみることにしました。一例を示しますと、次ぎのようです。

 

《1》 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

引きこもり(引き籠もり、ひきこもり、英語表記 hikikomori)とは、仕事や学校に行けず家に籠り、家族以外とほとんど交流がない人の状況を指す。現時点では、日本の厚生労働省はこうした状態が6か月以上続いた場合を定義としている。また内閣府は引きこもりの実態を把握するために、15歳〜39歳までの若年層を対象に調査してきたが、引きこもりが長期化する人が増えていることから、2018年12月、40歳から64歳を対象とする初めての調査を行い、40歳から64歳で引きこもりの人は、推計で61万3,000人に上り、15歳から39歳を対象にした調査で推計した54万1,000人より多くなっている。

                       [脚注を省略しています。]

(中略)

もともと「引きこもり」とは英語からの訳語で、出典はアメリカ精神医学会編纂の『DSM-III』の診断基準におけるSocial Withdrawal(社会的撤退)という用語だった。

「引きこもり」の意味は時代とともに変化している。かつては、後述のように、隠遁や病気療養を指して使われたが、現在の厚生労働省は次のように定義している。

  「仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6    

   か月以上続けて自宅にひきこもっている状態」 時々は買い物などで外出

   することもあるという場合も「ひきこもり」に含める  -厚生労働省

 

(中略)

大辞泉』では「長期間にわたり自宅や自室にこもり、社会的な活動に参加しない状態が続くこと。」とし、「補説」を加えており、「周囲との摩擦によるスト レスや精神疾患が原因で引きこもる場合、原因を特定できないまま引きこもる場合などがある。厚生労働省は、「さまざまな要因によって社会的な参加の場面が せばまり、就労や就学などの自宅以外での生活の場が長期にわたって失われている状態」と定義する。

          [脚注を省略しています。前後の記事を省略しています。]

 

《2》 【ニコニコ大百科

 

概略

引きこもるから引きこもり。立てこもるなら立てこもり。閉じこもるなら閉じこもり。

 元々「引きこもる」という言葉は同じ場所にじっといることや、外部との接触を断って過ごすことを意味する。

「引きこもる」という言葉自体は大昔からある言葉だが、1990年代後半から自宅に引きこもって外出しない若者を「自宅引きこもり」などと呼び、単に「引きこもり」という単だけでこの状態像をすことが極端に増えた。

 2000年代初頭では、自分の部屋から出てこずに学校にも行かない・仕事にも行かない人を「引きこもり」としてテレビや雑誌などで度々大きく取り上げられることも多かった。(”引きこもりを矯正する仕事人”のような事業や人もニュースで特集されたりなどもした)

 また、自宅から出てこない「自宅引きこもり」や、自分の部屋から出てこない「自室引きこもり」以外にも、社会から引きこもり、病的にまで進展すれば「社会的ひきこもり(英:social withdrawalの訳とされる)」等と言ったりする。

social withdrawalとは、元々「精神障害の診断と統計の手引き」(通称「DSM」)に病気の症状として扱われている概念である。

                   [前後の記事を省略しています。]

 

他にも、色々な記事が見られますが、きりがないので省略します。

「ひきこもり」は、本来は、分り易く言えば、「とじこもること。とじこもる人。」と言った意味なのでしょうが、20世紀の末から、特別な意味を有する語として使用され出したようですな。即ち、社会的な問題として、マスメディアで時々取り上げられるようになったようで、特定の条件が付された意味で使用されるようになったようです。そして、行政的に対処する必要も生じて、厚生労働省が概念規定をおこなった。と言う経緯のようですな。

しかし、マスメディアでは、現在でも、厚生労働省の規定した通りではなく、かなり広い枠で「ひきこもり」を扱っているようですね。

厚生労働省の規定では、時々買物などで外出することを含めるが、「仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6か月以上続けて自宅にひきこもっている状態」と言うことのようですね。

「時々買物など」の「など」の範囲はどこまでなのでしょうかね。また、「家族以外の人との交流をほとんどせず」の「ほとんど」の範囲はどこまでなのでしょうかね。幾分大雑把な表現をしていますが、一方「6か月以上続けて自宅にひきこもっている状態」と、ここでは、きっちりと「6か月以上」と期間を区切っていますな。

すぐに、5か月と28日では、「ひきこもり」の範疇に入らないのか、とケチをつけたくなりますな。きっと、行政的処置の実施や裁判などで問題となった時などには、厚生労働省の立場としては、「5か月と28日」では、「ひきこもり」とは見なさない、と言う立場を取るのでしょうね。

すなわち、行政的には、どこかでキッチリした区分をしておく必要があるのでしょう。実に、お役所的な処置の仕方を感じますな。

しかし、何でピッタリ「6か月」なのでしょうかね。きっと、何らかの判断基準があるのでしょうね。国会で質問されたらちゃんと説明しなくてはなりませんでしょうからね。

 

この点、言っちゃーなんですが、マスメディアではかなり好い加減ですな。たとえば「ひきこもり」に関る事件などを報道する時に、いちいち6か月以上か否か迄は、裏をとる事はないでしょうね。ご近所の井戸端会議的「ひきこもっていたらしいよ」というような噂を拾ってきて、「ひきこもり」だったらしいよ、てなことで報じられる場合もあるかも知れませんね。「ひきこもり」に限ったことではありませんが、とあるワイドショーなどでは、事件の性質に依っては、当テレビ局員による現地取材を殆どおこなわず、新聞や週刊誌やスポーツ紙やネットの情報などを拾い集めて(このような手法を孫引きと言いますよ。)、番組を作ってしまっている場合も見受けられたりしましてね。

新しい情報が入りました。それによると事実はこうです。なんてやっているのですよ。昨日報じた事実とは、違う場合など、しょっちゅう見受けられますから。昨日報じた事実と今日報じた事実が違っちゃっているのだから。本来、昨日であろうと、今日であろうと、事実は事実、一つなのですからね。

とにかく、現地踏査をキチンとして下さいよ。そうしたら、「・・・らしいよ」とか、「・・・と推測される」と言うような曖昧な表現をしなくとも済みますし、また「確かな事は分っていませんが・・・」なんて言う前置きをしなくて済む場合があるのですよ。要するに、これはこうだ、今はここ迄の事が明らかだ、この部分はまだ分っていない、などと自分の目で確かめた報道ができるのですよ。孫引きは往々にして、間違いの元となりますよ。

 

ちょっと、小言幸兵衛的ボヤキが入ってしまいましたが、世間で言われる「ひきこもり」は、それぞれのメディアで、それぞれの時に、内容の違いがあるのが、現状のようである、と言うことですよ。

 

それから一つ気になる事は、例えば、前掲の《1》《2》《3》に見られる「ひきこもり」の概念的なものは、端的に言えば「ひきこもっている人」側からの言い分が殆ど含まれていないのですよ。

「ひきこもっている」と見なした側から見たもので、「ひきこもっている人」とされる側からする概念的要素は、一切含まれていないようです。

良くは分りませんが、いわゆる「ひきこもり」と言うレッテルを貼られた人達には、個々の性格、事情などの違いがあるので、一概に言えないところがありますが、彼らには、彼らの世界があるのでは無いのでしょうか。対して、いわゆる「ひきこもり」をしていない人達には、その人達の世界があり、多分、それぞれの言い分があるのではないのでしょうか。

一般的には、数的に断然多数のいわゆる「ひきこもり」で無い世界の人達が、少数派のいわゆる「ひきこもり」と言われている人を、「ひきこもり」で無い人々の世界に引き込もうと、努力していることが窺われますね。そして、それが、正しいあり方と信じていますね。いわゆる「ひきこもり」の人を、いわゆる「ひきこもり」で無い人々の世界に引き込んで、結果、それがまるく収まったとすれば、それはそれで、OKと言う事でしょうね。

