「停念堂閑記」104

「日比憐休独偏記」32

 

「ぜひ、人格形成教育を!」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方はいないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットで来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

とは申せ、大歓迎と言いましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。炉端焼きにだって、行くわけでは御座いませ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めてしまいまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題の下に日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、特に歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情のお方、このような同朋の御方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、閑、ひま、ヒマーッ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

 

さて、本日の話は、これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め、消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事はまったく御座いません。平凡極まりないムダ話で御座います。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

では、参ります。

 

最近、テレビのワイドショウで、盛んに取り上げられたのが、何と言っても川崎で起こった、殺傷事件でしょうな。

とにかく、最も起きて欲しくない事件が起きてしまい、被害者の方々には、お掛けする言葉も御座いません。お亡くなりになられたお二方には、月並みで甚だ恐縮で御座いますが、ご冥福をお祈り申し上げる次第で御座います。

怪我を負わされた御方々には、一日も早く完治し、通常の平穏な生活を取り戻して頂きたいものとお祈り申し上げる次第で御座います。

 

時間が経過するに従い、色々な事情が報じられて来てはおりますが、最も気になる加害者の犯行の動機に関る点については、加害者当人が自殺してしまっているので、当人から聞き出すことは、もはや不可能と言う状況です。

加害者が生存していて、当人から証言を取れれば、動機に繋がる点の解明に役立つこととは思われます。

 

しかし、このような事態に際して、仮には無いのですが、まったく仮にですね、加害者当人が生存していた場合、殺害に及んだ動機が全て明白になるか、と言うと、これがそうとも限らない可能性があることが、この種の問題の難しい点ですね。

仮に、加害者が一切口を噤んでしまえば、真相に迫ることは不可能です。

また、ウソの証言をしたならば、真相は判らないわけです。

当の本人がそのように言っているのだから、と言うだけで、それが真実とは、到底思われない場合もあると言うのが、むしろ一般的見方でしょうね。

人間は、ギリギリのところでは、自己の不利になる事は、言いたくなくなるものと推察されますね。

一般の裁判の時にも、自分に不利になる事は、言わなくても良い、と言う前提で裁判が進められる現状ですね。

さらに、裁判になると加害者側に弁護する人達が加わる事でしょうから、加害者の不利になることは、ますます表沙汰には、ならなくなる可能性がありますね。被害者はただただ無念と言う状況に追いやられるだけですね。

従って、加害者が生存しているからといって、加害者側から真実が語られるとは限らない可能性があります。証言が真実か否かは、当人しか判らないことであり、場合によっては、当人さえ認識出来きてない状態だって、あるでしょうね。

この点がこの種の問題の難しいところですね。

 

また、遺書や犯行に関ると思われるメモ類などの記録が見つけ出されれば、犯行の動機に迫ることができる手掛かりとなる事でしょう。

しかし、これとても、遺書や関係する記録に書かれていることをもって、犯行決行の真実か、と言うと、これがまた、判断の難しい側面が残されている場合がありますね。

端的に申し上げて、遺書にも、ウソを書く事は可能です。その他の関連すると思われる記録についても、同様の可能性が残されている場合が御座いますな。

人の心の中を窺うことは、どのような心理学者でも、完璧になし得る事ではないように思われるのですよ。

よく心理学者の先生方の中には、関係すると思われる統計を引き合いに出して、確率の高い部分に結論を見出そうとする手法を執られる方をお見受け致しますが、これはこれで一つの意義があるのでしょう。

しかし、この度の川崎の殺傷事件の解明などには、統計上の確率などは、どれほど役に立つものなのでしょうかね、と言う疑問が存在するのですよ。

まずは、この引き合いに用いられるこの種の統計の性格がどのようなものなのかが気に掛かりますね。果たして、この事件の解明に相応しい統計なのかが問題となるでしょうね。

この種の事件は、その事件の特殊性が問題ですから、一般化するのに使用する統計に照らして判断するには、かなり難しい側面を有しているのではなかろうかと言う感じがしますね。

動機の真相は、極めて難解な性格を有する厄介な問題ですな。

 

結局のところは、事実をこと細かに明らかにして、それに基づく判断を示すに留まらざるを得ないのが現実なのでしょうね。

 

また、この事件に関係して、加害者は自殺を遂げるのが目的では無かったのか、と言う推測がなされましたね。これに関連して、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う発言が出ましたね。

これに対して、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言うことを言わないで欲しい、と言う意見が出まして、メディア上で、大きな話題となりましたね。小生も、複数のテレビ番組などで、このような状況を目の当たりに致しました。

「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と発言された方は、何人もお見受けしましたね。

とかく、この種のことについては、メディアでは、インパクトの強い部分を切り取って、その強烈さを強調する手法が用いられますな。これは、メディアの常套手段になっていると言って良いでしょうね。

この度の「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言うフレーズも、これ単独で発せられたのではなく、この前後に色々な発言がある訳です。その発言の流れの中で、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う発言がなされた、と言うことですね。

ですから、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う発言の意味合いは、これに関る話の流れの中での意味があるわけで、単独に存在しているのではありませんね。小生の感じた限りでは、「自殺するのであれば、他人を巻き込まず、一人で死ねば良い。」すなわち、「他人に害を加えるな」と言う意味合いの別表現であった、と思うのですよ。

それが、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う部分だけ切り取られて、一人歩きし始めた、と言う事ではないのでしょうか。

そして、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う発言を巡っての賛否の論戦が展開される事になった、と言う事情のように見受けられます。

要するに、次元の異なることが、同一次元であれこれ、時に論理的に、時に感情的に、あれこれゴチャマゼに論じられている、と言うように見受けられますよね。

小生なりの視点で、判り易く言えば、何らかの目的・原因で他人を巻き添えにして、まさに自殺を決行しようとしている人に掛ける言葉と、色々な思わしくない事情に直面していて、自殺しようか否かと迷っている、極めて不安定な状況の人へかける言葉は、自ずと異なるのではないのか、と言う事です。

自殺と言う同じ表現でも、前者と後者では次元が異なっているのですよ。

 

何らかの目的・原因で、無関係な他人を巻き込んで、まさに自殺を決行しようとしている人へ、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。(他人に害を加えるな)」と呼びかけるのは、あながち否定されるべき事でもないとも思われますね。

 

悩みに悩んで、自殺しようかどうか考えているような極めて不安定な精神状態に陥っている人へ、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言いかけることは、良い結果を齎さない可能性がある、とする意見がありますね。

すなわち、自殺をするかどうかを悩んでいる人が、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う発言に接して、自殺を決意する切っ掛けになり兼ねない、更に、関係のない他人を巻き込んで攻撃を加えようと言う方向へ進みかねない、と言う気遣いの様ですね。

これに対する判断は、極めて難解ですね。

崖っぷちに追い込まれた状態の時、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言われた場合、あるいは自殺をやめる判断に進む個体も有るかも知れない。また、自殺の決行を決断する個体もあるかも知れない。またまた、自殺するに当たって、他人を巻き込んで攻撃してやる、と言う最も危険な方向へ進む場合もあるかも知れな、と言うような可能性が存在するでしょうね。

どうせ死ぬのなら、一つくらい世のため人の為になる事をしてやろう、と言う方向を見出す個体もあるかも知れませんな。可能性の話です。

結局は、個体の性格差、事情の違い等によって、どのようになるかは、極めて予期しずらいことであろうと思われますね。

そのような中にあって、自殺の決断や、また、自殺するに当たって、他人を巻き込んで攻撃してやる、と言う最も危険な方向へ進むのを食い止めるためには、

「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」と言う事を言ってはいけない、と言う認識が存在するわけでしょうな。

 

大いに迷っている人が、相談に来た時に、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。」とアドバイスするのは、さすがに無いでしょうね。

また、「自殺をするのなら、一人で死ねばよい。(他人に害を及ぼすな)」と言ってはならないのか、と言って、それならば「どうせ死ぬのなら、関係しない他人を巻き込んでも良い。思いっきり鬱憤を晴らしても良い。」と言うのは、これは論外ですね。

ですから、悩みの相談は、結局は、自殺と他人に害を加えることを回避させる方向で、行われなくてはならない、と言うことですね。

この方法は、おそらくケースバイケースで、標準的基準などと言うのは、あってもどの場合にでも、役立つと言う万能なものとは、なり難い側面を有しているのでしょうね。各ケースにより、極めて慎重に、丁寧にやらなくてはならないのでしょうね。とにかく難題ですね。

 

要は、如何に複雑な事情があろうとも、自殺をしない、他人に害を加えてはいけない、と言う強固な意志を持つ人を育てなくてはならない、と言う事が先決なのでしょうね。言葉にして書くこと、綺麗事を言うのは、容易ですが、・・・。何とも難しい現実ですね。

 

それでは、自殺をしない、他人に害を加えてはいけない、と言う強固な意志を持つ人を育てるには、どのようにしたら良いのか、と言うことになりますね。

これは、一言で言えば、この種の教育を徹底する、と言うことに尽きるのではないでしょうか。

まずは、一つの生命が誕生したなら、その初期から親が、自殺してはならない、他人に害を加えてはいけない、と言う方向でこの種の教育をしなくてはいけないと言うことですね。やはり親がしっかりとこの種の教育を行うと言うのが基本でしょうね。そして、家族で、さらに地域ぐるみで、保育園・幼稚園で、義務教育の場で、あらゆる機会を通じて、この種の教育を徹底する必要が御座いますな。嫌がる子供もいる事でしょうが、そんな子供にこそ諭し教えることが必要なのでしょうね。それは、大人の義務ですね。このところに、ついつい手抜きが発生しているのではないのでしょうか ? 

それから、自殺をしたり、他人に危害を加える事がしにくい環境をつくる事が大事でしょうね。

手っ取り早くは、この種の監視体制をしっかり作らなければならない、と言うことですね。

防犯カメラの設置がかなり進んでは来てますね。しかし、防犯カメラは、専ら犯人捜査に役立てられている感が御座いますな。顔認証システムの進化と合わせて、犯人捜査には有効な存在となっていますな。

しかし、犯罪予防に使用するとなると、これが、必ず個人の監視問題と衝突することになりますな。ようするに、防犯カメラによる情報を誰が、どのように管理・使用するのか、と言う問題がある訳で、これが方向を誤ると、個々人のプライバシーが侵されることに繋がるわけですな。

この問題は、以前からズーッと続いており、中々スッキリとした結論に達していませんな。

想像しますに、結局のところは、現実の力に押し切られて、犯罪予防に利用されることになるのでしょうね。防犯カメラによる情報の管理者は警察と言うことに落ち着くのでしょうね。個人のプライバシーが侵害される恐れがあるとする主張と、弱者、子供の生命の安全を天秤に掛けられると、現実には、弱者、子供の安全に分がありそうですね。プライバシーについては、法に触れること無く普通に暮らしていれば、特に侵害される心配は無いのではないのか、と言う理屈をつけられますよ。きっとね。

しかし、防犯カメラによる情報を、管理しているのが、警察と言うことになると、やはり日常生活を常に警察に見張られていると言うことになりますから、たとえ法に触れる事をしていなくとも、幾分の息苦しさを拭い去ることは、難しいですな。

この息苦しさが、犯罪の抑止力となるのですら、何とも難しいところが残りますな。

ですから、警察による情報の管理方法を工夫して、個々人のプライバシーを侵害しない、より良いシステムの開発が必要とされますな。

防犯カメラによる情報の管理は、警備会社であったり、スーパーやコンビニであったり、個々の企業であったり、更に個人だったりしているのが現実ですね。ですから、都会では、いたるところで防犯カメラに捉えられていると言うのが現状ですよ。ただその情報の管理のあり方は、慎重であらねばなりませんな。

 

それから、川崎の殺傷事件などに類する殺人事件は、被害者の方々にどうしょうもない無念さを残す結果を生み出す訳です。たとえ加害者が捉えられて、犯行の動機も解明された。裁判の結果、当加害者は死刑となったとします。

とは言え、法的にはこのように処置されて、終結したのかも知れませんが、しかし、被害者に取っては取られた命が戻ってくる訳では無いのです。加害者が極刑に処されても、犯行以前の状態が復される事は無いのです。結局は、被害者はたとえ賠償を得ることになったとしても、無念さは変わらず残る訳で、この種の犯罪の極悪さは、この点にあるのですよ。

どのようにしても、取返しが着かないのですよ。無念ではありますが、被害者側は、泣寝入りするよりない状態なのですよ。理不尽極まりないと言ってみても、とにかくどうしょうもない決して取り返しの不可能な事態に置かれてしまうより無いのですよ。いくら、犯行現場にお花の山ができて、多数の人々に手を合わせてもらっても、殺された命は二度と戻っては来ないのですよ。この真の無念さは、被害者側以外には、到底実感できないでしょうね。

だから、この種の犯罪は、起こしてはならない、起こってはならないのですよ。処理のしようがないのですから。

だから、決して起こしてはならない、起こってはならない、と言う対策が必要なのですが、なかなか進展していない、と言う実情ですね。

始終、国民の生命と財産を守る事が、我々政治家の使命であると、大声で叫んでいる政治家を見かけますが、どうなっているのでしょうね。

金儲けに直結する外国語教育、IT教育などには、制度を整備し、多額の予算をつける事はしますが、すなわち、国民の財産に繋がる教育政策は積極的に展開するが、一方、国民の生命を守るための教育政策に対しては、関心が極めて希薄ですね。こちらは、金儲けに直接繋がりませんからね。

政治家について言えば、票に繋がりませんからね。

川崎の殺傷事件のような事件は、発生の当初は、メディアで多いに騒がれますが、時間の経過にともない、次第に関心が希薄化し、ついには、忘れ去られることになるのですね。

そもそもは、この様な事件は、それに直接関係が無い立場の人は、どうしても関心が薄い訳で、騒がれている当初は、花を供えて、手を合わせる人がいても、時間の経過にともない、どうしても関心が薄まってしまいますよね。

人間の自然の成り行きと言ってしまえば、それっきりですが・・・。

しかし、この類の事件は、起こしてはならないし、起こってはならないことは、時間の経過に拘わらず、忘れては、ならないことで、一つの生命が誕生したなら、その初期から、自殺をしてはいけない、他人に害を加えてはいけない、と言う方向で、まず親がこの種の教育を徹底しなくてはいけない事情にありますね。やはり親がしっかりとこの種の教育を行うと言うのが基本中の基本でしょうね。そして、家族で、さらに地域ぐるみで、保育園・幼稚園で、義務教育の場で、更に広く社会のあらゆる所、あらゆる機会を通じて、この種の教育を徹底する必要が御座いますな。これより、効果的な方法が見つからないのですよ。

 

このような事柄に関る教育は、伝統的には、道徳教育と言う名で展開されていたと思われます。

ところが第二次大戦後、日本の教育の現場では、この道徳教育なる語は、著しく敬遠された感がありますね。

すなわち、道徳教育となると、戦前の国家主義的教育のイメージが極めて強く、学校教育者の殆どは、もうコリゴリだ、と感じていたのでしょうね。政府の方から道徳教育に関する政策が出て来ると、最初から聞く耳を持たないと言う立場で、猛反対が展開される事が多かったように記憶していますな。

憲法改正の問題もそうでしたね。最初から検討することすら問題外という扱いをされていたように記憶していますが、この問題については、保守政党とその政府が、猛烈にエネルギーを注いで参りましたね。その結果、現状では、論議もせずに放り出される傾向にあった問題が、かなり大きく取り上げられる存在となっていますな。

比べて、道徳教育の方には、極めて力をいれて、エネルギーを注ぐ政党も政府もございませんでしたね。関連する幾分の改革は加えられてきているでしょうが、金儲けに繋がる教育や受験のための教育に比べると、道徳に関る教育は、随分関心が薄く、取り残された状況では御座いませんでしょうか。

 

この問題点の一つが、戦前の教育を引きずるイメージの強い道徳と言う表現を踏襲しようと言う所にあるのではないのか、と言うことが考えられます。

これまで、道徳教育に拒絶反応を示し続けた学校教育の現場でも、いわば人格の形成に関る内容の教育を、拒否していた訳ではなく、別の表現で幾分の改革を行ってきてはいると思われます。

ですから、良くない内容のイメージが付いて回る道徳と言う名称を使わず、別の適切な名称を使えば良いのではないでしょうか。

例えば人格形成とか。ちょっと堅いかな!

