《停念堂閑記》89

「日比憐休独偏記」24

 

謝罪 ? 2」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお出で下さいました。

厚く御礼申し上げます。

たまーに、やっておかないと、何だこれ、と言うお客様もおいでかと存じますので、久しぶりに解説しておきます。

と、申しますのは、「停念堂閑記」と言う名称についてで御座います。

「停念」は、思考が停止すると言う意味で使っているのですよ。そして、これが何と、定年退職の「定年」に懸けてあるのですよ。

早い話が、定年になって、思考が停止した状態を意味しているのですよ。

そして、「閑記」は、定年になって、とにかく、ヒマな時間が、出来ましたので、停止している思考で、ヒマ潰しに、何か書いみようと言うことなのですよ。

因に、号は「日比憐休」と言うのも使っていますよ。

「日比」は、初めはダイレクトに「日々」にしようかと思ったのですが、ちょっと捻りましてね、「日比」にしたのですよ。ひごろ = 日頃 = 日比と言う繫がりでね。

要するに、日ごろ、毎日の意味で使いました。

それから、定年になって、毎日連休になったものですから、連休をちょっと捻って、「憐休」にしました。定年前は、連休が待ち遠しかったものですが、定年後は、毎日連休、閑を持てあますので、「憐 = あわれむ」の方がピッタリかと思いまして、「憐休」にしました。

と言うことでして、日比憐休の「停念堂閑記」で、ヒマ潰しをやっていると言う次第で御座います。

と、言う次第でして、本当に、よくいらっしゃいました。大歓迎で御座いますよ。と言うことになるのですよ。

と申しましても、高価な美味しい物でおもてなしをするわけでも、肩をお揉みするわけでも、温泉に入って、冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますれば、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

いくら込めても、心には、お金がかかりませんからね。ただただ気の持ち様の問題ですから、私のような貧乏人でも、何とかなると言うものなのですよ。

そんな訳で、気の持ち様に配慮致しまして、大歓迎と言うことで御座いますから、今日も、心置きなく、ヒマ潰しに、どうぞお付合い下さいませ。

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、良いのですよ。

夜、寝られなくなったりしませんからね。もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

なぜアホくさい、バカバカしい、クダラない話なのか、と問われますと、決まってるでは御座いませんか。そんなこと。

格言にあるような立派な話は、容易には出来ないからですよ。

私の考えつくような事は、既に、先人がみんな言っちゃつてますからね。二番煎じは、迫力、御座いませんよ。

でも、ヒマ潰しをしてはいけないと言う法は御座いませんから、しゃー、しゃーと図々しくやり続けると言うわけなのですよ。

そりゃーね。私だって、かねがね立派な、意義深い話をしたいものと、思わないではないのですよ。しかし、甚だ残念では御座いますが、難しくて旨く出来ないのですよ。

「うまく」と入力しますと、「旨く」になっちゃうのですから、なかなか上手くまいりません。

分かりました。ですって!

もー、分かっちゃったのですか ?

お客様、幾らなんでも、ちょっと、早過ぎはしませんか。

たとえ、分かっちゃっても、ですねー。

そんなことはないでしょー、とか。

ちょっと、ひと呼吸間をおいてからとか。

それくらいの気遣いがあっても、良いかなー、なんて思ったりもするのですよ。

世間では、忖度したあまり、国のお役所の公文書改竄したりしているのですよ。

ああそれなのに、ろくに説明もしていないのに、いきなり分かられてもねー。

トホホホホー。なさけねー。

一人で、やってろ。ですって!

あのですねー。一人でって、こんなこと二人でやってられますか、ちゅーの。

こんなこと、二人で向かい合って、心太でもすすりながらやろうものなら、たまったものではございませんよ。ホント。

視線をどこに置けばいいのです。定まりませんよ。

とは言え、一人遊びは、けっこう慣れてますので、大して気にはなりませんが。

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。なんとか、ヒマと言うものをあの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のないことを、くどくどと交えたりしましてね。

これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

私だってですね、たまには、気の利いた話をしたいものと、常日頃思わなくはないのですよ。

時には、少しは思うことも、たまには、ちょっとだけないこともないのですよ。

強いていえば、僅かながら、かすかにあるにはあるような気もするのですよ。

しかしですね、これが中々旨く、いや上手く行かないのですよ。思うだけではねー。

言うまでもなく、この手のことは、能力に関ることなのですよ。

持って生まれた能力は、残念ながら、俄に、どうこうできる代物では御座いませんよ。

その上、停念状態になってしまいましたからね。

嘆いても仕方御座いませんので、精々、得手・不得手と言うあたりで、何とかならないものかと、もがいたりするのですよ。

その結果が、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話と言う辺りに落ち着くことになる、と言う次第なので、御座いますよ。

分かりました。ですって!

えー、もー、分かっちゃったのですか ?

また、お客様に、たちどころに、分かられちゃいましたなー。

たとえ、分かっちゃっても、ですよ。先ほども言ったでしょー。

そんなことはないでしょー、とか。

ちょっと、間をおいてからとか。

それくらいの気遣いがあっても、良いかなー、なんて思ったりしてね。

忖度ですよ。忖度。損得では有りませんよ。忖度

一人でやってろってんでしょー。

こっちだって、一度言われれば分かりますってーの。

一人でやるのは、けっこう慣れていますから。

 

ところで、マクラはこれっくれーに致しまして、本日の本題に取っ掛かる事にしましょう。

本題なんて偉そうに言ったところで、大した事では御座いませんよ。

最近は、とんと買わなくなってしまいましたので、ほんの (〈本 = ブック〉に掛けている積もり。お見逃しの無いように、お願いしますよ。) 僅かなものですよ。

おっと、これは、本代か。紛らわしいね。まったく。本当に(〈本 = ブック〉に掛けている積もり)。

ハイハイ。この手のことは、言われなくとも、一人でやりますよ。他所様のお方のお手を煩わせは致しませんから。どうぞ、ご安心を。

本日(まだ〈本 = ブック〉に懸けている積もり)は、ダジャレの解説付き、と言う特別のサービスを致しております。

 

さて、本日はですね。いつも通りの行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話をと思うのですよ。

そんなこと、初めから判ってらー、ですって。

またまた、判られてしまいましたなー。

まー、話が早くて、手間かからずで、結講な事ですわ。

しかし、ですね。いくら下らない話とは言え、少しはですね、真面目な部分もあるのですよ。ホント。

どーかねー 、って ? ? ?

ところが、真面目が入ると、たちどころに、面白味が減退してしまうのですよ。

したがって、ちっとも、面白く御座いませんよ。

私の方と致しましては、面白くなくても、一向にかまわないのですがね。

大体、世の中、面白い事ばかりでは、つまらないでしょー。

人間ツァー、勝手なものでしてね。面白い事ばかり続くと、ちょっと、おもしろくねぇーな。なんて感じたりするものなのですよ。

面白くないことの中に、面白いことが起きると、これが、とっても、面白く感じられるのですよ。なんか、儲かっちゃった気がしたりしましてね。

面白いところに、面白いことがやって来ると、またかー、なんて感じたりするわけですよ。慣れっこになって、だれて来ますから。

だから、私は、思いっきり面白くない方の担当と言うことで、やらせて頂いているので御座いますよ。まー、人助けの一つとでも言いましょうかね。

ですから、面白くなくても、私の方は、一向にかまわないのですよ。

要は、ヒマ潰しが出来れば、もー、大満足なのですから。

ところで、あのー、ですね。真面目な話、と前置きして、真面目な話をする人は、私を除いては、殆どおりませんよ。皆無と言って、いいかな。ホント。真面目な話。マジで。

皆様、どなたもご承知のとおり、正直な話と前置きして、本当に正直な話をなさる方は、殆どおりませんでしょ。

ウソは言っておりません。と力説される方で、ウソをつかない方は、めったにおりませんよ。私を除いては。ホント。

これは、正直な話、ウソでは御座いませんよ。ホント。ホント。

全く知りません。一切関係しておりません。絶対に、そのような事はありません。なんて言う人、よくテレビに出ていますよね。

あれは、ウソですよ、と言う別表現ですから。

一命を懸けて、とか、全身全霊で、なんて、いとも手軽におっしゃられる方をお見かけ致しますが、そう言う人に限って、ほとんど当てになるものでは御座いませんよ。

全く、とか、一切、とか、絶対に、とかを好んで使う場合は、単にその場凌ぎの弁解にすぎませんよ。全く、一切、絶対などには、全く、一切、絶対に心が込められておりませんから。

「一命を懸けて」、なんと言って、本当に一命を掛けた方など、ついぞお会いした事は、御座いませんよ。

その場を凌げれば、後は野となれ山となれ、はたまた水溜りとなれ、池となれ、沼となれ、湖となれ、海となれ、と言うのが現実ですよ。何でも、並べれば良いと言うものでは御座いませんが。事は、ついでですから。悪しからず。

ついつい、すっかり、真面目な話に陥ってしまいました。

これでは、ヒマ潰しには、不向きですな。もっと、もっと、アホくさい、バカバカしい、クダラない話で無くてはなりませんよ。

とにかく、本来、根が真面目なもんですので、すぐにお堅い話に向って行ってしまうのですよ。

エッ。何か疑問が御座いますか。

余計な疑問は、持たない方が、良いですよ。お互いの為に。

ねー、信頼しあってこそ、成り立つ世の中なのですから。

とにかく、他の人はともかく、私の真面目な話は、絶対に信用なさって、損は御座いませんから。疑問を持たれないように、念を押しておかなくてはね。念には念を入れ、万事、丁寧にと総理も言ってましたからね。

善悪はともかく、丁寧に、こま目にやっておかなくてはね。

待てよ。総理と一緒では、不利かな。人間性を疑われてしまいますからね。気をつけなくては。ホント。

 

さて、世の中には、アレー、ちょっと・・・?? と感ずる事が、時々御座いますよねー。

つい先日も、竜巻発生の後の被害状況が、テレビで、放映されていた時ですが、実況中継の某テレビ局の若いアナウンサー(リポーター)が「屋根の瓦が、完全に吹き飛ばされております」と状況を報じているのですが、映像では、瓦が全然飛ばされていない屋根が放映されているのですよ。アナウンサー(リポーター)さん、見え見えのウソを言ってはいけませんよ。と言う場面がありましたね。

あれは、予め作っておいた原稿を読んじゃったのかね。実況の映像と、合っていなかったりして。

竜巻のすごさ、被害の状況を、大袈裟に言いたい気持ちが、逸(はや)ってしまうのですかね。混乱している時こそ、冷静沈着な報道に努めて頂きたいものです。

些細なことが気になってしまうのが、私の悪い癖なのですよ。

些細なことが、気に掛かってしまうのが、ボクの悪い癖、と言うのは、杉下右京さんの口癖ですね。

因に、右京さんのあのセリフは、真っ赤なウソですよ。右京さんが気に掛ける些細な事は、いつも、問題解決の鍵になっているのですからね。

一方、私の気になる些細な事は、文字通り、些細な行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話ですよ。正直な話、絶対ウソでは御座いません。当人が断言していますから。なにせ、気楽なヒマ潰しの話ですからね。

 

それで、今、アレー・・・?? ちょっと、と気に掛かっている些細な事とは、どのようなことかと言いますと、「謝罪」と言う事についてなのですよ。

これが、なんと、前回の続きのようなのですよ。

だから、重複するところが、あるのですよ。

よって、初めに、謝っちゃおーと。

どうも、相済みません。御免なさい。御勘弁して下さい。

所詮、ヒマ潰しですので、悪しからず、ご海容のほどを、お願い致します。

 

世の中、至る所で、しょっちゅう、日常的に「あやまれー」「謝罪せよ」と言う叫びが聞かれますなー。

謝って貰いたいという人、あいつを謝らせたいと思う人が、とにかく、いっぱい存在しておりますなー。

謝りたくてしようがない人は、あまりいないようですが。

しかし、すぐに謝っちゃう人は、多く見かけますよね。

八百屋さんの店先で、謝っている人などよく見かけますよ。

たかだか、大根1本を買うのにね。

「すみませーん」、大根1本下さい。なんてね。

缶ジュース1本買う時にでも、まとめて100本買う時も、まずは、「すみませーん」と言う謝りの言葉で、始める人が多いようですよ。

たった1本で、お手数をお掛けして、「すみません」ね、と言う意味ですかね。

はたまた、100本もまとめ買いして、「すみません」ね、と言う意味ですかね。

それでは、何本だったら、「すみませーん」とやらなくていいのかね ?

お店屋さんの方は、商売だから、1本であろうと、100本であろうと、買ってもらえれば、良いわけでしょ。売ってやったからと言って、謝られるこたーねーでしょうなー。

しかし、いちいち「すみません」をやる方が多いですよ。

よほど、謝るのが好きなのでしょうかね。

しかし、いくら、謝るのが好きな人だって、自動販売機に謝る人は、いないでしょうな。

いますか ? たった1本で、「ごめん」「ごめん」と謝ってるヤツは、いませんよね。

ヌっ! いる ???  昨日見たって。

ちょっとやばくねー。

 

まー、このように、日常的に、習慣的に、「すみません」と前置きする方は多いでしょうが、これは、殆ど謝罪的な意味合いは無いのでしょうね。

きっと、本来的には、他人の手を煩わせるような場合には、お忙しいところ、申し訳御座いませんね。と言うような意味合いで、「すみません ね」、などと言ったのでしょうが。それが、慣例化して、特に、相手にお手を煩わせる場面でもないのに、つい、口から出てしまう、と言うくらいの事なのでは ないのでしょうかね。

きっと、ヨーロッパなどでは、あまり見かけない慣例なのでしょうな。

日本のこような文化は、なかなか分かり難い側面を持っていますなー。

普通は、謝罪が好きで、すぐにしたがる人は、極めて稀と言って良いでしょうなー。

しかし、とにかく、当世、色々な場面で、「謝罪」云々に関ることが、取り沙汰されておりますなー。

 

最近、「謝罪」に関して、世間で騒がれたのは、日大アメフト部のルール違反に関る反則事件ですなー。

関西学院大学アメフト部との試合で、日大チームの1選手が、やってはならない、あってはならない反則プレーをしでかし、関西学院大チームの選手を怪我させてしまった。

このプレーが、大々的にマスメディアで取り上げられましたな。

このプレーを巡って、マスメディアの主張は、反則を犯した日大側は、速やかに「謝罪」すべきなのに、なかなかそれが無い、と批判的な報道を、毎日毎日、繰り返し繰り返し、報じ続けましたな。

なんと言いますか、マスメディア側は、日大側の謝罪がないので、じれている感じがしましたね。

きっと、早々に、良く見かける企業の謝罪会見のように、日大の幹部数名が、報道のカメラ・マイクに向かって、最敬礼するシーンを欲していたのでしょうね。

ところが、それがなかなか御座いませんでしたね。

そして、しばらくしてから、反則ブレーをしてしまった日大の選手が、単独で謝罪会見に臨みましたな。

待ちに待っていた報道側は、飛びつきましたな。

そして、反則プレーをしてしまった選手から、スポーツマンとして、やってはならない行為をしてしまった事を認め、関係者に対する謝罪の弁が御座いましたな。そして、反則行為を行うに至った選手側の認識についての説明もありましたな。

対して、マスメディア側の応対はと言うと、言ってはなんですが、大歓迎的な印象を感じましたな。

端的にいえば、顔を晒して、自己の犯した反則プレーを認め、それに対する謝罪を率直に行った行為を勇気と評し、大変高く評価し、反則プレーをした選手の謝罪行為を誉め称えていましたな。

このマスメディア、特に、ワイドショー系の番組のはしゃぎぶりに、アレー、チョット・・・? と言う感じはありませんでしたか。

所詮、偏見でございましょうが、反則プレーなんぞは何処かへ、飛んで行ってしまった感が御座いましたよ。

うんと分かりよく言えば、勇気を出して謝罪した選手は偉い、反対に謝罪していない大学側は、どうなっているのだ、と言う批判にまっしぐらに突き進んでいきましたなー。

そして、ワイドショー系の番組では、早急に謝罪会見に臨むべきなのに、そうしない大学側の批判を大々的に展開し始めましたなー。

結局は、日大の危機管理体制は、どうなってるのだ、と言う方向へ直進しましたね。

さっさと謝罪しなければ、日大の評判にかかわりますよ。在学生だって、就活の時に、不利になりはしませんか。ひいては、受験生が減ってしまいはしませんか、と日大の将来の心配を報じだした次第でしたよ。

本来は、日大アメフト部の反則行為がテーマだったのでは御座いませんか。

それが、あっという間に、日大の将来を心配いているのか・・・。

と、言う事態の出来に、アレー、チョット・・・? と感じませんでしたか。

そもそも、日大の危機管理体制の是非などは、日大側の心配する問題であって、外部の推奨する形で、行われなくてはならないものなのですかね。

第三者が、どうなっているのだ、と大騒ぎして、心配する存在でもないような気がするのですが。そのように思うこっちが、常識はずれなのでしょうかね。

そして、さらに、専ら日大の大学としての経営のあり方へと、視点を向けていきまして、反則プレーの方は、どうなっちゃったのか、と言う感じでしたよ。

このような状況を見せられますと、とにかく、ワイドショウ系の番組の常識は、謝罪は一刻でも早く行うべし。それも、「謝罪者」側の最高幹部が勢揃いして、最敬礼のスタイルで行うべし。そして、頭を下げる時間は長い方が良し。と言うスタイルである、と言う感じが致しますなー。