しかし、いわゆる「ひきこもり」の人を、いわゆる「ひきこもり」で無い人々の世界に、無理やり引き込んでも、結果、まるく収まらない場合もありますね。

ですから、どうしても、いわゆる「ひきこもり」で無い人々の世界に馴染めない人を、何が何でも、「ひきこもり」で無い人々の世界に引き込もうとする行為は、かなり無理がある場合が御座いますね。

ですから、いわゆる「ひきこもり」で無い人々の世界に馴染めない人々の世界を認知する方法をも考えなくてはならないのではないのか、とも思われるのですよ。

このような傾向は、たとえば、今は、身体と心の性の不適合の方達の存在を認めて、それなりの無理でない状態を認知する方向にありますね。それから、同性婚も認められる傾向にありますね。

ですから、これらと同様に、いわゆる「ひきこもり」で無い人々の世界に馴染めない人々の世界を認知しても良いのではないのか、と言う方向があるのではないでしょうかね。そうすると、「ひきこもり」と言うレッテルを貼ったり、貼られたりせずに、お互いに悩まず、住み分けることができるかも知れませんね。

もしも、このような方向をとるとすれば、色々な対策が必要とされるでしょうね。しかし、現在いわゆる「ひきこもり」の問題が、社会問題となっているのも現状ですから、何かの対策が、必要とされていることは、間違い御座しませんな。

頭の良い方、英知を絞り出して、良い対策を考えて下さい。期待しています。

言いっぱなしで済みません。

 

それから、もう一つ気になっていることがあるのですよ。

それは、いわゆる「ひきこもり」は、時々社会問題として、マスメディアでとりあげられ、なんとかしなくてはならない注目される問題とはなっているのですが、今一つ世の関心が薄いのではないのか、と言う感じが拭えないと言うことですよ。

関心の薄さは、いわゆる「ひきこもり」は、引き蘢っている当人およびその家族の問題という認識に由来しているのでは無かろうか、と推測されますね。直接関係していない人にとっては、判り良く言ってしまえば、他人事なのではないのでしょうか。

だから自ずと関心を寄せるにも限界がある。と言う性格が横たわっているのではないのでしょうか。

従って、いわゆる「ひきこもり」に対する対策は、関係の強い一部の人達の関心事に留まっている実情ではないのか、と思われるのですよ。

しかし、不登校とか出勤拒否など、社会的に困っている人々が、かなり存在していることは確かで、前掲《1》の記事に依れば、内閣府の推計では、600万人を超えるいわゆる「ひきこもり」の存在が推測されていますから(2018年調べ)、これは、他人事と言ってはいられない事態と言えるでしょうね。

何とかより良い解決法を考えなくては、ならない事態ですよ。

この事態に対応することに、まずは、国民がより強い関心を持たなくてはなりませんね。

国民の強い関心は、きっと、事態を解決に近づけることになると思うのですよ。

例えば、その成功例は、ガン対策に明瞭ですね。

ガンに苦しむ人々は、実に、沢山いた訳で、国民あげて何とかならないものかと、声を上げていましたね。

結果、とかく腰の重い政府も、ガン対策には、極めて積極的に取り組むことになりましたね。ガンの治療と研究に多大の予算が付けられましたね。他の分野と比較すると、ガン関係の分野には、とてつもない国税が注ぎ込まれましたな。その結果が、現在の状況をよく物語っておりますね。早期に見つけ出す手法が開発され、治療も格段に進化し、早期に見つけさえすれば、ガンは治らない病気ではなくなりましたね。

これは、国民がやる気になれば、やれると言うことを実証した例ですね。まだ続いていますが。

ですから、「ひきこもり」問題にも、多額の予算をつけて、解決の方向に前進さえすれば、それなりの成果は必ず上がると思われますね。現状よりは、絶対に良くなることが、明らかですよ。

これは、国民の関心に懸かっているわけで、政治家や政府任せにしておいては、何時まで経っても、埒があきまへんな。国民が「ひきこもり」の解決策を掲げ、票に結びつくぞー、と圧力をかけなければ、事態は動きませんな。今の政党、政治家と称される人達は、票に結びつかないことには、見向きもしませんから。

票に結びつかないと判断すれば、自ら頼んでおいた専門委員会の報告書だって、そんなもの受け取れるか、と放り出すのだから。そんなご都合主義の政府、政党、政治家を生み出した片棒を担いだのは、言うまでもなく、国民有権者なのだから、その点をよくよく熟慮しなくてはなりませんな。有権者の1票が、間違いなく国民にブーメランのように、帰ってきますから。しまって、行かなくてはね。

 

てな訳でして、だいたいこの辺りに参りますと、例のごとく疲れが出てくるのですよ。

お付合い下さったお方々にも、夏が過ぎてアキがやって来る、と言うことになるわけですよ。

てなことで、この辺りで本日の打ち止めと致しますが、コラコラ、綺麗事の言いっぱなしかよ、お前は何をしたと言うんだよ、と言いたくなるでしょうね。

そのように言われちゃうと、何時もの通り、面目次第も御座らぬの一言あるのみなのですよ。

しかし、何時もやられっぱなしではシャクなので、本日は、次ぎのようなフレーズを用意したのですよ。

「コラコラ、綺麗事の言いっぱなしかよ、お前は何をしたと言うんだよ。」と言われたら、「コラコラ、綺麗事の言いっぱなしかよ、お前は何をしたと言うんだよ、と何にもしていない人に言われたりしましてね。」と言うフレーズを用意してみたのですよ。あまり迫力は御座いませんな。

まー、こんなところですよ。世の中お互い樣、と言うところがあっても良いでは御座いませんか。

 

お疲れ樣で御座いました。懲りずに、またのお越しをお待ち申しあげます。

 

お後がよろしいようで

 

《停念堂閑記》104

「日比憐休独偏記」32

 

「ぜひ、人格形成教育を!」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方はいないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットで来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

とは申せ、大歓迎と言いましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。炉端焼きにだって、行くわけでは御座いませ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めてしまいまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題の下に日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、特に歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情のお方、このような同朋の御方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、閑、ひま、ヒマーッ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

 

さて、本日の話は、これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め、消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事はまったく御座いません。平凡極まりないムダ話で御座います。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

では、参ります。

 

最近、テレビのワイドショウで、盛んに取り上げられたのが、何と言っても川崎で起こった、殺傷事件でしょうな。

とにかく、最も起きて欲しくない事件が起きてしまい、被害者の方々には、お掛けする言葉も御座いません。お亡くなりになられたお二方には、月並みで甚だ恐縮で御座いますが、ご冥福をお祈り申し上げる次第で御座います。

怪我を負わされた御方々には、一日も早く完治し、通常の平穏な生活を取り戻して頂きたいものとお祈り申し上げる次第で御座います。

 

時間が経過するに従い、色々な事情が報じられて来てはおりますが、最も気になる加害者の犯行の動機に関る点については、加害者当人が自殺してしまっているので、当人から聞き出すことは、もはや不可能と言う状況です。

加害者が生存していて、当人から証言を取れれば、動機に繋がる点の解明に役立つこととは思われます。

 

しかし、このような事態に際して、仮には無いのですが、まったく仮にですね、加害者当人が生存していた場合、殺害に及んだ動機が全て明白になるか、と言うと、これがそうとも限らない可能性があることが、この種の問題の難しい点ですね。