 

要するに、人格形成教育の希薄が一因となっていると見て良いのではないかと思われる凶悪な事件が後を絶たない現状からすると、従来幾分の改革は行われて来てはいますが、人格形成に関る教育は、結果的にまだまだ不十分なのでは無かろうかと、感じられるのですよ。

 

その最大の原因は、きっと国民の関心がどうしても今一つ薄い、と言うところに基本的要因があるのではないのか、と思われるのですよね。

すなわち、日本は言うまでもなく、国民国家でありますが、それは代表民主制により運営される訳です。

国民の代表を選出し、選出した代議士に、国家運営を任せると言う方法の民主制が行われているのです。

従って、国政選挙において、人格形成教育の充実を第一に主張する政党とか候補者がいなければ、国民は、人格形成の教育を押し進めたいと言う政党や代表者を、選出する術が無いのです。

ところが、国政選挙の実態は、いつも国民生活の経済的向上に関する、判り良く言えば、経済的に豊かな生活ができるようにと言う政策が第一に掲げられるわけで、人格形成教育を国政選挙の争点として掲げる政党、候補者は殆ど現れないのですよ。

各政党も立候補者も、人格形成教育の必要性は、感じている事でしょう。しかし、それでは、人格形成教育を掲げて、国政選挙でより有利に票を獲得することが現実的に有効か、と言うことになると、残念ながら経済的に豊かな生活の実現を謳う政策の方が、全然、票の獲得に有利なのですよ。現実的には。

もっと、判り良く言えば、国民が何を一番望んでいるか、これに最も食い込む政策でないと、票を獲得しづらいわけです。

だから、何時まで経っても、経済的に豊かな生活の実現を第一とする人が圧倒的に多数のために、人格形成に関る政策は、国政選挙の大きな争点とはならないのですね。

たとえば、子育てに関する政策は、集票政策となる現状が御座いますな。しかし、それは教育費の無償化や保育所の増設とか、と言うことで、結局は経済的な援助策であって、人格形成に関る政策では無いのです。

もっと、判り良く言ってしまえば、人格形成の教育についての国民の関心は、あまり強くなくいと、政党・立候補者は読んでいるのですよ。

実際に、これまでの国政選挙における多くの有権者の判断は、これに尽きていると言えるでしょうね。これが、これ迄の国民の選択、その選択の結果が、現状と言うことですね。

経済的に豊かな生活の実現化は、無論、大変大事な要素である事は、今さら指摘するに及びません。

しかし、取り返しの不可能な凶悪事件の発生は、後を断たないのが実情ですし、常識では考えられないような幼児を虐待する親の事件も、後を断ちませんな。

事件が報じられる度に、なんとかならないものかと、皆んな思っていることですね。

政府は、大きな事件が発生すると、取り敢えず、取り締まりの強化や防犯環境の整備に関る施策を口にしますが、このような対策は、必要ではありますが、これだけでは、凶悪事件の発生を無くすことは出来ないのですよ。

凶悪な行為を起こさない人を育てなくては。これには、教育より手がないのですよ。早急にこちらの対策を希望しますね。

 

以上、行き当たりバッタリに、駄文を連ねてまいりましたが、大分疲れが出て参りました。取り上げた話題が話題ですから、どうしても、堅苦しい表現を並べなくてはなりませんでしたね。

だから、面白可笑しい要素は、全くないわけで、堅苦しい文章が連なる結果となりました。

書く方が疲れちゃうのですから、これを読まされる側は、モーすっかりウンザリでしょうな。

分っちゃいるのですよ。

なにを分かり切った綺麗事をグタグタ並べてんだ。と言う声も、ちゃんと聞こえているのですよ。

分っちゃいるのですよ。

更に、それなら、お前は何をしたんだ。と言われますと、実に残念ながら、面目無いの一言に尽きるのですよ。本当に情けない次第なのですよ。

 

老化が進むと、物忘れがはげしくなり、加えて、独断と偏見も度を増して参ります。

きっと、大事なポイントとなることの欠如をお感じになられた方も多数おられる事でしょう。また、価値観の相違からくるであろうと思われる、異なる意見も御座いますでしょう。

お気に障ることが多々ある事で御座いましょう。

しかし、馬齢を重ねて参りますと、小言幸兵衛的能力だけは、割合衰えないようなのですよ。否、却って図々しさは、年を重ねれば重ねるほど、成長するようなのですよ。

ネッ! 高齢の政治家は、常識では、エエーッて感ずることを平然とヌケヌケと、当然の事のように言い放つでしょう。あれは、きっと老化の証左では無いでしょうか。さっさと後進に道を譲って、引退すべきでしょうな。

若い政治家でも、とんでもないことを言い切るヤツがいますが、あれは、まさしく人格形成教育の欠如の成せる業でしょうね

 

でも、年を取ると、ヌケヌケと思うのですよ。

少しでも、寛容のお心がございましたら、非力なジジーの戯言とご容赦をお願い申し上げる次第で御座います、などと。

 

どうもお疲れ樣で御座いました。

懲りずに、またのお越しをお待ち申し上げます。

 

お後がよろしいようで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《停念堂閑記》103

 

「日比憐休独偏記」31

 

「新元号あれこれ」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方はいないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットと来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

とは言え、大歓迎と申しましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題のもとに日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情の方、このような方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、ヒマ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

 

さて、本日の話は、これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め,消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事はまったく御座いません。平凡極まりないムダ話で御座います。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

では、参ります。        

 

本日は、時期柄「新元号」に関る話にします。

マスメディアで、ワイドショウ番組をはじめとして、一斉に取り上げて、ドンチャン騒ぎで盛り上がっている事なので、どうかなー、とも思われるのですが、この時期にあえて避けるのは、常識を疑われたりしそうなので、凡人としては、一応、ドンチャン騒ぎに加わらなくては、と配慮したりするのですよ。

 

そこで、例のごとく小言幸兵衛的視点で、どっちかと言うと、まー、ザックバランに言いますと、そのー、要するに、ケチを着けると言う方向でですなー、一言二言と思うのですよ。

何故かと言いますと、褒める立場でやると、直に終わっちゃいそうなのですよ。これでは、《停念堂閑記》では、具合が良くないのですよ。

まー、所定の手続きを経て、新元号が明らかにされれば、新元号は、国民の大多数に歓迎され、受け入れられて行くわけです。

だいたい一旦決定されて、公表されてしまえば、もはやそれに従うよりないのですから、そうすると、その存在は汚いよりは美しい方が良いに決まってますから、みんな美しい、良いわーと言う方向で受け入れることになるのですよね。

特に、見るからに悪意が込められたような文字を並べられた場合は別でしようが、たとえば、今回は、最終的に新元号の候補が六つあったそうですが、「令和」に決まった後は、他の五つよりも「令和」の方が、全然良いと言う人が、圧倒的に多いのですよ。

これが、仮に別の候補「BC」と言う方に決まって、文化人とされる方が褒めたりすると、世の体勢は、おそらく「BC」こそより相応しいと言う方向を示すに違いないと思われますなー。

こうなってしまうと、殆ど面白味が無くなってしまい、ここで常に一番重要としているヒマ潰しに不向きになってしまうのですよ。これでは、いけませんよ。

だから、少しでも面白くするためには、有効にヒマ潰しになるようにするためには、あえて、ヤッパリ小言幸兵衛流にいく必要があるのですよ。これでも、色々と気を使っているのですよ。忖度、忖度。

 

さて、他人の事をあれこれ言う以前に、お前はどうなのだ、と言われそうなので、まず、小生にとりましては、元号ツァー、まー、特別に常識 ? に外れていなければ、何でも良いと思っていますよ。

この常識と言うやつが、難物と言えば難物なのですが、あまり深く考えず、まずは、言い難い、読み難い、書き難い、と言う3難いに配慮した方が良いのでは、と思うのですよ。

次に、見るからに縁起の悪さを想起させる文字を避けた方が良いかな、と思うのですよ。例えば、殺、死、悪、倒、苦、狂、凶・・・などと言った文字は、避けた方が良いのでは。

あとは、それぞれの好みですから、なんとも言えませんな。

と言う大雑把な小生的な基準?から「令和」はどうか、と言いますと、菅さんの掲げた額の文字「令和」と言う画像をテレビで見た瞬間に、国営放送を見ていたのですが、菅さんが掲げた額が手話で知らせる小窓とかぶって、おや見え難いなと感じたのが最初でした。直に手話用の小窓が消されまして、額全体が見えるようになりましたが、難聴の方へのサービスどうなったの、と言うことになるのですが、これはひとまず置いて、「令和」の印象はと言うと、まずは冷たい感じがしましたね。少なくとも、暖かみ、穏和さは感じられませんでしたね。なにせ、凡人ですから。多分、多くの方々が、そんな感じを持ったのではないでしょうかね。

「令」で、連想するのは、まずは、命令の「令」ですよね。これは、上からああせよ、こうせよ、などと命じられることですよね。だから、冷たさや厳格さ、上から目線が、プンプン臭う感じが、最初にしましたね。

皆さんは、どうでしたか ? いきなり美しいと言う感情が、湧き出て来ましたか ?

 

「令」の字は、ある種の難しさを持つ文字ですよね。

読み方は、「れい」の他に、「りょう」、「たとい」および「・・・せしむ」、口語体では「・・・せしむる」などと使いますね。

「りょう」の用例では、大宝元年(701年)に制定された「大宝律令(たいほうりつりょう)」と言うのが有名ですな。日本初の法典です。

「律」は、概ね今の刑法に相当する決めごと、「令(りょう)」は、概ね今の行政法に相当する決めごとで、一部民法的側面を含む決めごとです。

「律」も「令」も、漢文で書かれた法令です。奈良時代平安時代は基本的には、この法令に基づいて社会が構成されていたのでしょうね。だから、律令官人(今の公務員)は、この法律を熟知している必要があったのでしょうね。

しかし、漢文で書かれているので、その解釈には中々困難を極めるところがあったのでしょうね。それで、律令国家として、この解釈書を作ろうと言う事になって、「令」について、『令義解(りょうのぎげ)』と言う本を作りました。法令文を示し、その解釈を漢語を交えた日本語で注釈したものですな。

因に、『令義解(りょうのぎげ)』は国が作ったものですが、その解釈に異論を唱える人々がおりまして、民間でも同じような『令集解(りょうのしゅうげ)』をつくりましたね。

大学2年生の時でしたかね。この『令義解』が演習科目の教材でした。難しい本でした。受講者は授業が開始されるまで、どれほどいるか、分らなかったのですが、蓋を開けると、なんと、数名しかおらず、すぐに来なくなった人もいて、結局残ったのは3人程でした。とにかく毎回当てられ、読みと解釈に四苦八苦でしたね。

担当の先生が、学年半ばでお亡くなりになりまして、途中から非常勤講師として村尾次郎さんとおっしゃられる超有名な東大の先生が来られましたね。

まさかこんな事になるとは、お互いに予想だにしていなかった事態となりましたね。ビックリなさったのは、村尾先生だったでしょうね。ピカピカの東大生に教えるのとは、全くワケが違いますからね。こんな分らんチー、に教えなくてはならないのか、と思ったでしょうね。

それよりも、ビックリしたのは、小生を含めた受講生ですよ。

村尾次郎先生は、当時文部省の日本史の教科書検定調査官でいらして、それはそれは怖い先生として、超有名でいらっしゃいましたよ。

その先生が、教室に入ってこられて、ビックリでしたね。

このころ、加山雄三さん主演の若大将シリーズの映画が大ヒットしていまして、

よく見に行きましたよ。若大将田沼雄一の家は、「田能久 たのきゅう」と言う老舗のすき焼き屋さんで、その店主を有島一郎さんが演じていましたな。要するに、有島さんは、「田能久 たのきゅう」のオヤジですな。

これがですよ。なんと演習の教室にですね。いきなり「田能久 たのきゅう」のオヤジが現れたでは御座いませんか。

村尾次郎先生、「田能久 たのきゅう」のオヤジにそっくり、有島一郎さんに良く似ていましたよ。本当に、ビックリ。『令義解』どころではなくなっちゃいましたね。

村尾先生も、そうそうに小生らの実力に、気がつかれたのでしょう。授業は、易しくやってくれましたね。朝の一時限目でしたので、「今朝は、コヒー飲まずに来たので、喫茶店で授業をしょう。」、なんておっしゃられて、よくコーヒーを奢ってもらって、喫茶店で授業らしき事をしましたね。

こわい先生とばかり思っていたところ、先生もコッチに合わせてくれたのでしょうね。先生の昔の写真などわざわざ鞄に入れて、いっぱい持っていらして、頭を寄せ集めて、想い出話をよくしてくれましたね。良い授業でしたよ。当てられる心配が無かったからね。

また、ある時は、わざわざ先生の卒業論文をお持ちになられて、見せてくれましてね。東大の戦前の卒業論文ですね。卒論の審査に当たられた東大の先生の一覧があり、いずれも著名な先生8名が名を連ねていて、最初に、林健太郎先生の名があったのを記憶してますね。

てな次第で、学年末のテストの結果、演習の単位をちゃんと頂きましたよ。「田能久 たのきゅう」のオヤジ似の村尾次郎先生に。

余談になってしまいましたが、目的がヒマ潰しですから、ご容赦下さいませ。と言うことで、その時の教材が、小難しい『令義解』でありましたので、「令」の字が付くのは、どっちかと言うと、苦手ですね。好きには、中々なれそうにありませんなー。

なお、蛇足ながら、「令」では、天皇が発する命令を「詔」「勅」と言いますが、皇太子、三后(太皇太后・皇太后・皇后)らが発する命令を「令旨(りょうじ・れいし)」と言います。

だから、「令」は皇太子関係に近い意味合いがあり、天皇とは一線を画する感じを持ちますな。すなわち、明治以降は、元号天皇の諡(おくりな 崩御された後の呼び名)としたので、この意味合いからすれば、「令和」は天皇の諡となり、「令和天皇」と称せられることになるので、幾分の違和感が無くはないのですよ。

読み方の「たとい」は、今はもっぱら「たとえ」というでしょうね。仮定の事を言う表現に使われますね。

また、「・・・せしむ」、口語体では「・・・せしむる」などと使いますね。持って回った表現で、ヤヤッコしいところが御座いますな。

職業柄この「令」と言う文字に出会うと、間違えてはいけないと言う緊張感が御座いましたね。

「被令為・・・」なんて並ぶと「・・・なさしめらる」、「・・・たらしめらる」なんぞと読むのですよ、なんて教えられた記憶がありますね。回りくどい表現ですなー。舌を噛みそうになるのですよ。

安倍総理の解説によれば、「令」の字は、ご令嬢とかご令息とか、令夫人とかに通ずる、美しい意味合いの文字だとおっしゃられていましたが、庶民には、余り縁がない気がしますなー。たまーに、幾分気取ったヤツに、「ご令息はお元気ですか?」とか「令夫人」は、なんて言われると、明らかに、オチョクラレタ感じがしますなー。ご丁重に、と言うよりは、慇懃無礼丸出し、と言う感じが先に来ますなー。庶民的にはですね。

てな次第でして、「令」の字は、私個人的には、あまり頂けない感じが先に来るのですよ。

申すまでもなく、これは、個人の感情、好き嫌いですからね。

テレビで、女子高生らしい女の子にキャスターが、街角で「令和」はどのように思うか、とマイクを向けたところ、彼女曰く、「かわいー」だって。

人それぞれですから、どのように感じ、どのように表現しようとも、構わないのですよ。

 

それから、どこかにケチをつけなくては面白くありませんし、ヒマ潰しになりませんので、ここはひと頑張りで、菅さんが掲げた毛筆の「令」の字について、ケチを付けさせて頂くことにします。

小生が使用しているワープロの「令」は、ここにあります通りです。上部から、ひとやねの下部の書き方は、横棒「ー」を書いています。そして、その下部に「刀」の「ノ」のないものを書き、「ノ」の部分は真下に縦棒を引いています。縦棒の終りの部分は、止めています。跳ねたり、止めずに抜いたりしてはいません。

字典によれば、こうは書かず、横棒「ー」の部分を、斜めの「チョン」(申し訳御座いません。今使用しているワープロは、この字がなかなか出て来ません。)に書くのが出ています。そして、その下部にカタカナの「マ」に作る字が見られます。

菅さんが掲げた額の毛筆の「れい」の字は、ここで使っているワープロの「令」の字とは違い、ひとやねのすぐ下は、横棒「ー」では無く、「チョン」が書かれ、その下部は、ここのワープロとほぼ同じに、「刀」の「ノ」の部分が縦棒に書かれています。

但し、菅さんが掲げた額の「れい」の方は、縦棒の終りの部分が、止めて僅かに左上方向に跳ねられていました。この跳ねは、明らかに具合が良くないようですね。

 

細かい事で恐縮ですが、「れい」の字は、何通りか字体に違いがありますね。元号の文字は、菅さんの掲げた額の文字を以て、正とするのですかね。それとも、幾つかの書き方の違いは気にせず、どれにても可とするのですかね。

義務教育では、どうなっているのでしょう。統一されているのでしょうかね。きっと、どっちでもいいのでしょうな。小生には、面目御座いませんが、その明確な知識がございません。ここでは、ヒマ潰しにちょいと、取り上げてみただけで御座います。

 

次に、「和」の字についてですが、文字の見た目の感じは、まずは、誰でもおそらく平和の和の字を想起するのでは無いのでしょうか。この字は、「昭和」の「和」の字でもあり、馴染み深い字で、特に、印象の悪さを感ずることはないですね。

但し、「和」の字の「禾」の部分についてですが、これは縦棒の終りの部分は、跳ねたり、抜いたりせず、きちんと止めるのですよね。

しかるに、菅さんの掲げた額の「和」の字の「禾」の部分は、「禾」の終りの部分が左上方向に、跳ねて書かれてましたね。跳ねない方が良いのでは。きっと、ここは跳ねないのですよ。「木」の字は跳ねないのですよ。本、末など跳ねないでしょう。

以前、小学校で漢字のテストで、「木」の縦棒の下の部分を跳ねると×になるとかで、騒がれたことがあったような記憶が御座います。今は、どのようになっているのですかね。

きっと、新元号が手続き上「令和」に決まって直に、毛筆して額に入れたものを示す手はずだったのでしょう。きわめて、短時間の作業だったのでしょうね。内閣府の辞令などを記す係の方が担当なされたようですが、もう少し、慎重になされた方が良かったのでは。

以後、何かに付けて、この「令和」額が、メディアで重宝されるのでしょうから。子供には、この字がお手本になるのでしょうからね。

「令」も「和」も特殊な文字では御座いませんが、ちょっと、字典で確認するべきだったでしょうね。

最近、この類のミスが、結講多く目に付くのですよ。テレビなどでも、しょっちゅう訂正をしてますね。

「先ほどのテロップの文字に誤りがありました。お詫び申し上げます。」なんて、時々やってますよ。ミスの上塗りですね。「先ほどのテロップの文字に誤りがありました。お詫び申し上げます。」と言われても、どの部分にミスがあったのかがはっきりしない場合が多いのですよ。

最も基礎的な部分の手抜きが目立つ昨今ですなー。

尤も、あまり、偉そうな事は言えないのですが・・・。コッチもしょっちゅう仕出かしていますので。しかし、菅さんの掲げた額と小生の拙文とでは、影響力が違い過ぎますから、と弁解がましき事を申させて頂く次第なのですよ。