これが、マスメディア、特に、ワイドショー系の番組が推奨する現今の「謝罪」のあり方の常識なのか、と言う感じがしますね。頭を下げている時間をストップウオッチで、計測しているような有様ですよ。

ねー、ねー、ちょっと・・・・・? と感じませんか。

失敗を犯したと感じたら、兎にも角にも、マスメディアを通して謝罪会見を行い、謝っちまう形態を整える事が、危機管理体制がしっかりしている、と評価されることになるのですかね。

日大のアメフト反則事件も、直ちに、日大の幹部が勢揃いして、謝罪会見を行い、どうも済みませんでした、以後、二度とこのようなことの無いように、誓います。とやってしまえば、この事件は、一件落着、収束を迎え、日大の危機管理体制はさすがだ、と評価されることになるのですかねー。

なんか、チョット・・・ ? と、言う感じがしませんか。

すなわち、「謝罪」は、形式を整えることが、まずは肝心なのだ、という風潮が気に掛かるのですよ。

もっとも、「謝罪」自体は、前に言いましたように、「謝罪者」と「被謝罪者」の心情に関る事と思われます。

心情、すなわち心の中は、当の本人にしか分からないものですから、「謝罪」と言っても、心が込められたものか、頭は下げるが、腹の中では、アカンベーで舌を出しているのか、知れたものでは無い側面があるのですよ。

ですから、「謝罪」の本当の内実は、「謝罪者」のみが知ることで、「被謝罪者」側では、信ずるか、信じないかの問題と言うことですなー。

謝罪」の捉え方は、色々であろうと思われますが、心情に関る事であるので、「謝罪者」の心の中迄は、見透かすことが出来ないのですよ。

謝罪」は、本来的に、このような性格の側面を持つものですから、ここにおいて、外部からみえる形式に重みを置かざるを得ない側面がある、と言うことになるのでしょうね。

謝罪する事は、一般的に、格好の良くない事です。例えば、恥となる嫌な事です。そこで、「被謝罪者」は、「謝罪者」の心の中のことはともかくとして、外部からでも確認できる「謝罪者」が恥となる嫌な形式を求めることになるのでしょうね。

それが、マスメディアの下す社会的制裁だ、と言うことになるのでしょうね。

と言うような訳でして、世間で騒がれる「謝罪」の一側面について、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた立場から、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた話に仕立ててみたのですが、ヒマ潰しのお役にたったでしょうか。

謝罪」は、まだまだ色々な側面を有しているように思われますので、続きは、また、次回にと言うことにしたい、と思います。

面白くもない話で、誠に申し訳御座いませんでした。深くお詫び申し上げます。陳謝。陳謝。

 

それでは、どうもお疲れ様でした。

お後がよろしいようで。

《停念堂閑記》88

「日比憐休独偏記」23

 

謝罪 ? 1」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお出で下さいました。

厚く御礼申し上げます。

本当に、よくいらっしゃいました。大歓迎で御座いますよ。

と申しましても、高価な美味しい物でおもてなしをするわけでも、肩をお揉みするわけでも、温泉に入って、冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますれば、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、良いのですよ。

夜、寝られなくなったりしませんからね。もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。なんとか、ヒマと言うものをあの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のないことを交えたりしましてね。

これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

私だってですね、たまには、気の利いた話をしたいものと、常日頃思わなくはないのですよ。

時には、少しは思うことも、たまには、ちょっとだけないこともないのですよ。

強いていえば、僅かながら、かすかにあるにはあるような気もするのですよ。

しかしですね、これが中々上手く行かないのですよ。思うだけではねー。

言うまでもなく、この手のことは、能力に関ることなのですよ。

持って生まれた能力は、残念ながら、俄に、どうこうできる代物では御座いませんよ。

嘆いても仕方御座いませんので、精々、得手・不得手と言うあたりで、何とかならないものかと、もがいたりするのですよ。

その結果が、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話と言う辺りに落ち着くことになる、と言う次第なので、御座いますよ。

さて、本日はですね。いつも通りの行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話と言うことには、なんら変わりは御座いません。

しかし、ですね。いくら下らない話とは言え、少しはですね、真面目な部分もあるのですよ。ホント。

 

どーかねー 、って ? ? ?

ホントですって。

ところが、真面目が入ると、たちどころに、面白味が減退してしまうのですよ。さーっと、引いてしまいますよ、

したがって、ちっとも、面白くなくなってしまうのですよ。

私の方と致しましては、面白くなくても、一向にかまいはしないのですが。お付合いくださる方はねー。やんなっちゃいますよねー。

しかし、世の中、面白い事ばかりでは、つまらないのですよ。

人間ツァー、勝手なものでしてね。面白い事ばかり続くと、ちょっと、おもしろくねぇーな。なんて感じたりするものなのですよ。

面白くないことの中に、面白いことが生ずると、これが、とっても、面白く感じられるのですよ。なんか、得しちゃった気がしたりしましてね。

面白いところに、面白いことがやって来ても、またかー、なんて感じたりするわけですよ。慣れっこになって、だれて来ますから。

だから、私は、思いっきり面白くない方の担当と言うことで、やらせて頂いているので御座いますよ。まー、人助けの一つとでも言いましょうかね。世のため、人のためですよ。慈善事業ですよ。

アホ抜かせって、ですか。

ですから、面白くなくても、私の方は、一向にかまわないのですよ。

要は、ヒマ潰しが出来れば、もー、大満足なのですから。

ところで、あのー、ですね。真面目な話、と前置きして、真面目な話をする人は、殆どおりませんよ。皆無と言って、いいですよ。

ただし、私を除いてはね。ホント。真面目な話。マジで。

皆様、どなたもご承知のとおり、正直な話と前置きして、本当に正直な話をなさる方は、殆どおりませんでしょ。

ウソは言っておりません。と力説される方で、ウソをつかない方は、めったにおりませんよ。私を除いてはね。ホント。

これは、正直な話、ウソでは御座いませんよ。ホント。ホント。マジで。

全く知りません。一切関係しておりません。絶対に、そのような事はありません。なんて言う人、よくテレビに出ていますよね。

あれは、ウソですよ、と言う別表現ですから。

一命を懸けて、とか、全身全霊で、なんて、いとも手軽におっしゃられる方をお見かけ致しますが、そう言う人に限って、ほとんど当てになるものでは御座いませんよ。

「全く」とか、「一切」とか、「絶対に」とかを好んで使う場合は、単にその場凌ぎの弁解にすぎませんよ。「全く」、「一切」、「絶対」などには、全く、一切、絶対に心が込められておりませんから。

「一命を懸けて」、なんと言って、本当に一命を掛けた方など、ついぞお会いした事は、御座いませんよ。

その場を凌げれば、後は野となれ山となれ、はたまた水溜りとなれ、池となれ、沼となれ、湖となれ、海となれ、と言うのが現実ですよ。何でも、並べれば良いと言うものでは御座いませんが。事は、ついでですから。悪しからず。

ついつい、すっかり、真面目な話に陥ってしまいました。

これでも、ですね。わたしゃー、世間では、真面目で通っているので御座いますよ。嘘ついた事など御座いませんから。

嘘吐きは、ドロボーの始まりと言われますから、嘘をついたら、末はドロボーになるしか手が御座いませんから。

嘘ばっかりついている政治家と言われている連中の行く末は、やっぱり・・・になるよりないのかね・・・?

私は、ウソ吐きと言われたことは御座いませんよ。専ら、ホント吐きと言われていますから。嘘じゃないよ。

エッ。ホント吐きなんて聞いた事は無いって、ですか。

そうでしょうね。私も初めて言いましたよ。

だから、最初に言ったでしょ。

真面目と前置きして、真面目な話をするヤツはいないって。

私の話には、ウソは御座いませんよ。ホンマ。

とにかく、本来、根が真面目なもんですので、すぐにお堅い話に向って行ってしまうのですよ。

エッ。何か疑問が御座いますか。

余計な疑問は、持たない方が、良いですよ。お互いの為に。

ねー、信頼しあってこそ、成り立つ世の中なのですから。

とにかく、他の人はともかく、私の真面目な話は、絶対に信用なさって、損は御座いませんから。疑問を持たれないように、念を押しておかなくてはね。念には念を入れ、万事、丁寧にと総理も言ってましたからね。

善悪はともかく、丁寧に、やっておかなくてはね。

待てよ。総理と一緒では、不利かな。人間性を疑われてしまいますからね。気をつけなくては。ホント。

さて、世の中には、アレー、ちょっと・・・?? と感ずる事が、時々御座いますよねー。

それで、今、アレー、ちょっと・・・?? と気に掛かっている些細な事とは、どのようなことかと言いますと、「謝罪」と言う事についてなのですよ。

お客様は、謝罪した事が御座いますか。

ない。

それは、よー御座いますな。謝るのは、格好が悪いですからね。

しかし、事と次第では、謝らなければならないことが、御座いますなー。

うちの子供が、友達のA君とケンカしたらしいのですよ。

お宅の息子さんに、うちの子Aが殴られて、タンコブが出来た、とA君の親御さんが怒鳴り込んで来たので、分かったのですが。

早い話が、さー、とっとと、謝らんかい、と迫られたのですよ。

そこで、それは申し訳御座いませんと、兎に角、謝罪したのですよ。息子も帰っていたようなので、謝らせようと、呼び寄せたところ、腕を布で釣っているではありませんか。どうしたの、と聞いたら、A君にやられて、骨折して、病院で手当をして来た、と言うのですよ。

途端に、立場逆転でしたよ。A君の親御さん、平謝りで、這う這うの手で、退散しましたよ。

後日、果物のお見舞いを携えて、治療費を支払いますから、と謝罪に来ましたよ。カッコ悪かったでしょうね。

なんて事、経験御座いませんか。

怒鳴り込んで行って、返り討ちにあって、謝って帰らなくてはならないハメに陥ったりしたら、そりゃ-、もー最悪ですよ。天から地へ、真っ逆さまですからね。

出来るなら、謝罪しなければならない立場には、なりたくないものですなー。

 

ところで、世の中、至る所で、しょっちゅう、日常的に「あやまれー」「謝罪せよ」と言う声が聞かれますなー。

謝って貰いたいという人、あいつを謝らせたいと思う人が、とにかく、いっぱい存在しておりますなー。

一方、早く謝りてー。さっさと、オレに謝らせろー。なんて言う人はいないでしょうね。謝りたい、と言う人は、少ないですよ。めったに居りませんよ。そんな人。いたとしたら、相当変わり者ですよ。きっと。

お客様だって、そーでしょ。謝るのは、嫌いですよね。

謝る時は、しょうがなく、しかたがなく、しぶしぶ謝るのですよね。まったく、たまんねーな、なんて心中でボヤキながらね。

 

さて、「謝罪」とは、文字通りに解釈すれば、罪を謝ると言うことですから、早い話が、やっちまった事が、罪に相当する場合に、それを謝ると言うことですな。勿論、罪となる事をやっちまった人が、謝るのですよ。当たり前。

 

謝罪」と言う事については、謝る側と謝られる側が存在するわけですな。

やっちまった事が罪に相当する場合は、やっちまった側が謝る側、一方、やられちまって迷惑や損害などを受ける事になった側が、謝られる側、と言うことですな。当たり前。

因に、ここでは便宜上、謝る側を「謝罪側」、謝られる側を「被謝罪側」と表現することにしますよ。甚だ勝手では御座いますが。

ここで問題となるのは、「謝罪者」から言えば、やっちまった事が、罪に相当するか否か。「被謝罪者」から言えば、やられちまった事が、罪に相当するか否か、と言う事が、謝罪に繋がる要素と言う事になりますな。

そしてまた、罪の内容が問題となるでしょうな。

結論的には、「謝罪者」と「被謝罪者」および時には、第三者の心情的な迷惑や損害などに関る点が、謝罪に関る要素と言うことになるのでしょうな。

金銭的、物品的な損害などについては、多分、謝罪だけでは解決にならず、金銭的、物品的な損害賠償と言うことになるのでしょうな。

もっとも、やられちまった内容によっては、金銭的、物品的な賠償に加えて、心情的な謝罪要求したり、されたりと言う事情が伴うことがあると思われますが、謝罪に絞れば、心情的側面が特徴と言うことができるでしょうな。

と言うわけで、ここでは、取り敢えず、謝罪は、「謝罪者」と「被謝罪者」と、時に第三者を加えた、それぞれの心情的な事象と言うことにしておきますよ。

と言うことで、謝罪については、「謝罪者」と「被謝罪者」双方、あるいは時に第三者の心情的認識がどのようか、と言う事が問題となりますな。

すなわち、判り易く言えば、「謝罪者」からすれば、やっちまったことが、特定の人、あるいは不特定の人に、迷惑や損害などを掛けた、と認識すれば、それは罪に相当する事になるのでしょうね。

反対に、「被謝罪者」からして、やられちまったことが、迷惑や損害などを受けた、と認識すれば、「謝罪者」のやっちまった事が、罪と認識される事になるのでしょうね。

さらに、第三者が外側から見ていて、「謝罪者」がやっちまった事が、「被謝罪者」に謝るべき事と認識されれば、「謝罪者」のやっちまった事は、罪になると言うことになるのでしょうね。当たり前。

ただし、この三者の判断が、正解か誤りか、と言う問題が別に存在しますなー。

また、謝罪については、やっちまったなー、迷惑を掛けたなー、と思った側、即ち、「謝罪者」がその行為を罪と認識した時に、二つ選択肢がありますなー。

一つは、まー、いーか。と、うっちゃらかしてしまう選択ですな。

すっとぼけて、気がつかなかった振りなんかして。

もう一つは、迷惑を掛けた「被謝罪者」に、謝ると言う選択ですなー。

この場合には、更に、三つっ選択肢が存在してますなー。

一つは、「謝罪者」が、自発的謝罪する選択がありますなー。

もう一つは、「被謝罪者」側から、謝罪要求があった場合に、謝罪する選択ですな。

そして、いま一つは、「被謝罪者」ではなく、第三者の介入によって、謝罪しなければならなくなる、と言う場合ですな。

世の中には、お節介な御仁がおられまして、他人事にすぐに、兎や角、口出しして来る、厄介な方がおられますなー。

このごろは、めったに聞かなくなりましたが、昔はよく聞きましたよ。

「横から口出す土瓶口」ってね。他人事に、何でも介入してくる人ですよ。

あんた、謝った方がいいよ、謝んなさいよ、なんて言ってくるのですよ。

この大型化したのが、マスメディア、特に、ワイドイョウ番組ですな。こちらは、影響力が強いですからね。全国ネットですからね。いわゆる番組の常識と称する事を盾にして、やって来ますよ。

番組の方向を決めるのは、担当のディレクターさんなのでしょうが、そのディレクターさんの意を受けて、番組の現場を仕切っているのは、大抵は芸能人ですよね。番組は、実際的には、この方の常識らしきもので進められる事になるのでしょうが。しかし、一般的には、芸能界・芸能人の常識は、一般社会の常識とかなりズレがありますからね。

しかし、マスメディア能動的で、庶民受動的ですから、庶民の常識は、芸能界の常識に押されてしまうのですよ。それで、芸能界の常識が、一般社会の常識と化してしまう傾向にあるのですよね。

一般社会の常識と、ギャプの最も大きいのは、永田町の御方々のようですが。この方々が、出して来る政策の元は、選挙対策ばかりですからね。この人々の政策は、万事、選挙対策ですから。

国会議員と言う顔をしながら、国民の方を向いていませんからね。全部、党利党略議員の私利私欲に関る、その根底にある国政選挙対策の方ばかり、気にしていますからね。与野党違わずにですね。嗚呼、困ったもんだ。

まー、このようにして、一般社会の常識が変化を遂げて行く側面があるようなのですな。

兎に角、マスメディアは、世論を焚き付けて、「謝罪者」に、社会的鉄槌を喰らわせてやる、と言う勢いで攻めて来ますからね。やっちまった人は、たちまち標的にされますよ。

しかし、一定期間を過ぎると、決まって、オータム ハズ カム。アキが来て、別の話題に移って行ってしまいますがね。その時々の旬が、ネタなのでしょうから。

反対に、迷惑を掛けられちゃった側にも、三つっの選択肢がありますなー。

一つは、まー、いーか、と、うっちゃらかしてしまう選択ですな。

もう一つは、我慢ならねー、謝って貰いたい、と言う謝罪を積極的に要求する選択ですなー。

そして、いま一つは、第三者の介入による、どちらかと言えば、謝罪消極的要求、と言う選択ですな。

まー、謝罪に関しては、色々な側面が御座いますな。

 

前に、言った様に、自分の仕出かした事が、相手に、迷惑や損害などを掛ける事になる、或はなった、と自覚して、これは何はともあれ、謝罪しなくてはならないと、自主的に謝罪する場合がありますな。