仮に、加害者が一切口を噤んでしまえば、真相に迫ることは不可能です。

また、ウソの証言をしたならば、真相は判らないわけです。

当の本人がそのように言っているのだから、と言うだけで、それが真実とは、到底思われない場合もあると言うのが、むしろ一般的見方でしょうね。

人間は、ギリギリのところでは、自己の不利になる事は、言いたくなくなるものと推察されますね。

一般の裁判の時にも、自分に不利になる事は、言わなくても良い、と言う前提で裁判が進められる現状ですね。

さらに、裁判になると加害者側に弁護する人達が加わる事でしょうから、加害者の不利になることは、ますます表沙汰には、ならなくなる可能性がありますね。被害者はただただ無念と言う状況に追いやられるだけですね。

従って、加害者が生存しているからといって、加害者側から真実が語られるとは限らない可能性があります。証言が真実か否かは、当人しか判らないことであり、場合によっては、当人さえ認識出来きてない状態だって、あるでしょうね。

この点がこの種の問題の難しいところですね。

 

また、遺書や犯行に関ると思われるメモ類などの記録が見つけ出されれば、犯行の動機に迫ることができる手掛かりとなる事でしょう。

しかし、これとても、遺書や関係する記録に書かれていることをもって、犯行決行の真実か、と言うと、これがまた、判断の難しい側面が残されている場合がありますね。

端的に申し上げて、遺書にも、ウソを書く事は可能です。その他の関連すると思われる記録についても、同様の可能性が残されている場合が御座いますな。

人の心の中を窺うことは、どのような心理学者でも、完璧になし得る事ではないように思われるのですよ。

よく心理学者の先生方の中には、関係すると思われる統計を引き合いに出して、確率の高い部分に結論を見出そうとする手法を執られる方をお見受け致しますが、これはこれで一つの意義があるのでしょう。

しかし、この度の川崎の殺傷事件の解明などには、統計上の確率などは、どれほど役に立つものなのでしょうかね、と言う疑問が存在するのですよ。

まずは、この引き合いに用いられるこの種の統計の性格がどのようなものなのかが気に掛かりますね。果たして、この事件の解明に相応しい統計なのかが問題となるでしょうね。

この種の事件は、その事件の特殊性が問題ですから、一般化するのに使用する統計に照らして判断するには、かなり難しい側面を有しているのではなかろうかと言う感じがしますね。

動機の真相は、極めて難解な性格を有する厄介な問題ですな。

 

結局のところは、事実をこと細かに明らかにして、それに基づく判断を示すに留まらざるを得ないのが現実なのでしょうね。

 

また、この事件に関係して、加害者は自殺を遂げるのが目的では無かったのか、と言う推測がなされましたね。これに関連して、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う発言が出ましたね。

これに対して、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言うことを言わないで欲しい、と言う意見が出まして、メディア上で、大きな話題となりましたね。小生も、複数のテレビ番組などで、このような状況を目の当たりに致しました。

「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と発言された方は、何人もお見受けしましたね。

とかく、この種のことについては、メディアでは、インパクトの強い部分を切り取って、その強烈さを強調する手法が用いられますな。これは、メディアの常套手段になっていると言って良いでしょうね。

この度の「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言うフレーズも、これ単独で発せられたのではなく、この前後に色々な発言がある訳です。その発言の流れの中で、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う発言がなされた、と言うことですね。

ですから、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う発言の意味合いは、これに関る話の流れの中での意味があるわけで、単独に存在しているのではありませんね。小生の感じた限りでは、「自殺するのであれば、他人を巻き込まず、一人で死ねば良い。」すなわち、「他人に害を加えるな」と言う意味合いの別表現であった、と思うのですよ。

それが、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う部分だけ切り取られて、一人歩きし始めた、と言う事ではないのでしょうか。

そして、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う発言を巡っての賛否の論戦が展開される事になった、と言う事情のように見受けられます。

要するに、次元の異なることが、同一次元であれこれ、時に論理的に、時に感情的に、あれこれゴチャマゼに論じられている、と言うように見受けられますよね。

小生なりの視点で、判り易く言えば、何らかの目的・原因で他人を巻き添えにして、まさに自殺を決行しようとしている人に掛ける言葉と、色々な思わしくない事情に直面していて、自殺しようか否かと迷っている、極めて不安定な状況の人へかける言葉は、自ずと異なるのではないのか、と言う事です。

自殺と言う同じ表現でも、前者と後者では次元が異なっているのですよ。

 

何らかの目的・原因で、無関係な他人を巻き込んで、まさに自殺を決行しようとしている人へ、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。(他人に害を加えるな)」と呼びかけるのは、あながち否定されるべき事でもないとも思われますね。

 

悩みに悩んで、自殺しようかどうか考えているような極めて不安定な精神状態に陥っている人へ、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言いかけることは、良い結果を齎さない可能性がある、とする意見がありますね。

すなわち、自殺をするかどうかを悩んでいる人が、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う発言に接して、自殺を決意する切っ掛けになり兼ねない、更に、関係のない他人を巻き込んで攻撃を加えようと言う方向へ進みかねない、と言う気遣いの様ですね。

これに対する判断は、極めて難解ですね。

崖っぷちに追い込まれた状態の時、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言われた場合、あるいは自殺をやめる判断に進む個体も有るかも知れない。また、自殺の決行を決断する個体もあるかも知れない。またまた、自殺するに当たって、他人を巻き込んで攻撃してやる、と言う最も危険な方向へ進む場合もあるかも知れな、と言うような可能性が存在するでしょうね。

どうせ死ぬのなら、一つくらい世のため人の為になる事をしてやろう、と言う方向を見出す個体もあるかも知れませんな。可能性の話です。

結局は、個体の性格差、事情の違い等によって、どのようになるかは、極めて予期しずらいことであろうと思われますね。

そのような中にあって、自殺の決断や、また、自殺するに当たって、他人を巻き込んで攻撃してやる、と言う最も危険な方向へ進むのを食い止めるためには、

「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う事を言ってはいけない、と言う認識が存在するわけでしょうな。

 

大いに迷っている人が、相談に来た時に、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」とアドバイスするのは、さすがに無いでしょうね。

また、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。(他人に害を及ぼすな)」と言ってはならないのか、と言って、それならば「どうせ死ぬのなら、関係しない他人を巻き込んでも良い。思いっきり鬱憤を晴らしても良い。」と言うのは、これは論外ですね。

ですから、悩みの相談は、結局は、自殺と他人に害を加えることを回避させる方向で、行われなくてはならない、と言うことですね。

この方法は、おそらくケースバイケースで、標準的基準などと言うのは、あってもどの場合にでも、役立つと言う万能なものとは、なり難い側面を有しているのでしょうね。各ケースにより、極めて慎重に、丁寧にやらなくてはならないのでしょうね。とにかく難題ですね。

 

要は、如何に複雑な事情があろうとも、自殺をしない、他人に害を加えてはいけない、と言う強固な意志を持つ人を育てなくてはならない、と言う事が先決なのでしょうね。言葉にして書くこと、綺麗事を言うのは、容易ですが、・・・。何とも難しい現実ですね。

 

それでは、自殺をしない、他人に害を加えてはいけない、と言う強固な意志を持つ人を育てるには、どのようにしたら良いのか、と言うことになりますね。

これは、一言で言えば、この種の教育を徹底する、と言うことに尽きるのではないでしょうか。

まずは、一つの生命が誕生したなら、その初期から親が、自殺してはならない、他人に害を加えてはいけない、と言う方向でこの種の教育をしなくてはいけないと言うことですね。やはり親がしっかりとこの種の教育を行うと言うのが基本でしょうね。そして、家族で、さらに地域ぐるみで、保育園・幼稚園で、義務教育の場で、あらゆる機会を通じて、この種の教育を徹底する必要が御座いますな。嫌がる子供もいる事でしょうが、そんな子供にこそ諭し教えることが必要なのでしょうね。それは、大人の義務ですね。このところに、ついつい手抜きが発生しているのではないのでしょうか ? 