とにかく、できるだけ細心の注意が必要ですな。ちょっと手間をかけて、注意すれば、ミスらないで済む事ですから。基礎的な部分での手間をはしょってはいけませんなー。

 

次に、「令和」の文字的典拠については、「万葉集」から引いたと言うことですね。そのことで、いくぶん違和感のある「令」の字の印象をカバーしている感じですかね。

ここで、色々言われているのは、これ迄、大化以来の元号は、中国の書物、すなわち漢籍と呼ばれている書物から引用する慣例がおよそ1,370年程継続されて来ましたが、これが、今度はじめて漢籍からではなく、国書から引用された。すなわち、1,370年程継続されて来た慣例から脱出した、大変革が行われた、と言う特徴的な新元号の決定方法であった、と言うことですな。

メディアによれば、この度の新元号の話が具体的になってきた時期に、安倍総理が、国書から引用する手もあるような意向を漏らした、と言うような話が出回っていたりしてますな。

それで、マスメディアでは、国書から引用されるのでは無かろうか、と言う予想があれこれ報じられていましたね。

それが、実行された、と言うことですな。

これに関して、安倍総理の意向が予め示されていたので、結果、このようになったのではなかろうか、とする憶測も横行していますな。

安倍総理の意向が、予め広まっていたとすると、或は、総理が選定した新元号の決定に関ることになった方々が、総理の意向を忖度する事になったのではないのか、と言う憶測が出回ることになるのですよ。

森友学園に対する国有地売却の一件、はたまた、加計学園獣医学部新設の一件等に関わり、安倍総理に対する周辺の忖度により、極めて重大な結果が発生した、と言われる前例が御座いますので、今回の新元号の制定についても、安倍総理は、この忖度に期待するところがあったのではないのか、なんて言うことが流布したりしてますな。

それにしても、日本人は忖度が好きですからね。よく場の空気を読め、なんて言われたり、場の空気を読めないヤツだなんて、嫌味を言われたりしますよね。

 

そもそもは、元号の決定の仕方の制度が、国民が納得いく議論を経て成立したものではなく、殆ど国民の知らない暗闇の中でつくられた感じがするのですよ。

結果は、総理の専権事項ないし専権事項的なことで全て展開された、と言う結果に見えたりするのですよ。

もっとも、新元号の決定に関った有識者懇談会のメンバーは、すべて安倍総理が選定し、最後の決定には安倍総理が当たったのですから、忖度云々の前に、安倍総理ありき、と言うのが実情であったようですなー。

要は、新元号の決定については、一般国民は最初から相手にされていなかった、と言うことなのでしょうな。これが実情ですなー、きっと。

 

とボヤキを入れたところで、新元号が国書から引用された、と言う話に戻しますが、そも「国書」とは何ぞや、と言うことについての議論はありませんでしたね。素朴に「国書」とは何なのかなー、なんて言う疑問は湧きませんでしたか。

 

「国書」なんて聞いたら、何を想起するかと言えば、まずは、初の遣隋使小野妹子(「子」がついていても、男だよ。)が、隋皇帝宛の聖徳太子(「子」がついていても、男だよ。)の作とされる、あの「日出處天子致書日沒處天子無恙・・・」と言う手紙ですよね。

要するに、「国書」は、元首がその国の名前で、外交相手国に遣わす書翰のことですよね。

余談ですが、小野妹子は、「日出處天子致書日沒處天子無恙・・・」と言う国書を携えて、隋に乗り込んだ迄は、良かったのでしょうが、隋の皇帝にとっては、とてつもない無礼千万のものであったので、外交官小野妹子は、隋皇帝煬帝の逆鱗にふれ、えらくトッチメられたようですね。おかげで、『随書』に、いわば無礼な手紙のサンプルとして随所にではありませんが、『随書』に記されたので、今に伝わることになったのでしょうな。

日本からの国書に対して、小野妹子の帰国に際して、隋からは返書が与えられたのですが、この隋の国書は、帰路百済で紛失したと言う事で、日本には持ち帰られなかったようですね。おそらく、とても見せるに忍びない文面だったのでしょうね。それで、きっと、紛失したことにして,処分しちゃったのでは、と推測されてますなー。小野妹子、中々やり手だったようですなー。

と言うことで、外交文書の「国書」は、今回の新元号の決定に関る「国書」とは、異なりますな。

 

では、今回の新元号の選定に関る「国書」とは、どう言うものかと言いますと、安倍総理は、「国書」と言う用語を使用されていましたが、その概念についての言及は御座いませんでしたね。

まー、これ迄の元号は、簡単に言えば中国の書物、いわゆる漢籍を典拠とされて来たので、この漢籍に対して「国書」、すなわち日本の書物と言うくらいの軽い意味合いで使われたのでしょうかね。

安倍総理は、どんな書物を念頭においていたのでしょうかね。

例えば、『古事記』とか『日本書紀』に始まる『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』と続く「六国史」、『風土記』、『万葉集』、『竹取物語』、『伊勢物語』、『古今和歌集』、『枕草子』、『源氏物語』、『栄花物語』、『大鏡』、『今昔物語』、『方丈記』、『平家物語』、『徒然草』、『義経記』、『信長記』、『好色一代男』、『奥の細道』、『東海道中膝栗毛』、『群書類従』、『大日本史料』、『大日本古文書』から『主婦と生活』、『平凡』、『鉄腕アトム』、『サザエさん』、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』、『ちびまる子ちゃん』等々、安倍総理のおっしゃられた「国書」とは、どなんかなー、と思うのですよ。

 

幾分専門的になり、恐縮ですが、軽く「日本の書物」と申しましても、色々御座いますね。

日本で作られた本と言っても、著者、編者を日本人、日本の機関に限定しているのか。とか、日本語で書かれている本を意味しているのか、とか。

例えば、外国人が、外国語で書いた本を、日本の会社から出版した場合、これを「国書」として扱うのか、と言った類の問題がある訳ですよ。

こう言う場合の判断は、その視点により、色々あって良いと思われますが、一例を紹介します。

日本を代表する出版社の一つとして、岩波書店が、有名ですね。岩波文庫とか岩波新書なんて言うので、お馴染みですね。

この岩波書店の代表的な出版物の一つに、『国書総目録』(全8巻 索引1巻)と言うのが有名です。日本の代表的な出版物、と言って良いでしょうね。うんと簡単に言えば、日本国の始まりから江戸時代の終りまでの期間に、日本で著された全ての書物の目録であります。約50万が収録されているとの事です。

ここに、「国書」なる名称が使用されているのです。

岩波書店では、この出版にあたり、これに収録する書物を次ぎのように決めています。

 

  • 日本人(日本に帰化した外国人を含む)の著作は、和文・漢文・英文を問わ  

ず収録している。

  • 外国書をそのまま書写したものは収録しないが、日本人により改修・編纂さ 

れたものや翻訳されたもの、注釈をつけたものは収録する。ただし、句読点をつけただけのものや、注釈が僅かな書き込み程度のものは除く。

  • 近世の庶民による史料は未整理のものが多いため、そうしたものは収録して 

いない場合が多い。

・ 巻・冊単位ではない、紙一枚程度の書画・絵図・地図・古文書は収録しない。

絵巻物・書画帖は収録するが、拓本は収録しない。

  • 一篇のみの文章は基本的に収録しないが、浄瑠璃長唄等の歌謡の一篇は収 

録している。 [便宜上 Wikipediaから引用]

 

国書総目録』では、上記の条件を備えた書籍を「国書」と言っているのです。

とすると、日本に帰化した中国人が、『史記』でも『論語』でも、この原著をそのままではダメだけれど、幾分手を加えて、例えば注釈を施したりして、日本で出版すれば、これは「国書」として扱われるのです。

だから、『史記』でも『論語』でも、その全文を「国書」に見ることが可能なのです。

 

と言う事で、安倍総理の言う「国書」の内容は、ご説明が御座いませんので、良くは分りませんが、「国書」から元号の文字を選定すれば、中国の書物から持って来たことにはならない、などと言う事態ではないのですよ。

より日本的なものに拘ろうとするのならば、漢字を使用せずに、仮名文字を使えば、と言うことになると、仮名文字だって、元は漢字から作ったのでしょうが、と言われてしまうでしょうね。

大体、元号の制度は、もともとは中国から伝わったものですから、中国から脱出するのは、そう簡単な事ではないようですよ。

 

要するに、判ることは、安倍総理は、この度、新元号を定めるに当たって、1,370年もの長きに亘って行われて来た漢籍から引用すると言う慣例に従わず、国書に求めた、と言う事実であります。

これから、何故にこのようにしたのか、と言う疑問が発生するわけです。

これについて、安倍総理はあまり言及していないのです。

それ故に、巷の雀は、あれこれと、さえずることになる、と言うわけです。

いずれも、推測、憶測の域を脱するものでは無いようです。

一つは、安倍総理の好みだったのか。

いやいや、政治的なことが、絡んでいるのか。

と言う、側面からの推測、憶測がなされることになるのですよ。

 

安倍総理は、漢籍を離れて、国書から元号の文字を選んだ。と言うことは、事実ですから、さすれば、何故か、と言うことになるのですよ。

まー、いろいろ推察されるでしょうな。

一番軽いのは、安倍総理のいわば好みからこのような事になった。と見る見方がありますね。

安倍総理は、「令和」について、「美しさ」、「和やかさ」に注目された様な事を述べられておりましたよね。

そこで、嘗て安倍総理は「美しい国日本」なんて言っていたことがあったなー、なんてことが思い出されるのですよ。

と言うことは、安倍総理は、どうも「美しさ」に殊更拘りをお持ちなのでは、と思ったりするのですよ。単なる憶測です。

尤も、安倍総理の言うところの「美しさ」の内容が、どのような事なのか、図り知ることは、できませんが。

 

では、別の視点から、なんぞ政治的な意味合いがあってのことか。と言うことになりますと、まずは、日本の元号は、より日本的なものの方が相応しい。この観点から、漢籍よりは国書に求めた方がより良い、と判断したのでは、と推測されるのですよ。

そこで、何故に日本的と言うところに拘ったのか、と言う疑問に振り変わるのですよ。

この答は、簡単ですね。日本だから、と言うことでしょうね。

問題は、この点に、あまり強烈に拘りだすと、これは国粋主義的な傾向を強化しようとしているのでは、と言う懸念に繋がり、戦前の悪印象に繋がっていく恐れがあるのですよ。

また、漢籍元号を求めるのを止めた、と言うことは、大袈裟に言えば、中国文化の影響を受けたくないのだ、と言う意思表示だ、とも取れないことも無いのですよ。

尤も、本家本元の中国は、とっくの昔に元号を使うのを止めてしまっているし、漢字もすっかり簡略化してしまっているので、漢字だ、元号だは、もっぱら日本文化の特徴と化している、とも言える状況なのですよね。

だから、新元号漢籍に求める事を止めた、と言うことは、中国に対する政治的な意味合いを含むものではない、と言う現実があったりもするわけですね。

なかなか微妙なところでもあるかも知れませんが。

 

大体、「令和」は、令和と言う熟語を国書に求めたものではなく、一字ずつ拾って、「令和」としたのですから、特に、『万葉集』に拘ることもなさそうですなー。

一層のこと、これからは『大漢和辞典』から拾うようにすれば。漢字なら何でも載っていますよ。「令」の字だって、『万葉集』で使っている意味合いが、ちゃんと載っかってますから。

 

と言うことで、小言幸兵衛も大分疲れて参りましたので、本日は、これにて打ち止めと致します。

元号「令和」など、既に慣れちゃいましたね。小生のパソコンのワープロでは、「れわ」と入力すれば、「令和」・令和が飛び出して来るようになっています。これからは、しょっちゅう使用することになりますからね。

たった一文字はしょっただけですが、割合からすれば、三分の一、33.333%の節減となり、打ち込む時のエネルギーと電力の節約にこれ努めることにしています。ケチだね。なんとも。

 

 

では、どうもお疲れ様で御座いました。懲りずに、又のお越しをお待ち申し上げます。

 

お後がよろしいようで

 

《停念堂閑記》102

「停念堂寄席」59

  

「アポ電 アホ電 ?」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方はいないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットと来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

とは言え、大歓迎と申しましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題のもとに日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情の方、このような方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、ヒマ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

 

さて、本日の話は、これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め,消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事はまったく御座いません。平凡極まりないムダ話で御座います。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

では、参ります。

 

最近、テレビなどで、アポ電強盗の話題が頻りですな。予め、お金の有無を電話で確かめておいてから、押し込み強盗に入ると言う、はなはだ荒っぽい方法が増えているそうで。怪しげな電話には、注意を怠ってはいけませんな。

対策が必要ですよ。

電話には、直ぐに出ない方が良いようですよ。

留守電にしておいて、一息おいてから、大丈夫なのが確認された場合にだけ出るようにした方が良いようですよ。

もっとも、大丈夫かどうかの確認自体がね、そもそも問題なのですが。

留守電の待受け音声は、「ただ今、留守にしております。御用の方は、ピーと言う音の後に、用件をお話し下さい。・・・ピー。」と言ったようなものが、一般的のようですが、これからは、「ただ今、我が家には、金銭は一切御座いません。どうぞ他をお当たり下さい。」てな、待受けに切り替えた方が良さそうですなー。

もっとも、お金が余っていて、処分にお困りの方は、「ただ今、3000万円までなら本日中に、すぐにご用意できます。ピーと言う音の後に、住所・氏名・振り込み口座番号をお願い致します。直に、お振り込み致します。・・・ピー。」と言う、待受け音声にしておくと、スムーズに事を運ぶことができるでしょうね。まさかね。

それとも、もうダイレクトにね「はい、アポ電強盗さんですか。すぐに警察に連絡しますので、しばらくこのままでお待ち下さい。」と言う待受けにしましょうか。電話して、いきなりこの待受けが聞こえて来たら、たいていはビックリするでしょうね。

以前知合いのお父上樣は、間違い電話と分かると、「はい、こちらは火葬場です。何日、何時の予約希望ですか ?」とやるそうで、そしたら、間違いなくガチャンと切られる、と言う話を聞いたことが御座いますよ。縁起でもありませんからね。

これは、私の実例ですが、以前、電話を設置したばかりで、電話帳に登録もしておらず、うちの奥さんしか番号を知らないと言う期間があったのですよ。そこに、電話がかって来たのですよ。奥さんからとばかり思って出たところ、知らない男の声だったのですよ。

何かを売りつけようとする営業の話でしたが、様子がおかしかったので、貴方はどちらさんに電話しているのですか? と聞いたところ、「それは言えない。」だって。

そこで、追い打ちをかけて、この電話番号をどこで知ったのか? と尋ねたところ「それも言えない。」だって。

なんとも、間抜けな応対でしたね。

局番から、営業担当の地域に、手当たり次第に電話していたような様子でしたね。局番は地域で大体見当がつくので、後の4桁を好い加減に、適当に押していたようで、今はもう使っていませんが、後の4桁が、ひとつずつ増える連番だったので、1234なんて、順番に押していったのでしょうね。そしたら、たまたま私のところにヒットしたのでしょう。だから、何処の誰に繋がったのか、判らない状況だったのでは、と想像したのですが。

こちらは、名前や住所等、個人情報を一切告げてませんので、当然、強盗にはやって参りませんでしたよ。

蛇足ながら、私はかかって来た電話をとる時には、「はい、××です。」とは名乗ら無い事にしています。向こう樣が、何かを言う迄、無言でいます。なんと無愛想な失敬なヤツだと、思うでしょうね。しかし、何か用事があって掛けて来るのでしょうから、大抵は、△△ですと、名乗ってくれますよ。そしたら、普通に応対しますよ。怪しげなのには、絶対にこちらの個人情報は伝えません。

お墓、墓地の売り込み電話が、よく来ますね。既に、先祖代々からのがあるから、不要だと伝えると、それでも、もう一つどうです。なんて来るのですよ。

幾つも墓を持って、どうしょうと言うのです。墓のアパート業でもやんなくちゃー、元が取れませんよ。

見晴らしが良く、海が一望できる、絶景の墓地ですよ。なんてね。

いくら絶景でも、わたしゃーもう死んじゃってるので、見る事できませんからねー、と丁重にお断りすることにしています。

 

これは、電話ではなく、ハガキが来ました。

先日、「あなたは、未納の××消費税に関して、訴えられている。××月××日が訴えの取下げ期限となっている。直に、対処するように。××消費税課 訴訟係 電話××番」と言うような内容のハガキが舞い込んだのですよ。

こりゃー、一大事とばかり、早速電話を致しましたところ、訴訟の取り下げ費用・弁護士経費などとして、456,789円必要と言うことが判明しました。

いきなり、こんな金額を要求されても、手元に無かったものですから、それでは、と言うことで、息子に電話して、「オレ、オレだよ。大至急50万円、オレの口座に振り込んでくれ。」と頼み込みましたところ、「阿呆こけ。このクソ忙しい時に、そんなヒマ潰しにつき合ってらんねー。」の一言で、電話切られちゃったのですよ。男の子はツメテーね。

50万円、儲け損なっちゃったよ。

因に、これは、オレオレ詐欺ではないですよ。約50万円必要だと言われたのも、手元にそんな金が無かったのも、本当のことだよ。それなのに、息子に全然相手にされなかった。ひょとして、小遣い稼ぎができるかもと、期待したのに。電話1本で、金儲けするのは、中々難しいもんだね。

息子がダメならと、こんどは娘だと思って、娘に電話したのですよ。50万円は厳しいだろうと配慮して、30万円に割引してやったところ、やっぱり娘は優しいね。30万円すぐに振り込むと言ってくれましたよ。

ここ迄は、うまくいったと思ったのですよ。

ところが、娘が言うには、家にも、××消費税の未納訴訟の件で、70万円の請求が来ている。20万円は、自力で用意できたので、残りの50万円を娘の口座に振り込んで欲しい。と言うのですよ。

娘の方が一枚上手でしたね。差し引き20万円の差額を儲けようと企んでいたのですよ。油断も隙もありませんよ。あぶなくひっかかるところでしたよ。

そんなこんなしているところに、今度は親しくしている友達から電話が来たのですよ。××消費税未納の訴訟の件で、80万円必要となった。10万円は用意できたので、残りの70万を俺の口座に振り込んでくれ、だって。

ふざけんじゃないよ。どいつもこいつも、××消費税の未納訴訟の件、他人の褌で、相撲をとろうとしやがって。まったく、油断も隙もあったもんじゃねーよ。まいったね。ホント。他人の事言ってらんないけれど。

こんな××クサイ話で、少しはヒマ潰しになりましたでしょうか。

要は、アポ電話強盗、オレオレ振込には、気をつけましょう。

 

今日は、ちょっと用事ができて、そっちの方で、ヒマ潰しができる様になりましたので、いささか中途半端では御座いますが、この辺で失礼致します。

では、またのお越しを。

 

お後がよろしいようで

《停念堂閑記》101

「停念堂寄席」58

  

「さくら型 ?」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方はいないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットと来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

とは言え、大歓迎と申しましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題のもとに日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情の方、このような方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、ヒマ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

 

さて、本日の話は、これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め,消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事は御座いません。平凡極まりない話です。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

では、参ります。

 

このところ、今日は出るか、明日は出るか、とマスメディアは大騒ぎしてますなー。

何がでるのかと言うと、オバケ。ではないですよ。

ボーナスなんぞも、そうそうは出ないだろうし。

ヌッ! さすれば、オナラか ?