これは「謝罪者」側の事情によるもので、謝罪しないとスッキリしない、と言う「謝罪者」側の心情に関る事ですな。

要するに、さっさと謝って、清々、サッバリしたいと言う、「謝罪者」の都合によるものですな。

それから、とにかく早く謝罪しておかないと、後々、ややっこしい事になり、損しちゃう事態が発生する事になるかも知れない、と言う心配から、謝罪する場合がありますな。

要するに、さっさと謝って、受ける事になるかもしれない損害を、無か出来るだけ少なくしょうと言う打算から、謝罪する場合ですな。

また、「被謝罪者」としては、迷惑や損害などを掛けられたので、とりあえず謝って欲しい、と言う心情的欲求で、「謝罪者」に謝らせたい、と言うことで「謝罪」を要求する場合がありますな。

更に、この事によって、後々、金銭や物品による損害賠償要求するために、取り合えずは、謝罪の弁をとって置きたい。と言う、謝罪要求の場合がありますな。

およそこのような事によって、謝る、謝れ、と言う謝罪問題が、発生しますな。

再三になりますが、自発的に「謝罪者」になりたい希望者は、殆どいませんよね。

これに対して、迷惑や損害を掛けられた、さー、謝れ、と要求する「被謝罪者」は、実に多く存在しますな。

とにかく、「謝罪者」となる相手に非を認めさせて、謝罪させなくては、腹の虫が納まらない、と言う方は、多いですよね。

首尾よく行って、「謝罪者」に謝らせることが出来た時には、「被謝罪者」の心情はどのようなのですかね。

やったぜー。遂に謝らせてやったぞ。ザマー見ろ。溜飲が降りたわ。

あー、あー、清々した。気分爽快、となるのでしょうかね。

さぞかし、勝ち誇った、勝利の喜びに浸ることが出来て、大満足感を味わう、と言うことになるのですかね。

さらに、勝利者の気分を味わい、引いては、偉くなった気分になるのでしょうかね。

まー、個々人の性格による事なのでしょうが、謝らせて、大満足と言う人も居られることでしょうが、性格によっては、謝らせた結果、なんか後味の悪さを感じてしまう人もおるでしょうね。

その時には、張り切って、勢いで、謝らせちまったけれど、後で、やり過ぎだったなー。この次ぎに逢う時には、ちょっと、気まずいなー。なんてね。

次に逢った時には、この間は、強い事言っちゃって、悪かったなー。なんて、謝っちゃったりしてね。その後の関係修復に、却って、骨が折れたりして。なかなか厄介なものですよねー。

しかし、謝罪要求する人は、一般に、強気の人が多いようですから、やはり謝らせた時には、爽快感が強いのでしょうね。その後の人間関係などに心を使わない人も多いでしょうからね。目先の爽快感、征服感のようなものが、優先するのでしょうね。

ところで、余談ですが、と言っても、全部余談の様なものですからお断りする迄も無いことですが、偏見と独断によりますと、くれぐれも、偏見と独断ですからね。一般的に、通用するものとは限りませんよ、誤解の無いように、お願いしますよ。

と、前置きしてですね、皮肉な事に、強く謝罪要求する人は、実は、往々にしてですよ。多分、多分、おそらくですよ。このような人は、自分は謝るのが大嫌いな人ではないでしょうか ? 謝るのが大嫌いな人に限って、謝りなさいよー、と大声をあげる人が多いようですよ。

たとえば、責任に付いても、ですよ。責任、責任と大声を発する人、強烈に責任を追求する方は、えてして、自分の責任には無頓着であったり、必至で回避する傾向が、強いようですよ。

序でに、たとえば、反省についてもですよ。自己主張の強い人は、反省をしないと言う特徴があるようですよ。自分のことは、棚に上げて、他人の批判をあれこれ言うのが大好きみたいですよ。

蛇足でした。これは偏見と独断によるところですからね。多分、多分のおそらくですからね。断定は致しませんから。誤解なさらないで下さいませよ。マジで。

ここは、あまり深入りしない方が、良いかも知れませんなー。後で、謝罪要求が来たりして。

先に、謝っちゃおーっと。軽卒なことを言っちゃって、申しわけ御座いません。御免、御免。勘弁して下さい。

 

ところで、謝罪しなくてはならないとか、謝罪しなくとも良いとかは、一体、誰が決めただよ。憲法で決まってるのか ?

誰が決めただと。憲法だと。

ふざけた事、言うんじゃねーよ。

そんなことは、とーの昔から決まってることだよ。昔のそれは、それは、とても、とても、えれー人が決めただよ。

えれー人って、誰だよ。

えれー人は、えれー人よ。

たとえば、誰だよ。

たとえば、たとえば、それは、お釈迦様だよ。

釈迦様に文句あるだか ? 

おめー、お釈迦様にタテつく気か ?

釈迦様に、タテつく気かって。

釈迦様が、そんなこと決めた証拠があるのか ?

あるだよ。あるだよ。おら-、堅く信じているだよ。

そんなこと言うなら、お釈迦様は、決めなかったと言う証拠を出せよ。

出してみろってんだよ。

何だと、決めたと言う証拠を出しもしねーで。

おら、信じてるだと。それなら、決めてねー、とオラは信じてるだど。

大体において、お釈迦様は、煩悩を捨てるように、説いているだぞ。

煩悩とは、簡単に言えば、欲望のことだよ。

だから、欲望を持ち続ければ、その欲望が叶わないと、不平を言ったり、不満を持ったりして、苦悩するハメに陥るだぞ。

だから、欲望を捨ててしまえば、不満なんぞ起きないと言うことよ。

だから、謝って欲しい、と言うことも、一つの欲望だから、そんな欲望を持っているから、相手が謝罪してくれなければ、腹の虫が納まらねー、とムカムカしなければ、ならねーのだよ。精神衛生上、良くネーだぞ。

謝って欲しい、などと言う欲望を捨ててしまえば、謝罪がどうのこうのと言う、小めんどくさい事は、発生しないのよ。

だから、お釈迦様は、迷惑や損害などを掛けた場合には、謝罪しなければならない、なんと言うケチなことは、決めっこねーんだよ。分かったか。

おー、おー、長々と小賢しい事言うではないかい。

釈迦様に、聞いて来たような事言いやがって。

だいたい、おめー、お釈迦様に逢ったことがあるのかー。

おまえなー、無茶言うなよ。お釈迦様は、紀元前のそれは、それは大昔の人だよ。いくらなんでも、逢えるわけねーだろうが。バカ言うでねーだよ。

バカで悪かったな。ああ、バカで悪うござんしたね。どうも済みませんでしたね。バカで。

おいおい、そーふてるなよ。ハズミで言っただけなんだから。気分を害したか。悪かったなー。謝る。ゴメン。

おっ、やけに素直でねーか。いーよ。オラー心が広いから、こんなことくれーで、謝れだのどうのとか、兎や角は言わねーだから。政治家みてーに、素直に御免と言わずに、遺憾に思うなどと、誤摩化さねーところが、気に入ったよ。

大体、誰が決めようが、決めなかろーが、他人に迷惑掛けたら謝るのが当たりめーではないか。このスカポンタン

オット、今度は、スカポンタンと来なすったな。

そしたら、結果的に、相手に、迷惑や損害などが掛ったとしても、わざとやった訳ではないし、悪い事したと思っていなければ、謝罪する必要はないわけだなー。

それは、謝罪どうのこうのと言う以前の問題だよ。迷惑掛けたと気づいていねーんだから。謝りっこねーよ。

相手から、謝罪要求が出されて、初めて、事態に気が付くだよ。

そーしたら、相手が、迷惑や損害などを掛けられてはいないと思っている場合は、どーなるだよ ?

それは、謝罪要求はしないだべ。迷惑かけられた、と思ってねーんだから。

おらー迷惑や損害などを掛けたので、謝ろうと、思ってる場合があるな。

要するに、相手はともあれ、謝らなくては、自分の腹の虫が納まらねー、って言うことがあるな。

あるか、そんなこと。変わりもんではないのか。

いーかい。「謝罪者」が謝ると言ってんだよ。それを、「被謝罪者」が断ったとしたら、どうなる。

謝罪者」は、相手の「被謝罪者」のことを思って、謝りてー、と言ってんだよ。それを断るとは、どー言うことだ。失礼というものだよ。失礼な事をした場合は、素直に謝らなくてはなんねーだよ。

おまえなー、取って付けた、屁理屈を言うんじゃーねーよ。

謝らなくて、いーと言ってるヤツには、謝んなくていーの。

 

人間、その集りである社会と言うのは、とにかくヤヤコしいところが御座いまして、たとえば、この謝るべき事と謝りを求めるべき事が、ハッキリしている場合と、そうではなく、ハッキリしていない場合もありますな。

何か具合の良くないことを、やっちまったなと感じた場合に、すぐに謝っちゃう人も、そーでない人もおりますな。

要するに、謝る側と謝られる側当事者間で、謝罪云々についての同じ認識が成立した時に、謝る、謝られると言う事態が起こるわけですな。当たり前か。

 

さて、「謝罪者」は、端的に言ってしまえば、当たり前のことですが、謝るべき罪となる行為をしでかした側ですな。

これは、一個人の場合も、複数人の場合も、また、人ではなく、一機関であったり、複数の機関であったりする場合が御座いますな。

一方、「被謝罪者」側は、これも一個人の場合も、複数人の場合も、また、人ではなく、一機関であったり、複数の機関であったりする場合が御座いますな。

このようにですね、「謝罪者」、「被謝罪者」と申しましても、色々存在しておりまして、このいずれかの組合わせで、謝ったり、謝られたりするのですな。

ところで、国会などでは、しょっちゅう謝っている人がいますなー。

謝罪なれしちまっていち、一向に、謝罪しているようには、見え無いのが、特徴ですな。

某大臣の言動が、そのことによって、被害を受けた人から、謝罪を求められると、加害者とされた大臣は、最初は中々謝罪をするに至りませんが、時が経過するに及び、マスコミの騒ぎ方が半端無くなると、これ以上不利になってはと、しぶしぶ謝罪に応じる事になったり、時には、止むを得ず大臣の職を辞したりする事態になったりしますなー。

これで当加害者の謝罪問題は、ひとまず決着するわけですが、今度は、次に、当該加害者を大臣に任命した総理の責任を問う事態へと進展するのが、一般的ですな。

そこで、事態がどうも不利であると自覚した任命権者の総理は、まずは、謝罪しなければならないハメに陥ったりする場合が御座いますな。

その時、総理は、決まって、この度の某大臣の任命責任は私にある。よって、この事については、謝罪したいと思っております、などと、いとも簡単に、言いのけますな。まるで、もはや、人ごとのようですよ。

この総理の発言よって、マスメディアの多くは、総理謝罪したように報じるのが一般的となっているように感じますな。

しかし、この総理の発言は、謝罪になってないのですよ。

謝罪したいと思っている、と言う、総理の思いを述べただけで、正式に、謝罪する主体が、「被謝罪者」に対して、謝罪をした、と言う事態ではないのですよね。

例えば、お金を借りて、返済を求められた時に、「返済したいと思っている」と言うだけでは、返済したことにならないでしょう。

だから、謝罪したいと思うだけでは、多分、総理は自己の犯した罪を認めて、大いに反省し、そのことによって迷惑・損害を被った人(側)に、謝罪したとは思っていないでしょうね。正直な話。

その証拠に、同じような過ちを、何度も繰り返し、その度に「責任は、私にある。ご迷惑をお掛けしたことに対しては、謝罪したいと、思っている。」と、しょっちゅう繰り返していますよね。心当たりあるでしょ。

このような場合は、言葉では「謝罪」と言いますが、それはまさに形式的・儀式的なもので、心は全然込められておりませんよね。心など、スッカラカン、空っぽですよね。

 

このような、例に見られるように、謝罪には、心が込められ謝た罪と、全然心が込められていない謝罪が存在するのですね。

これが、謝罪云々に関る一つの問題点ですなー。

謝罪者」と「被謝罪者」が個人の場合は、謝る側と謝られる側が、明確ですから、謝罪に心が込められているか否かは、当事者間の心情に関わることですなー。

結局は、「謝罪者」が心から謝っているか、形だけのものなのかの判断は、「被謝罪者」の受け止め方にあると言うことになりますなー。つまるところは、信じるか、信じないかの世界ですなー。

所詮、他人の心の中は、本当のところを、知ることが出来ませんから、信じるか、信じられないか留まりになるより仕方がありませんな。となれば、当事者の性格による、と言うことになりますかねー。

これが、個人ではなく、複数の場合とか組織の場合は、心が込められている謝罪か否かは、極めて難しい判断となりますなー。

 

テレビなどで良く見られる企業の謝罪会見などは、率直な話、心がどうのこうのと言う事態では御座いませんな。

問題は、企業の利益に関る行為としか見えませんな。だから、謝罪と言っても、思いっきり形式的なものですな。言ってしまえば、するか、しないかの違いに重きがあり、することが、当該企業の利益に繋がる、と言うことですよ。

企業の謝罪会見なんて、実に、意味の無い側面があったりするのですよ。

企業の謝罪会見では、通常、数名の役員の方々が、マスメディアのカメラ・マイクに最敬礼しておりますなー。

この役員さんの心中を慮(おもんぱか)りますに、まさに、自分がやっちまった罪であれば、謝罪するに足る存在でしょうが、何代か以前の連中の失敗が、今になって問題化され、謝罪しなければならない事態であれば、現在当該企業の代表役員であるから、立場上、謝罪の場に臨まなければならないのは、止むを得ないことであろうが、謝罪の内容は、自分とは何ら関係の無いことなのですよ。

と言うような、ケースは往々にして、御座いますね。

私は、本来全然関係がないのに、何で、こんなにとっちめられ、謝罪させられるのだ。

会社の立場上、やらなきゃならないだけで、原因を作った連中は、いい退職金を手にして、とっくに、おさらばかよ。

なんで、最敬礼している時間を、比べられなきゃならないのだ。長けりゃいーというものでもあるまいし。しかし、すぐに頭をあげたら、とたん に、どうのこうのと言われるし。たまったもんじゃーねーや。と言う思いが、どこかにあるのではないでしょうか。きっと、ありますよね。お察しいたします よ。

だから、企業の謝罪会見など、本来的にあまり、意味が御座いませんなー。

でも、ちゃんと形式を整えて、やらないとねー。営業成績にかかわりますからねー。

 

これは、個々人間の謝罪にも同様なところが御座いますな。

前に言ったように、人間の心の中は、本当には知ることが、不可能ですからね。

表面的には、いくら丁寧につくろっても、心中で、アカンベーしているかも知れませんしね。

とすると、「被謝罪者」は、何故に、強く謝罪を求めるのか、と言いますと、それは、表面的に、頭をさげさせる、その行為をさせるため、と言うことになるのでしょうかね。

結局のところは、「謝罪者」に格好の悪いことを行わせ、判り易く言うと、無様な格好を行わせることにより、「被謝罪者」が溜飲を降ろす、と言うことなのでしょうか。

簡単に言えば、「謝罪者」に屈辱的な行為をさせる事により、「被謝罪者」はスッキリし、清々し、優越感を感じ、偉くなったような気分を味わう。と言うのが、謝罪の実の内容であったりするのですかね。

結局は、個々人間の謝罪は、「謝罪者」側と、「被謝罪者」側の気分の問題と言うことなのでしょうね。気分となれば、個々人の性格に根ざすものなのでしょうね。

 

てな事でして、この辺で、一度、止めにします。

謝罪に関するアホくさい、バカバカしい、クダラないヒマ潰しの話でした。

落ちが無いのが、落ちだね。

お疲れ様で、御座いました。

 

お後がよろしいようで。

《停念堂閑記》87

「日比憐休独偏記」22

 

事実認識とその表現」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお出で下さいました。

厚く御礼申し上げます。

本当に、よくいらっしゃいました。大歓迎で御座いますよ。

と申しましても、高価な美味しい物でおもてなしをするわけでも、肩をお揉みするわけでも、温泉に入って、冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも御座いません。ポイントすら付きませんよ。

まー、強いて申し上げますれば、心の問題であります。

おヒマなお方、心より、大歓迎で御座います、と言う事ですよ。

今日も、ヒマ潰しに、どうぞお付合い下さいませ。

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。

なぜアホくさい、バカバカしい、クダラない話なのか、と問われますと、決まってるでは御座いませんか。そんなこと。

立派な、意義深い話は、甚だ残念では御座いますが、難しくて出来ないからですよ。

 

さて、本日はですね。真面目な話をしたいと思うのですよ。いつも通りの。

ところが、いつも通りと言った途端、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話と言う事になっちゃうのですよ。

しかし、生来根が真面目なものですから、何時も、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話を、極めて真面目にやらせて頂いているのですよ。当人と致しましては。

基本的には、真面目な話で御座いますから、つまるところ、あまり面白い話ではなくなってしまうのですよ。

正直に申しますと、はっきり言いまして、ちっとも、面白く御座いませんよ。

私の方と致しましては、面白くなくても、一向にかまわないのですよ。

大体、世の中、面白い事ばかりでは、つまらないでしょー。

面白くないことの中に、面白いことが起きると、これが、とっても、面白く感じられるのですよ。なんか、儲かっちゃった気がしますよね。

だから、私は面白くない方の担当と言うことで、やらせて頂いているので御座いますよ。まー、人助けの一つとでも言いましょうかね。

ですから、面白くなくても、私の方は、一向にかまわないのですよ。

要は、ヒマ潰しが出来れば、もー、大満足なのですから。

 