それから、自殺をしたり、他人に危害を加える事がしにくい環境をつくる事が大事でしょうね。

手っ取り早くは、この種の監視体制をしっかり作らなければならない、と言うことですね。

防犯カメラの設置がかなり進んでは来てますね。しかし、防犯カメラは、専ら犯人捜査に役立てられている感が御座いますな。顔認証システムの進化と合わせて、犯人捜査には有効な存在となっていますな。

しかし、犯罪予防に使用するとなると、これが、必ず個人の監視問題と衝突することになりますな。ようするに、防犯カメラによる情報を誰が、どのように管理・使用するのか、と言う問題がある訳で、これが方向を誤ると、個々人のプライバシーが侵されることに繋がるわけですな。

この問題は、以前からズーッと続いており、中々スッキリとした結論に達していませんな。

想像しますに、結局のところは、現実の力に押し切られて、犯罪予防に利用されることになるのでしょうね。防犯カメラによる情報の管理者は警察と言うことに落ち着くのでしょうね。個人のプライバシーが侵害される恐れがあるとする主張と、弱者、子供の生命の安全を天秤に掛けられると、現実には、弱者、子供の安全に分がありそうですね。プライバシーについては、法に触れること無く普通に暮らしていれば、特に侵害される心配は無いのではないのか、と言う理屈をつけられますよ。きっとね。

しかし、防犯カメラによる情報を、管理しているのが、警察と言うことになると、やはり日常生活を常に警察に見張られていると言うことになりますから、たとえ法に触れる事をしていなくとも、幾分の息苦しさを拭い去ることは、難しいですな。

この息苦しさが、犯罪の抑止力となるのですら、何とも難しいところが残りますな。

ですから、警察による情報の管理方法を工夫して、個々人のプライバシーを侵害しない、より良いシステムの開発が必要とされますな。

防犯カメラによる情報の管理は、警備会社であったり、スーパーやコンビニであったり、個々の企業であったり、更に個人だったりしているのが現実ですね。ですから、都会では、いたるところで防犯カメラに捉えられていると言うのが現状ですよ。ただその情報の管理のあり方は、慎重であらねばなりませんな。

 

それから、川崎の殺傷事件などに類する殺人事件は、被害者の方々にどうしょうもない無念さを残す結果を生み出す訳です。たとえ加害者が捉えられて、犯行の動機も解明された。裁判の結果、当加害者は死刑となったとします。

とは言え、法的にはこのように処置されて、終結したのかも知れませんが、しかし、被害者に取っては取られた命が戻ってくる訳では無いのです。加害者が極刑に処されても、犯行以前の状態が復される事は無いのです。結局は、被害者はたとえ賠償を得ることになったとしても、無念さは変わらず残る訳で、この種の犯罪の極悪さは、この点にあるのですよ。

どのようにしても、取返しが着かないのですよ。無念ではありますが、被害者側は、泣寝入りするよりない状態なのですよ。理不尽極まりないと言ってみても、とにかくどうしょうもない決して取り返しの不可能な事態に置かれてしまうより無いのですよ。いくら、犯行現場にお花の山ができて、多数の人々に手を合わせてもらっても、殺された命は二度と戻っては来ないのですよ。この真の無念さは、被害者側以外には、到底実感できないでしょうね。

だから、この種の犯罪は、起こしてはならない、起こってはならないのですよ。処理のしようがないのですから。

だから、決して起こしてはならない、起こってはならない、と言う対策が必要なのですが、なかなか進展していない、と言う実情ですね。

始終、国民の生命と財産を守る事が、我々政治家の使命であると、大声で叫んでいる政治家を見かけますが、どうなっているのでしょうね。

金儲けに直結する外国語教育、IT教育などには、制度を整備し、多額の予算をつける事はしますが、すなわち、国民の財産に繋がる教育政策は積極的に展開するが、一方、国民の生命を守るための教育政策に対しては、関心が極めて希薄ですね。こちらは、金儲けに直接繋がりませんからね。

政治家について言えば、票に繋がりませんからね。

川崎の殺傷事件のような事件は、発生の当初は、メディアで多いに騒がれますが、時間の経過にともない、次第に関心が希薄化し、ついには、忘れ去られることになるのですね。

そもそもは、この様な事件は、それに直接関係が無い立場の人は、どうしても関心が薄い訳で、騒がれている当初は、花を供えて、手を合わせる人がいても、時間の経過にともない、どうしても関心が薄まってしまいますよね。

人間の自然の成り行きと言ってしまえば、それっきりですが・・・。

しかし、この類の事件は、起こしてはならないし、起こってはならないことは、時間の経過に拘わらず、忘れては、ならないことで、一つの生命が誕生したなら、その初期から、自殺をしてはいけない、他人に害を加えてはいけない、と言う方向で、まず親がこの種の教育を徹底しなくてはいけない事情にありますね。やはり親がしっかりとこの種の教育を行うと言うのが基本中の基本でしょうね。そして、家族で、さらに地域ぐるみで、保育園・幼稚園で、義務教育の場で、更に広く社会のあらゆる所、あらゆる機会を通じて、この種の教育を徹底する必要が御座いますな。これより、効果的な方法が見つからないのですよ。

 

このような事柄に関る教育は、伝統的には、道徳教育と言う名で展開されていたと思われます。

ところが第二次大戦後、日本の教育の現場では、この道徳教育なる語は、著しく敬遠された感がありますね。

すなわち、道徳教育となると、戦前の国家主義的教育のイメージが極めて強く、学校教育者の殆どは、もうコリゴリだ、と感じていたのでしょうね。政府の方から道徳教育に関する政策が出て来ると、最初から聞く耳を持たないと言う立場で、猛反対が展開される事が多かったように記憶していますな。

憲法改正の問題もそうでしたね。最初から検討することすら問題外という扱いをされていたように記憶していますが、この問題については、保守政党とその政府が、猛烈にエネルギーを注いで参りましたね。その結果、現状では、論議もせずに放り出される傾向にあった問題が、かなり大きく取り上げられる存在となっていますな。

比べて、道徳教育の方には、極めて力をいれて、エネルギーを注ぐ政党も政府もございませんでしたね。関連する幾分の改革は加えられてきているでしょうが、金儲けに繋がる教育や受験のための教育に比べると、道徳に関る教育は、随分関心が薄く、取り残された状況では御座いませんでしょうか。

 

この問題点の一つが、戦前の教育を引きずるイメージの強い道徳と言う表現を踏襲しようと言う所にあるのではないのか、と言うことが考えられます。

これまで、道徳教育に拒絶反応を示し続けた学校教育の現場でも、いわば人格の形成に関る内容の教育を、拒否していた訳ではなく、別の表現で幾分の改革を行ってきてはいると思われます。

ですから、良くない内容のイメージが付いて回る道徳と言う名称を使わず、別の適切な名称を使えば良いのではないでしょうか。

例えば人格形成とか。ちょっと堅いかな!