ちょっと、ちょっと、ボーナスと、オナラとの格差は何です。

誰が、今日、明日、オナラが出るか、出ないかで、大騒ぎをしますか、チューの。

 

しますよ。もう、出るのを心待ちにしてますから。

出た! なんてなると、良かった、良かった、一安心。と大喜びですよ。

これが、出なかったら、ちょっと具合が悪いようですよ。

 

何だと思います。

盲腸の手術後の、は ひ ふ の次ぎの一発ですよ。

これは、恥ずかしい、なんて言って、我慢してはいけませんよ。

もよおしてきたら、ためらわず、心置きなく、ドーンと一発決めなくてはいけませんよ。

そんなに、大袈裟な大砲的なものでなくても、良いですがね。

しかし、マスメディアが、一個人のオナラが出るかどうかを、今日か明日かと待ってる訳が御座いませんよ。特別な存在の御方の場合は、どうかシリませんが。

あのー、ここは一発笑うべき所ですよ。下ネタ落ちのところですからね。お願いしますよ。

 

マスメディアが、今日か、明日かと大騒ぎしているのは、もう、誰でも、お判りですよね。

そうです。プロ野球の開幕戦です。

プロ野球ファンにとっては、待ち遠しい、一日でしょうね。

これからは、ビール飲み飲みテレビで観戦。

既に、試合中から飲んでいるのに、贔屓のチームが勝ったと言っては、乾杯。負けたと言っては、残念の一杯。とにかく、どっちに転んでも、一杯やれますからなー。

プロ野球が、始まりますよ。

 

ブー、残念でした。プロ野球では御座いませんよ。

 

正解は、桜の開花宣言で御座います。

「平成最後」の開花宣言が出ました。なんてはしゃいでいますなー。

何のこってすかね。「平成最後」だって。

このごろは、何にでも「平成最後」をくっ付けてますよ。

これでは、4月30日は、大変ですよ。コト毎に、「平成最後」をくっ付けなければなりませんよ。

まず、朝目覚めたら、「平成最後」の朝の目覚めです、ときますよ。そして、トイレへ行こうものなら、「平成最後」の朝ションです、となりますよ。

これが歯磨き、洗面、朝メシ・・・と、夜の就寝に至迄、いちいち「平成最後」をくっ付けなくてはならないのですよ。手間掛かるねー。

これが、翌日、5月1日になりますと、「新元号最初」の初日ですよで始まり、いちいち「新元号最初」の朝の目覚めです、といかなくてはなりませんよ。トイレへ行こうものなら、「新元号最初」の朝ションです、となりますよ。これが又、就寝に至まで、いちいち「新元号最初」となるのですよ。

そして、翌2日になると、「新元号二日目」の朝の目覚め・朝ション・・・とななりますかねー。まさかね。それでも、何か大きな行事、イベントめいたことがあれば、「新元号最初」とやるのでしょうね。

因に、時を表現するには、世界的には、西暦が使用されていますね。だから、西暦を使えば、特に、問題は御座いませんよね。

なのに、何で元号を使うのかね。と言う疑問がありますよね。

どうしてかね。きっと、今迄そうしてきたから、すなわち、これ迄の惰性でやっているのでは、なんて、思われたりしますなー。

若い人達は、西暦と元号の二重表記なんて、意味ないじゃん。面倒くさいだけだよ。特に、スマホタブレット、バソコンなどを使用する場合は、元号表記など、ジャマくさいだけじゃん。と思うでしょうね。

でも、メリットもあるのですよ。

特に、日本の歴史に関しては、元号があると、便利だったりするのですよ。

1868年から1912年の時代は、なんて言うより、明治時代は、とやって貰った方が、あー、あの時代か、と時代の様子が、ピーンと来るのですよ。昭和か、と来ると、ビーンとくるでしょ。このような便利さがあるのですよ。

また、奈良時代とか、平安時代とか、鎌倉時代とか、と言う時代区分も、便利なのですよ。戦国時代、江戸時代、と聞いただけで、その時代の様子が、ピーンとくるでしょ。時代の特徴を想起させるのに、便利なのですよ。

だから、中々捨てられない、事情もあるのですよ。

 

さて、日本人は、「最初」・「事始め」が好きですなー。

「最初」と聞けば、日本人の胸は高鳴り、じっとしておれなくなるのでしょうな。ケッタイな民族でんなー。

それから、「最初」と対になっているのでしょうかね。「最後」というのも、好きですよ。

「名物の××ラーメン店が、明日、閉店だ。」となんかなりますと、えらく遠くからやって来て長蛇の列をつくって、閉店になるのを待ってる人達がいますからね。

ヌッ! 待てよ。この場合は、開店を待っているのか?

とにかく、結論的には、「最初」と「最後」、すなわち「開始」と「終息」が、日本人の心をとらえるようですなー。

 

さて、その「開始」の方になるのでしょうな。桜の「開花宣言」どうので、目下、マスメディアは大騒ぎしていますよ。乗せられて、多くの人々も、騒いでおりますよ。

この開花宣言に見られるように、日本人は、とにかく何かに付けて、事の始まりについて、えらく関心を持ち、興奮するクセがあるようですな。

ところが、桜の場合は、散花宣言(桜の花が散ってしまったことについての宣言を、ここではこのように表現します。)は、御座いませんな。「終息」にも関心があるはずなのに、これは無いのですが。

開花宣言については、気象庁の職員が、標準木に5輪以上咲きました、と言ったのを捉えて、マスメディアが勝手に開花宣言出る、などと騒ぎ立てているだけで、気象庁がそのような宣言を発している訳ではないのですな。

さすがに、標準本の花が、5輪を残して、全部散りました、と言う気象庁からの発表は、無いでしょうな。マスメディアの方も、開花宣言のバカ騒ぎとは、えらく違いますな。「散花宣言」を出したとは、聞いた事が御座いませんよ。盛り上がりませんからね。散ってしまえば、もう殆ど関心が無くなってしまうのでしょうな。

と言うことは、桜に関しては、多くの人々は、開花すなわち事の始まりにつては大いに関心を示しますが、盛り上がりのない終末には、関心を示さない。と言うことになりますな。

 

ところが、事の次第で、その終末について、興奮するクセがある事は、前に指摘しましたよ。

前に言ったように、このところは、なにかに付けて、平成も終りだ、と言うのが流行ってますな。そして、次ぎの元号は何だろう、と事の始まりの話題で持ち切りですな。

甚だ私事で恐縮で御座いますが、日比憐休(ひびれんきゅう。小生の号)に取りましては、平成が終わって、新元号に代わろうとも、年中日々連休の事態になんの変化も生じませんよ。10連休なとぞ、何処吹く風。365日、毎日休みで、ヒマ潰しに悩まされているヒビレンキュウなのですよ。

とにかく、日本人は、なにか事の始まりに遭遇すると、じっとしてはいられない人々が多いようですな。

今日は、有名な××ラーメン店の支店が、何処とかで店開きだとなると、もー開店前の2・3時間も前から並んで、行列をつくる方々の何と多いことか。開店サービスで食べ放題、無料と言うオマケでもあるのならともかくとして、ただただ、有名店だと言うことだけで、長い長い行列ができ勝ちですなー。

平日でも並んでますからね。2時間もあれば、普通に旨いラーメン屋さん、4・5軒、ハシゴ可能ですよ。ソバ屋さん、カレー屋さん、ハンバーガー屋さん、最後にカップラーメン、こちらのハシゴでも構いませんよ。こちらの方が、充実していて、クッターと言う感じがすると思いますがね。

あの目的のラーメンにありつくまでの待ち時間の意味するものは、なんなのですかねー。

長時間待つと言うことは、何か特別のメリットがあるのでしょうな。

2・3時間も待ってから、頂くラーメンの味は格別なのかも知れませんが。

それとも、何らかの自慢になるのですかね。

単に、ラーメンを食べるのに2時間も待った、と言うことが自慢になるのかね。

自分は目的を達するために、たかだかラーメンでも、2時間も待てるのだ、と言うことが自慢になるのかねー。ヒマだねー。そんなヒマが有るのなら、「停念堂閑記」にどうぞ。

ヌッ! そんなこと、自慢にならないって。ご尤も。

はたまた、自分の目的達成のために、じっとその時を待つ事ができ、達成できたと言う自己満足感を味わいたいのかねー。

エッ! 趣味なんですか? 長時間待つことが。

マー、趣味では仕方御座いませんな。行列待ち自体が楽しいのだから。1時間でも、10時間でも、10日間でも、10年間でも、100年間でも、どうぞお楽しみ下さいませ。

単なるヒマ潰しに最適なのさ、と言うのであれば、それは納得出来ない事もありませんが・・・。

 

また、乗る人がめったにいなくなったローカル線が廃止となる日とか、利用者がいなくなった駅舎が閉鎖されることになる日などは、まー、終末好きの人々が群がりますなー。親の死に目に会わずとも、やって来る方があらせられるのではないのか、と心配されるほどですよ。

こんなに、集客力があるのなら、閉じるのを止めようか、と思ったりしそうな事態ですよ。

ところが、それを狙って、一年間も旗を立てて、閉店セールをやっていた、地元の靴屋さんが、あるのですよ。XYZだったか、なんかアルファベットをもじった名前の靴屋さんですが。

結局、これで集客力がアップしたのでしょうね。いつの間にか、閉店セールの旗が消えていて、未だに営業し続けているのですよ。これは、日本人の終末好きの心理を巧みに利用して、成功した例ですなー。

 

何でもその傾向が強いと思うのですが、何か新しい事を始めようと言うことになると、やたら元気が出る方が、多いようですな。

元号どんなのが出て来ますかね。こっそり秘密裏につくっているらしいですなー。まー、どんなんでも、良いですがね。

と言いつつ、実は、この手の事を考えるのが、好きなのですよ。絶好のヒマ潰しになりますからね。

と言う事で、あれこれ試行錯誤をくり返しましてね。最後に残ったのが(申し訳ございません。ウソです。たった今思いついた、行き当たりバッタリの代物であります。)、なんとなんと、ジャジャーン。

《啓希 けいき》と言うやつですよ。中々のものでしょう。啓の字は、ひらく、と言う意味があります。希の字は、申すまでもなく、希望の希であります。分り良いでしょう。

《啓希 けいき》 「希望をひらく」と言う意味ですだよ。

これからの時代に向かって、ピッタンコでしょう。

希望に向かって、羽ばたきましょう。

希望に満ち満ちた、素晴らしい時代にしましょう。

なんたって、使い勝手が良いでしょう。

この元号になった途端、ケイキが良くなったとか、悪くなったとか、社会情勢を言う時に、誰でも、すぐに使えるでは御座いませんか。

もう、これに決定ですね。4月1日に発表!

日にちが日にちだけに、ウソだよーん、で済んじゃいますからね。

ねー、ヒマ潰しにはもってこいでしょー。

 

日本では、大化と言うのが、国家的に、初めて使用された元号として知られていますが、時に名前を付して、起点から時の経過を現す手法は、もともとは中国で始まったことですね。

これが日本に伝わって来て、マネッコしたわけです。

従って、色々な年号が使われていたようですが、これが国家的に定めると言う事になったのが、645年に定められた大化という事のようですな。

これは国家として使用する年号(元号)であって、これとは別に、いわば私的に年号を使用していた場合も見られるわけですね。

これは、国定のものと区別して、「私年号」とか「異年号」とか言われていますな。

だから、自分で自分なりの元号を使っても良いわけですよ。

誕生の時点から、弘志さんなら、「弘志」元年で出発しても、何等構わないのですよ。但し、公に通用しないだけです。

結婚を機に、弘志と美佐江なら、「弘美」元年として、出発しても、何ら問題は無いわけですよ。

ヌッ! おまえ3回も改元してるなー。×3か。やるなー。なんてこともありですよ。始めてみます ?

 

話を戻します。

何か新しい事を始めようと言うことになると、やたら元気が出る方が、多いようだ、と言う話です。

そして、ことの始まりではなくして、事の終末にあたって、これまた、元気がでる方もいらっしゃる、と言う話です。

この場合、前者を「さくら型」と称したら良いのではないのか、と思うのですよ。すなわち、開花宣言の時は、大はしゃぎするけれども、散花宣言は無し、と言うタイプのことですよ。

これがですね、世の中には、結講、多いのですよ。特に、マスメディアにおいて、政治政策において、良く見られるのですよ。

 

あの森友学園に関る公文書書換え?問題、それに携わった官僚の自殺事件など、マスメディアは毎日毎日盛り上がりましたよ。しかし、その事実関係、責任問題など、その終末についての事柄についてはどうでしょう。なんだか、どのようになったのか、さっばりハッキリとしないまま、問題にされなくなりましたね。このようなのを、まさに「さくら型」と言うのですよ。

 

東京市場清洲移転に関る事柄も、有毒汚水がどうの、新施設の使い勝手がどうの、新道路の建設がどうの、築地市場の移転後の利用がどうのと、とにかく盛り上げていましたが、移転後の状況は、あまり伝わってはきませんな。これも「さくら型」ですな。

 

消費税の10%引上げ問題も、一時期は盛り上がってましたよ。それが、どうなりました。これも、「さくら型」になりそうですな。

 

とにかく、マスメディアの取り組み方は、「さくら型」に尽きている、感がございますな。関心事は、次ぎから次ぎへと、変転していきますな。

「花の色は、遷りにけりな・・・」ではないですよ。「花の色は、忘れにけりな、いたずらに・・・」と言う状況ですよ。

とにかく、「さくら型」は、終末に関心が無い、垂れ流しと言うのが特徴ですな。

 

今年は選挙の年のようですな。既に、公示の開花宣言が出て、選挙運動が展開されている所も御座います。

選挙運動、公約等は、言ったもの勝ちで、何でも格好付けて、言い放題。選挙が終われば、叫び続けていた公約など、たちまち散ってしまいますなー。典型的な「さくら型」ですわ。

 

東日本大震後の原発廃止。原発の恐ろしさが露呈した初めは、原発廃止論で、すごく盛り上がってましたね。それが、どうでしょう。これも「さくら型」ですな。

 

沿岸のバカ高い、津波防波堤の建設問題。これもどうなったのでしょうな。「さくら型」にようですな。

 

政治の場が、殆ど「さくら型」ですからね。選挙前は、運動中は威勢が良いのですが、終わってしまえば、サクラ散るで、もう関心は別のところへ行ってしまうのが、現実ですからね。

 

とにかく、日本人は桜が好きですわ。

当分、この傾向は変わりませんな。嗚呼。

 

お決まりのボヤキ留めで御座います。

ボヤキは、疲労が溜まるのですよね。

ストレス解消のはずが、解消にはならないのですよ。

溜まる一方。

皆様も、どうぞお大事に。

 

本日は、これを持ちまして、打ち止めと致します。

貴景勝大関昇進おめでとう。早く、横綱になってよ。

稀勢の里引退しちゃって、つまんなくなっちゃったので、頼みますよ。

 

それでは、お疲れ様でございました。またのお越しをお待ち申し上げます。

 

お後がよろしいようで

《停念堂閑記》100

「停念堂寄席」57

 

「花見ドンチャン騒ぎ税」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるか、どうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。

遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方はいないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。

とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。

もっとも、ロケットと来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。

とは言え、大歓迎と申しましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題のもとに日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情の方、このような方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、ヒマ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声でんなー。

 

 

さて、本日の話は,これ迄に無い、誰もが、一度もお目にかかったことのないような飛びっきりスゴイ話ですよ。どこがスゴイのかちゅーと、どこをどう切っても、阿呆クサイ、トロクサイ、鈍クサイ、けちクサイ、辛気クサイ、キナクサイ、陰気クサイ、素人クサイ、これだけ並べればどれかにひっかかるであろうクサさがプンプンの金太郎飴で、もう、どこをどう切っても、クサイ、クサイ話なのですよ。吸い込んだら最後、脳ミソがグズグズになってしまいますからね。お気をつけ下さいませ。予め,消臭剤のご用意を怠り無く。マスクも。

なんて、言う程の事は御座いません。平凡極まりない話です。

歯を全部抜いて、総入れ歯にしたハナシのような話ばっかりですから。

 