ところで、あのーですね。実を申しますと、真面目な話、と前置きして、真面目な話をする人は、私を除いては、殆どおりませんよ。皆無と言って、いいんでないかい。ホント。真面目な話。

皆様、どなたもご承知のとおり、正直な話と前置きして、本当に正直な話をなさる方は、ほとんどおりませんでしょ。

ウソは言っておりません。と力説される方で、ウソをつかない方は、めったにおりませんよ。私を除いては。ホント。

「ウソは申しません」と言うのは、本当のところは、これからウソを言いますよ、と言う前置きですから。

これは、正直な話、ウソでは御座いませんよ。ホント。ホント。

全く、一切、絶対に、そのような事はありません。なんて言う人、よくテレビに出ていますよね。

あれは、ウソですよ。と言う別表現ですから。

一命を懸けて、とか、全身全霊で、なんて、いとも手軽におっしゃられる方をお見かけしますが、ほとんど当てになるものでは御座いませんよ。

全く、とか、一切、とか、絶対に、とかを好んで使う場合は、単にその場凌ぎの弁解に過ぎませんから。全く、一切、絶対などには、全く、一切、絶対に心が込められておりませんから。

一命を懸けて、なんと言って、本当に一命を掛けた方など、ついぞお会いした事は、御座いませんよ。

その場を凌げれば、後は野となれ山となれ、はたまた水溜りとなれ、池となれ、湖となれ、海となれ、知った事かい、と言うのが現実ですよ。ホント。

ついつい、すっかり、真面目な話に陥ってしまいました。

これでは、ヒマ潰しには、不適ですよ。もっと、もっと、アホくさい、バカバカしい、クダラない話でなくてはなりませんな。

とにかく、本来根が真面目なもんですので、すぐにお堅い話に向いて行ってしまうのですよ。

エッ。何か疑問が御座いますか。

余計な疑問は、持たない方が、良いですよ。お互いの為に。

ねー、信頼しあってこそ、成り立つ世の中なのですから。

とにかく、他の人はともかく、私の真面目な話は、一切、全く、絶対にウソは御座いませんよ。本当のホントですから。

信用なさって損は、御座いませんから。

因に、損をなさっても、一切の保障は御座いませんよ。ホント。

ヒマ潰しにして下さいませ。

 

さて、世の中には、アレー、ちょっと変でないかい ? と言う事が、時々御座いますよねー。

些細なことが気になってしまうのが、私の悪い癖なのですよ。

些細ことが、気に掛かってしまうのが、ボクの悪い癖、と言うのは、杉下右京さんの口癖ですね。

因に、右京さんのあのセリフは、真っ赤なウソですよ。右京さんが気に掛ける些細な事は、いつも、問題解決の鍵になっているのですからね。

一方、私の気になる些細な事は、文字通り、些細な行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話ですよ。正直な話、絶対ウソでは御座いません。なにせ、ヒマ潰しの話ですから。

 

それで、気に掛かっている些細な事とは、どのようなことかと申しますと、出来事の事実認識マスメディアのその伝達表現に関ることなのですよ。

以前は、正しい日本語が使われなくなってしまったと、日本語の乱れを嘆いておられる方がよくございましたが、なんだか、最近あまり聞かなくなってしまった気がするのですよ。もう諦められちゃったのですかね。私の気のせいでしょうか。

言葉は生き物と言われて来ていますから、社会の変化と共に、言葉も使い方が変化するものなのでしょうが、変化してそれが定着してしまえば、違和感も持たれなくなりますが、しかし、変化の途上にある場合は、時に、違和感を感ずることがありますな。

特に、ある事態を伝達する時に、どのような表現で伝えるか、と言うことですよ。

これは、伝達表現の以前に、伝達しようとする側が、伝田しようとする事態をどのように、把握・認識しているか、と言うことが、まず、問題のようです。

要するに、事態の認識と、それを伝える表現の問題です。

その一コマで、ヒマ潰しをしようと思います。

ほとんど面白くは御座いませんよ。これホント。

 

さて、先日、大阪北部を震源とする大地震がございましたね。

これは、ひょっとすると大きな被害が出たのではなかろうかと、テレビを見ていましたところ、「プールの壁に、子供が挟まれた」、と言うニュースが飛び込んで来ましたね。

これはえらい事だ、と思いつつも、一瞬、その状況がイメージできませんでしたね。

「プールの壁に挟まれた」状況と言うのが、どのような状況なのか思い描けなかったのですよ。

「プールの壁」と聞いた途端、どんな壁か、と言う疑問を感じましたよ。

プールと言うのだから、まずは、水泳用のプールか、と思いましたよ。そこで、水泳用の「プールの壁」って、どの部分を言うのだ、と言うことですよ。

水を蓄えるためのプールの内側の壁のことか ?

時節柄、プールには水が張られているであろうから、このようなプールの壁に挟まれた、と言うのであれば、具体的にどう言う状況なのか、と言うことですよ。事態が飲み込めませんでしたね。イメージが乏しいもので。

地震発生の直後のことですから、例えば、ビルの壁に挟まれた、と言う表現に出会えば、ビルとビルの間にいた人が、ビルの壁に挟まれたのであろうと、認識し易いのですが、これが「ブールの壁に挟まれた」と言うと、プールのどこの壁に挟まれたのか、想像が付き難かったのですよ。

そうこうしている間に、その「プールの壁」の実況映像が流れて来ましたね。

見ますと、プールの壁と表現されていたものは、小学校のプールと、それに隣接する道路との間に設けられているブロック塀のことでしたね。

最近のメディアは、このようなプロック塀を、「プールの壁」と表現するのですなー。

私のようなイメージの乏しい人には、「プールの壁」と言う表現よりも、「ブロック塀」と表現してもらった方が、遥かに判り易いのですが・・・。

しかも、「プールの壁に挟まれた」と言われると、「挟まれた」状況の理解が極めて難しいのですよ。

その時、私の見ていたテレビ局だけが、このような表現をしているのかなー、と思って、他局へチャンネルを切り換えても、どのテレビ局でも、「ブールの壁に挟まれた」とやっておりましたね。

このニュースの最初の発信元が何処か知りませんが、そこからの当該情報を得て、テレビ局側は、編集して自局の情報として流すことになるのでしょう。

これが、各テレビ局が、一斉に「プールの壁に挟まれた」と言う表現でやっているのは、この情報の出所が、同一なのだろうな、と想像できましたね。

各テレビ局で、この情報を得て、どのような表現で自局から発信するのが最適か、と言うことを当然考えるでしょうね。

当該状況の映像が未だテレビ局で確認できていない場合は、テレビ局側としては、言語表現だけで、発信しなくてはなりませんね。

その時に、「ブールの壁に挟まれた」と言う情報を得た場合、テレビ局側の編集・発信の決断をする責任者がいる事でしょうが、その立場にある方 は、この情報の事態を具体的にどのような状況と把握されていたのでしょうね。「プールの壁に挟まれた」と言う状況を具体的に把握出来ていたのでしょうか。

このような情報を得た場合、テレビ局側としては、いち早く自局から当該情報を発信したいでしょうね。他局よりも1秒でも早く発信したい、と言う欲求を常に持っていることでしょうね。

しかし、このような場合には、速報性と共に、正確性が問題になりますね。極めて関心度の高い情報を得た場合、テレビ局側としては、素早く発信と言うことに、関心が注がれることは、言うまでもないことでしょうが、その時に正確性が、おざなりになっては、元も子もなくなりますね。

従来のテレビ局の放映状況を振り返りますと、公の機関から得られた情報は、その発せられた表現をそのまま、発信すると言う特徴があるように見られるますね。

例えば、警視庁記者会見で発表されたことは、警視庁側の表現通りに、テレビ局から、放映されますね。

これは、これで意味のあることでしょうね。

しかし、警視庁側の表現は、時として、曖昧で判りずらいことが、しばしば御座いますな。

警視庁側は、正確性に自信のある事に関しては、明解に、断定的に表現しますが、事態の把握が未だ十分でない場合は、後々誤りであったら責任上問題である、と心配されるような事態については、断定せず、曖昧な表現を用いるようです。

このような曖昧な表現の情報を得たテレビ局は、曖昧な表現をそのまま放映するのが常のようです。

このように放映されたものを見せられる視聴者側は、そのとおり曖昧にしか受けとめるが出来ないのですよ。

したがって、記者会見の 際に、記者は曖昧さを感じた点については、きちんと質問し、曖昧である事情を確認する必要があると思いますよ。そして、どうして曖昧になっているのか、そ の事情を視聴者に伝えてもらいたい、と思うのですよ。そうすれば、視聴者はそれなりに、認識を確かにすることができるのですよ。

 

と言う訳で、「プールの壁に挟まれた」と言う表現は、テレビ局側が得た情報を、そのまま報道したものではなかろうかと、推測されるのですよ。

しかし、テレビ局でも、さすがに「プールの壁に挟まれた」と言う表現については、違和感を感じていたようですな。

「プールの壁に挟まれた」と表現されていた現場の映像がテレビ局に持ち込まれると、「ブロック塀の下敷きになった」と言う表現に変わりました ね。ただし、一部の局では、その崩れたブロック塀の映像を放映しながら、まだ、「プールの壁に挟まれた」と言う表現を続けていた局もございました が・・・。嗚呼!

しばらくして、どの局も、「ブロック塀の下敷きになった」と言う表現になりまたね。

その後、どこぞの局では、「ブロック塀に巻き込まれた」と言う表現に変えた局がありましたなー。

これは、どうしたものですかね。私の見た限りでは、ブロック塀が壊れて落下し、その下にいた小学生が下敷きになったように理解されたのですが、この状況を「巻き込まれた」と表現しているのですが、どうですかね。

とにかく、初期に発信されていた、「プールの壁に挟まれた」状況ではなかった、と言うのが実情のようですな。

何故、このような表現について、気に掛かるのかと申しますと、言うまでもなく、マスメディアの流す情報には、「事実を正確に」と言う事を期待するからです。

ちょうど大阪地震の少し前に、メディアでは、日大アメフト部の選手・監督・コーチに関るアンフェアな反則プレーについて、大々的に取り上げていたのですよ。

この時も、最初の発信元のメディアについては、どのメディかについては存じませんが、テレビでは、どの局も一様に、日大チームの監督が、同チームの特定の選手に対して、対戦相手の関西学院大学の選手を「壊す」ようにと言う指示をしていた。あるいは、指示していたようだ。と言う類いの表現で報じていたように記憶しています。

私の記憶では、テレビ局は、一様に各局「壊す」と言う表現を用いていましたね。この「壊す」と言う表現が、気に掛かったのですよ。些細な事が気になる悪い癖を持っているもので。

誰が指示を出したのか、否かについての真相は別問題として、各テレビ局が「壊す」と表現をしていた事は事実です。

ところが、しばらくして、アンフェアな危険な反則行為をした日大の当該選手が、謝罪の会見を行い、その中で「相手の選手を潰すように」と、コーチから告げられた、と言う内容のことを話しましたな。

当の反則を実行した選手は、「潰す」と言う表現をとり、「壊す」と言う表現はしなかったのですよ。

この会見後、各テレビ局は、一斉に「潰す」と言う表現に一変しましたね。

暫くの間、毎日報道していた「壊す」と言う表現を一切使わなくなり、「潰す」と言う表現になりましたね。

この会見前に、これを見よ、と言わんばかりに、使われていた「壊す」と言う表現は、一体何だったのでしょうね。

最初、「壊す」と言う表現を発したのは、誰だったのでしょうね。

この「壊す」と言う言葉は、日大の監督、コーチ、選手の特定個人の発言として報道されていたものです。

すなわち、発言の事実に関る事なのです。

「壊す」「潰す」は、同じような事態を表現するのに、よく使われますよね。

しかし、全く同じ事態を表す表現か、と言うと、聞き手によっては、ニュアンスが異なることがあるようですね。

例えば、東京で日常軽く「バカ」とする表現は、大阪では、一般的には「アホ」と表現するようですね。

この場合、大阪の人には、「バカ」と言う表現は、かなりきつく聞こえるようです。すなわち、カチンとくる表現のようです。

同様に、「壊す」と「潰す」にも、幾分のニュアンスの違いを感じるのですよ。

知人の大阪育ちの方がおられまして、昨日、車を電柱にぶつけて、潰してしもた、と言うのですよ。車がぺしゃんこになって、もう、使えない状態になったのかと思いきや、バンパーがちょっとへこんだ程度のようでしたよ。

「潰れた」と表現する場合も、ケースバイケースなのでしょうが、関西では、「壊す」と言う表現よりは、「潰す」と言う表現の方が、どちらかと 言うと、柔らかいニュアンスを持っているのではないのでしょうか。「壊す」と言う表現は、どちらかと言うと、きつい感じがするのではないのでしょうか。

と言うことで、「相手のクォーターバックを壊せ」と言う表現と「相手のクォーターバックを潰せ」と言う表現では、関西学院大学側の受けとるニュアンスが、幾分異なるのではないのか、と感じられるのですよ。

「壊せ」の方が、かなりきつく感じられるのでは、と思われるのですよ。

これは、関西の人に聞いてみればすぐにわかることですが。

東京でも、「壊せ」と言う方が、きつく感じますね。小生の偏見でしょうかね。

ラグビーの試合の場合などでは、スクラムが「潰された」と言うような表現は、よく聞かれるように思います。すなわち、馴染みがあるので、違和感が無いのですが、これが仮に「相手のスクラムを壊せ」と言う表現に出会うと、ちょっと、違和感があるのですよ。小生の偏見では。

と言うことで、どう表現されたのか、と言うことは、事実の確認上、気に掛かるのですよ。

この点について、最初のマスメディアが流した「壊せ」と言う表現が、どのようにして作られ、発信・伝達されたのか。

そして、「壊せ」から「潰せ」に表現を変更した事に関して、テレビ局側のコメントは、どの局からも聞こえませんでしたね。

誤報だったとすれば、一言訂正・謝罪めいたコメントの一つもあっていいのではないでしょうか。

政治家官僚さんであれば、この表現の違いは大変なことですよ。

先日、国会の証人に招集された総理元秘書が、「首相」と面会した云々と文書にあるが、これについてはどうだ、と言う質問を受けた時、私は、「首相」と言う表現は使わない。「総理」と表現する。従って、「首相」とある文書は、信用できるものではない、と言う答弁をしていましたねー。

同様のことが、今回のアメフト事件においても、問題になり兼ねないのですよ。「壊せ」などと言う指示は出していない。なんてね。

とにかく、マスメディアの発する情報は、強い影響力を持つものですから、事態の正確な確認と、その伝達に当たっては、適切な表現が求められますなー。

と言う事態があったのですよ。些細なことが気になっていた時に、今度は「プールの壁に挟まれた」ですよ。テレビ局の事実(事態)確認とそれを伝達する適切な表現のチェックは、どうなってしまったのでしょうね。

ついでに言えば、その後、崩れたブロック塀の後始末に関る報道が 流されましたが、今度は倒れた「ブロック塀」の「修復」が開始された、と言う表現で報じられていましたね。映像を見る限りでは、素早くブロック塀の「修 復」作業が開始された、と言うよりは、とりあえず、崩れ散らばっているブロッ塀の残骸の後片付けがなされただけに見えたのですが、「ブロック塀」の「修 復」が始まったと言う事態だったのでしょうかね。? ? ? と言うような疑問が発生するのですよ。

どうも、メディアに関る人々の事態の把握とそれを伝える表現は、大丈夫かと心配されるのですよ。

一般に、通常発生した事態が、正しく認識され、適切な表現で、誤解されないように報道されているのか、不安になるのですよ。

特に、政治、経済、社会等に関る事態については、どのように認識すべきか、どのような表現で報道すべきかについては、微妙なニュアンスの違いが存在することが、常と言って過言ではないでしょうね。

そのような事態に関る、例えばテレビによる情報伝達は、適切に行われているのか、待てよ、おざなりになされており、事実はちょっと違うのではないのか、と言った疑問が付きまとうのですよ。

 

現在のテレビをはじめとするマスメディアでは、あまりにも速報性に傾き、正確な事実確認が、どうもおざなりになり勝ちな傾向にあるのではないのか、と感じられるところがあるのですよ。

分かり易く言えば、不確かな噂を、振り撒かれたのでは、たまったものではございません、と言うことですよ。

マスメディア報道が、社会に与える影響が絶大だけにね。

シッカリ、タノンマッセ! ホンマ。

 

本日は、マスメディア報道に関る一コマを題材とした、アホくさい、バカバカしい、クダラない話でした。

どうです。つまらない、面白くもない、話でしたでしょう。

しかし、幾分かのヒマ潰しになったとすれば、まずまずなのですよ。

 

どうも、お疲れ様で御座いました。

お後がよろしいようで。

《停念堂閑記》86

「日比憐休独偏記」21

 

「先が見ねー」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお出で下さいました。

厚く御礼申し上げます。

本当に、よくいらっしゃいました。大歓迎で御座いますよ。

お急ぎと御用の無いお方は、心より、大大大歓迎で御座いますから。

今日も、有意義な? ヒマ潰しに、どうぞお付合い下さいませ。

話は、何時もの代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。

なぜアホくさい、バカバカしい、クダラない話なのか、と問われますと、決まってるでは御座いませんか。そんなこと。

立派な、意義深い話は、甚だ残念では御座いますが、難しくて出来ないからですよ。

従いまして、出来ないものは、出来ない。自信を持って断言出来ます。すこぶる明解な結論で御座います。

だから、出来ないことは、しない。判りきった明解な結論です。

アホくさい、バカバカしい、クダラない話ならば、幾分出来そうですよ。

人間、何か一つくらいは、取り柄 ? があるのではないかなー。

ヌ! これは勘違いか・・・ ???