 

要するに、人格形成教育の希薄が一因となっていると見て良いのではないかと思われる凶悪な事件が後を絶たない現状からすると、従来幾分の改革は行われて来てはいますが、人格形成に関る教育は、結果的にまだまだ不十分なのでは無かろうかと、感じられるのですよ。

 

その最大の原因は、きっと国民の関心がどうしても今一つ薄い、と言うところに基本的要因があるのではないのか、と思われるのですよね。

すなわち、日本は言うまでもなく、国民国家でありますが、それは代表民主制により運営される訳です。

国民の代表を選出し、選出した代議士に、国家運営を任せると言う方法の民主制が行われているのです。

従って、国政選挙において、人格形成教育の充実を第一に主張する政党とか候補者がいなければ、国民は、人格形成の教育を押し進めたいと言う政党や代表者を、選出する術が無いのです。

ところが、国政選挙の実態は、いつも国民生活の経済的向上に関する、判り良く言えば、経済的に豊かな生活ができるようにと言う政策が第一に掲げられるわけで、人格形成教育を国政選挙の争点として掲げる政党、候補者は殆ど現れないのですよ。

各政党も立候補者も、人格形成教育の必要性は、感じている事でしょう。しかし、それでは、人格形成教育を掲げて、国政選挙でより有利に票を獲得することが現実的に有効か、と言うことになると、残念ながら経済的に豊かな生活の実現を謳う政策の方が、全然、票の獲得に有利なのですよ。現実的には。

もっと、判り良く言えば、国民が何を一番望んでいるか、これに最も食い込む政策でないと、票を獲得しづらいわけです。

だから、何時まで経っても、経済的に豊かな生活の実現を第一とする人が圧倒的に多数のために、人格形成に関る政策は、国政選挙の大きな争点とはならないのですね。

たとえば、子育てに関する政策は、集票政策となる現状が御座いますな。しかし、それは教育費の無償化や保育所の増設とか、と言うことで、結局は経済的な援助策であって、人格形成に関る政策では無いのです。

もっと、判り良く言ってしまえば、人格形成の教育についての国民の関心は、あまり強くなくいと、政党・立候補者は読んでいるのですよ。

実際に、これまでの国政選挙における多くの有権者の判断は、これに尽きていると言えるでしょうね。これが、これ迄の国民の選択、その選択の結果が、現状と言うことですね。

経済的に豊かな生活の実現化は、無論、大変大事な要素である事は、今さら指摘するに及びません。

しかし、取り返しの不可能な凶悪事件の発生は、後を断たないのが実情ですし、常識では考えられないような幼児を虐待する親の事件も、後を断ちませんな。

事件が報じられる度に、なんとかならないものかと、皆んな思っていることですね。

政府は、大きな事件が発生すると、取り敢えず、取り締まりの強化や防犯環境の整備に関る施策を口にしますが、このような対策は、必要ではありますが、これだけでは、凶悪事件の発生を無くすことは出来ないのですよ。

凶悪な行為を起こさない人を育てなくては。これには、教育より手がないのですよ。早急にこちらの対策を希望しますね。

 

以上、行き当たりバッタリに、駄文を連ねてまいりましたが、大分疲れが出て参りました。取り上げた話題が話題ですから、どうしても、堅苦しい表現を並べなくてはなりませんでしたね。

だから、面白可笑しい要素は、全くないわけで、堅苦しい文章が連なる結果となりました。

書く方が疲れちゃうのですから、これを読まされる側は、モーすっかりウンザリでしょうな。

分っちゃいるのですよ。

なにを分かり切った綺麗事をグタグタ並べてんだ。と言う声も、ちゃんと聞こえているのですよ。

分っちゃいるのですよ。

更に、それなら、お前は何をしたんだ。と言われますと、実に残念ながら、面目無いの一言に尽きるのですよ。本当に情けない次第なのですよ。

 

老化が進むと、物忘れがはげしくなり、加えて、独断と偏見も度を増して参ります。

きっと、大事なポイントとなることの欠如をお感じになられた方も多数おられる事でしょう。また、価値観の相違からくるであろうと思われる、異なる意見も御座いますでしょう。

お気に障ることが多々ある事で御座いましょう。

しかし、馬齢を重ねて参りますと、小言幸兵衛的能力だけは、割合衰えないようなのですよ。否、却って図々しさは、年を重ねれば重ねるほど、成長するようなのですよ。

ネッ! 高齢の政治家は、常識では、エエーッて感ずることを平然とヌケヌケと、当然の事のように言い放つでしょう。あれは、きっと老化の証左では無いでしょうか。さっさと後進に道を譲って、引退すべきでしょうな。

若い政治家でも、とんでもないことを言い切るヤツがいますが、あれは、まさしく人格形成教育の欠如の成せる業でしょうね

 

でも、年を取ると、ヌケヌケと思うのですよ。

少しでも、寛容のお心がございましたら、非力なジジーの戯言とご容赦をお願い申し上げる次第で御座います、などと。

 

どうもお疲れ樣で御座いました。

懲りずに、またのお越しをお待ち申し上げます。

 

お後がよろしいようで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《停念堂閑記》103

 

「日比憐休独偏記」31

 

「新元号あれこれ」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方はいないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットと来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

とは言え、大歓迎と申しましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題のもとに日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情の方、このような方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、ヒマ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

 

さて、本日の話は、これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め,消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事はまったく御座いません。平凡極まりないムダ話で御座います。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

では、参ります。        

 

本日は、時期柄「新元号」に関る話にします。

マスメディアで、ワイドショウ番組をはじめとして、一斉に取り上げて、ドンチャン騒ぎで盛り上がっている事なので、どうかなー、とも思われるのですが、この時期にあえて避けるのは、常識を疑われたりしそうなので、凡人としては、一応、ドンチャン騒ぎに加わらなくては、と配慮したりするのですよ。

 

そこで、例のごとく小言幸兵衛的視点で、どっちかと言うと、まー、ザックバランに言いますと、そのー、要するに、ケチを着けると言う方向でですなー、一言二言と思うのですよ。

何故かと言いますと、褒める立場でやると、直に終わっちゃいそうなのですよ。これでは、《停念堂閑記》では、具合が良くないのですよ。

まー、所定の手続きを経て、新元号が明らかにされれば、新元号は、国民の大多数に歓迎され、受け入れられて行くわけです。

だいたい一旦決定されて、公表されてしまえば、もはやそれに従うよりないのですから、そうすると、その存在は汚いよりは美しい方が良いに決まってますから、みんな美しい、良いわーと言う方向で受け入れることになるのですよね。

特に、見るからに悪意が込められたような文字を並べられた場合は別でしようが、たとえば、今回は、最終的に新元号の候補が六つあったそうですが、「令和」に決まった後は、他の五つよりも「令和」の方が、全然良いと言う人が、圧倒的に多いのですよ。

これが、仮に別の候補「BC」と言う方に決まって、文化人とされる方が褒めたりすると、世の体勢は、おそらく「BC」こそより相応しいと言う方向を示すに違いないと思われますなー。

こうなってしまうと、殆ど面白味が無くなってしまい、ここで常に一番重要としているヒマ潰しに不向きになってしまうのですよ。これでは、いけませんよ。

だから、少しでも面白くするためには、有効にヒマ潰しになるようにするためには、あえて、ヤッパリ小言幸兵衛流にいく必要があるのですよ。これでも、色々と気を使っているのですよ。忖度、忖度。

 

さて、他人の事をあれこれ言う以前に、お前はどうなのだ、と言われそうなので、まず、小生にとりましては、元号ツァー、まー、特別に常識 ? に外れていなければ、何でも良いと思っていますよ。

この常識と言うやつが、難物と言えば難物なのですが、あまり深く考えず、まずは、言い難い、読み難い、書き難い、と言う3難いに配慮した方が良いのでは、と思うのですよ。

次に、見るからに縁起の悪さを想起させる文字を避けた方が良いかな、と思うのですよ。例えば、殺、死、悪、倒、苦、狂、凶・・・などと言った文字は、避けた方が良いのでは。

あとは、それぞれの好みですから、なんとも言えませんな。

と言う大雑把な小生的な基準?から「令和」はどうか、と言いますと、菅さんの掲げた額の文字「令和」と言う画像をテレビで見た瞬間に、国営放送を見ていたのですが、菅さんが掲げた額が手話で知らせる小窓とかぶって、おや見え難いなと感じたのが最初でした。直に手話用の小窓が消されまして、額全体が見えるようになりましたが、難聴の方へのサービスどうなったの、と言うことになるのですが、これはひとまず置いて、「令和」の印象はと言うと、まずは冷たい感じがしましたね。少なくとも、暖かみ、穏和さは感じられませんでしたね。なにせ、凡人ですから。多分、多くの方々が、そんな感じを持ったのではないでしょうかね。

「令」で、連想するのは、まずは、命令の「令」ですよね。これは、上からああせよ、こうせよ、などと命じられることですよね。だから、冷たさや厳格さ、上から目線が、プンプン臭う感じが、最初にしましたね。

皆さんは、どうでしたか ? いきなり美しいと言う感情が、湧き出て来ましたか ?