では、参ります。

 

いまテレビで大騒ぎしているのが、「桜の開花宣言」と言うやつですなー。これは一体なんなのでしょうね。

各地に所定の桜開花に関する標準木とか言うのが決められていて、気象庁の担当職員の方が、開花しているか否かを観察して、おおむね5・6輪咲いたのを確認すると、世間で言われているところのいわゆる「桜開花宣言」となるのだそうですな。

なお、この桜の木は、染井吉野に限定されているそうですよ。

ところで、この標準木って、どのような基準で決められたのですかね。全国に66本決められているとか。

一つは、染井吉野であると言う事のようですな。あとは、気象庁の近くが良いとか。気象庁の職員が、観察するのに便利と言うことのようですが・・・。余り、キッチリした基準があるようでも無いらしいですね。

樹齢とか、陽当たりが良いとか悪いとか、植わっている環境とかは、考慮されていないのでしょうかね。

しかし、この木で、開花した、まだしていないが決まるのでしょうからね。近隣の桜の木の花が、先に結講咲いてしまっていても、標準木の花が咲かなくては、開花宣言とはならないのでしょうからね。

できるだけ、同じ基準の方が、標準として相応しいように思われますがね。

どうしたものですかね。

 

テレビ局では、シーズンになると、標準木の所にカメラを待機させておいて、3輪開いているのが確認できるとか、4輪まで開いたとか、大騒ぎしていますな。そして、観測の所定の時刻が決まっているようですね。気象庁の担当職員が来たら、今日は「開花宣言」となりますか、などとせっついたインタビューをするのが、恒例となっていますなー。

因に、気象庁では「開花」と言う表現はしているが、「開花宣言」と言う用語は使用していないとか。

また。「桜前線」がどうのとテレビ等では、連日大騒ぎしますが、これも、気象庁では「さくらの開花日の等期日線」と言う表現をしているとか。

要するに、「桜開花宣言」とか「桜前線」と言う用語は、新聞・テレビ等マスメディアが便宜的に使用しているもののようですな。

それはそれで良いとしまして、何で「桜開花宣言」、「桜前線」どうのと、こうも大騒ぎするのですかね。

思うに、国民みんなが、桜が大好きで、大いに乗って来れるからではないのかなー、なんて思ったりするのですが。

開花して、たいして間をおかず、パァーと満開になって、間を置かず一斉に散ってしまうところがいいのですかね。長期に亘り、あまりダラダラとやられると、集中力が切れてしまうのでしょうかね。長々と、桜花見のドンチャン騒ぎをやれると、近隣の人は、たまった者では御座いませんな。騒ぐ方だって、ダレてしまいますよ。花見は、短期決戦が良いですよ。

とにかく、メディアは、4輪の開花ではダメ、5輪だと「開花宣言」出たなどと、全国的に報じて、大騒ぎしますよね。

この1輪の差って、何なのですかね。どんな意味があるのでしょうかね。

そりゃー、世の中、色々な事態に、何処かに判断基準となる一線を設けなくてはならない事態があるのかも知れませんが、言っちゃーなんですが、桜なんざー、1本の木に幾ら花を付けるとお思いですか。いくらヒマ潰しができるからと言っても、数えてみる気には。まったくなりませんよ。

無数の花のその内のたった1輪で、その桜の木の花の事態に何か影響が現れでもするのですか。4輪であろうと、5輪であろうと、はたまた10輪であろうと、全く異なる事態が発生するようには、見えませんけど。

 

開花前と開花した後の区別をしたいのならば、1輪でも開花は開花ですから、とにかく1輪でも開花すれば、それで良いではありませんか。4輪と5輪のこの間の1輪の差の意味するところが、今一理解しずらいのですよ。

5輪の開花宣言が出る以前に、花見と称してドンチャン騒ぎをしてはならないと言う取決めでもあるのですか。あるいは、5輪の開花宣言が出されたら、花見でドンチャン騒ぎをしなくてはならない、と言う決めごとでもあって、違反したら、罰金でも取られると言う事態なのですか。

この1輪の差は、何の意味があるのか、まったく判りませんなー。教えてー。

丼に盛られた炊きたてのご飯の内の4粒と5粒の間にある1粒の差が判りますか、ちょーの。

因に、こう言うのを屁理屈と言うのですよ。あいづちは、「へー」とやってくださいよ。たのみますよ。

 

ところで、目下我が国では、財政大困難に陥っているのは、誰でも知ってますな。

そこで提案です。

「花見ドンチャン騒ぎ税」を設定して、増税を策したらどうでしょう。

消費税なんぞは、成人・未成年者、老若男女、金持ち・貧乏、誰彼一切構わず、

只只、一律に、さー払え、と言う性格のものですよ。

一律は平等だ。さー、払えと言う、甚だひん曲がった平等感を振りかざして、弱者には何にも配慮するところが見られない悪税ですよ。

そんなことする蛮勇があるのなら、「花見ドンチャン騒ぎ税」でも掛けなさいよ。花見でドンチャン騒ぎできる人達は、それなりの余裕のある人達なのだから。本当に困窮している人達は、いくら桜が満開になろうとも、「花見ドンチャン騒ぎ」は出来ないんだから、それが出来る人達から、幾分の税負担をして貰っても良いでは御座いませんか、ちゅーの。花見経費の一部だと思えば、いいのだから。

課税が無理ならば、寄付を呼びかけるとかさ、××紛(まが)いでは御座いますが、幾許かの所場代を頂戴するとかさ、いろいろ方法は考えられるでしょー。

国会議員の先生達、ボーッとしていないで、適切な増税策を考えた方が良いですよ。

そうだ、国会議員先生のパーティーにも課税するとかさ、集めた半分を施設費として寄付させるとかさ。特定の施設に寄付するのは、問題があるでしょうから、施設費として、国のその方面の経費に取り込むなり、全体に行き渡るような対策を講ずれば良いのですよ。

花見でドンチャン騒ぎした人には、経費を申告させて、一律10%を課税してはどうです。宴会に使用する場所を申告させて、申告した者に対して、許可証を発行して、所定の場で、ドンチャンできるようにすれば良いのですよ。許可証の発行に伴い、納税の義務を課す事にすれば、良いのですよ。

公平を保ち、より多額の国家増収を図る為に、花見ドンチャン騒ぎしなかった人には、した人と同等の課税をしてはどうですか。但し、非課税の認定を受けている人を除いてね。

なんてことはございませんよ。確定申告書の蘭を一つ増やせばいいのだから。しなかった人の税額は、前年度のした人の平均値に基づいて、10%課税すれば、良いだけのことですよ。たいして手間掛かりませんから。

 

テコちゃん、一発かましてちょうだい。

ボーット生きてんじゃねーよ。代議士先生。

 

また、大企業は、なんだかだ言いつつも、結構な利益を上げているんだから。社員の給与を、とっとと上げれば良いのですよ。社員の給与を上げない場合は、その相当額を税金で徴収すればいいのですよ。そしたら、税金で持って行かれるくらいならと、社員の給与を上げようと言うことになりますから。そうすれば、所得税の増収に繋がるのだから。

国会議員さんだって、自分の給与が上がれば、と期待しているでしょう。

私はね、国会議員先生の給与を上げると言うことに反対はしませんよ。思い切って、20%ほど引き上げれば良いのですよ。

但し、その処置と共に、国会議員報酬に対する税率を50%ほど引き上げれば良いのですよ。国会議員の先生も、給与が上がって、気分が良いでしょうし、国も増収となって、まさに、ウインウインというやつですよ。

国民だって、みんな賛成しますから。良いことづくしの政策ってなもんですよ。大岡政談の三者一両損ならぬ、三者一両得と言ったもんですだよ。

要は、国会議員先生と呼ばれている人達のヤル気の問題ですよ。

 

ちょっとボヤキ話にそれてしまいました。相済みません。話を戻します。

とにかく、日本人は桜の花と宴会のコラボが大好きなようですな。これに、マスメディアがここぞとばかり油を注ぐから、もう、いたる所で、近所の人々の大迷惑をものともせず、お花見のドンチャン騒ぎですわ。

ところが、宴の後のゴミ処理・掃除が大変なようですな。マスメディアは、油を注いで、思いっきり乗せておきながら、終わればすぐに、後始末のマナーの悪さを報じるのですから。マスコミ、大清掃団を組織して、花見後の清掃活動をして、その実況を放映してはどうです。マナーの悪い人を追っかけ回す画像ばかり放映しないでさ。さんざ乗せた罪滅ぼしと言うものですよ。ホンマ。

 

それから、政府もですよ。外国から観光客を呼び寄せようと、やたら積極策を講じていますなー。

沢山の外国の方々が観光にいらっしゃるのは、大変有難い事かも知れませんが、ここにはもっと深いマナーの問題の発生していることを、よもや国会議員の先生達、ご存じないとは言わせませんよ。

観光地では、何処此処構わず、私有地に入り込むし、小路でタチションする人もいるし、車道と歩道の区別なく歩き回るし、とんだ無法状態ですよ。とにかく、この点についての、警察の取り締まりが、不徹底で、極めて甘くは御座いませんか。

だいたい、外国観光客相手に儲けがある人達は、それだけ利益が得られるから、多少のことは眼をつぶるのでしょうが、そうでない日本人は、旅行へ行っても外国人観光客が多過ぎて、なんも楽しくないと、取り止める人も結講いますよ。

花見では、桜の枝を引っ張るし、中には枝を折る人もいますよ。酔っぱらった日本人もちょいちょいやっているようですが。

 

政府は、呼び寄せるだけ呼び寄せて、その管理をしっかりやらないのだから、たまったものでは、御座いませんよ。

外国人の方も、ほっとかれて、困惑する事が多いと思われますよ。マナーの指導とか、通訳とか、基本的やるべきことを、シッカリ整える必要のある事は、申す迄もない事ですよ。

オリンピックは、もう直きですよ。

あの担当大臣、本当に大丈夫かね。前言撤回すれば、それで無かった事になる訳では、御座いませんよ。ホント。

 

行き着く所は、お決まりの小言幸兵衛でやんす。

どうも、お疲れ様で御座いました。

またのお越しをお待ち申し上げます。

 

 

お後がよろしいようで

《停念堂閑記》99

「日比憐休独偏記」30

 

「お医者樣のお仕事」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。大歓迎で御座いますよ。

と申しましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題のもとに日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情の方、このような方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、ヒマ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

今日の視点は、小言幸兵衛で参りますよ。

小言は、長生き最大の糧。ヒマじじーの趣味なのですよ。

さー、ご一緒にストレス解消に励みましょう。

 

さて、本日のヒマ潰しのテーマは、“お医者様のお仕事”と言うことにしますよ。

それでは、行き当たりバッタリで参りますよ。

バッタリ倒れて、お医者様に見放された時が、話の終りの時ですからね。

 

時々思うことがあるのですが、一般的に言って、お医者さんは、病んでいる人の病気を直す職業についておられる方ですよね。

この病んでいる人が、お医者さんに、病気を直して下さい、と依頼して来た時に、お医者さんは、わたし失敗しないから、と言うかどうかは別として、持てる知識、技量を尽くして、直すことに専念することになりますよね。

これは、先にお断りしたように、病人当人から、その病気を直して下さい、と言う依頼があった場合に、お医者様は、このように対処することになる、と言うことですよね。

弁護士さんも、弁護の依頼があって、そこから弁護活動を開始することになるのですよね。依頼されていないのに、どこぞへ勝手に押し掛けて行って、その人の承諾も無しに、知らない人の弁護を始める弁護士さんがいたら、珍しいことですよね。尤も、ドラマチックな特別な事情でもあれば別ですがね。通常、弁護士さんは、頼まれもしない弁護活動はしませんよ。

お坊さんだってね。全然知らない方が、まさにご臨終を迎えると言う事態の病室の前で、頼まれもしないのに待機している、なんて事は、御座いませんよね。

頼みもしないのに、勝手にやって来るのは、警察ぐらいですよ。場合によっては、有無を言わさず、踏み込んで来ますからね。

 

ところで、お医者さんの場合、これが、依頼が無かった場合には、どうなるのでしょうかね?

と言う疑問が湧くのですよ。ヒマなもんですから。

例えば、交通事故が発生し、大怪我をして意識不明に陥っている人が、病院に救急車で搬送されて来た。本人は意識がないから、治療の依頼なんかできませんよ。

そして、本人の家族、親族、友人などの関係者が明らかでない場合がありますよ。

このような場合、日本社会の通例では、病院がこの怪我人を受け付ければ、担当の医師が、状況に合わせた適切な処置を講ずることになるでしょうな。至極当然のことですね。

この場合、病院、医師は、当の負傷者、或はその身内、知人等から、治療を施して貰いたいと言う、依頼を受けた訳では御座いませんな。

しかし、病院、医師等は、生命を取り留めようと、適切な治療に当たるでしょうな。

何故、病院、医師等は、依頼されたわけでもないのに、治療に当たるのでしょうかね。

これは、こう言う場合は、誰に依頼された訳ではないが、病院、医師等の当然の職務として、治療に当たらなければならないとする社会通念が確立しているからなのでしょうね。

どうして、そのようになったのかと言うと、そのようにする事を可とする人々が、圧倒的に多数だからでしょうね。

なぜ、そうなのか、と言うと、要は、人間として、人道的立場からそうすべきとする人々が圧倒に多数だからでしょうね。

 

要するに、医師たる者は、病人から治療の依頼があった場合、依頼がなくても交通事故等突発的なことにより負傷者がでたならば、負傷者当人およびその家族等身内や知人からの依頼が無くとも、当該負傷者の治療に当たらなければならない立場におかれていますな。

しかし、お医者樣だって、人間ですし、色々事情がおありでしょから、時に、依頼されても、その依頼を受け入れられない、或は、受け入れたくない場合もあるでしょうね。

このような場合は、幾分、ややこしくなる場合がありますよね。

 

例えば、現状でも発生しているのでしょうね。以前からマスメディアなどで、よく取り上げられていた事象として、病院による救急車の受け入れ拒絶・タライ回しの問題がありますね。

 

小生も、その事例を目の当たりにしたことが御座いますよ。

と言いますのは、ご近所の家に救急車がやって来たのですよ。何事かと、近くで見ていたのですが、急病だったのでしょうね。直に患者さんが救急車に載せられましたよ。

ところが、救急車がなかなか発車しないのですよ。どうしたことか、と見ておりましたところ、救急隊員の方が、一所懸命にあちこちの病院に電話をしまくっているのですよ。

お判りのとおり、受け入れてくれる病院を捜しているのですよ。これが、なんと約40分ほど続き、漸く救急車が何処かに向かい発車しましたよ。

病院による救急車の受け入れ拒否、タライ回しについては、テレビで取り上げられているのを見たことが御座いましたが、その現場をまざまざ見ることになりましたね。

救急の患者さんを載っけても、救急車は出発出来ない現実があるのですよ。これ、救急車と言えるのですかね。

病院の救急車受け入れ拒絶の理由は、色々とあるのでしょうね。きっと、救急患者さんの命が懸っていても、拒絶しなければならない特別の事情がおありなのでしょうね。

病院、医師は、とにかく万難を排して、治療の依頼を受けた患者さんには、全力で対処するのが使命であろう、と思っていたのとは、全く方向違いの現実がありますね。

 

ここで、目下テレビをはじめとするマスメディアで、話題となっているとある病院で、透析治療の依頼を申し出た患者さんに、担当の医師が治療にあたって、透析を希望する選択と共に、透析をしない選択もある、と言うことを告げて、患者さんにどちらかを選択させた。その患者さんは、透析しない方を選択したので、透析治療が行われなかった。この後、日をおかず当該患者さんは死亡した、と言うことで、この医師及び病院のこの対応を巡って、是非の議論が巻き起こっているようです。

勿論、これは、メディアを通して得た情報で、小生が自ら関係方面の調査を実施して得た情報では、御座いませんので、事実の細部については、十分に把握出来ていない事を明記しておかなくてはなりません。

従って、重要な部分に関る事実を明確に把握出来てはおりません。

この事に関するメディアによる報道で、幾つかの問題点が指摘されております。

その最も問題となっている点は、病院とその所属医師が、透析を希望する選択と共に、透析をしない選択もある、と言うことを患者さんに告げて、患者さんにどちらかを選択させた、と言う点ですね。

もっとも、今後の展開で、異なる事実が発覚する可能性が無いでは無いことは、申すまでも御座いませんが。

 

と言う次第で、ここでは、この事実関係の検証をすることは致しません。

ここでは、社会における想定が可能な一つの出来事として、病院とその所属医師が、透析を希望する選択と共に、透析をしない選択もあることを患者さんに告げて、その選択を求めることの是非について、見てみようと言う次第です。

あくまでも、想定した課題についての一般的な、いわば病院や医師に関る“常識”について、ちょっとだけ垣間見ようという位のことであります。

結論的に言えば、万民が了解する正解に辿り着けるか否かは、全く不明な、極めて難しい要素を含む問題に属する事と言えるでしょうから、これが正解と言う結論を得なければならない事態でも御座いません。答は、各人個々の判断による他ないのか、と言う風にも思われます。

 

さて、出来るだけ問題点を単純化して、判り良い方向で見て行くことにしましょう。

ここに、腎臓を煩い、人工透析をしなければ、生命を維持する事が困難な状態のAさんが存在します。もう、15年間も透析を続け、年齢も79歳になっています。そして、循環器の疾患もあり、消化器の調子も思わしくありません。常に疲れ勝ちで、時に、激しい痛みを伴います。さらに、足腰も悪くなり、自分の体力だけでは、自分の身の回りの事すら行えず、自力では透析を受けに、通院することも出来ません。息子65歳とその嫁61才の世話を受けて、これまで毎週2回の透析を続けて来ました。 