とにかく、ヒマ潰しが、そもそもの主たる目的で御座いますから、この路線から外れないように、配慮すれば、立派な意義深いことに、拘らなくとも、なんとかなるのではないでしょうか。

ところで、何時も言っているように、ヒマ潰しには、擂鉢(スリバチ)と擂粉木(スリコギ)が、無くてはならない、必需品なのですよ。

まず、スリバチに、ヒマの素を適量入れまして、ヒマに任せて、スリコギで、トントン、ゴリゴリと、砕き、擂り潰していく分けで御座います。

極めて、単純な作業でありますが、これがヒマ潰しには、持って来いなのでございますよ。

皆様も、ヒマな時は、是非是非お試し下さいませ。

おそらく、すぐに、飽きてしまいますから。

但し、腹の立つことの素を入れた場合には、注意して下さいよ。

頭に来ちゃって、ついつい力を入れ過ぎて、スリバチを壊してしまう恐れが御座いますから、ほどほどがよう御座いますよ。

スリコギを振り回して、手当たり次第に、周囲に当たりちらしては、いけませんよ。

当たり散らすのは、どうぞスリバチの中だけにして下さいませ。

スーパで、旬の菜の花が出回っております。

辛子和えなど、良いのでは御座いませんか。

ココで、取り敢えず、一句。

菜の花や 月は4月の 日は六日 ???

訳の判らない一句を捻ったところで、参りますよ。

今日のヒマの素は、“先が見えねー” で御座います。

ココで、次いでの一句。

菜の花や 先が見えねー 四月六日 ???

 

それでは、行きますよー。

ヒマの素 “先が見えねー” を スリバチへ ポイ !

トントン ゴリゴリ

突然で恐縮で御座いますが、根室へ行った事が御座いますか。人口27,000人ほど、北海道の最も東に位置する大きな都市です。

東に突き出ているのが、根室半島、その突端にあるのが納沙布岬です。

それから、国後・歯舞・色丹・択捉島ロシア返還するように要求し続けている、いわゆる北方四島が御座いまして、それより得撫、知理保以、新知、計吐夷、羅処和、松輪、捨子古丹(小さめ島は省略してあります)・・・・・と千島列島が続いておりますなー。

思い起こせば、以前、北方対策担当大臣、どなたとは申しませんが、根室に視察にお出ましになられまして、原稿を見ながらのご挨拶の時に、滑った、噛んだでは無くして、〈読めなかった〉、と言う茶番を演じた大臣が御座いましたなー。

トントン ゴリゴリ

たしかに、北海道の地名の読みには、難解なのが沢山御座いますよ。しかし、北方対策担当大臣を受けたからには、問題になっている北方四島くらいは、せめて読めるくらいな勉強が必要なんじゃないのでしょうか。程度の低さに、あきれて、ひっくり返ってしまいますなー。

任命した総理大臣は、適材適所と直に言いますよ。総理の考えている適材適所とは、なんなのでしょうかね。

具合が悪くなると、前言を撤回して、任命責任は全て私に有ります。とかシャーシャーと言って、それで終りですよ。総理の持っている責任とは、カールイ、カールイ、吹けば飛ぶようなものですなー。

大臣の任命などは、適材適所ではなく、友達感覚による、自己のご都合のようですなー。これが国政に臨む姿勢なのですかねー。アーアー!

以後、北方対策担当大臣は、まずは、返還問題となっている島名くらいちゃんと、読めるように勉強をしておきましょう。

トントン ゴリゴリ

それでは、早速練習です。

国後 くなしり、歯舞 はぼまい、色丹 しこたん、択捉島 えとろふ

これがロシアに、返還要求している四島です。

はい、ワンスモア。

国後 くなしり、歯舞 はぼまい、色丹 しこたん、択捉島 えとろふ

ソラで言えますね。

大臣たるもの、読めるだけではいけませんよ。

ソラで言えるようにしておきましょう。

次いでに、これに続く千島列島も覚えておきましょう。

得撫 うるっぷ、知理保以 ちりほい、新知 しんしる、計吐夷 けとい、羅処和 らしょわ、松輪 まつわ、捨子古丹 しゃすこたん、

これくらいまでは覚えましょう。

はい、ワンスモア。

得撫 うるっぷ、知理保以 ちりほい、新知 しんしる、計吐夷 けとい、羅処和 らしょわ、松輪 まつわ、捨子古丹 しゃすこたん、

ソラで、できましたか。

トントン ゴリゴリ

それでは、北島四島と合わせて、

国後 くなしり、歯舞 はぼまい、色丹 しこたん、択捉島 えとろふ

得撫 うるっぷ、知理保以 ちりほい、新知 しむしる、計吐夷 けとい、羅処和 らしょわ、松輪 まつわ、捨子古丹 しゃすこたん

はい、ワンスモア。

国後 くなしり、歯舞 はぼまい、色丹 しこたん、択捉島 えとろふ

得撫 うるっぷ、知理保以 ちりほい、新知 しむしる、計吐夷 けとい、羅処和 らしょわ、松輪 まつわ、捨子古丹 しゃすこたん

ソラで行きましょう ソラで。

トントン ゴリゴリ

全部で、10島取り上げておきました。

中学生の時、マレー、スマトラジャワ、バリ、ロンボク、スンバワ、スンバ、フロレス、チモール、ウエタル、

と、得意げにやっていた先生がいらっしゃいましてね。それなら、と千島列島を覚えてやろうではないか、と取り組んだことがあるのですよ。

しかし、10島ほどが限界でしたね。この手の暗記ものは、不得手でしたなー。

10島が限界です。藤井6段は、この手のことは、得意なのでしょーなー。

70歳を過ぎると、やっぱり10島が限界ですね。なにせジッコですから。

トントン ゴリゴリ

ところで、なんの話だったか、といいますとですねー。根室半島の突端、納沙布岬から、10島の方角を眺めますと、気象が悪いと、全然、見えないのですよ。霧が発生したりすると、全く、なにも見えなくなってしまうのですよ。

北海道では、霧が発生することを、ガスると言います。

ガスったら、もー、なんにも見えなくなるのですよ。

と言うことで、本日のヒマの素である、“先が見えねー” と言うことに、ここで繋がると言う仕組みになっているのですよ。

どーです。結講、ヒマがかかるでしょー。ヒマ潰しになるでしょー。

これが、ヒマ潰しの常套手段ですなー。

トントン ゴリゴリ

と言う事で、なんとか本筋に戻って参りまして、これからトントン ゴリゴリを開始する、と言う手はずなのですよ。と申しましても、大したもの では、御座いませんよ。期待をしない方が、良いですよ。と言うより、最初から、されていないでしょうが。されたって、困るだけですから。

凡人は、平凡に徹した方が、良いようですな。

と言うことで、凡人の目からしますと、今の世の中、完全に? “先が見えねー” 状態に陥ってしまった感がするのですが、そのようには見えませんかねー。

国際的には、何と言っても、トランプさん。突然何を問題と仕出すのか、予想が着き兼ねるところがある、と騒がれていますなー。

突然、何を仕出すか判らない人との付き合いは、面白味がある反面、不安がつきまとうのですよね。

トランプさんの場合は、アメリカファーストの範疇で、何かを仕出かす、と言うことでしょうから、その意味では、あまりはみ出していないのかも知れませんなー。

ただし、その範疇で、何をか急に言い出すことがあるので、対応に苦慮することが発生するわけですなー。

トントン ゴリゴリ

安倍さんが、肩すかしを食ったのが、韓国北朝鮮の出方でしょうなー。

トランプさんの片棒を担いで、走り回った安倍さんは、なんだったのでしょうね。

やはり、視野が狭かったのでしょうね。目先の足下しか見えない、安倍さんの特質が如実に現れた、と言うことなのでしょうね。

韓国の出方についての読みが、甘かったと言う他ありませんなー。

韓国北朝鮮政府の約束事についての認識は、日本側の認識とは、根底で異なるところがあることを、常に注意する必要があるのでしょうな。

この基本的なところを、読めないのですよね。

ただただ規制を強化し、圧力を掛け続ける、と言う一本調子ではね。

対策が、単調すぎますよね。外した時の対策を用意しておかなくては。

結果、予想外の進展が露見して、初めて、“先が見えねー” と言う状態に陥ってしまっていることに気がつくのですよ。

何もかも、安倍さん個人が、判断する訳ではないでしょう。安倍さんの独裁体制が行われている訳ではないのでしょうから、むしろ彼の取巻きに問題があるのでしょうな・・・。

教訓。お友達は、よーく吟味しなくては。

トントン ゴリゴリ

さて、日本国の抱えている大問題について見れば、

財政の大赤字。国の大借金は、どうするのー。“先が見えねー”

デフレ脱却の問題は、どうするのー。“先が見えねー”

少子高齢化の問題は、どうするのー。“先が見えねー”

将来の労働人口の減少は、どうするのー。“先が見えねー”

年金問題は、どうするのー。“先が見えねー”

医療福祉の問題は、どうするのー。“先が見えねー”

東北大震災復興問題は、どうするのー。“先が見えねー”

津波対策は、どうするのー。“先が見えねー”

福島原発の処理問題は、どうするのー。“先が見えねー”

既存原発の処理問題は、どうするのー。“先が見えねー”

北朝鮮の核・ミサイルの対策は、どうするのー。“先が見えねー”

北朝鮮拉致問題は、どうするのー。“先が見えねー”

北方領土問題は、どうするのー。“先が見えねー”

竹島尖閣諸島問題は、どうするのー。“先が見えねー”

地震・風水害、災害対策は、どうするのー。“先が見えねー”

等など、国・国民にとっての大問題は、数々御座りますよ。

何か一つでも、満足に処理し終えた事が御座いますかーっちゅーの ???

ぜーんぶ、中途半端で、投げ出しては、いませんかっちゅーの。

どれもこれも、ぜーんぶ、五里霧中、真夜中のガスの中。真っ暗闇。

出口は ? 見えねー、見えねー、見えねー。

ねー、どうするの。

ねー、今の国会議員さんて、毎日、何をしてるのー ???

次期国政選挙のための運動バッカリ。

国政に対する誠意と言うものはあるのかねー。

答は明確。

ありません。無い。皆無。

アー、アー、どーなっちゃうの。

トントン ゴリゴリ

総理、一年中、森友、可計問題ばっかり。

知らぬ、存ぜぬで、シャー、シャーとしていられますね。全部、貴方から発した問題ですよ。

総理と同夫人森友学園との関わりから、激安の国有地払い下げ問題が発生し、挙げ句の果ては、関係公文書改竄にまで発展してしまっているのですよ。死者まで出して。

総理、これらは、貴方が震源であることは、間違いがないことなのですよ。

他の誰が、引き起こした事態なのですか。籠池さんが独自で、ここまでの事態を引き起こしたのですか。

佐川さんが、全く個人的に引き起こした事態なのですか。

全部、総理がらみで、現在の泥沼事態になっているのですよ。

このような事態を出現させ、明解な収束が出来ていない責任と言うものを感ずる感覚は、無いのですかね。

トントン ゴリゴリ

官公庁を上げて、公文書改竄なんて、前代未聞。

一人の官僚のせいにして、事態の幕引きにしようなんて、国民に対して、取り返しのつかない、申し訳ない事態を引き起こし、収拾出来ない事態に、立ち至っている、と言う自覚はないのかねー。

また、官公庁によるズサンな公文書の作成、管理。国会議員だけかと思っていたのが、官公庁があげて、堕落。悲惨な状況ですな。

国家・国民を第一に思う政治家官僚ならば、まずは、最高責任者が、その責任を取らなくてはならないのは、当たり前の、当然の事でしょう。

善悪はともかくとして、事実かどうかも判っていませんが、佐川さんは、国会を混乱させた、と言う表向きの理由で、一応、自己の責任をとった形を整えたのですよ。整えさせられたのかも知れませんが。

総理、貴方は、これだけ国会のみならず、国じゅうを混乱させておいて、未だ、何の責任らしい、責任を取ってはいないのですよ。

とろうとする気配すら見せないのですよ。

トントン ゴリゴリ

直接手を下した証拠は、明らかではないにしろ、安倍総理政府のもとで、国会、国じゅうを混乱させた事実は、もはや、消すことは出来ない、紛れもない事実なのですよ。

国民は、政治家も、官僚も、官公庁も信じられない事態となっているのですよ。

国政を預かる総理自身を震源として、このような末期的とも思われる事態になっているのですよ。

この責任は、免れるものなのですか。

国政を預かる最高責任者として、心が痛まないのでしょうかねー。

歴史に残る驚嘆たる事態ですなー。

然るべき責任を取って欲しいものですが、一向に “先が見えねー” のですよ。

トントン ゴリゴリ

また、国民の状況をみても、“先が見えねー” のですよ。

少年、青年は、どのような目標に向かって生きていけば良いのでしょうか。

多分、将来像が、全く“見えねー”と言うことでしょう。

原因は、明解です。

現職の国会議員が、日本の将来像を全く画く事が出来ていないからですよ。

完璧で無くても、曲がりなりにでも、将来像を画く、努力をして欲しいのですよ。足下の目先だけを見ずに。

国会議員さん、ヒマができたら、地元に飛んで返って、次期選挙の地固めをする時間があるのなら、日本の将来をどうしたら良いかの研究に政治生命を費やして下さいよ。

国税を使って、次期国政選挙対策ばかりやってないで、国・国民のための政治に取り組んで欲しいものです。

国会議員の“国”は、国政選挙の“国”では無いのですよ。国民・国の“国”なのですよ。そこんところを、決してトッチガエないで下さいよ。

トントン ゴリゴリ

一方、国民側にも、責任があるのですよ。

国民も、代議士さんに任せっきりにせず、自らも日本の将来像を画いて欲しいものです。日本は、自由主義の国ですからね、自分だったら将来こんな日本になって欲しいと、自由に画いて、発信することは、なんら問題がないのですよ。

そのようにして、具体的な将来像が出てくれば、若者も大助かりではないのでしょうか。

そうしないと、若者は、将来に向かって行く時、目標がハッキリしていないと、どこへ向かって良いのか、判らないのですよ。

仕方が無いので、専ら、スマホをいじくってるより無いのですよ。

しかし、毎日、スマホばかりいじっていて、それで、いいのですかねー。

スマホいじるなら、将来像を画いて、自ら発信した方が、いいですよねー。

インスタ映えが、どうのと、写真ばかり、見せっこして、よろこんでる場合ですか・・・。楽しむことは、結講ですが、他にも、やることがあるでしょー。

旨そうなラーメンインスタ映えの果てに、何が見えるのでしょうね。

それとは別に、こんな国にしたい、と言う課題に取り組んだりしてみませんか。インスタ映えのする、未来の日本像を発信してみませんか。結講、病み付きになるかも知れませんよ。

トントン ゴリゴリ

大した経験でなくて、恐縮ですが、私が楽しめたことは、一つは、家を建てる時の設計? です。

グラフ用紙を買って来ましてね。それに、線を引いていくのですよ。設計と言っても、建築家さんのように専門知識が御座いませんので、専ら間取り図の作成ですね。一本の線で、どうとでもなるところがミソですね。

線を引いては消し、また、引いては消し、この繰り返しが実に楽しいのですよ。

どんな間取りがいいかなー。こっちかなー。いやいや、これの方が・・・、と切りが有りませんなー。

結局、お願いした本物の建築士の方から、家を建てると言うことは、オナーさんが一人で建てるものではありませんよ。オーナーさんと、建築士さんと、施行の業者さんの三者で、1軒の家を建てて行くのですよ。この三者の合作ですからね。と釘を打たれましたが、こちらの希望を最大限とり入れてくれましたので、ぜんぜん豪邸とはほど遠い家ですが、実に、楽しい作業でしたね。

もう一つは、車の購入ですね。これも面白かったですね。とにかく、予算に頭打ちにされているのですが、その範囲内で、どれを選ぶかは、自由ですから、実に、沢山のカタログ、雑誌を集めましてね。毎日、選定に余念がありませんでしたな。

なにをポイントに選定するのか、これが迷うのです。あれだ、これだとさんざんやっても、購入できるのは、たった1台きりなのですが、車選びは面白いですなー。

結局、事故を起こさぬ前にと、昨年で運転を止めにしましたが、30年余りの期間で、? 台取り替えましたね。

今は、0台です。自転車1台になってしまいました。

目下、電動アシスト自転車選びを楽しんでいます。

トントン ゴリゴリ

家や車で、結講楽しめるのですから、これが、好きな国家を、となったら、これは病み付きになりますよ。

「停念堂閑記」のNo.32~35で、“ 天国 ” を作ってやろうと、とっかかりましたが、これも作業をしている時は、結講、楽しめましたよ。

ただ、やっぱり発想がね。乏しいのですよ。すぐに、壁に打ち当たりますね。しかし、あれこれトライすれば、なんとかはなるのですよ。

結果、成功か、大失敗か、知った事ではありませんから、気楽なのですよ。直に、能力の限界が見えてきましてね。幾分淋しい思いは致しますが、でも、作業をしている時は、それなりの楽しさがあるものなのですよ。

 

トントン ゴリゴリ

だから、こんなのどうだ、コッチではどうだと、とにかくやって見ることですよ。スマホのゲームだって、利用者よりは、作り手に回った方が、数段楽しいと思いますね。

だから、色々なことについて、生産する、創り出す喜びに目覚めると、病み付きになるのですよ。スマホだって、ただただ、誰か他人の作ったものをいじってれば良い、と言う場合では、なくなりますから。

トントン ゴリゴリ

例えば、現行の政治の仕組みは、まず、議案を衆議院議会にかけて、衆議院で可決すれば、次ぎには、参議院に回して、再度議論して、参議院で可決されれば、実施と言う方向で事が運ばれて行く仕組みですね。

これって、これで良いのですかね。

衆議院の特質は、国政選挙で、政党をベースに選ばれた国会議員による議会です。

参議院も同様に、立候補者の年齢に違いがあるだけで、国政選挙で、政党をベースに選ばれた国会議員による議会です。

殆ど同じ性格の議会で、同じ議案が議論されるシステムです。

これって、意味が御座いますか。

実情を見ますと、衆議院参議院では、殆ど変わらない議論が行われているに過ぎませんよ。その上、衆議院優位の原則がありますから、結果的には、衆議院の可決どおりとなるシステムです。

はっきり申し上げて、参議院存在価値が御座いませんよ。

即刻、廃止すべき存在です。

手間隙掛けて、金かけて、無意味の存在って、何なのさ ???