 

「令」の字は、ある種の難しさを持つ文字ですよね。

読み方は、「れい」の他に、「りょう」、「たとい」および「・・・せしむ」、口語体では「・・・せしむる」などと使いますね。

「りょう」の用例では、大宝元年(701年)に制定された「大宝律令(たいほうりつりょう)」と言うのが有名ですな。日本初の法典です。

「律」は、概ね今の刑法に相当する決めごと、「令(りょう)」は、概ね今の行政法に相当する決めごとで、一部民法的側面を含む決めごとです。

「律」も「令」も、漢文で書かれた法令です。奈良時代平安時代は基本的には、この法令に基づいて社会が構成されていたのでしょうね。だから、律令官人(今の公務員)は、この法律を熟知している必要があったのでしょうね。

しかし、漢文で書かれているので、その解釈には中々困難を極めるところがあったのでしょうね。それで、律令国家として、この解釈書を作ろうと言う事になって、「令」について、『令義解(りょうのぎげ)』と言う本を作りました。法令文を示し、その解釈を漢語を交えた日本語で注釈したものですな。

因に、『令義解(りょうのぎげ)』は国が作ったものですが、その解釈に異論を唱える人々がおりまして、民間でも同じような『令集解(りょうのしゅうげ)』をつくりましたね。

大学2年生の時でしたかね。この『令義解』が演習科目の教材でした。難しい本でした。受講者は授業が開始されるまで、どれほどいるか、分らなかったのですが、蓋を開けると、なんと、数名しかおらず、すぐに来なくなった人もいて、結局残ったのは3人程でした。とにかく毎回当てられ、読みと解釈に四苦八苦でしたね。

担当の先生が、学年半ばでお亡くなりになりまして、途中から非常勤講師として村尾次郎さんとおっしゃられる超有名な東大の先生が来られましたね。

まさかこんな事になるとは、お互いに予想だにしていなかった事態となりましたね。ビックリなさったのは、村尾先生だったでしょうね。ピカピカの東大生に教えるのとは、全くワケが違いますからね。こんな分らんチー、に教えなくてはならないのか、と思ったでしょうね。

それよりも、ビックリしたのは、小生を含めた受講生ですよ。

村尾次郎先生は、当時文部省の日本史の教科書検定調査官でいらして、それはそれは怖い先生として、超有名でいらっしゃいましたよ。

その先生が、教室に入ってこられて、ビックリでしたね。

このころ、加山雄三さん主演の若大将シリーズの映画が大ヒットしていまして、

よく見に行きましたよ。若大将田沼雄一の家は、「田能久 たのきゅう」と言う老舗のすき焼き屋さんで、その店主を有島一郎さんが演じていましたな。要するに、有島さんは、「田能久 たのきゅう」のオヤジですな。

これがですよ。なんと演習の教室にですね。いきなり「田能久 たのきゅう」のオヤジが現れたでは御座いませんか。

村尾次郎先生、「田能久 たのきゅう」のオヤジにそっくり、有島一郎さんに良く似ていましたよ。本当に、ビックリ。『令義解』どころではなくなっちゃいましたね。

村尾先生も、そうそうに小生らの実力に、気がつかれたのでしょう。授業は、易しくやってくれましたね。朝の一時限目でしたので、「今朝は、コヒー飲まずに来たので、喫茶店で授業をしょう。」、なんておっしゃられて、よくコーヒーを奢ってもらって、喫茶店で授業らしき事をしましたね。

こわい先生とばかり思っていたところ、先生もコッチに合わせてくれたのでしょうね。先生の昔の写真などわざわざ鞄に入れて、いっぱい持っていらして、頭を寄せ集めて、想い出話をよくしてくれましたね。良い授業でしたよ。当てられる心配が無かったからね。

また、ある時は、わざわざ先生の卒業論文をお持ちになられて、見せてくれましてね。東大の戦前の卒業論文ですね。卒論の審査に当たられた東大の先生の一覧があり、いずれも著名な先生8名が名を連ねていて、最初に、林健太郎先生の名があったのを記憶してますね。

てな次第で、学年末のテストの結果、演習の単位をちゃんと頂きましたよ。「田能久 たのきゅう」のオヤジ似の村尾次郎先生に。

余談になってしまいましたが、目的がヒマ潰しですから、ご容赦下さいませ。と言うことで、その時の教材が、小難しい『令義解』でありましたので、「令」の字が付くのは、どっちかと言うと、苦手ですね。好きには、中々なれそうにありませんなー。

なお、蛇足ながら、「令」では、天皇が発する命令を「詔」「勅」と言いますが、皇太子、三后(太皇太后・皇太后・皇后)らが発する命令を「令旨(りょうじ・れいし)」と言います。

だから、「令」は皇太子関係に近い意味合いがあり、天皇とは一線を画する感じを持ちますな。すなわち、明治以降は、元号天皇の諡(おくりな 崩御された後の呼び名)としたので、この意味合いからすれば、「令和」は天皇の諡となり、「令和天皇」と称せられることになるので、幾分の違和感が無くはないのですよ。

読み方の「たとい」は、今はもっぱら「たとえ」というでしょうね。仮定の事を言う表現に使われますね。

また、「・・・せしむ」、口語体では「・・・せしむる」などと使いますね。持って回った表現で、ヤヤッコしいところが御座いますな。

職業柄この「令」と言う文字に出会うと、間違えてはいけないと言う緊張感が御座いましたね。

「被令為・・・」なんて並ぶと「・・・なさしめらる」、「・・・たらしめらる」なんぞと読むのですよ、なんて教えられた記憶がありますね。回りくどい表現ですなー。舌を噛みそうになるのですよ。

安倍総理の解説によれば、「令」の字は、ご令嬢とかご令息とか、令夫人とかに通ずる、美しい意味合いの文字だとおっしゃられていましたが、庶民には、余り縁がない気がしますなー。たまーに、幾分気取ったヤツに、「ご令息はお元気ですか?」とか「令夫人」は、なんて言われると、明らかに、オチョクラレタ感じがしますなー。ご丁重に、と言うよりは、慇懃無礼丸出し、と言う感じが先に来ますなー。庶民的にはですね。

てな次第でして、「令」の字は、私個人的には、あまり頂けない感じが先に来るのですよ。

申すまでもなく、これは、個人の感情、好き嫌いですからね。

テレビで、女子高生らしい女の子にキャスターが、街角で「令和」はどのように思うか、とマイクを向けたところ、彼女曰く、「かわいー」だって。

人それぞれですから、どのように感じ、どのように表現しようとも、構わないのですよ。

 

それから、どこかにケチをつけなくては面白くありませんし、ヒマ潰しになりませんので、ここはひと頑張りで、菅さんが掲げた毛筆の「令」の字について、ケチを付けさせて頂くことにします。

小生が使用しているワープロの「令」は、ここにあります通りです。上部から、ひとやねの下部の書き方は、横棒「ー」を書いています。そして、その下部に「刀」の「ノ」のないものを書き、「ノ」の部分は真下に縦棒を引いています。縦棒の終りの部分は、止めています。跳ねたり、止めずに抜いたりしてはいません。

字典によれば、こうは書かず、横棒「ー」の部分を、斜めの「チョン」(申し訳御座いません。今使用しているワープロは、この字がなかなか出て来ません。)に書くのが出ています。そして、その下部にカタカナの「マ」に作る字が見られます。