ところが、この度、息子が交通事故を起こし、死亡してしまいました。経済的事情から、車の任意保険、傷害保険、生命保険等には加入しておりませんでした。従って、事故死に対しての保険金はありませんでした。これまでは、息子の勤める会社の社宅に住んでいましたが、これからは、ここを出て別に住居を捜さなくてはならなくなり、知合いの紹介で、嫁と共に、転居しました。

そしたら、今迄透析に通っていた病院も替えなくてはならなくなり、嫁は車の運転が出来ないので、タクシーを利用して通院しなくてはならなくなり、息子の死亡によって、収入がすごく少なくなったので、経済的にも著しく苦しい事態となりました。

このような状態で、病院へ行って、担当医に事情を話したところ、その医師は、透析をして欲しいと言うのであれば、希望どおり透析治療を致しますよ。しかし、透析をしないと言う選択肢もありますよ。そのあたりの事を良く考えてみてはいかがでしょうか。

とりあえず、今日は、透析をして、この次ぎまでに、良く考えて来て下さい。と言うことになって、その日は帰宅したのです。

帰宅しても、常にベットに横たわってなければならない状態で、自分の身の周りの事も、自分では出来ないので、一切嫁の世話になっている状態です。

このまま嫁に世話を掛け続けるのは忍びない。また、透析を続けて、生き長らえてはいるが、ベットに横たわっているだけの状態を維持し続けることに意味があるのか。などなど、色々と考えた末に、Aさんは覚悟を決めて、透析中止を決断しました。そして、次回、病院へ行き、透析中止の決断を担当医に告げました。

担当医は、透析を中止すると言う事は、どう言う事か、判っていますか。その上の決断ですか、と問うて来たので、覚悟の上であると、返答した。

この結果、透析は中止となり、間もなく、Aさんは死亡しました。

 

 

概ねこのような事柄を想定して、この医師の透析続行の他に、中止と言う選択肢もありますよ。と言う提案の是非について、どのように考えるかと言う事について、みていくことにしょましょう。

 

純化すれば、是か非か、どちらだ、と言う問いですが、問題を一般化すれば、人間個々人の生命の管理をどのようにすべきか、と言うことに置き換えて、考えることが出来るのではなかろうかと思われるのですが、如何なものでしょうかね。

 

すなわち、手っ取り早く判り易く言えば、個人の生命を誰が管理することになるのか、と言うことですわ。

 

この点について、すぐに思いつくことは、個人の命は、その人のものであることに決まっている。すなわち、個人の生命は、その個人自身が管理すべきものである。これが、人の生命の管理に関する基本である。と言うことが、“常識”的に考えられますなー。私も、判らない部分を残しながらも、このように考えるのが基本のような気がしますねー。

いきなり知らない他人がやって来て、お前の命の管理権は、オレが握っている。おまえを生かそうが、殺そうがオレの判断次第だ。なんて、言われたら、こりゃーてーへんでっせ。

但し、自己の生命を自身で、上手く管理出来ない場合があります。たとえば、幼児に自身の生命の管理をせよ、と言っても、これには無理の部分がありますね。あるいは、突発的な事故に遭遇して、意識不明の状態に陥ってしまった場合など、当人自身で自己の生命に関する管理が不可能となりますね。

すなわち、自己の生命の管理が、自身で出来ない場合は、代わって、誰かがその人の生命の管理に当たらなければならないと言う事態も存在するわけです。

このような事態の場合は、その状況に最適な方法をとらざるを得ない訳です。

事態によって、色々な対策が必要ですね。

しかし、この場合においても、個人の生命の管理権は、その人自身にあると言う原則は存在しています。だから、代理人が全て好き勝手出来ると言う事態では御座いませんな。

たとえば、幼児の場合は、一般的には親が管理を代行する立場にありますが、では親が、子供の生命管理について、何でも勝手に代行できるのか、と言うとそうでは御座いませんな。だから、躾と称して、子供を虐待したりすると、司法が介入して、加害者に処罰を課するシステムが作られていますね。

突発的な事故による意識不明者を見つけて場合には、見つけた人は、警察に通報したり、救急車の手配などをしなくてはならない義務を負うことになってますね。したがって、これを怠った場合には、司法によって然るべき対処がなされますな。時に、死体遺棄なんという、責任を取らなくてはならなくなったりする事も御座いますな。直に、救急車を手配すれば、命を取り留められたかも知れない可能性があったかも知れませんのでね。このような場合は、その発見者が、他人の生命を管理する立場におかれていた、となるわけですね。

このように、自身で自身の生命を管理し切れない場合が、多々あるわけですが、どの場合においても、個人の生命の管理権は、その人自身にあると言う原則は曲げられないと考えられますね。

 

話を本題に戻します。

この生命管理に関する基本原則を前提にした場合、人工透析の続行、中止の判断の決定権は、まずは、患者本人にある事は明白ですね。

ですから、当の本人が続行を望めば、病院へ行って透析を受ければ良いわけであるし、もう、透析を受けないと決断した場合には、病院へ行かなければ良い、と言うことになりますね。

この患者自身の判断については、論理的に矛盾は無いと思われますが、しかし、人間自分一人で存在しているものでは御座いませんので、いわば社会的ないろいろな要素が絡んで存在している訳ですな。

例えば、自身が透析中止を決断した場合、まずは、夫婦、親子関係者が、異議を唱えて介入してくる可能性がありますね。この場合は、結論的には、関係者を交えて良く話合い、なお続行するなり、中止するなりの決断を導くより御座いませんな。介入者がさらに広く親族、友人、知人などを含む場合も、同様に話合いにより結果を導くほか御座いませんな。

さて、話の本題では、これに病院とその医師が関っている事態を想定している訳です。

すなわち、病院、医師は、患者から治療の依頼があった場合は、通常、依頼を受け入れて、治療に万全を払う。と言うのが、常識的判断だと思われます。

また、患者からの依頼が無かった場合は、特殊な事情が無い限り、医療行為は発生しないことになりますね。

ところが、今迄、人工透析を続けてきた患者が、予定の予約日・時刻に来院しなかった場合、病院・医師はどのように対応すべきか、と言う問題が御座いますね。

問題を判り易くする為に、単純化した対応策を列記することにします。

  • 放置する。
  • 通院して来ていない事情を電話で問い合わせる。
  • 迎えに行く。

いずれが、この話のテーマとなっている“お医者様のお仕事”として、正解と言うべきでしょうか。

どれも、現実問題として、取り得るか可能性がありそうですね。

結局のところは、それぞれ個人の好みや価値観によって、答が変わる可能性があるのでしょうね。

それでは、次の事例に移ります。

 

ある日、来院した患者から、人工透析をすべきか、否かの相談を受けた医師がいる。この時の医師の対応は、どうあるべきなのでしょうか。

A 患者に、透析することを勧める。

B 透析をするか、しないかについての選択肢のあることを、患者に提示し、そ

 の選択権は、患者側にあるので、良く考えて、どちらの選択も可能であるこ

 とを良く説明して、一旦帰宅させる。

C 医師は、透析を受ける、受けないの選択権が患者にあることを提示して、患

 者が、熟考の末、透析を受けない選択をしたので、それを受け入れ、透析を

 しないこととした。

Aは、従来、医師として当然と思われて来た対応といえるでしょうね。

Bは、透析を受ける選択の他に、受けない選択肢もあることを告げ、熟考して決断するに必要な時間を与えたと言う対応であり、受けない選択肢もあることを提示した、と言うところに特徴がある対応の仕方ですね。

Cは、受けない選択肢もあることを患者に提示して、その場で、患者が受けない意思表示をしたので、医師はその選択を受け入れた、と言う特徴がある対応ですね。

皆さんは、どれをもって正解としますか。

 

ようするに、ここで問題となるのは、人工透析をしない選択肢のある事を患者に提示することが、“お医者様のお仕事”として、是か非かと言う事です。

一般的に、ある事についての判断が必要とされる場面において、それに関る専門家が、複数の選択肢を示して、そのどれかの選択に当たらせる場面は、普通にあることですね。

しかし、“お医者様のお仕事”は、患者さんの生命に直接関る場合がありますので、その対応により一層の慎重さが求められる訳ですね。

そこで、出て来るのが、“お医者様のお仕事”は、患者さんの生命を維持する事を前提とし、治療に当たることを旨とするものであり、直接、死に繋がるような方向の決断を患者に求めるべきではない。すなわち、医師たる者が、透析を受けない選択肢を提示するような行為をしてはならない、と言う意見がありますね。

これに対して、社会一般に、事を執行するに当たって、明示された色々な選択肢から、当事者がどれかを選択する手法は、悪い事とは言えない。また、当事者は、示された選択肢の中から、特定のものを選択する権利がある。とする意見もある様です。

中々難しい判断に迫られるわけですが、皆さんはどのように考えますか。

今迄、人工透析を継続して来た患者が、透析を中止する、と言い出した時に、どう対応すべきか、と言う問題ですね。

お医者様は、まずは、中止を決断した事情を明確に把握する必要があるでしょうね。

事情は、一様ではないでしょうから、現実的に個々のケースにより対処しなくてはならないでしょうね。

無理を承知の上、大雑把に一般化すれば、まず、考えられる事は、患者さん自身が、もう生きていたくない、もはや生への意欲を喪失してしまった、と言う事情の発生が想定されますね。

何故そう言うことに至ったか、と言うと、個々の事情がありますね。

例えば、

1 持病があって、激しい痛みがあり、日々激痛に悩まされるばかりであり、目下改善

 の見通しがない。この状態でも透析を続けなければならないのか、極めて疑問であ 

 る。

2 生きている意義が何ら感じられない心境になっている。こんな状態でも、死ぬまで

 透析を続けなくてはならないものかと、苦痛にかられている。

3 周囲の人に、介護を求めなくてはならず、極めて心苦しい。この苦痛から早

く解放されたい心境にある。

これらは、患者個人の有する問題である。

他に、

A 介護に当たる人々が、もう限界にきていて、この手だてがつかない事態にい 

  たっている。

B あるいは、社会的に何ら役に立てない存在となっている。にも、拘わらず、

 多額の経費を税金から負担して貰っていることに、気が引けて堪え難い心境になって いる。

C 経済的に、極めて苦しい事情にある。これ以上の負担が無理となっている。

などなど、色々な事情が考えられますな。

色々な事情によって、患者自身が、人工透析の中止を決断した場合には、病院・医師側の対応は問われることは無いでしょね。これは、患者さんの生命の管理りについて、患者さん自身が下した結論ですから、部外者には、直接関係が発生することは、無いと考えられますね。従って、これは、“お医者様のお仕事”に、直接関ることでは御座いませんな。

ところが、上記1〜Cの事情により、人工透析の継続の是非を相談された場合に、医師が、中止の選択肢のあることを助言して良いか、どうか、と言う判断は中々難しい要素を含んでいる様です。

このような場合に、中止の判断を提示することが、“お医者様のお仕事”として、是か非かと言う課題ですね。

皆さんの判断は、どうでしょうか。

アンケートを取った結果では御座いませんが、医師たる者は、いかなる条件下においても、この様な生命の維持から遠のく選択肢を患者に提示してはならない、と言うのが、医師のいわば“常識”である、とする医師が多いのではないのか、と言う気がしますね。

例えば、上記1・2・3およびBなどに関しては、透析を専門とされている医師は、このような相談内容については、あるいは、あまり得意な分野とは言えない場合もあろうか、とも思われますね。

このような事態の場合は、例えば、精神科の専門医の受診を助言するとか、このような悩みを持つ人との応対に長じているボランティアさんやNPOなどがあるでしょうから、そちらへの相談の助言をするとか、色々対策があるかとも思われますね。

また、上記Aの事態に対処するには、自治体のサービスやこれもボランティアさんやNPOの支援を受けることができるかも知れないので、その助言をする方向が望ましいのでしょうね。

更に、Cの場合も、国や地方自治体による支援策が実施されているでしょうから、その方面への相談の助言もあって、然るべきと思われますね。

とにかく、病院・医師は、毎日毎日、人の命と向き合わなければならない立場にあるのでしょうから、一歩誤ると取り返しのつかない事態となり兼ねませんので、責任は重大ですね。

そして、お医者様は、とにかく、毎日毎日すごくご多忙のことが多いようですね。ですから、専門外の患者の相談に、十分な時間を割く事が難しい実情もあるようです。医師の働き方改革は、どのようになっているのでしょうか。おそらく掛け声だけではないのでしょうか。

医師数の少ないことが、これまでずーっと問題視されていますね。毎回のように、国会で取り上げられている問題ですが、政府の対応は、いつも誠意取り組んでいる。対策を考えている、とような答弁ですが、一向に事態を打開する対策は、出てきてませんな。

国会議員と呼ばれている先生方には、人の生命は随分遠くにある存在のように見受けられますね。専らの関心は、次回の国政選挙でどのようにしたら当選出来るか、と言う、党利党略、私利私欲的立場からの政策ばかり追っかけているように見えますなー。口では、国民向けに耳触りの良いことを、おっしゃいますが、本当のところは何を考えて、何をやろうとしているのか、実際のところは極めて見えにくいことだらけですね。

各担当の大臣も、なんでこのような人が任命されるのか、残念としいか思われない人事が、いつも至極当り前のように、行われていますな。大臣の任命は、総理大臣の専権事項であるとか。何だか、国政に関る極めて重要な事が、総理大臣に私物化されている側面を有する制度のようにも見えますなー。

果たして、これが民主主義的にベストな制度なのでしょうかねー。

 

だんだん話がそれて、愚痴っぽくなってしまいましたが、“お医者様のお仕事は”申すに及ばず、人々の命を救う方向で行われることが、まずは大事な事なのではないか、と言うことは言えそうですね。この方向で、頑張って貰いたいと切望する次第ですね。

 

人工透析の継続か中止かに関る判断についての“お医者様のお仕事”についてが、今回の話の主テーマでしたが、結論らしい結論には、中々達することが難しいと言うことが、再確認されただけですなー。面目御座いませんが・・・。

 

もっとも、人工透析の継続か中止かに関る問題だけではなく、例えば、今現在となっては、その仕法が安定して来たと認識すべきなのか、脳死の判定についての議論が、マスメディアなどで聞かれなくなってきましたね。

呼吸をしている、脈もある、触れば体温も普通に感じられる、でも、脳の反応がなくなっている、だから、この人は死んでいる、と言われても、なかなか納得しづらい状況はまだ続いているようにも、感じられないこともありませんな。

単独医師の判定では、誤りがあってはならないことであるから、必ず数名の判定団が組織されて、慎重の上に慎重を期して、絶対に誤りをしない段取りを付けた上で、死亡の判定を下す、と言う方法が取られているものと思われます。

にもかかわず、脳死判定を受けた人の意識が戻った例はないのですかね。もしも、あったら、それはそれは大変なことですよね。

と言う事で、安直にネットで検索しましたところ、脳死判定の後、意識を回復した例はあるのですね。驚きますね。責任は、どのようになるのですかね。

脳死判定後、直ちに、当該臓器が移植希望者に、移植されたとなれば、脳死の判定の正否を確認する事は、万事休すの事態ですよね。

 

ちょつと、性格がことなりますが、後に、最高裁の有罪判決が覆った例は、時々ありますね。死刑が執行された後に、新事実が明きらとなって、判決が誤っていた。冤罪であった。なんてなると、取り返しがつきませんよね。

裁判の判決の場合は、最終的には、担当裁判官による多数決によるのでしょうね。これ以外の良法が考えられいないので、このような方法がとられているのでしょうね。

 

これが、脳死判定の場合も、最終判定を出す場合に、多数決であったとしたら、これはエライ事のように思われますね。まさかね、そんな事は御座いませんよね。厳格な脳死の判断基準があって、それに間違いなく、適合するか否かを数名の専門医により、慎重に、検証されて、絶対に誤りが無いことを確認して、ようやく脳死の判定が下されるのでしょうね。

しかし、それにも拘わらず誤判定が発生しているのであるから、どうしたものでしょうね。

ただ、他方では、一刻も早い臓器の移植に生死が懸かっている患者さんもおられます。

かといって、脳死判定に間違いが生ずることは、絶対に赦されないことですから、これは、どうすれば良いのでしょうね。

 

万が一にも、脳死の判定後に、蘇生した場合には、その責任は、どうなるのでしょうね。

 

その点、民主主義は、良く出来てますね。国民の有権者から選出された国会議員と呼ばれる方々が、政策に大きなミスをおかし、結果、国民に多大な損害を与える事になった場合、そのミスを犯した人たちは、直接的に責任を問われ、法で裁かれることは御座いませんね。

結論的には、その責任は、国民全体にある、とされているのでしょうね。と言う事は、責任が国民に分散されていて,結局のところは、責任が問われないことになる。と言う状態になっているのですね。

精々、国会を解散して、国政選挙でその責任を国民に問うと言うことくらいしか、裁かれる機会は御座いませんな。

国会が解散となった時、解散しなければならなくなった責任を問われた前国会議員さんは、間違いなく、次ぎの選挙で、国民の審判を仰ぐ。落選したら、タダの人となる。それが政治家としての責任の取り方である、とおっしゃいますな。

落選したら、タダの人になるのだって。と言うことは、落選しなかった場合は、タダの人ではない。国民が納めた税金の使いみちを決定できる、偉い存在なのだ。と言う、特権意識の人となるのですなー。何処へ行っても、先生、先生と持ち上げられる存在なのだ、と言う意識なのでしょうね。

何度か当選すれば、順番が回って来て、大臣樣ですからね。

国会の大臣の答弁も、以前は、質問を予め伝えてもらっていて、その答弁をぬかりなく官僚が作成し、会議の場では、大臣がそれを読み上げる。と言う形式で行われていましたね。国会は、もはやセリフが整えられているお芝居でしたね。時に、それで間に合わない事態になった時には、官僚が代わって答弁に当たっていましたね。これが当り前で通っていた時代が長く御座いまたな。

今も、官僚に代弁させる場面がよくありますけれどね。

また、質問の意味も判らない大臣がいて、窮して官僚の耳打ちで答弁をしてみたものの、頓珍漢な答弁で、挙げ句の果てに、その点に詳しい官僚がいるので、それに詳しく説明させようか、などと言い出す大臣が出現して、国会で笑いをとって、賑わいを見せた大臣がいましたね。

 

もう亡くなられて久しいですが、クレイジー キャッツの植木等さんが、“サラリーマンは、気楽な家業ときたもんだ”とやっていましたが、もし、今の時代に居たら、“大臣さんは、気楽な家業ときたもんだ”と、やってくれたでしょうな。

言わずもがな、小生なんざー、生まれて以来七十年余り、ずーっと、タダの人ですよ。タダですから、金銭に換算すれば、0円ですよ。0は、底なしで、幾ら重ねても、0は0ですからね。ナサケネー。アーア、と。

 

この辺りが、バッタリの潮時です。

同じ事をクドクドと、どうも申し訳御座いません。

タダの愚痴ジジーの独り言であります。どうぞ御海容のほどを。

少しは、ヒマ潰しになったでしょうか。

どうもお疲れ様で御座いました。またのお越しをお待ち申し上げます。

 

お後がよろしいようで

《停念堂閑記》98

「日比憐休独偏記」29

 

「嗚呼!“常識”」

  

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じ上げませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。大歓迎で御座いますよ。

と申しましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますれば、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めまして、サー今日一日、どのように過ごすか、生きて行くか。と言う難題のもとに日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を生きなくてはならない、と言う宿命のもとに、とにかく惰性でと申しましょか、とりあえず生き長らえておられる方、このような方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。ヒマ潰しになりますよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない、笑い話で御座います。深刻でないところが、取り得ですよ。

夜、寝られなくなったりしませんからね。

もー、聞いてすぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、ヒマ!