トントン ゴリゴリ

そして、現行の国会による議案の議論、採決による可決の道を辿って、事が実施されて行く事に関して、最も、憂う事態は、衆議院で可決されてしまえば、それが実質的に、決定と言うやり方です。

国政の場合は、衆議院優位の原則がありますので、参議院のチェック機能は無いに等しいシステムなのです。

要するに、衆議院の可決の結果をチェックするシステムが弱いのですよね。

トントン ゴリゴリ

ここで、提案ですよ。

参議院を廃して、新たに、衆議院の可決結果を専門的立場からチェツクするシステムを作りましょう。

判りよく言えば、衆議院に対する、ご意見番 大久保彦左衛門的機関を置いてはいかがか、と言うことです。

これは、衆議院と同じように、議決権を持つ必要は御座いません。

あくまでも、衆議院の可決結果に、専門的見地からチェックを入れて、不十分であれば、衆議院に警告を発し、衆議院は、このチェック結果を無視出来ず、再審議をしなければならない仕組みを作っては、どうか、と言う提案です。

政党議員数にものを言わせて、なんでもできるシステムでは、もはやダメだと言う事です。

問題は、このような衆議院の可決事案についてのチェック機関を、どのようにして成立させるか、と言う事です。

一つの独立した機関と言うことですから、その組織、人的構成から権能についての基礎を考えなくてはなりません。

これは、俄に結論を出せる問題では、御座いませんので、じっくりと多角的視野から考える必要が御座います。

取り敢えずは、この点についての、意見を出し合ってみてはどうでしょう。

インスタ映えのするやつを、期待しますねー。

トントン ゴリゴリ

たとえば、

○現参議院を廃止する。

○【国政検査院(仮称)】を置く。

○存在(司法立法行政機関から独立した存在とする。政党色を持たない。)

○任務と権限(衆議院の可決事案の検査、衆議院に再検討を命ずることができる。)

○組織(検査官・検査会議・事務局。現参議院を縮小した規模。審査官の位置づけ、選出方法。)

おおむね上記を、骨子とする。

と言うように、最初は、大雑把なもので良く、段々、意見を出し合って、良いものにしていければ、それで良いのではないか、と思うのですが。

現在は、会計検査院と言うのが御座います。詳しくは、存じませんが、専ら、国の会計を中心とする検査機関のようですね。

これらと、どのようにするかも考えなくてはならないでしょうね。

トントン ゴリゴリ

と言うようにですね。現在の体制における問題点を洗い出して、どのように機能的なものに、改めていくかを、考えなければ、と言うことですよ。

このような事は、本来、国会議員がやるべき仕事です。

しかし、現在の国会議員は、全然機能しないのですよ。

現制度をいじれば、自分の立場はどうなる、と言うイジマシイことしか考えませんから。天下国家など眼中になく、利己・利己・利己・・・ですから。

自己の国会議員と言う立場の保持だけに、懸命ですから。

トントン ゴリゴリ

これで、《憲法改正》だなんて、大それた事を言っては、いけませんよ。

それならば、まず、第一に、日本の将来像を明確に出しなさい、と言いたいですよ。

その上で、このような国にするには、このように《憲法改正》をしたいのだ、と運ぶのが筋でしょー。

基本を示さず、枝葉ばかり、いじろうと言う魂胆がねー。

どうして、こんな国会議員になっちゃったのですかねー。

原因は明解です。国民が国政選挙で、選出したからに他なりません。

責任の所在は、明白です。

この国は、かなりヤバイ領域に入っている様です。

早く、手を打つ必要に迫られていますよ。きっと。

トントン ゴリゴリ

では、国民は、どうすれば、良いのだ、と言うことですが、難しい事では御座いませんよ。

一語で言えば、“しっかり” すれば、良いのではないでしょうか。

とりあえず、人材を創り出さなければ、話になりません。

前回、提案しましたように、人づくり教育に励みましょう。

《教育内容の骨子》

1  正直であること。

  ウソをつかない。ヒトを騙さない。ズルをしない。

2  他人の立場で、物事を考えること。

  自己本位に物事をやらず、公平を基本として、物事に取り組む事。

3 親切であること。

  意地悪をしない。威張らない。脅かさない。暴力を振るわない。

4 勤勉であること。

  真面目に仕事をしましょう。

5 責任をとること。

自分の言動に、ちゃんと責任をとること。

  

難解な事は、一つも御座いませんよ。みんな判りきったことばかりです。

まずは、自身がこれを出来る人になり、次いでに、出来てない人には、教えましょう。特に、子供さんには、念入りに教えましょう。

一日中、スマホばっかりいじっている子には、重点的に教えましょう。

トントン ゴリゴリ

段々、お説教じみてきましたなー。

昔のジジ・ババは、とにかく説教じみていましたよねー。

ジジ・ババのお説教は、ゴメンだ。と子供たちは、逃げ回っていましたが、結局は、少しは耳に入っていたのですよ。

そのような中で、子供は成長して行ったのですが、最近は、コゴトを言おうにも、家族の形態がすっかり変わってしまっているので、コゴトを言う機会が、すごく狭くなっているのですね。

年寄りから、コゴトを言う機会を奪ってはいけませんよ。

そのようなことをすると、“先か見えねー” という事態に落ち込みますよ。

年寄りのコゴトは、世を救うのですから ???

本当かどうか、ちょっと、怪しいところがありますが・・・・・。

 

本日は、この辺で止めます。

トントン ゴリゴリ

どーですか。本日も、アホくさい、バカバカしい、クダラない話に終始しましたが、ヒマ潰しに、なりましたでしょうか。

国後、歯舞、色丹、択捉島・・・・・

ソラで言えるようになりましたか。言えるようになっていたら、もー、某北方対策担当大臣の、かなり上に行ってますよ。間違い御座いませんよ。

 

どーもお付合い下さいまして、有り難う存じました。

お疲れさまで御座いました。

 

お後がよろしいようで。

《停念堂閑記》85

「「日比憐休独偏記」20

 

「人か ? システムか ? 」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお出で下さいました。

厚く御礼申し上げます。

本当に、よくいらっしゃいました。大歓迎で御座いますよ。

おヒマなお方、心より、大大大歓迎で御座いますから。

御用とお急ぎで無いお方は、今日も、ヒマ潰しに、どうぞお付合い下さいませ。

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないの三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。

とにかく、ヒマ潰しが、そもそもの主たる目的で御座いますから、この路線から外れないように、極力配慮して、参らなければならないのですよ。

ところで、ヒマ潰しには、擂鉢(スリバチ)と擂粉木(スリコギ)が、無くてはならない、必需品なのですよ。

まず、スリバチに、ヒマの素を適量入れまして、ヒマに任せて、スリコギで、トントン、ゴリゴリと、砕き、擂り潰していく分けで御座います。

極めて、単純な作業でありますが、これがヒマ潰しには、持って来いなのでございますよ。

ヒマな時は、是非是非お試し下さいませ。

おそらく、すぐに、飽きてしまいますから。

但し、腹の立つことの素を入れた場合には、注意して下さいよ。

頭に来たあまり、ついつい力が入りすぎて、スリバチを壊してしまう恐れが御座いますから、ほどほどがよう御座いますよ。

スリコギを振り回して、手当たり次第に、周囲に当たりちらしては、いけませんよ。

どうぞお気をつけ下さいませ。

 

さて、本日のヒマの素は「人か ? システムか ? 」で参りたいと思います。

サー、「人か ? システムか ? 」の素をスリバチに放り込みますよ。

いきますよー。「人か ? システムか ? 」の素 ポイ!

ポイは、入れた時の擬音で御座います。蛇足ながら。

ソーレ トントン ゴリゴリ

いきなり、お堅い話で恐縮で御座います。

なにせ、自分で言うのも烏滸(おこ)がましいので御座いますが、どなたも、言ってくれないものですから、自分のことは、自分で致すことにしております。

一言で申しますと、私は、実は、大変勤勉と申しますか、実直と申しますか、すこぶる真面目な性格なので御座いますよ。笑う所では御座いませんよ。

たびたび「停念堂閑記」にお見えになられるお方々が、お思いになられておられますような、フザケタ野郎では、決して御座いません。ホント。

めっぽう無口な、ハニカミ屋さんなのですよ。疑ってはいけませんよ。

割り箸で、ツッツコウものなら、たちまち折れてしまうような、本質的には、スッゴクお堅い人物なので御座いますよ。この辺は、云った者勝ちですからね。

ですから、話はいつも、お堅いものばかり、ダジャレ、ギャグなど一切なし。カチカチ山のカチカチ専門で御座います。決して、決して、フザケタことは、申し上げたことが、記憶に御座いません。すぐに忘れちゃいますので。

よって、本日も、変わりませず、お堅い話で、恐縮で御座います。笑えませんよ。肩凝りますから、お気をつけ下さいませ。

トントン ゴリゴリ

時に、政治の場でも、官庁でも、一般の企業でも、なかなか事が上手く運ばない事情が発生致しますなー。もー、しょっちゅうと言って、いいようですなー。

そーしますと、何故に上手く運ばないのか、その原因を探る事になりますなー。

色々と調べまして、その結果、往々にして起こる議論は、仕組み、すなわち、システムに問題があるのではないのか、と言うことですなー。

そこで、現行のシステムの点検に入りまして、あれこれと気がついた事が指摘されることになりますなー。

その上で、システムに問題ありと言う事が明白になれば、システムの改良と言う事が必要になりますわなー。

トントン ゴリゴリ

現行のシステムをベースとして、若干の手直しで済む場合もあれば、現行のものは最早役に立ちそうにない。全面的に改変を要する、と言う場合も有るでしょうね。

いずれにしろ、新たなシステムを導入して、事に当たることになりますなー。

色々と検討して、新たに導入されたシステムですから、以前よりは、上手く運ぶはずですわなー。

以前具合の悪かった点が、改良された筈ですから、以前よりは、上手く運ぶのが、当たり前ですわなー。

これで、良し良しと言う事で、暫くは進行するわけですよ。

ところが、時間の経過と共に、また、具合が悪く、上手く行かない事態が発生したりするわけですよ。

これが、それなりの時間が経過した後に、上手く運ばなくなった、と言うのであれば、環境が変わったりしますから、それは、致し方のない場合も御座いますわなー。

そーしたら、又、システムの改変に取り組まなくてはならなくなり、結局は、更に、新システムの導入と相なりますなー。

一般的には、大体はこの繰り返しで、事態が進行するのでしょうなー。

トントン ゴリゴリ

ところがですよ。従前のシステムを改良して、新システムの導入を図り、今度は上手く運ぶ筈だったのが、大して環境に変化を来している分けでもないのに、中々上手く運ばない事態が出現したりする場合があるのですよ。

従前の具合の良くなかった所を改良したシステムですから、今度は、上手く運ぶ筈なのですよ。これが、上手く運ばない時って、結講あるのですよ。

トントン ゴリゴリ

それで、どこかに欠陥があるのではと、また点検が行われたりしましてね。新システムの思わぬ欠陥が見つけ出されることも有るでしょうね。そーしたら、その改善を図れば問題は、解決する筈なのですよ。

ところが、新システムにおいて、これと言った欠陥が見出されなかった。新システムは、期待される機能をちゃんと備えている。なのに、上手く運ばない。これはどうした事だ、となるわけですが。

このような場合に、浮上してくるのが、従前のシステムに関っていた人、更に、新システムに関っている人に問題があるのではないのか、と言う事になるのですよ。

要するに、システムの問題とは別に、それに関る人に問題がある場合ですなー。

これは、よくあることなのですよ。

トントン ゴリゴリ

えてして、人は、事態が思うように進まない場合に、それに関る仕組み、システムが悪いのではないのか、と考え勝ちですね。

それと同時に、そのことに関る人にも、問題があるのでは、と気がつくのですが、人の問題が関ると、なかなか事態が難しくなり勝ちなので、最初は、システムの方に目を向け勝ちになるようですね。

システムは、取り敢えずは、文句言いませんからね。取り組み易いのですよ。

トントン ゴリゴリ

しかし、システムを直しただけでは、なお、ことがスムーズに運ばないことが、多くあるのですよ。

根本的には、人に関る問題が存在するのですよね。

いくら良いシステムでも、その運営に携わる人が、適格でないと、システムは期待通りの効果を発しないのですよ。

最新のレーシングカーに、車の運転したことの無い人を載っけたのでは、動きはしないのですよ。レーシングカーの意味がないのですよ。

トントン ゴリゴリ

また、端的に申しますと、殆どが不適格者の集団に対しては、もはや人については手の付けようが無い、と言う場合には、精々、より効果的なシステムを開発するより仕方がない場合があるのですよ。

このような場合は、不適当者を規制するシステムでも、開発するよりなくなってしまう訳ですなー。

ところが、たとえば、大したシステムでなくとも、それに関る人がシッカリしている場合は、事態はけっこう正常に運ばれていくのですよ。

と言うことは、システムは、効率を上げるには、不可欠な存在ではあるが、システムだけ備えても、その運転者がダメな場合は、役に立たないのですよ。

結局は、人と言うことになるのですよ。

トントン ゴリゴリ

例えば、以前、大いに騒がれた、国民年金の問題が御座いましたな。

国民年金を運営する仕組み、システムは国会議論され、関係法律が整えられて、すなわち、システムが整えられて、順調に運営されて行く筈だったのですね。

これが、結果どうなってしまったか、と言いますと、申すまでもなく、惨憺たる状況を生み出しましたなー。

たとえば、掛け金が順調に集まり、高額な資金がプールされると、それを年金として支給する資金としてだけではなく、厚生施設など、大規模な建物とその運営にも使いだしましたな。

結局、これが大失敗して、施設を処分しなければ、と言う事態となって、大きな立派なビルが売に出されましたな。なんと、なんと、驚くなかれ、 100円で売に出された物件が出現したのですよ。もう、お忘れでしょうか。このような事は、なるべく忘れないようにした方が良いですよ。反省材料としまし てね。

トントン ゴリゴリ

これが、国会野党から突き上げられると、なんと、価格を10倍にすると言う答弁がなされたのですよ。

10倍、すなわち1,000円に引き上げると言うのですよ。

驚きましたね。この国会におけるマジメ ? な遣り取り。

いいかげんにしなさいよ !