菅さんが掲げた額の毛筆の「れい」の字は、ここで使っているワープロの「令」の字とは違い、ひとやねのすぐ下は、横棒「ー」では無く、「チョン」が書かれ、その下部は、ここのワープロとほぼ同じに、「刀」の「ノ」の部分が縦棒に書かれています。

但し、菅さんが掲げた額の「れい」の方は、縦棒の終りの部分が、止めて僅かに左上方向に跳ねられていました。この跳ねは、明らかに具合が良くないようですね。

 

細かい事で恐縮ですが、「れい」の字は、何通りか字体に違いがありますね。元号の文字は、菅さんの掲げた額の文字を以て、正とするのですかね。それとも、幾つかの書き方の違いは気にせず、どれにても可とするのですかね。

義務教育では、どうなっているのでしょう。統一されているのでしょうかね。きっと、どっちでもいいのでしょうな。小生には、面目御座いませんが、その明確な知識がございません。ここでは、ヒマ潰しにちょいと、取り上げてみただけで御座います。

 

次に、「和」の字についてですが、文字の見た目の感じは、まずは、誰でもおそらく平和の和の字を想起するのでは無いのでしょうか。この字は、「昭和」の「和」の字でもあり、馴染み深い字で、特に、印象の悪さを感ずることはないですね。

但し、「和」の字の「禾」の部分についてですが、これは縦棒の終りの部分は、跳ねたり、抜いたりせず、きちんと止めるのですよね。

しかるに、菅さんの掲げた額の「和」の字の「禾」の部分は、「禾」の終りの部分が左上方向に、跳ねて書かれてましたね。跳ねない方が良いのでは。きっと、ここは跳ねないのですよ。「木」の字は跳ねないのですよ。本、末など跳ねないでしょう。

以前、小学校で漢字のテストで、「木」の縦棒の下の部分を跳ねると×になるとかで、騒がれたことがあったような記憶が御座います。今は、どのようになっているのですかね。

きっと、新元号が手続き上「令和」に決まって直に、毛筆して額に入れたものを示す手はずだったのでしょう。きわめて、短時間の作業だったのでしょうね。内閣府の辞令などを記す係の方が担当なされたようですが、もう少し、慎重になされた方が良かったのでは。

以後、何かに付けて、この「令和」額が、メディアで重宝されるのでしょうから。子供には、この字がお手本になるのでしょうからね。

「令」も「和」も特殊な文字では御座いませんが、ちょっと、字典で確認するべきだったでしょうね。

最近、この類のミスが、結講多く目に付くのですよ。テレビなどでも、しょっちゅう訂正をしてますね。

「先ほどのテロップの文字に誤りがありました。お詫び申し上げます。」なんて、時々やってますよ。ミスの上塗りですね。「先ほどのテロップの文字に誤りがありました。お詫び申し上げます。」と言われても、どの部分にミスがあったのかがはっきりしない場合が多いのですよ。

最も基礎的な部分の手抜きが目立つ昨今ですなー。

尤も、あまり、偉そうな事は言えないのですが・・・。コッチもしょっちゅう仕出かしていますので。しかし、菅さんの掲げた額と小生の拙文とでは、影響力が違い過ぎますから、と弁解がましき事を申させて頂く次第なのですよ。

とにかく、できるだけ細心の注意が必要ですな。ちょっと手間をかけて、注意すれば、ミスらないで済む事ですから。基礎的な部分での手間をはしょってはいけませんなー。

 

次に、「令和」の文字的典拠については、「万葉集」から引いたと言うことですね。そのことで、いくぶん違和感のある「令」の字の印象をカバーしている感じですかね。

ここで、色々言われているのは、これ迄、大化以来の元号は、中国の書物、すなわち漢籍と呼ばれている書物から引用する慣例がおよそ1,370年程継続されて来ましたが、これが、今度はじめて漢籍からではなく、国書から引用された。すなわち、1,370年程継続されて来た慣例から脱出した、大変革が行われた、と言う特徴的な新元号の決定方法であった、と言うことですな。

メディアによれば、この度の新元号の話が具体的になってきた時期に、安倍総理が、国書から引用する手もあるような意向を漏らした、と言うような話が出回っていたりしてますな。

それで、マスメディアでは、国書から引用されるのでは無かろうか、と言う予想があれこれ報じられていましたね。

それが、実行された、と言うことですな。

これに関して、安倍総理の意向が予め示されていたので、結果、このようになったのではなかろうか、とする憶測も横行していますな。

安倍総理の意向が、予め広まっていたとすると、或は、総理が選定した新元号の決定に関ることになった方々が、総理の意向を忖度する事になったのではないのか、と言う憶測が出回ることになるのですよ。

森友学園に対する国有地売却の一件、はたまた、加計学園獣医学部新設の一件等に関わり、安倍総理に対する周辺の忖度により、極めて重大な結果が発生した、と言われる前例が御座いますので、今回の新元号の制定についても、安倍総理は、この忖度に期待するところがあったのではないのか、なんて言うことが流布したりしてますな。

それにしても、日本人は忖度が好きですからね。よく場の空気を読め、なんて言われたり、場の空気を読めないヤツだなんて、嫌味を言われたりしますよね。

 

そもそもは、元号の決定の仕方の制度が、国民が納得いく議論を経て成立したものではなく、殆ど国民の知らない暗闇の中でつくられた感じがするのですよ。

結果は、総理の専権事項ないし専権事項的なことで全て展開された、と言う結果に見えたりするのですよ。

もっとも、新元号の決定に関った有識者懇談会のメンバーは、すべて安倍総理が選定し、最後の決定には安倍総理が当たったのですから、忖度云々の前に、安倍総理ありき、と言うのが実情であったようですなー。

要は、新元号の決定については、一般国民は最初から相手にされていなかった、と言うことなのでしょうな。これが実情ですなー、きっと。

 

とボヤキを入れたところで、新元号が国書から引用された、と言う話に戻しますが、そも「国書」とは何ぞや、と言うことについての議論はありませんでしたね。素朴に「国書」とは何なのかなー、なんて言う疑問は湧きませんでしたか。

 

「国書」なんて聞いたら、何を想起するかと言えば、まずは、初の遣隋使小野妹子(「子」がついていても、男だよ。)が、隋皇帝宛の聖徳太子(「子」がついていても、男だよ。)の作とされる、あの「日出處天子致書日沒處天子無恙・・・」と言う手紙ですよね。

要するに、「国書」は、元首がその国の名前で、外交相手国に遣わす書翰のことですよね。

余談ですが、小野妹子は、「日出處天子致書日沒處天子無恙・・・」と言う国書を携えて、隋に乗り込んだ迄は、良かったのでしょうが、隋の皇帝にとっては、とてつもない無礼千万のものであったので、外交官小野妹子は、隋皇帝煬帝の逆鱗にふれ、えらくトッチメられたようですね。おかげで、『随書』に、いわば無礼な手紙のサンプルとして随所にではありませんが、『随書』に記されたので、今に伝わることになったのでしょうな。

日本からの国書に対して、小野妹子の帰国に際して、隋からは返書が与えられたのですが、この隋の国書は、帰路百済で紛失したと言う事で、日本には持ち帰られなかったようですね。おそらく、とても見せるに忍びない文面だったのでしょうね。それで、きっと、紛失したことにして,処分しちゃったのでは、と推測されてますなー。小野妹子、中々やり手だったようですなー。

と言うことで、外交文書の「国書」は、今回の新元号の決定に関る「国書」とは、異なりますな。

 

では、今回の新元号の選定に関る「国書」とは、どう言うものかと言いますと、安倍総理は、「国書」と言う用語を使用されていましたが、その概念についての言及は御座いませんでしたね。