A A O!  エイエイ、オー!

 

ヒマ潰しとは申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

今日の視点は、小言幸兵衛で参りますよ。

小言は、年寄りの日々の楽しみ。オオゴトには取り組みませんよ。

何かに付けて、ゴタゴタ、ゴチャゴチャ、ブツクサ言ってやりましょう。

さー、御一緒にストレス解消に励みましょう。

蛇足ながら、ストレスの解消は、ストレス発生の根源を見つけ出し、それを排除することが肝心だと思います。

判り易いように、単純化して見ますと、一般的に、ストレスの根源がストレスを感ずる自己・本人にある場合、自己・本人以外の他者にある場合、自己・本人と他者の双方にある場合の3パターンが考えられますな。

あるストレス発生の根源が、そのストレスを感じている本人にある場合は、これは、論理としては、当の本人がストレスを感じないような性格に変わる以外に方法が御座いませんな。

よく見られるケースですが、特定の同環境にいながら、Aさんは溌剌と活動している。かと思えば、Bさんは、面白いのか面白くないのか判らないが、普通の活動を続けている。ところが、Cさんは不満タラタラで、その捌け口もなく、悶々とストレスを溜め込んでいる。

このような状況の場合は、一概に環境に問題有り、とは言えず、それぞれの個体の性格に問題があるのではないのか、と言うことが考えられますな。

従って、この場合 、Cさんは、自己の性格の改変に取り組む必要が感じられますな。

すなわち、ストレスの根源が自己・本人にある場合は、その本人がストレスを感じない性格に変わるよりない、と言うことですな。

一方、ストレスの根源が他者にある場合は、その他者を排除したり、改変させなければならない、と言うことになりますな。

しかし、これは自己・本人の意識改変とは異なり、現実的には、多くの場合、他者を排除したり、改変させると言う事は、中々容易な事ではありませんな。

特に、当該他者が単体ではなく、複合体の場合、たとえば「会社」だったり、ひっくり返った「社会」の場合などは、その排除や改変は、相当無理だと言うより御座いませんな。

もっとも、「会社」・「社会」が、より多数の方々にストレスを感じさせないように努力する事は、申す迄も御座いませんよ。

 

と言うことで、ストレス解消は、現実的には、自己・本人の意識改変を図るより手っ取り早い適当な方法が見当たりませんな。他者に期待しても、中々思い通りに進めることは、容易では御座いません。

そこで、自己・本人の意識改変と言うことになりますが、これに効果的なとっておきの情報を、本日は特別に、お教え致しましょう。本日(本日は常に存在しますが)限定でお教えしましょう。

特段難しいことは、全然御座いませんよ。

偏見と独断で甚だ申し訳御座いませんが、ただ、「停念堂閑記」を開いて頂く、これだけで、いいのですよ。

これ、“常識”ですよ。???

 

 

と言うことで、本日のヒマ潰しのテーマ、“常識”に、漸く到達いたしました。本日のヒマ潰しのネタは、“常識”と言うことに決定。

 

それでは、行き当たりバッタリで参りますよ。

バッタリ倒れて、皆様に見放された時が、この話の終りの時ですからね。

4649! 四六四九! ヨロシク! 

低次元的ダジャレでこざんす。面目ござんせん。 

 

 

時に、今時の“常識”とは、どういうことなのかなー、なんて思ったりすること御座いませんか。

テレビを見ていて、もはや自分の“常識”に、地震、いや自身、いやいや自信が無くなる思いをすることは、御座いませんか ?

 

そもそも、“常識”ったー、なんだ ? と言うことになるとですね。

私の凡人的“常識”では、ですよ。

誰しもが、「これは、こういうものだ」、と認識していることではないのかなー。なんて、思うのですよ。

いきなり、「誰しも」の「誰」とは、ダレだ ? なんて聞かないで下さいよ。

スタート時点で、いきなりコケてしまいますからね。

まー、言ってしまえば、誰でもいいのですよ。要するに、日常普通にその辺におられる、一般の人々ですよ。あえて申させて頂けますならば、いちいち屁理屈を捏ねない、甘い物を甘いと感じ、辛い物を辛いと感じ、それを甘いよー、辛いよー、と素直に表現出来る御方ですよ。これが、ここで言うところの「誰でも」に相応しい正体と言うことにしたいのですよ。

何でも彼でも、いちいち突っかかってくる、“非常識”な方ではない、素直な御方のことですよ。でないと、話が前に進みませんから。

エッ! 進まなくても良いではないかって、ですか。

そりゃーまー、何が何でも進まなくてはならないと言う、法律がある訳では御座いませんし、どうしても、進めなければならない、と言うような、緊急・重要な意味を有する訳でも、御座いませんので、進まなくても、一向に差し支えはないのですが、それでは、ヒマ潰しにならないので、この視点からは、進めた方が良いのですよ。と言うことで、進めさせて頂く事に致しますよ。

 

さて、“常識”とは、一般的には、義務教育レベルで学んだ知識や世間を渡って行く時に必要とされる、誰しもが「それはそう言うものだよ」と認識している事柄と言うことが出来るのではないでしょうか。

別の表現をすれば、誰しもが当り前、当然の事だよ、と思っている事柄と言えるでしょうな。

明らかに変わった方々、すなわち偏屈者の“常識”ではなく、平均的な極めて平凡な一般人の “常識”と言うものですよ。

そんなこと、いちいち改めて言われなくとも、判ってるよー、ですって。そんなこと“常識”だよって、ですか。

そーです。そーです、“常識”ですよ。

他にも、色々な視点から、色々なご意見も御座いましょうが、ここのヒマ潰しの場では、こう言うことにして、話を進めたいと思うのですよ。

 

さて、“常識”とは、義務教育レベルで学んだ知識と一言で言ってもですね、これがみんな同じかと言うと、そうとは限らないところが御座いますよ。これ“常識”ですよ。きっと。

年齢によって、学校教育で学んだ内容が、同じでは御座いませんからね。

私事で恐縮で御座いますが、終戦間もない、昭和25年に小学校に入学し、せっせと学校には行きましたので、何とか落第はせず、同34年3月に、中学校を卒業し、義務教育の課程を終えました。したがって、小生のここで言う義務教育で学んだ知識的“常識”の正体は、昭和25年から同34年頃にかけて、小・中学校で学んだ事柄となる訳ですよ。

ところが、この時期には、私にはちゃんと勉強して、立派な常識人になろうなんて言う意識は、全く無かったと言って、良いようです。自慢する訳では御座いませんがね。このような意識で勉強した記憶なんか、とんと御座いませんから。学校では、授業時間中は、座席について、何となく先生の話を聞いてはいましたよ。きっと。

だけど、頭の中は、速く授業終了のベルよ鳴れ、休憩時間に、放課後に、なして遊ぼうか、と言うことくらいしか考えていなかったでしょうな。

だいたい大人になったら何になりたいと言う明確な目的的な意志はあまり無かったと思いますな。専ら眼前の楽しみが最大の関心事だったように思いますよ。

したがって、“常識”に繋がる知識獲得とは、ほど遠い存在にあったことは確かで、結果的に知識は乏しい部類に属する存在になったと思われますな。

まー、大雑把に言うならば、義務教育での知識の収得率は、おまけして50%と言ったくらいですかね。習ったことの半分くらいは、なんとか身に付いたというあたりではないでしょうか。大目に見てですよ。自己には甘く、大いに贔屓目に見てですよ。

 

しかし、ですね。こうして身に着けた義務教育による知識的“常識”ですが、これが、その後の度重なる文部省・文部科学省による教育課程の改変によって、その内容は随分変わって来ていることでしょうね。

1+1=2と言うことは変わっていないでしょうが、私らの習わなかった新知識が、沢山盛り込まれているのでしょうな。かつて得た小生の“常識”的知識は、もうすっかり“非常識”と化してしまった部分も多いのでしょうなー。たまりまへんなー。ほんま。とても、“常識人面”している場合ではないのかも知れませんなー。やばいよ。

そして、これに高校で5%くらい、大学でまた、5%ほど上乗せし、なんとか、一般人の60%くらいの知識的“常識”を獲得したのではないのかなー、なんて思いたいものですよ。自己贔屓すぎます?

まー、まー、すれすれで合格としてもらえませんかねー。

エッ、ヤッパリ駄目! 現実は、厳しいネー。

 

知識的な“常識”はこれくらいにさせてもらうことにしまして、世間を渡って行く時に必要とされる、誰しもが「それはそう言うものだよ」と認識する“常識”(ここでは、“世渡り的常識”と称させて頂きます。)に話を移して参りますよ。

と申しましても、この“世渡り的常識”は、色々な事象について、一様とは参りませんので、ここでは、最近気に掛かっている僅かな局面に関する“世渡り的常識”に限って、見て行くことにしますので、ご了解下さいませ。

 

要するに、義務教育で学んだ知識的“常識”以外の世間を渡って行く時に必要とされる、誰しもが「それはそう言うものだよ」と言う“世渡り的常識”は、知識的“常識”とは、甚だ性格を異にするものであり、何を持って“常識”と判断するかは、中々難しい性格を有するところがあると思われるのですよ。

個々人の性格、価値観、立場などによって、この“世渡り的常識”は、異なりますからね。個々人の性格、価値観、立場などが違えば、ある対象に関する“常識”も一様とは言えない現実があるようですよ。

 

 

ちょうど、先日、水泳のホープ池江璃花子さんが白血病であることを公表したというニュースが流れましたが、このことについて、皆さん一様にびっくりしたことでしょうね。そして、このことについて、池江さんの病状をまず第一に心配され、適切な治療をなさって、とにかく元気になって貰いたい、と願った方々が沢山おられたでしょうね。

このような願いは、“世渡り的常識”としては、全く当然の“常識”中の“常識”ということでしょうね。

ところが、ところが、「金メダル候補で、日本が本当に期待している選手なので、がっかりしている。早く治療に専念して頑張ってもらいたい。また、元気な姿を見たい。1人リードする選手がいると、みんなつられて全体が盛り上がるので、その盛り上がりが若干、 下火にならないか心配している」と言う発言の一部分を切り取られて、話題にされたオリパラ担当大臣さんがいますなー。サイバー担当大臣も兼務している桜田義孝と言う人物ですよ。

この発言は「早く治療に専念して頑張ってもらいたい。また、元気な姿を見たい。」と言ってはいますが、それは池江さんが「金メダル候補で、日本が本当に期待している選手」だから、「1人リードする選手がいると、みんなつられて全体が盛り上がるので、その盛り上がりが若干、 下火にならないか心配している。」と言う見地から発せられたもので、“常識”ある人間的立場から、池江さんの病状について心配いている訳ではないように聞こえる。また、白血病の患者さんに対して、甚だ失礼である、と言うことで問題にされたようですなー。

そして、同様の見地から、「がっかりした」と言う、部分が特に、けしからんとされたようですなー。

池江さんご本人にとっては、命に関る極めて深刻な事態なのですよ。

そこに、金メタルを取れなくなっちゃって、「がっかりした」は無いでしょう、と言うことになるのでしょうなー。

 

このようなタイミングで、国務大臣と言う重職にある人の発言としてあるまじき発言、と言う視点で、メディアが大々的に取り上げたわけですなー。

一般的な“常識”から著しくずれている、と言うことのようですな。

桜田大臣の発言には、色々と望ましからざる前歴がありますから、より一層風当たりが強かった事情もあるのでしょうね。

見方によっては、どうも、非人間的な御祖末極まりない不用意な発言と評されても、あながち致し方ないところがあったのかも知れませんなー。  

皆さんの“常識”的な判断ではどうでしょうか?

 

しかし、一方では、桜田大臣の今回の発言は、何ら問題ないのでは、と言う見方があるようですな。桜田大臣の発言の全体を見れば、池江さん、また、他の白血病の方々に対して、マスメディアが騒ぎ立てるほど、無礼なものではございませんよ。と言うことの様です。小生も、所詮はメディアを通して得た情報ですが、大臣の発言全体を聞けば、特に咎める必要は無いのでは、と言うように感じましたね。

多くのメディアでは、大臣の発言中の「金メダル候補で、日本が本当に期待している選手なので、がっかりしている。」・「1人リードする選手がいると、みんなつられて全体が盛り上がるので、その盛り上がりが若干、 下火にならないか心配している。」と言った部分だけを切り取って、繰り返し繰り返し報道しましたね。

これは、メディアが好んでやる手法の一つです。これは、もはや“常識”と言って、いい手法でしょうな。

不用意な発言をする輩には、社会的制裁を加えなければならない。それがメディアの使命だ。といわんばかりに、毎日毎日、特にいわゆるワイドショーでは、バラエティー要素も加えて、しつこく取り上げていましたね。

しかし、今回の桜田大臣発言に関する、部分的な切取り報道については、対象となるメディアは、多いに反省した方が良いのではないのか、と言う感想をもちますね。

多分、日比憐休の独断と偏見の限りでは、桜田大臣の言動については、常々色々問題ありとすることが多かったようなので、チャンスがあれば、直にやり玉に上げて、とっちめてやらなくては、と言う、メディア側の強い欲求があったのでは無かろうか、と思うのですよ。

 

以前には、サイバー担当大臣なのに、 “バソコンを打った事は無い、云々”、発言、さらにUSBメモリーも知らず、答弁に当たって、官僚さんから耳打ちされて、“穴にいれて使うものらしい、云々”と言うような愚劣極まりない発言をして、国会に嘲笑の渦を巻き起こし、また、今回、国会で、野党議員から「オリンピック憲章」を読んだ事があるか、と言う質問に対して、“「オリンピック憲章」なるものがあると言う話は、聞いた事があるが、読んだことはない。”と悪びれることもなく、恥じ入る様子もなく、平然と答弁していましたなー。ちょっとくらい面目無いと言う素振りでもあれば、僅かながらの可愛げもあろうと言うものの、それがどうした、と言う態度ではねー・・・。

“常識”を疑うよりありませんわなー。

この方「日本国憲法」を読んだ事はあるのかねー。よもや読んだ事も無いのに、改正すべきだ、などと力説しているのではないでしょうなー。

 

ひょっとして、だったりして・・・。

 

余談になりますが、では、お前は読んだ事あるのか、と言われますと、トホホホホー、面目次第も御座いません。

さすがに、読んだことはあるにはあるのですよ。読んだと言うか、見たと言うべきか、その辺りの表現が微妙ではありますがね。大学時代、教員免許を収得しようと、教職課程の授業を受けたのですよ。この時、「憲法」と言う教科が、必修科目であったために、履修しなければならなかったので、ちゃんと履修して単位をもらいましたよ。

と言うことで、この時に「日本国憲法」を読むには読んでいるのですよ。ただし、ちゃんと内容を理解し、記憶に残っているのか、と言うと、これがまさに、トホホホホー、面目次第も御座らぬと相なるわけなのですよ。

しかし、読んだ事があると言うか、見た事があると言うのが正しいのか、その辺は、・・・・ですが、全く無縁であった訳では御座いませんよ。

だからどうだ、と言われると、面目次第も御座らぬとなってしまうのですよ。

 

ところで、話を戻しますが、桜田大臣の国会答弁にかかわり、実に、質問者との間の遣り取りは、もはやコントだ、と評すとあるテレビ番組のコメンテータがいましたね。

桜田大臣は、一般人の“常識”からすれば、そうとうヤバイ感性のお持ちの方のように思われますなー。

 

予算委員会での質疑応答の概要》

質問者の野党議員 「桜田大臣は、パソコンを使えるのか?」

桜田大臣 「パソコンを打った事は無いが、部下に命じてやらせるから、問題

      はない。」(ウソをついてはいないようだ)

 

質問者の野党議員 「原発USBメモリーがあるか?」

・・・桜田大臣、USBメモリーが何なのか知らない様子で、答弁にまごつく。

・・・官僚から、USBメモリーについて、耳打ちがある。

〜 これを受けて、

桜田大臣 「穴に指して使うものらしいが、それについて説明が必要なら、詳  

      しい者がいるから、呼んで説明させようか。」(ウソをついてはい

      ないようだ)