建築には、何千万だか何億だか費やして造った国有財産を売却するに当り、100円では、どうだ、と言う提案がなされ、ふざけたことを言うな、と突き上げられたら、10倍に跳ね上げ、1,000円にする、と言う国会議員さんの遣り取りがなされたのですよ。今、思い出しても、胸くそが悪くなるばかりですね。血圧急上昇ですよ。

トントン ゴリゴリ

結局は、うやむやの部分を残したまま、処分されたのでしょうね。

その上、誰が責任を取ったのです。記憶にありませんが、この手の責任は、大抵は、責任あるポストにあった人が、そのポストから退く、と言う方式が一般的な責任の取り方ですよね。

国民からしてみますと、このような責任の取り方は、殆ど意味がないのですよ。判り易く言えば、金返せ、と言う以外にないのですよ。責任者がクビになったとて、なんの足しにもなりゃーしないのですから。

すなわち、この手の事柄については、責任の取りようがないのですよ。

さらに、消えた年金問題も明るみに出ましたなー。

今となっては、年金の将来が全く見えなくなっているのですよ。

結局は、支給年齢を遅らせよう、減額しよう、と言う、目先の最も安易な方法が進められている現状ですよ。

トントン ゴリゴリ

 

これらの問題は、システムもさながら、それに携わった人によって、引き起こされた災ですよね。

システムにも問題が有ったのかも知れませんが、それに関った人達が、言ってしまえば、プールされた高額の資金に群がり、食い物にしたと言う話に尽きるわけですよ。

さらに判り易く言えば、代議士さん、官僚公務員さんが、国民のためにならない事を、平然と行った。とんでもない代議士さん、官僚公務員さんだったと言うことなのですよ。中には、良い方もいらっしゃるでしょうが。

トントン ゴリゴリ

このような例は、限りなく、幾らでも御座いますね。

今、騒がしい森友学園の問題、激安の国有地の払い下げ問題に絡む、財務省公文書改竄の問題。

よくぞ、ここまで堕落したものですなー。

悲惨と言う他、御座いませんな。

根底に横たわっているのは、すなわち、事態に関るシステムもさることながら、携わる人の資質が問題なのですよ。

ある意味、バランスはとれているのですよ。とんでもない連中が、寄り集まって、とんでもないことを仕出かしている。辻褄はちゃんと合っているのですよ。

しかし、国税を使って、このようなことをやられたのでは、たまったものでは、御座いませんよ。

総理大臣を頂点とする政府を形成する面々、国会議員の面々、官僚の面々、その下で公務に携わる国家公務員の面々。申し訳御座いませんで済む問題ですか。と言うことですよ。

まさに、どーなってしまったのですかね。国のリーダーたるべき地位についておられる面々、一体、どーしちゃったのですか。

まさに、箍(たが)が外れたを、通り越して、完全にぶっ壊れてしまった感じですなー。

トントン ゴリゴリ

国のリーダーたる位置にある面々の資質が、問題なのですよ。

国会議員さん、貴方の事ですよ。与野党合わせて。

自分は違う、などと思い上がったら、とんでもない話ですよ。

一人残らず、代議士先生全員の資質が、問われているのですよ。

誰とは申しようも御座いませんが、貴方は国政選挙で、国民の信頼を受けて、選出されたのでは御座いませんよ。

多くの有権者は、投票場に足を運んでも、自分等の代表として、この人をと思って投票している人は、殆どいないのですよ。

自分等の代表者として、選ぼうにも、その資質を持った方が、立候補者の中にいないのですよ。

仕方なく、期待できないが、誰か名前を書かなくては、と言う思いで、泣く泣く投票して来るのですよ。何時ものことですよ。

どなたとは申しませんが、現職の代議士さん、貴方はそのような事情で選出された方なのですよ。

それを、自分の背後には、何千人の支持者がいるのだ、などと勘違されて、勢いでとんでもないことを仕出かそうとしている場合が、見られるのですよ。

もはや、民主主義のある意味限界が来ている感がございますなー。

何回、選挙をやり直しても、殆ど、ダメなのですよ。

ここまで、資質が落っこちてしまうとね。

トントン ゴリゴリ

アー、アー。

出るのは、ボヤキばかり。

しかし、ボヤイてるばかりでは、どうにもなりません。

前向きに、建設的に考えなければなりませんな。

どうにかしなきゃー、と言うことですね。

結論。

人作りの教育を徹底するよりないのです。

《教育内容の骨子》

1 正直であること。

これは、人の資質の基本中の基本です。

ウソをつかない。ヒトを騙さない。ズルをしない。 

誰とは申しませんが、現職の代議士先 生に、最も欠如している資質でしょうね。平気で、ウソをつくわ、ヒトを騙すわ、ズルをするわは、日常茶飯事ではございませんか ? 明確な証拠さえ残していなければ、なにをやっても良いわけは御座いませんよ。人間、自分の行為について、全て証拠を残している訳では御座いません。

証拠が明らかでないことが、事実として無かったと言うことでは御座いませんよ。人間の日常の行為については、殆ど、証拠証明はできませんよ。

因に、昨日、何回小便をしましたか。証拠を上げて証明しなさい、と後で言われたって、証明のしようが御座いませんよ。と言って、昨日は、小便をした事実は無い、と言えますか ?

だから、証拠を上げられないことは、存在しなかったことだ、と言う論理を振り回したりしないで欲しいものですなー。 

2 他人の立場で、物事を考えること。

自己本位に物事をやらず、公平を基本として、物事に取り組む事。

分け隔てをしない。差別をしない。親しい友達最優先の便宜を図らない。

自己の損得ばかり、考えてはいませんか ?

誰とは申しませんが、どー見ても、利己の塊にしか見えなかったりして。

3 親切であること。

意地悪をしない。威張らない。脅かさない。暴力を振るわない。

人として、至極当たり前のことです。

因に、最近やたら登場が多くなった気がする丁寧ですが、これは、親切と同じとは限らないようですなー。

親切は、事の内容に関りますが、丁寧は人の行為そのものであって、行為の内容とは別物の様です。ですから、不親切なことでも、丁寧にやることは可能なのですよ。時々、丁寧には、騙された気がしますよね。

4 勤勉であること。

真面目に仕事をしましょう。と言う事です。当然、公私にわたって、と言う事です。

まー、最近、政治、公務に携わっている人の不真面目さが、目立ち過ぎはしませんか。

国会答弁の場で、この件に関する記録は御座いません。とか、破棄しましたので、既に、存在しません。なんて言う答弁が多発しています。

公務に関る会議が行われた場合、その記録が作られなかった、などと言うことは、まず、考えられない事です。公務員の仕事 は、まず、関ったことの記録を残す、と言うことが基本中の基本です。

記録を残さない公務上の会議が行われているとすれば、それはまさに、それ自体が大変な事なのです。それこそ大問題ですよ。なにやってんだ、と言う話ですよ。こうなっては、公然と不正が行われてしまうのですよ。

御座いませんなどと答弁した関係の文書が、後で続々と出てくる事態なのですよ。今は。

これは、まず、ウソをついて騙そうとした、と言うことなので、言語道断のことですが、同時に、関係文書の調査をいい加減 にしかやってない、すなわち、真面目に仕事をしていない、と言うことなのですよ。

実に、目立ちますなー。どうしちゃったんですかねー。

従前から、ずーっとこのようだってのですかね。そーだとしたら、もー、やってられませんな。

更に、後で、具合が悪くなっちゃったので、辻褄合わせに、書換えちゃった、事実が明らかになっては、具合が良くないの  で、改竄しちゃった。なんて、もはや言い様もございませんな。

くさっちゃって、ドブドフ状態ですね。

5 責任をとること。

最後になりましたが、自分の行ったことに、ちゃんと責任をとると言う事です。まったく、当たり前の事です。

自己の好き勝手をやって、責任を取らない、と言うのが、当世の特徴と言っても良いのかも知れませんなー。そんな気がしますよ。

日本は、自由主義の国ですから、色々やってみることは、自由ですよ。しかし、やった事に対して、責任はついてまわりますよ。けれども、これを何とか回避しようと、ズルッコク立ち回る人が多いのですよね。責任逃れは、公務員の特質の様ですが・・・。

  

 トントン ゴリゴリ

取り敢えずは、以上の5か条を、徹底的に教え込むことが大切のように思われるのですが、如何なものでしょうね。

教育と言うと、まずは、学校教育を想起する方が多いかと思いますが、本来、教育は、個人を取り巻くありとあらゆる時、所で行われる行為です。

ですから、ことさら学校に限定する事無く、あらゆる機会に教育が行われなくてはなりませんなー。

小難しいことを四の五のは、申しません。

取り敢えずは、上記の5か条を、老若男女、東西南北、春夏秋冬を問わず、徹底することが、大事ではないでしょうか。

内容は、解説を必要とするほど、難解なものは一つもございません。

どれも、人として、当たり前の事ばかりですよ。

しかし、この当たり前の部分が、現代人に、最も欠如していているのではなかろうか、と感じられるのですよ。

親による子供教育、保育機関における幼児教育、学校教育高等教育、その他社会のあらゆる場面で、徹底的に教えることが肝要だと思いますが。

でないと、日本の将来が危なくなっているのですよ。

どこかで、締め直さなくては。

トントン ゴリゴリ

どうです。いいかげに、嫌になって来たでしょ。堅い真面目な話は、肩がこるのですよ。

面白くないし、可愛くないし、癒されないし、現代人の最も関心の無い部分でしょーなー。

面白くないし、可愛くないし、癒されないことなんて、糞食らえでしょうか。

いい加減な人が立候補し、有権者はいい加減な投票をし、いい加減な人が当選して、国政にいい加減な資質の人が携わる。結果、いい加減なことが、平然と行われることになる。

この、悪循環を断ち切るには、システムを改良する事も大事です。

例えば、国政に関る選挙制度などは、早急に改善が必要ですなー。

しかし、この改善に当たるのが、人です。国会議員さんです。

ですから、さしずめ、人作りから始め、立派な議員さんを作り出すよりないと思うのですが・・・・・。

トントン ゴリゴリ

もー、この辺で止めにします。

今日は、ちょっと堅い話になってしまいましたなー。

本当は、こんな話をしたかーないのですよ。

ダジャレとか、親父ギャグの方が、よっぽど好きなのです。

しかし、テレビを見、新聞を見ると、ついついボヤキたくなっちゃうのですよ。

誰でも知っていることを、ダラダラと書いただけで、申し訳ございません。

杉下右京さん流に言えば、これが、小生のワルイ癖なのですよ。

 

幾分のヒマ潰しになりましたでしょうか。

なんとも、「アホくさい、バカバカしい、クダラない」話でした。

お疲れさまで御座いました。

 

お後が宜しいようで。

《停念堂閑記》84

「日比憐休独偏記」19

 

「モー 信用できねー」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお出で下さいました。

厚く御礼申し上げます。

本当に、よくいらっしゃいました。大歓迎で御座いますよ。

おヒマなお方、心より、大歓迎で御座いますから。

今日も、ヒマ潰しに、どうぞお付合い下さいませ。

ここでの話の第一のポイントは、ここに有りますので、この点をしっかりとご認識下さいませ。

ヒマ潰し話ですからね。ここが肝心のところで御座います。

話の内容は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。

これが、第二のポイントで御座います。

要するに、「立派な、意義深い話」ではなく、「アホくさい、バカバカしい、クダラない話」と言うのが、肝心なところなのですよ。

なんでかー、と申しますと、まずは、「立派な、意義深い話」は、一口に言いますと、難しくて、柄に合わないからなのですよ。

「立派な、意義深い話」は、然るべきお方が、然るべき時に、然るべき所で、然るべき対象になさって、はじめて「立派な、意義深い話」となるのですよ。

誰もいない、山田の中で、大声を張り上げて、つまらない話をしてみたところで、一向に何の役にも立たないのです。

誰彼がやってみたところで、「立派な、意義深い話」には、ならないのですよ。これが世の中と言うものですよ。

70年余りも、人間をやってますとですね、否応無しに判りますよ。

しかし、ただ一つ、役に立つところがあるのですよ。

それは、言わずと知れた、ヒマ潰しなのですよ。ヒマ潰しにはなるのですよ。

ヒマ潰しにする話は、まずは、特定の専門家しか理解が出来ないような肩の凝る話はダメですね。

どちらかといいますと、日常、テレビで話題になっているようなことがよろしいようで。

それに、「アホくさい、バカバカしい、クダラない」味付けを施すわけですよ。ところが、これもですね、やってみると、中々骨折する、いや骨が折れるのですよ。

しかし、ですね。「立派な、意義深い」味付けを施すよりは、「アホくさい、バカバカしい、クダラない」味付けの方が、全然易しいのですよ。

凡人の行為は、易しい方に流れるのが常で御座いますよ。

次に、ですね。ここで配慮しなければならないのは、「アホくさい、バカバカしい、クダラない話」であっても、どなたも関心を持たない、面白味のないのは、ダメなのですよ。この面白味、可笑しさの要素がなくてはね。ここが第三のポイントなのですよ。

たとえば、どこでダジャレが飛び出すか、どのように落ちをつけて終わらせるかを、期待させるような話でなくてはいけませんよ。

一口に、このように言いましてもね、これがこれで中々大変なのですよ。ダジャレ一つ生み出すにも、どれほどエネルギーを使うと、お思いになりますか。

エッ。誰もそんなこと、頼んだ訳ではないって、ですか ?

そりゃー、そー、ですよ。私だって、そんなこと頼まれましてもねー。そー そー引き受ける訳には、参りませんよ。ダジャレ屋さんではないのですから。幾分、指向はしておりますが。

あっ、そーだ。何でも屋さんを営業しておられる方がございますなー。あそこでは、ダジャレの創作をして貰えるのですかね。何でも屋、と名乗るくらいだから、やってくれるでしょーな。こんど、ネタ切れの時に、頼んでみよー。

値段は、如何程になるのですかね。出来が良くなくても、代金は支払わなければならないのですかね。

払え、払わないで、話が拗れた場合、訴訟になるのですかね。

拗れに拗れた場合、最後は、最高裁の判断を仰ぐことになるのですかね。

大法廷で、

「このダジャレは、少し笑えるので、50円の支払いを命ずる。」

「このダジャレは、全く笑えないので、罰金50円の支払いを命ずる。」

なんて、なるのかねー。

“ 勝訴! 50円の支払い ”なんて言う垂れ幕を持って、弁護士さんが飛び出して来ることになるのかねー。

ヒマ潰しとは言え、実に、何とも、「アホくさい、バカバカしい、クダラない話」だねー。呆れました ?

甚だ、突然で御座いますが、天才バカボンのパパ登場。

「これでいーのだ!」

と言うことで、この件は、一件落着ということで、お願い申し上げます。

以上のような次第で、本日も、「アホくさい、バカバカしい、クダラない話」をすることに致します。

 

「アホくさい、バカバカしい、クダラない話」の横綱は、何と申しましても、それは、政治に関する話題ですなー。

公文書改竄 書換え問題」が、桜と共に、満開の状況ですなー。

もう少ししたら、ハラハラっと散って、終わりそうですが・・・。

この公文書改竄 書換えがあったのは、もはや公然とした事実です。問題は、何故改竄したか、書き換えたかと言う問題です。

問題は、「森友学園」への国有地売却についてです。とにかく安すぎると言うことです。

なぜこのような安価で売却することになったのかが問題の核心の部分です。

この部分に、安倍総理が関係しているのではないのか、と言う疑惑が持ち上がりましたね。

これについて国会の場で、野党の質問に対して、安倍総理は、自分も昭恵夫人も関係していない。もし、関係していたら、総理国会議員も辞めると、公言したのですなー。これは、もう間違いのない事実ですね。

この発言が、不用意なもので、後々、尾を引くことになりましたなー。

この総理の答弁での解釈で、問題となるのは、総理の言う、していたか、していなかったか、と言う「関係」の範囲ですな。

昭恵夫人が、森友学園の名誉校長となっていた事、同学園で講演したことなど、かなり深い関係のあったことは、事実です。この関係は御座いましたよ。

それから、森友学園が、「安倍晋三記念小学校」を開設しようとしていたのも、事実ですね。こんな関係も御座いましたよ。

安倍夫妻と森友学園との間に、このような関係があったことは、もはや事実ですね。これは、すでに明らかになった事で、議論の余地は御座いません。

ところが、安倍総理の言う「関係」とは、総理としては、あくまで「当該用地の売買に関る部分」に限定している、と言うことなのでしょうね。

その意味では、まさか、当該用地の価格交渉・決定の場に、総理が同席していて、安くするように指示した訳では無いでしょうし、手紙などの記録媒体をもって、あるいは、電話でもって、安くするように指示した訳でも無いでしょう。

しかし、もう一つは“人”をもって、便宜を図らせた、あるいは図らせるに通じる行為が、あったのではないのか、と言う点でありますなー。

この“人”とは、言うまでもなく、昭恵夫人ですよ。

この点については、事実が確定的になっていませんが、メディアによれば、森友学園側の籠池氏は、事実が有ったという発言をしているとのことですなー。

この辺りの事実確認が必要とされますね。

これは、昭恵夫人から、聞く事が最も事態の解明に繋がる大切なことですね。

昭恵夫人言動に関しては、安倍総理が代弁されている現状でありますが、これは、籠池氏の発言と同様の価値しか持ちませんよ。

野党の質問は、総理の直接的な働きかけがなくとも、価格交渉現場での総理に対する忖度があったのではないのか、と言うことですが、この質問を総理にした所でなんの意味もないですよ。

そもそも総理は、忖度される立場であって、忖度する立場ではないからです。

しかし、総理は、これに忖度はない、と答弁していたのですよ。

訳の判らないやり取りでしたなー。後で、忖度したかどうかは、その当事者に聞くよりないであろう、と言うように変わりましたがね。

要するに、今の時点で明らかになっている事実は、

昭恵総理夫人が、森友学園の名誉校長となっていた事、同学園で講演したことなど、かなり深い関係にあったこと。

森友学園が、「安倍晋三記念小学校」を開設しようとしていたこと。

でありますなー。

それと、森友学園と関る学校用地について、法的には国有地売却の措置を取るべき所、森友側の要望を容れて、貸借の処置が特例的に行われたこと。

この後、売却交渉が整うのですが、森友学園の責任者籠池氏が、難航していた事態に、突然神風が吹き始めた、と言っているように、ある時期から、この交渉、結論が異例の早さで、進められたこと。そして、締結され当該国有地の価格が、異例の低価格であったこと。

これらの事実が、明白になっている訳です。

そして、理財局が、これに関る決済ずみの近畿財務局の公文書に対して、書換えを命じて実行させたこと。

これらの事実が、メディア報道に誤りが無ければ、既に、明白となっています。

以上の明らかとなっている事実関係に、安倍総理夫妻、麻生財務大臣が、どのように関っていたのか、と言うことが、目下問題とされている、核心の部分でありますなー。

普通の感覚では、安倍総理夫妻が、森友学園とただならぬ関係にあったことは、誰の目にも明らかですな。

この関係により、森友学園への国有地売却に関る一連の事柄が発生している、と見るのが、ごく一般的なものの見方でしょうなー。

目下、公文書改竄・書換え問題については、関係省庁内での調査を進めている、との事ですが、この調査は、なんら決定的意味を持たないですよ。

なぜなら、捜査をしている主体の関係省庁自体が信用できないことを仕出かしていることが、すでに明らかになっているのだから、そんな省庁の内部調査に期待できる筈がないからですよ。

ウソを上塗りし、騙しを重ねるであるうと思うだけですわ。

今は、責任逃れの最も合理的筋書き作りに、懸命になっていることでしょうね。

何処に落しどころを求めれば、関係代議士先生、省庁、官僚の被害を最小限に食い留めることができるのか、その辺りを求めて、永田町霞ヶ関は、不眠状態なのでしょうね。

政党代議士先生の振舞も、同様でしてね。調査を徹底させ、マイク・カメラの前では、事実を全て解明するような発言をしていますが、そんなこと言われたって、事態がここに至っては、なんの信頼も存在しないのですよ。

さんざん、責任回避の言い逃れのウソを言い続けている連中ですからね。

もはや、なんの期待も、されない存在と化してしまっていますからね。

ただただ空しいだけですよ。

以前、消えた国民年金の問題が騒がれた時に、最後の一人まで明らかにする、と息巻いていた、総理をはじめとする代議士先生達が、いましたよねー。

あれから、随分、時間が経過しましたよ。一人残らず、明らかにしましたか ?

