《停念堂閑記》3
「停念堂寄席」3
《お笑い日本昔話考》1 (2013-91-03)
以前に、親しくして頂いていた方が、ある時、こんな話知ってる、と昔話の一節を披露してくれた。
裏の畑でポチがなく。正直爺さん掘ったらば、大判小判がザーク ザーク ザック ザク。
意地悪爺さんポチ借りて、裏の畑を掘ったらば、瓦や瀬戸欠け、ガーラ ガーラ ガーラ ガラ。
頭に来た意地悪爺さんは、ポチのシツポをムンズと掴んでぐるぐると振り回した。
たまらずポチが叫んだ。
“こらー ハナサンカじじい ?? ”と。
[「“お笑い”はなさんかじじい」の一節]
どうだ、面白いだろうと言うことである。ひと笑いした後、このての話であれば、まだあるのではないかと、探ってみることにした。
[「お笑い桃太郎」の一節]
お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きましたとさ。
お婆さんが、洗濯していると、大きなモモがドンブラコ、ドンブラコと流れてきたんだとさ。お婆さんが拾おうとしたところ、思わず下腹に力が入ってしまい、はからずしも、プーとやってしまったんだとさ。
そのころ、お爺さんは、山で柴を刈らずにクサかった。
と言うのがある。
ところで、犬と猿と雉子を手下に、桃太郎さんは、鬼が島に鬼退治に出かけようというのであるが、桃太郎さんも無鉄砲なことを考えたものだなあ、とつくづく思うのである。犬と猿と雉子の力を頼りに、鬼に勝てると思ったのであろうか。誰が見たって、勝ち目はないように思われる。第一、犬と猿と雉子を相手に、どうやってコミニュケーションをとり、異種類の連合軍を組織しようというのであろう。共通の言語は何だったのであろうか。“ 雉子弁“( = 雉子弁当 ? )と言うのはあるけれど、犬弁、猿弁などは食えたものではない。
桃太郎さんはやっぱり岡山弁をしゃべっていたのであろうか。手下の犬、猿、雉子も当然、岡山弁だったのだろうか。
「でーこー、てーてーて(大根、炊いといて)」
「けー、こけー、けーしてーてー(これ、ここに、返しておいて )」
なんて言っていたのかなぁ。
ということで、桃太郎さんは人間語(日本語、多分岡山弁)、犬は犬語、猿は猿語、雉は雉子語を使ったと思われるので、この1人と1羽と2匹は、お互い話が通じず、大変困っていたのではなかろうかと、かねがね気になっておりました。この度、ようやくその謎が解けましたので、お知らせします。
話が通じずに困っていた桃太郎さんは、どうしたら良いものか、おじいさんとおばあさんに相談したとのことです。そうしたらおじいさんとおばあさんは、1人と1羽と2匹の共通ゴがあれば良いと教えてくれました。そして、おじいさんとおばあさんは、その共通ゴをつくってくれましたとさ。
桃太郎さんは、これを使って、犬と猿と雉子とコミュニケーションをとりながら、鬼退治に向かったのです。これを使うとお互いに意思が通じ、一致協力できるようになったのだということです。
さて、犬と猿と雉子を相手に言葉が通じなくて困っていた桃太郎さんは、なにゴを使ってコミニュケーションをとることができる様になったのでしょうか。
言わずと知れた、それはキビダンゴです。これで一件落着です。
ところで、以前に桃太郎さんの噺がだいぶん様変わりしている、と言う噂を耳にした事がある。どうも、桃太郎さんは鬼が島へ殴り込みをかけて、鬼の宝物を強奪してきた、とんでもない奴と評価する見方があるとのこと。桃太郎さんのお話は、子供の教育上良くないとされたらしい。本当なのだろうか。まさかねー。子供の運動会でも、皆で手をつないで、同時にゴールさせるようにしょう、という方向と同方向の考え方によるものなのでしようか。
桃太郎さんは、犬と猿と雉子をお供に、吉備団子(後楽園のお茶屋さんで食べた吉備団子は、子供のころから食べ慣れていたものとは様子が違っていた。やっぱり、きびだんごは、郷里北海道の“日本一のきびだんごでしょう。道産子なものでして。失礼)をお土産に持って、鬼が島へ出かけ、虎の皮のパンツをはき、いぼいぼの金棒を担いだ赤鬼さん、青鬼さんと仲良くオニゴッコをしたんだってさ。
てなことになれば、目出たし、目出たし、と言うことになるのだろうか。
「停念堂閑記」2
《諺》 (2012-12-9)
以前、「情けは人の為ならず」の意味について話題となったことがある。この諺を「ひとに情けをかけることは、その人のためにならないのですべきではない」という意味に解釈している人が多いことが話題となったのである。
この原因として、インターネットで は〔「この誤解の根本は、「人の為ならず」の解釈を、「人の為(に)成る+ず(打消)」(他人のために成ることはない)としてしまう所にあるとされる。本 来は「人の為なり(古語:「だ・である」という「断定」の意)+ず(打消)」、すなわち「他人のためではない(→ 自分のためだ)」となるからである。〕 という解説がみられる(ウィキペディア フリー百科事典)。
ところが、この諺を省略せず、丁寧に言えば、
「情けは人の為ならず、巡り巡って己がためなり」
と言うのが、正しい形のように言われる方もおられるようである。これならば、「他人に親切にすれば、何時の日にか、その親切が自分のところにかえってくるものである。だから他人には親切にするものだ。」と言う教訓となる諺であることが分かる。
「諺も、途中で切ったら、意味変わる」
また、「佛の顔も三度」と言う諺がある。
いかに慈悲深い仏様でも、何度も無法なことをすると怒って許してくれなくなる。
という意味で使われる。これも、省略せずに言えば、
「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」
となるようである。如何に慈悲深い佛様でも、顔を三度も逆撫でされれば、怒ってしまうの意である。これは、途中で切って、省略しても、元の意味は変わらないようであるが、これを、
「仏の顔も三度見れば飽きがくる」
とする御人も見られる。「有難い佛様のお顔でさえも、何度も見るうちに飽きてしまい、ありがた味が無くなってしまう」(何度も同じことをくり返すと効き目がなくなる。)と言う意味で、「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」とは幾分ニュアンスの違いが感じられる。
世の中は複雑である。真理もどこにあるのか、分からなくなる。
「急がば回れ」という諺があるが、遠回りをしたために、さんざんな目にあったとぼやいている人にあったことがある。美味しいものは最後の楽しみに残しておくよりは、先に食べてしまった方が、得をするような気がする昨今ではある。