 

質問者の野党議員 「大臣は、オリンピック憲章を読んだことがあるか?」

桜田大臣 「“オリンピック憲章”なるものがあると言う話は、聞いた事がある 

      が、読んだことはない。」(ウソをついてはいないようだ)

・・・その後、翌日・・・

質問者の野党議員 「大臣、今日は、オリンピック憲章を読んできたか?」

桜田大臣 「今日は、読んで来た。」(真相は、判らない)

 

蓮舫議員の五輪の経費についての質問に対して、これには、桜田大臣、官僚から受け取ったカンニングペーパーを見ながら、「1500円」と具体的に答弁しましたよ。「れんぼう」さんとう言うツッコミ?も、忘れてはいませんでしたが。

これは、「1500億円」が正解だったのですよね。

1500億円の事業を頼む時は、桜田商会に頼みましょう。1500円でやってくれますよ。きっと。

この失敗答弁は、国営放送の実況中でしたから、反響が大きかったですね。答弁席の映像には、当然、その周辺も写っていましたよ。宣伝看板か選挙の売名のための看板かで、以前に大分虐められていた問題の女性議員が、桜田大臣の「1500円」答弁の時に、同じ画面に写っていましたね。問題の女性議員さんも、爆笑していたのを日比憐休は見逃しませんでしたよ。国会議員さんは、同類相哀れむことは無いようですなー。

 

  • ・・以前に、安倍総理は、桜田氏をオリパラ担当大臣に任命した理由を野党 

  議員に質問され、以前からオリパラ招致に対して尽力して来ていたから、

  と答弁している経緯があって・・・

 

質問者の野党議員 「桜田氏は、2020東京五輪の招致に、特に尽力したと言

          うことは無いのではないか。桜田氏がオリパラ大会に関

          り出したのは、副文部科学大臣になってからではないの

          か。副文部科学大臣の職についたのは何時か?」

桜田大臣 ・・・何時か、具体的なことは判らないらしく、一瞬戸惑いながら 

        も、答弁しようとする素振りをみせた。お付きの官僚が耳打

        ちしようとして、ペパーをめくったりして、ゴタゴタしてい

        た時のできごと・・・

    ・・・予算委員会委員長(議長)のひとこと。答えようとする桜田

       臣の素振りを見て、本来、「桜田大臣」と答弁の指名をする

       はずのところ、図らずしも出でしまったひとこと・・・

 

議長 「・・・知ってるの ???」

   

と、言ってしまったノダ。なかなかのタイミングだったノダ。官僚が紙をめくったりしていて、ザワザワしていたが、日比憐休は聞き逃さなかったノダ。

 

なかなか笑えるでしょう。

この後、安倍総理は、桜田氏がオリパラのことに関ったのは、副文部科学大臣になって以後のことだ、と前言取消しに及んでいる。ウソをついていたのだ。

ウソを言っても、後で前言を取消して、曖昧な表現で一言謝ったような事を言えば、無かったことになるですよ。

取り消したとは言え、ウソを言った事実は消えませんよ。

これで、安倍総理による桜田氏の五輪大臣に抜擢した根拠については、もーチャラですよ。野党議員による、それでは桜田氏を五輪大臣に抜擢した理由は何か、と言う追求もチャラ。これで終止符。

この質疑応答は何だったのかな。単なる時間つぶしか。

いつも、失言に対しては、前言取消し、謝罪のような曖昧の一言で、野党側は納得。満足げですが・・・。

これ、国会議員間の“常識”なのでしょうな。

 

さらに、この後、桜田大臣、予算委員会の開会時間に遅刻した。野党は待ってましたとばかりに、これを理由に審議拒否。御陰で、予算の審議、成立が予定より遅れることと相なった。

この事態に、桜田大臣の弁解。“他の委員の皆さんも、会議に遅れてくるではありませんか。私は、それに合わせたのだよ。”

あややややー・・・。また、やってもた。

 

このような事は、国会議員の“常識”中の“常識”ってか???

 

関係者一同、吉本興業に移籍しては・・・。 国会開催の前座でコントを披露すれば、国会のテレビ視聴率が、グンとあがりますよ。きっと。

もっとも、国会本番の方で大いに笑かしてくれてるか???

 

もはや、《桜田問題外の変》ですなー。

桜田大臣恐るべし。この方の“世渡り的常識”は、とびっきりユニークですなー。一般“常識”からして、この方の物議を醸し出した発言は、数知れずの状況ですよ。単なる表現に問題があるなどと言って済まされることではなく、間違いなく、人間性、人格に関るところがありそうな問題と評されても仕方が無いところがあるようですなー。

ただ一つ救いがあるとすれば、誰かさんのように、作為的なウソは言わないタイプのようですな。このような印象から、選挙区の有権者の票を集め、当選を重ねているのですかね。

 

 

その道の専門家とされる方々が、テレビのワイドショーで、「政治家の素質の第一は、言語表現力にある。」と口を揃えて申されていましたね。

要するに、政治家に求められる素養は、当該事象に関る表現能力にある、と言う見解を示しておられましたな。政治家の素養は、表現の上手下手にある。と言うご見解のように聞きました。

早い話が、今度の桜田大臣の「金メダル候補で、日本が本当に期待している選手なので、がっかりしている。早く 治療に専念して頑張ってもらいたい。また、元気な姿を見たい。1人リードする選手がいると、みんなつられて全体が盛り上がるので、その盛り上がりが若干、 下火にならないか心配している」と言う発言は、政治家として、相応しくないものである。表現がなっていない、と言う評価のようですな。

「早く治療に専念して頑張ってもらいたい。また、元気な姿を見たい。」と言う部分だけでよく、政治家としては、後の発言は不要だ。と言うご意見で一致していましたな。

しかし、政治家の素養を、話の表現の上手下手で判断すべきなのかなー。なんて思っちゃったりするのですよ。

すなわち、ある事象について、発言する時に、差し障りがない表現をするのが、政治家としては、最も大事なのだ。と言うことですよ。

要するに、桜田大臣の発言に関して、テレビのワイドショウに出演されている政治評論家的な面々は、「桜田氏は、余計な発言が多い。黙っていれば問題ないのに。」と言うご意見でしたなー。

余計な(具体的な)ことに言及せず、問題となりそうな事には、口をつぐみ、曖昧などうとでも解釈される、後に弁解が上手く行くような表現をする人が、政治家として相応しい、と言う事なのでしょうかね。

 

ちょっと、ちょっと。ちょっと違うんじゃーねーの。と言う気がするのですが。

皆さんの“常識”ではどうでしょうか。

本質には触れず、うまく取り繕ってた表現で、その場凌ぎの巧みな人が、皆が期待する立派な望ましい政治家なのでしょうかね。

“常識”的に、どうでしょうか。

長らく政治の場、政治家と言われている人々との付き合いが深い人にとっては、これは“常識”なのでしょうかね。

これを視聴した人達が、この道の専門家がこのように評しておられるのだから、政治家の素養は、表現力にありとするのが、“常識”なのだなー。なんて思われたりしたら・・・。

メディアの影響力は大ですからねー。メディアは恐ろしいですよ。“常識”メーカー的存在ですからねー。

と思うのは、“非常識”ですかねー。

表現をもって、疑わしき核心をだまくらかす人よりも、表現は上手でなくとも、正直に事実を話す人こそ、政治家の素養として求めるべき像ではなかろうかと、思ったりするわけですよ・・・。

 

しかし、ですよ。与党自民党は、言うまでもなく人数的には第一党ですよ。他のどの党よりも圧倒的多人数の国会議員を抱えているのに、よりによって、どうして,このような人格の方が、オリパラ・サイバー担当の国務大臣なのですかねー。

選りに選ったのは、言う迄もなく、安倍総理ですよ。桜田大臣の失言、暴言の類のことが問題として取り上げられ、任命責任を問われた安倍総理の答弁は、何時もお決まりの“適材適所による人選。今後も一層その職務に励んでもらいたい。”と言うものですよ。なんか、嘘くさい誠意が無い感じかするのですよね。

以前には、北方担当大臣が、返還を要求して約70年にもなると言う、北方領土問題の4島の名前すら知らなかったようで?、釧路来訪の折、挨拶にあたって、事務方に書いて貰ったいわばカンニングペーパに書かれている、問題の4島の名前すら漢字で書かれていたので読めなかった御祖末極まりない大臣がいましたが。

因に、歯舞、色丹、国後、択捉が問題の返還要求の4島です。

蛇足ながら、漢字では読むのに難儀しますので、カタカナ書きにして、千島列島を列記しますと、エトロフ島に続き、ウルッブ、チリホイ、ブロトン、シムシル、ケトイ、ウシシル、スレデイワ、ラショワ、マツワ、ライコケ、ムシルレツ、シャスゴタン、チリンコタン、エカルマ、ハリムコタン、オンネコタン、マカンル、シリンキ、パラムシル、シュムシュ、アライド島と続きまして、カムチャッカ半島に至りますよ。退屈しておられる方は、これをソラで言えるように練習してはいかがでしょか。ヒマ潰しにはもって来いですよ。言えるようになるまで、とにもかくにも、しっこく毎日毎日訓練し続けると、言えるようになりますから。円周率を諳んじるより、易しいと思いますよ。

 

諳んじたから、どうなのだ、ってですか。

ヒマ潰しに、最適と言っているのですが・・・。

 

 

安倍総理は、この北方担当大臣の資質を問題化された時に、多分“適材適所による人選。今後も一層その職務に励んでもらいたい。”と言うことで済ませてしまったのではなかったですかねー。???

 

この辺りの“常識”って、どうなってんだ ??????

 

話は飛んで、安倍総理は、トランプ大統領を、ノーベル平和賞の候補者として、御推薦なさったとか。トランプ大統領は、えらくご満悦。記者会見で堂々と発言されていましたねー。

一方、安倍総理は、これを記者から質問された時、ノーベル平和賞の推薦に関る事は、公表すべき事ではないとされている事だ、とコメントしてましたよ。否定はしていませんでしたよ。

もっとも、トランプさんが、既に公言してしまってますけどねー。

 

総理は、お友達関係には、心配りが手厚いようですなー。加計学園問題の時といいね。

これ、総理としての“常識”中の“常識”なのかなー???

一所懸命に活動しているところも御座いますがね。

 

もとより、国会は、一般庶民からすれば、“非常識の場”と、見られているところが御座いますよ。その国会議員のトツプの座にあらせられるのが内閣総理大臣ですから・・・。嗚呼!!!

 

前述のように、「甘い物を甘いと感じ、辛い物を辛いと感じ、それを甘いよー、辛いよー、と素直に表現出来る御方々」とは、ほど遠い存在の方々の集団が、[国会議員]さんと呼ばれている方々に沢山存在しているようですなー。

中には、そうではない変人?も、おられる事はおられる事でしょうが・・・。

一般人の“常識”とは、ほど遠い、党利党略・私利私欲に徹した集団のようですなー。これ“常識”と言って、いいですよねー。

ここから出て来る政策は、選挙対策、票集めに繋がるのものばかり・・・。

嗚呼!

 

もっとも、その国会議員さんと呼ばれている方々を選出したのは、他ならぬ国民、有権者ですからね。なんとも、どうにもならないところがあるようですな。

日本では、ご存知のとおり、代表民主制(間接民主制)がとられていますが、これは立派な方が立候補していなくては、鼻から民主的政治なんぞ、期待できるものでは御座いませんよね。

国政選挙の時に、投票場へ出向いても、いざ投票用紙に名前を書こうと言う時に、この人は、私らの代表として信頼できる、と言う人が立候補者の中にいるかと言うと、・・・? ? ? なんだから。国会議員を選出するスタートの段階で、もうどうにもならない事態にあるのですから。代表民主制(間接民主制)は、ピンチなんですよ。きっと。

さらに、有権者の“常識”はと言うと、ほとんどマスメディアによって作られたと言って良いような“常識”の様ですので、なんともねー。

立候補者も有権者も、“常識”ある存在にならなければならないと言う要求が御座いますよね。

 

では、どうすれば良いのか、と言うと、一つの答えは簡明ですよ。

それは、“常識”ある人材を育成すれば良い、と言うことですよ。

では、どうすれば良いのかと言うと、それは適切な教育が必要である、と言うことでしょうね。

ここ迄は、実に簡単明瞭なのですよ。

ところが、これを具体化する、と言う段階になると、途端にブレーキがかかってしまうのですよ。

何をどう教えるか、と言う段階で、この点に関する価値観があまりにも多様化している現実なので、教育内容を具体的にどのようにするのか、これが中々決められないのですよ。この問題にぶち当たるわけですよ。

特に、義務教育の場では、これが甚だ困難なのですよ。

 

方法がない訳ではないのでしょうが、多数の合意を取り付けるのは、至難のことでしょうね。

 

答が比較的明確な知識的“常識”を教えるのは,問題ないのでしょうが、“世渡り的常識”となるとねー。

独裁主義・社会主義共産主義の社会で行われているような特定の価値観を押しつけようとするのは、勿論問題が多いですよ。

だったら、多様な価値観を易しく教えれば良いのではないのか、と言うことになりますねー。

論理としては、多様な価値観の存在を教えれば良いだけのことなのですがねー・・・。この合意を取り付けるのがね・・・。中々。

しかし、義務教育9年間もあるのだから、計画的にやれば、かなりの効果が期待されると思われるのですが・・・。

 

最大の問題は、“やる気”があるか、どうか、と言うことに尽きるようですな。

誰が、“やる気”を持てば良いのですかね。

総理大臣? 内閣? 文部科学大臣? 同省? 国会議員? など司法・行政関係の面々に期待できますか?

現在の“常識”では、とてもとても期待なんて・・・ね。

 

では、他に何処に期待すれば良いのか、と言うと、申すまでもなく、教育関係者が候補に上げられますなー。しかし、ここでの、この種の合意を取り付けるが、最も困難なのでしょうなー。

教育の現場で教壇に立つ方々の合意無くして、この種の事は成立しませんからね。

司法・行政の段階では、いざとなったら数にものを言わせて、特定の法律を定め、実施すべく体制を成立させることは可能かも知れませんが、それを実施する方面での協力無しでは、意味が御座いませんからね。

 

 

しからば、どうすれば良いのだ。なんか方法がこざいませんかね。

最後の手段は、“国民”に期待するよりないのでしょうなー。

“国民”が、本腰を据えて、将来を心配する存在にならなければ、事態の改善は望めないのでしょうなー。

しかし、こっちも、現在の“常識”では、とてもとてもねー。

このような事柄に関する国民の関心は、どうも今一薄いのではないでしょうか。

国民の多くは,どうしても目先の事柄が、関心の中心となってしまうのですよ。遠い将来のために行うものは、どうしても見え難いのですよ。目先の入学試験には、やっきになれますがね。30年、50年先を想像することは、中々ねー・・・。

前途多難であります。

 

 

しからば、義務教育では駄目となれば、私塾でやればいいのでは?

しかし、決定的な問題があるのですよ。

誰が好んでこんな塾に通って来る“常識”人志望者がいますかって言うことですよ。よっぽどのもの好きで無い限りねー。

すなわち、これも“国民”の自覚が薄いので、実現化は困難なのですよ。

 

大体、このような“常識”教育の場に、足を運ぼうなんと言うお方は,多分既に“常識”人の有資格者でしょうからね。これでは、意味がないのですよ。

ただし、ヒマ潰しには適していますよ。きっと。

 

最後の切り札は、かくなる上は、頼みの綱は、《池上さん》ですよ。

もー、頼みますよ。池上さん。

先ずは、お母さんと幼児を狙いましょう。

既存番組のバクリで良いですから、“ママさんといっしょ”“パパさんといっしょ”と言う番組を作って、親子共に“常識”教育をしてはどうでしょうか。

いやいや、ヤッパリ“池上さんといっしょ”がいいかな。

池上さんは、以前国営放送で、子供向けのニュース解説的な番組を担当されていたのだから、経験的には全然問題御座いませんよね。

幼児のころから、「甘い物を甘いと感じ、辛い物を辛いと感じ、それを甘いよー、辛いよー、と素直に表現出来る人」の育成を目指して、「これは、こういうものだ」、と判断できる人材を育てることに、一肌脱いで頂けませんかねー。

 

何も、最初から小難しい内容を教え込まなくとも良いのですよ。

“常識”的に、こう言う事をやってはいけませんよ、こう言う事を進んでやるようにしましょう、とか極めて“常識”的なことが身に付く教育をすれば良いのですよ。

そんなことは、本来親がやるべき事かも知れませんが、中には、躾と称して、暴力を振るって、自分の子を死に至らしめるような親が時々現れて、世間を騒がせている昨今ですからね。親の方に対する教育が必要な現状もあるのですよ。

国政選挙に当たっても、ちゃんと自分等の代表として相応しいと思われる候補者の名前を投票用紙に書く事ができる“常識”的な判断ができる有権者になれるような“常識”的教育をお願い出来ませんかね。

 

みんなで、お願いしましょう。

池上(いけがみ)さん。お願い致します。

池上(いけがみ)樣。お願い致します。

いけ神樣。なんとかお願い致します。

 

結局、最後は神頼みより御座いませんなー。

 

 

突然で御座いますが、ここで、“バッタリ”で御座います。

 

と言うことで、最初にご案内してありますように、行き当たりバッタリのヒマ潰しの話で御座いまして、バッタリ倒れて、皆様に見放された時が、話の終りの時ですからね。

ちょうどこのあたりが、“バッタリ”の状況で御座います。

いくらヒマ潰しとは申せ、かなりヘキエキ、ウンザリと言うストレスが充満しておられる事でしょう。察して余りあります。

但し、幾分のヒマ潰しにはなったでしょ。

 

どうもお付合い下さいまして、お疲れ様で御座いました。有り難う御座いました。こりずに、またのお越しを期待しております。

 

お後がよろしいようで。