もはや、過ぎ去った、遠い、遠い過去の記憶となってしまってませんか ?

それとも、あの当時の代議士先生の方々は、もー、その後の選挙で、全員落選して、タダの人になっちゃったので、調べるにも調べられない存在になったとでも、言うのですか。

もー、代議士先生達のウソつきは、永田町の伝統的文化ですからね。

世界文化遺産に指定してもらえば、どうでしょーね。

ウソでもね。国民のためになる性格のものだと、まだしもね。

代議士先生達自身が、とにかく責任を逃れ、旨い汁だけ吸いたい、ということなのでしょうね。

調査を徹底して、事態を解明しようと言うのであれば、司法の力を借りる必要があるのでしょうね。

しかし、すでに、その司法に対する信頼・期待度がどこまであるのか、と言うことが心配さますよ。それは、司法の判断が、政治権力寄りに陥っているのではないのか、と言う感じが持たれているからですよ。

みんな権力大好きで、そちらに向かって、すり寄って行ってしまい勝ちなのですよね。

 

この度の森友学園に関る事件で、はっきり言える事は、この事件を通じて、政府政党国会議員、省庁、官僚等が、如何にいい加減な仕事をしたか、ウソをついて、国民を欺き、騙したかと、言う事実が確認されたと言うことですね。

国民は、政府政党国会議員、省庁、官僚等が言う事は、果たして、本当のことなのだろうか。多分、ウソが相当混じっているのだろうな。と疑っているわけですよ。

また、この度の森友学園の事件は、たまたま籠池氏という面白いキャラの方が関係していて、これに、メディアが食いついたことにより、色々と問題のあることが、明るみに出て来た訳であって、このようなことが、水面下で粛々と進められている場合は、国民の知るところとはならないのでしょうね。

と言うことは、この他にも、色々と疑わしきことが、実は、存在しているのではないか、と言う疑惑が、持たれも現状となっているのですよ。

否、疑わないわけには行かない事態に、立ち至っているのですよね。

この信頼を失墜した事態を、政府政党国会議員、省庁、官僚等の面々は、今後、どのようにして回復できるのでしょうか。

既に、ご臨終でしょうか。

 

アア、お釈迦様。何とかなりませんかねー。

それは、“ 無 ” でしょうか。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 

どうです。まさに、「アホくさい、バカバカしい、クダラない話」でしたでしょう。

すっかり疲れてしまいました。

お客様も、さぞかしお疲れのここと、お察し申し上げます。

救急車を呼ぶようになっては、手遅れで御座いますので、本日は、これで終りに致します。

またのお越しをお待ち申し上げます。

 

お後がよろしいようで

《停念堂閑記》83

「日比憐休独偏記」18

 

「投了」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお出で下さいました。

厚く御礼申し上げます。

本当に、よくいらっしゃいました。大歓迎で御座いますよ。

おヒマなお方、心より、大歓迎で御座いますから。

今日も、ヒマ潰しに、どうぞお付合い下さいませ。

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないの三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。

なぜアホくさい、バカバカしい、クダラない話なのか、と問われますと、決まってるでは御座いませんか。そんなこと。

立派な、意義深い話は、甚だ残念では御座いますが、難しくて出来ないからですよ。

私だってですね、たまには、気の利いた話をしたいものと、常日頃思わなくはないのですよ。少しは思うことも、たまには、ちょっとだけないこともないのですよ。強いていえば、あるにはあるような気もするのですよ。

しかしですね、これが中々上手く行かないのですよ。思うだけではねー。

言うまでもなく、この手のことは、能力に関ることなのですよ。

持って生まれた能力は、残念ながら、俄に、どうこうできる代物では御座いませんよ。

他の方については、知りませんよ。他の方のことを、どうのこうの言うつもりは、毛頭御座いませんよ。

これは、私の場合ですが、どうも善し悪しがあるらしいのですよ。

これが、私の場合、悔しいことに、後者らしいのですよ。

わたしゃー、戦中の、物がとにかく不足していた時期に生まれたものですから、どうも部品が今ひとつ良くないのですわ。物は、品質よりも、有る無しが問題の時代でしたからね。

本当に、戦争とは、怖いものですなー。

私だって、平成の物資の豊富な時代になってから生まれていれば、少しはマシではなかったかなーと、つくづく惜しまれるのですよ。どうだか、分かりませんけれどね。

そのような事情でして、脳の方の性能がいまひとつなのですわ。いや、二つ、三つ。正直に言うと、もっと、ですなー。オーノー、てなもんですよ。

こればかりは、持って生まれたものですから、性能を上げたくて、薬やお医者さんに頼ったところで、血圧を上げ下げするようには、参りませんよ。

嘆いても仕方御座いませんので、精々、得手・不得手と言うあたりで、何とかならないものかと、もがいたりするのですよ。

 

ところで、藤井聡太さん。すごい人がお出ましになられましたなー。中学生で、プロの棋士6段、29連勝(30勝手前と言うのが良いね。今後の励みとなる数値だね)。今年中に7段は堅いのでしょうね。

と言うことは、来年は、8段、すぐに9段ですなー。

以前は、タイトル戦に十段戦と言うのがあって、この勝者は十段の称号が与えられたのですなー。今は、無くなっちゃいましたけれどねー。

近年、将棋を取り巻く事情が大きく変わりましたからね。日本将棋連盟も、制度の見直しを図っては如何なものでしょうな。プロアマ戦もあるようですが。また、アマチュアに一定の条件を設定して、それにトライしてクリアーしたら、段位を認定してくれるサービスをしていますけどね。

もー、とにかく将棋好きをぜーんぶヒックルメて、段位の認定をしたら面白いと思いますなー。

そーだ。なにも日本将棋連盟さんでなくても良いのだ。

今は、AI時代で、コンピュータ将棋ソフトが強くなっていますからね。プロ棋士に勝ちますからね。

特定のコンピュータ・ソフトと対戦して、ある条件を設定して、それを満たしたら、段級を認定されるとしたら面白いですなー。

インターネットでトライできるようにしてさ。誰でも、簡単にトライできるようにしてさ。日本将棋連盟では、最上位が9段ですが、最上位など規定せず、20段でも、30段・・・段でも、どんどん能力に任せて、昇段できるシステムでさ。

ついでに、認定料を稼せいだりして。

更についでに、讃岐金比羅樣を凌ぐ階段を持つ将棋神社設立してさ。新規につくるのは、大変だから、金比羅様の裏手の方にでも、そっと、お宮を建てさせてもらってさ。お守りを販売したりしてさ。きっと、もーかりまっせ。企業として、やっていけますよ。どなたか、やってみてはどーでしょうかねー。

そーだ。パテント取得しておこう。

もう既にあるのかも知れませんなー。大体、私が思いつくようなことは、みーんな、既に考え出されていますからね。今頃、なに言ってんの、なんて言われるのが落ちですかねー。

かく言う小生も、将棋を始めた頃が御座いましたよ。小生の義父が、将棋好きだったようで、ある時、小生に将棋覚えろよ、と言うのですよ。小生は、それまでは、将棋には、興味を持ちませんで、指したことは無かったのですが、それでは、ちょっと覚えてみるか、と言うことで、30過ぎの手習いですわ。とりあえず、駒の動かし方を習い、日曜日になど、ヒマ潰しするようになったのですよ。

しかし、最初は負けてばかりでね。悔しいので、将棋の本を買って勉強しましたね。将棋の本は、イッパイ御座いましたなー。その中で、内藤國雄九段の空中戦法と言うのに興味を持ちましてね。これを覚えましたね。飛車角桂香が飛び交う、実に面白い戦法でしたなー。将棋は勝てば良いのでしょうが、やはり、どのようにして勝つか、と言うロマンがあるのですよ。

日曜日の午前中に、国営放送のテレビで将棋番組がありましてね。NHK杯争奪戦が放映されていましたね。いまも続いていますが。

これに、内藤九段も出場されておりまして、空中戦法が、型にはまって、勝つ時は、物の見事に勝つのですよ。やり損なって、まける時も、見事に負けるのですよ。今、テレビで人気者になっておられる加藤一二三九段のように、歩を一個ずつ突いて、銀を上げて、ジクジクと言う地味な指し方(失礼)よりも、素人には、はるかに面白かったですね。

内藤九段の空中戦法は、構想している陣形が整うと、一気に飛車角が飛んで来ましたからね。素人将棋では、王より飛車を可愛がり、と言われているように、飛車は大事な大事な駒ですよ。

だいたい飛車を取られたら、もう。半ばやる気がなくなりますからね。それを、惜しげも無く、ポーンと切ってきますので、小気味がいいのですよ。

王将は、ケッタイな存在でね。周囲1コマしか、動けないのですよ。あまり強力ではなく、役に立つ存在ではないのですよ。ただただ取られちゃってはならない存在でしてね。

この王将さえ無ければ、将棋は、負けることがないのですがね。このあまり融通の効かない、王将を取られたら負けと言うルールですのでね。これが難儀なんですわ。

ドッチかと言うと、相手が攻めて来ましてね。何とか応対して、王様を守りきって、勝ってもあまり感動がないのですよ。それよりも、攻め込んで、王様を取っちゃう方が、指してて、ぜんぜん楽しいのですよ。

よしんば、攻め損じても、たいして悔しくはないのですよ。それが、ただただ一方的に攻められて、守りきれず、負けちゃった場合など、まったく面白くないのですよ。アーアー、やんなきゃ良かったと思うのですよ。

負けたらやっぱり悔しいですからね。本を読んで、勉強して、新手を覚える訳ですよ。

最初は、専ら義父が相手で、なかなか勝てなかったのですが、勉強してですね。新手を仕込んで対戦するようになりましてね。そしたら、新手一勝 のことわざどおり、勝てるようになったのですよ。しかし、敵さんも研究するとみえて、次ぎには、新手の効き目がなくなるのですよ。そしたら、また、別の新 手をね。そんなことを繰り返すうちに、小生の勝率がだんだん上がって来たのですよ。

そうしたら、義父はあまりやろうと言わなくなってしまいましたね。

それから、姉の旦那さんと、指しましたね。こちらは、めっぽう強かったですなー。アマチュアの有段者でしたな。三段だったかなー。中原誠名人名の免状が飾られてましたな。とにかく、全然勝てませんでしたね。おまけに、ケンケンでも勝てるなー、なんて言われちゃったりしてね。

連戦連敗ですわ。無惨なものでしたわ。

それが、ある時、なんと勝っちゃったのですよ。こんな分け無いなと思いながらも、勝っちゃったのですよ。最後の対局でしたね。

それから間もなく、亡くなられましてね。最後に、花を持たせて、勝たせてくれたのでしょうね。優しい方でしたから。

 

しかし、藤井さんは、めっぽう強いですな。どこを切っても、勝利金太郎飴のようですなー。

しかし、水を差す様で悪いのですが、あんまり強すぎるのもねー。対局がある度に、どーせ、また勝つに決まってるよ、と言うことになるとですね。贅沢を言って申し訳ないのですが、ちょつと、興味が薄れることもあるのですよ。

贔屓の棋士が、この一戦に負けたら、A級から降格するかも、なんて言う事態の一戦は、力の入り樣が違いますからね。

どーせ、勝つに決まっている勝負を見るのは、今ひとつ、気合いが入らないと言うかですなー・・・・・。勝負は、ハラハラ感があった方が面白いのですが。

血圧が安定していない時は、藤井さんの対局が一番ですよ。安心して見てられますから。健康には良いですよ。

とにかく、大いに頑張って、良い棋譜を残して欲しいと、応援しています。

因に、現在一般的に行われている将棋とは異なり、昔は、大将棋と言うのがあったそうですなー。現行のは、盤が縦横9マス、駒は敵味方合わせて40枚で戦うわけですが、大将棋は、盤が縦横15マス、駒数が130枚と、スケールがとても大きい将棋だったようですね。

駒も、金・銀の他に、銅もあるようですよ。オリンピックのようですなー。金をとっても、勝者では御座いませんよ。

酔象なんて言う駒もあって、奈良市興福寺の旧境内から実物の駒が出土されたとか。これが敵陣になり込むと、太子と名が変わるのですよ。

王将を取られれば負けになるのですが、ところが、太子がある場合は、これが王将の役割を持ち、なお、試合は続行されるのですよ。ルールは詳細には知りませんが、盤のマス数、駒数が多いだけに、現行のものよりは、かなり複雑にできていたようですなー。

現在、大将棋を指せる棋士がどれほどおられるのかも存じませんが、以前、大山康晴名人が、大将棋を指しておられるカットがテレビで放映されたのを記憶しています。

 

さて、ですね。大将棋より遥かに複雑なのが、現社会ですよ。活動している駒数が多いですしね。行動の範囲も、とてつもなく広いですよ。

この現社会を動かす大きな役割を果たすべく存在にあるのが、言わずと知れた国会議員さん、国家公務員さん達ですよ。

あんたら何やってんの 。

まったく頼んないんだから。

王将も、飛車角も、金銀も、歩兵にいたる迄、もー、頼んないですなー。すっかり、箍が外れてしまっているようで。

特に、代議士先生。藤井聡太棋士を、羽生善治棋士らを見習って、局面を熟慮して、次ぎの一手を対策して下さいよ。

羽生さん、藤井さんほか、棋士の方々は、たかだかと言っては何ですが、9マス四方の盤上の世界で、どれほどの手を読むとお思いですか。このように指したら、ゆくゆくどうなるかを、何十手、何百手を読み、最善手を見つけ出して、それを決行するのですよ。

言っちゃーなんですが、代議士さん。国会議員の国の字は、お飾りですか。

あなた等の次ぎの一手は、次ぎの選挙対策の一手ばかり読んでいるのでは御座いませんか。

上級官僚を目指す方々、内閣人事局の顔色ばかり伺い、総理に対する忖度ばかり、気配りしているのでは御座いませんか。国家公務員の本分は、どこへ行ってしまったのですか ? ? ?

何も小生如きが、偉そうなことを言うことでは御座いません。それは、重々存じております。しかし、現状を見て、ぼやかずに居られないのですよ。

 

国会議員王将さん、国家公務員の大駒のみなさん、どうしますか ?

佐川さんの証人喚問が行われるよう決定されましたが、そろそろ、投了の覚悟が必要になって来たのでは ?

それとも、王将を取られるまで、足掻(あが)くお積もりで御座いましょうか。

佐川さんの証人喚問で、質問に立たれる代議士の皆さん、必至をかけるに至りますか ?

うまく行って、ツミまで読み切る事態に追い込めますか ?

それとも、一気に、王手をかけることができますか ?

 

エッ、千日手で、指し直しですか ?

 

詰めが甘いんだから。なんとか、投了に追い込んで下さいよ。

 

  

段々、血圧が上昇して来ますので、本日は、この辺りで投了と致します。

どうもお付合い下さいまして、有り難う存じました。

お疲れさまで御座いました。

 

お後がよろしいようで。