《停念堂閑記》2

 

「停念堂寄席」2

 

《諺》 (2012-12-9)

 

 以前、「情けは人の為ならず」の意味について話題となったことがある。この諺を「ひとに情けをかけることは、その人のためにならないのですべきではない」という意味に解釈している人が多いことが話題となったのである。

 この原因として、インターネットで は〔「この誤解の根本は、「人の為ならず」の解釈を、「人の為(に)成る+ず(打消)」(他人のために成ることはない)としてしまう所にあるとされる。本 来は「人の為なり(古語:「だ・である」という「断定」の意)+ず(打消)」、すなわち「他人のためではない(→ 自分のためだ)」となるからである。〕 という解説がみられる(ウィキペディア フリー百科事典)。

 ところが、この諺を省略せず、丁寧に言えば、

 「情けは人の為ならず、巡り巡って己がためなり」

と言うのが、正しい形のように言われる方もおられるようである。これならば、「他人に親切にすれば、何時の日にか、その親切が自分のところにかえってくるものである。だから他人には親切にするものだ。」と言う教訓となる諺であることが分かる。

 「諺も、途中で切ったら、意味変わる」

 また、「佛の顔も三度」と言う諺がある。

 いかに慈悲深い仏様でも、何度も無法なことをすると怒って許してくれなくなる。

という意味で使われる。これも、省略せずに言えば、

 「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」

となるようである。如何に慈悲深い佛様でも、顔を三度も逆撫でされれば、怒ってしまうの意である。これは、途中で切って、省略しても、元の意味は変わらないようであるが、これを、

 「仏の顔も三度見れば飽きがくる」

とする御人も見られる。「有難い佛様のお顔でさえも、何度も見るうちに飽きてしまい、ありがた味が無くなってしまう」(何度も同じことをくり返すと効き目がなくなる。)と言う意味で、「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」とは幾分ニュアンスの違いが感じられる。

 世の中は複雑である。真理もどこにあるのか、分からなくなる。

 「急がば回れ」という諺があるが、遠回りをしたために、さんざんな目にあったとぼやいている人にあったことがある。美味しいものは最後の楽しみに残しておくよりは、先に食べてしまった方が、得をするような気がする昨今ではある。