まー、これ迄の元号は、簡単に言えば中国の書物、いわゆる漢籍を典拠とされて来たので、この漢籍に対して「国書」、すなわち日本の書物と言うくらいの軽い意味合いで使われたのでしょうかね。

安倍総理は、どんな書物を念頭においていたのでしょうかね。

例えば、『古事記』とか『日本書紀』に始まる『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』と続く「六国史」、『風土記』、『万葉集』、『竹取物語』、『伊勢物語』、『古今和歌集』、『枕草子』、『源氏物語』、『栄花物語』、『大鏡』、『今昔物語』、『方丈記』、『平家物語』、『徒然草』、『義経記』、『信長記』、『好色一代男』、『奥の細道』、『東海道中膝栗毛』、『群書類従』、『大日本史料』、『大日本古文書』から『主婦と生活』、『平凡』、『鉄腕アトム』、『サザエさん』、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』、『ちびまる子ちゃん』等々、安倍総理のおっしゃられた「国書」とは、どなんかなー、と思うのですよ。

 

幾分専門的になり、恐縮ですが、軽く「日本の書物」と申しましても、色々御座いますね。

日本で作られた本と言っても、著者、編者を日本人、日本の機関に限定しているのか。とか、日本語で書かれている本を意味しているのか、とか。

例えば、外国人が、外国語で書いた本を、日本の会社から出版した場合、これを「国書」として扱うのか、と言った類の問題がある訳ですよ。

こう言う場合の判断は、その視点により、色々あって良いと思われますが、一例を紹介します。

日本を代表する出版社の一つとして、岩波書店が、有名ですね。岩波文庫とか岩波新書なんて言うので、お馴染みですね。

この岩波書店の代表的な出版物の一つに、『国書総目録』(全8巻 索引1巻)と言うのが有名です。日本の代表的な出版物、と言って良いでしょうね。うんと簡単に言えば、日本国の始まりから江戸時代の終りまでの期間に、日本で著された全ての書物の目録であります。約50万が収録されているとの事です。

ここに、「国書」なる名称が使用されているのです。

岩波書店では、この出版にあたり、これに収録する書物を次ぎのように決めています。

 

  • 日本人(日本に帰化した外国人を含む)の著作は、和文・漢文・英文を問わ  

ず収録している。

  • 外国書をそのまま書写したものは収録しないが、日本人により改修・編纂さ 

れたものや翻訳されたもの、注釈をつけたものは収録する。ただし、句読点をつけただけのものや、注釈が僅かな書き込み程度のものは除く。

  • 近世の庶民による史料は未整理のものが多いため、そうしたものは収録して 

いない場合が多い。

・ 巻・冊単位ではない、紙一枚程度の書画・絵図・地図・古文書は収録しない。

絵巻物・書画帖は収録するが、拓本は収録しない。

  • 一篇のみの文章は基本的に収録しないが、浄瑠璃長唄等の歌謡の一篇は収 

録している。 [便宜上 Wikipediaから引用]

 

国書総目録』では、上記の条件を備えた書籍を「国書」と言っているのです。

とすると、日本に帰化した中国人が、『史記』でも『論語』でも、この原著をそのままではダメだけれど、幾分手を加えて、例えば注釈を施したりして、日本で出版すれば、これは「国書」として扱われるのです。

だから、『史記』でも『論語』でも、その全文を「国書」に見ることが可能なのです。

 

と言う事で、安倍総理の言う「国書」の内容は、ご説明が御座いませんので、良くは分りませんが、「国書」から元号の文字を選定すれば、中国の書物から持って来たことにはならない、などと言う事態ではないのですよ。

より日本的なものに拘ろうとするのならば、漢字を使用せずに、仮名文字を使えば、と言うことになると、仮名文字だって、元は漢字から作ったのでしょうが、と言われてしまうでしょうね。

大体、元号の制度は、もともとは中国から伝わったものですから、中国から脱出するのは、そう簡単な事ではないようですよ。

 

要するに、判ることは、安倍総理は、この度、新元号を定めるに当たって、1,370年もの長きに亘って行われて来た漢籍から引用すると言う慣例に従わず、国書に求めた、と言う事実であります。

これから、何故にこのようにしたのか、と言う疑問が発生するわけです。

これについて、安倍総理はあまり言及していないのです。

それ故に、巷の雀は、あれこれと、さえずることになる、と言うわけです。

いずれも、推測、憶測の域を脱するものでは無いようです。

一つは、安倍総理の好みだったのか。

いやいや、政治的なことが、絡んでいるのか。

と言う、側面からの推測、憶測がなされることになるのですよ。

 

安倍総理は、漢籍を離れて、国書から元号の文字を選んだ。と言うことは、事実ですから、さすれば、何故か、と言うことになるのですよ。

まー、いろいろ推察されるでしょうな。

一番軽いのは、安倍総理のいわば好みからこのような事になった。と見る見方がありますね。

安倍総理は、「令和」について、「美しさ」、「和やかさ」に注目された様な事を述べられておりましたよね。

そこで、嘗て安倍総理は「美しい国日本」なんて言っていたことがあったなー、なんてことが思い出されるのですよ。

と言うことは、安倍総理は、どうも「美しさ」に殊更拘りをお持ちなのでは、と思ったりするのですよ。単なる憶測です。

尤も、安倍総理の言うところの「美しさ」の内容が、どのような事なのか、図り知ることは、できませんが。

 

では、別の視点から、なんぞ政治的な意味合いがあってのことか。と言うことになりますと、まずは、日本の元号は、より日本的なものの方が相応しい。この観点から、漢籍よりは国書に求めた方がより良い、と判断したのでは、と推測されるのですよ。

そこで、何故に日本的と言うところに拘ったのか、と言う疑問に振り変わるのですよ。

この答は、簡単ですね。日本だから、と言うことでしょうね。

問題は、この点に、あまり強烈に拘りだすと、これは国粋主義的な傾向を強化しようとしているのでは、と言う懸念に繋がり、戦前の悪印象に繋がっていく恐れがあるのですよ。

また、漢籍元号を求めるのを止めた、と言うことは、大袈裟に言えば、中国文化の影響を受けたくないのだ、と言う意思表示だ、とも取れないことも無いのですよ。

尤も、本家本元の中国は、とっくの昔に元号を使うのを止めてしまっているし、漢字もすっかり簡略化してしまっているので、漢字だ、元号だは、もっぱら日本文化の特徴と化している、とも言える状況なのですよね。

だから、新元号漢籍に求める事を止めた、と言うことは、中国に対する政治的な意味合いを含むものではない、と言う現実があったりもするわけですね。

なかなか微妙なところでもあるかも知れませんが。

 

大体、「令和」は、令和と言う熟語を国書に求めたものではなく、一字ずつ拾って、「令和」としたのですから、特に、『万葉集』に拘ることもなさそうですなー。

一層のこと、これからは『大漢和辞典』から拾うようにすれば。漢字なら何でも載っていますよ。「令」の字だって、『万葉集』で使っている意味合いが、ちゃんと載っかってますから。

 

と言うことで、小言幸兵衛も大分疲れて参りましたので、本日は、これにて打ち止めと致します。

元号「令和」など、既に慣れちゃいましたね。小生のパソコンのワープロでは、「れわ」と入力すれば、「令和」・令和が飛び出して来るようになっています。これからは、しょっちゅう使用することになりますからね。

たった一文字はしょっただけですが、割合からすれば、三分の一、33.333%の節減となり、打ち込む時のエネルギーと電力の節約にこれ努めることにしています。ケチだね。なんとも。

 

 

では、どうもお疲れ様で御座いました。懲りずに、又のお越しをお待ち申し上げます。

 

お後がよろしいようで