《停念堂閑記》11
「停念堂寄席」11
『暇つぶし』 (2015-12-18)
よーこそのお運びで、有難う存じます。
毎度、馬鹿馬鹿しいお笑いで、恐縮で御座います。
馬鹿馬鹿しくなければ意味ありませんから。
これが、馬鹿馬鹿しくない、くそ真面目な小難しい話ではいけませんよ。
間抜けで、頓馬で、惚けた話でなくてはなりません。
真面目で、小難しい話は、これはこれで作る側も、話す側もなかなか大変なのですよ。
最も大変なのは、それを聞かされる側。そうです。お客様側なのですよ。
全然、面白くないですからね。居眠りするよりないですよ。
と言うか、どちらかと言えば、強制的に寝かしつけられてしまいますよ。
真面目で、小難しい話を聞きたければ、寄席になんか来ないで、大学にでも行けばいいのですよ。
小難しい講義では、学生さん、みんな寝てますからね。静かなものですよ。
訓練を積んだ人は、目を開けたまま、寝てますからね。
もはや、目あき眠りの達人ですよ。
最近、リタイヤした年配者の大学での受講が増えているようですよ。
ヒマ潰しには、もってこいらしいようで。
もっとも、ヒマ潰しは、寄席にかぎりますけどね。
寄席より良い所は、他にないですよ。寄席が一番。よろしく、どーぞ。
中には、その気になって、受験勉強をして、入学試験を受けて、見事合格。と言うご老人もおられるようですが。
これはね、どうかと思うところもあるのですよ。
大学には、入学定員と言うのが決まってましてね。この定員を守らなくてはならない建前になっているのですよ。
と言うことはですね、年配の人が1人合格すると、合格定員を1人分食ってしまうわけで、例えば、若い人の合格枠が一つ減ってしまうと言うこと になり兼ねないのですよ。これから大学に入って、勉強して、社会に出で働くぞ、と息込んでいた若者が1人、不合格となり、ひょっとすると1年浪人と言うこ とにもなり兼ねない、と言うことなのですよ。
リタイヤした年配者が、ヒマつぶしにね、大学に進学してはいけない、と言う法はございませんよ。結構なことなのですよ。
しかし、そのとばっちりを受ける人が出現する、と言う現実もあるのですよ。
世の中、なかなか難しいところがありますよ。
ところでね、希望する大学の卒業証書を欲しいと言う場合は、入学しなければなりませんが、今更、卒業証書なんぞ貰ってどーする。
そんなもの いらーねーや。関心のある科目だけ受講したい、と言う方は、何も入学する必要はありませんからね。
たいていの大学では、聴講制度のようなものがありましてね。
関心のある科目だけ受講できるのですよ。
1科目に付き、いくらと受講料が決まっていて、それを納めれば、大概は受講させてもらえますよ。
受講の手続きは、難しくありませんよ。払うものさえ払えば。
もっとも、やる気が無くては意味ありませんけどね。
その科目を受講して、一般の学生受講者さんに課される、リポートを一緒に提出したり、最後のテストを受けて合格点に達すれば、その大学で発行する受講証書・単位取得証明書のようなものをもらえますよ。
役に立つがどうかは知りませんが。
小難しい話の好きなお方は、哲学でも受講すれば良いですよ。
哲学の先生、訳の判らないことばかり話しますからね。
哲学の授業の最初の部分では、たいてい、哲学の祖と言われるソクラテスについての話から始まる場合が多いようですよ。
落語で取り上げるソクラテスさんは、かみさんに、頭から水をぶっかけられる人、と言う役回りですけどね。
毎日毎日、どこをほっつき歩いているの、と家に帰って来たとたんに、かみさんに、水をぶっかけられる人。
現場を見た訳ではないですが。
「ソクラテスの妻」と言えば、恐妻の代名詞ですからね。怖かったようですよ。
哲学の祖も、水ぶっかけられて、じとじと、いやたじたじだったようですよ。
ソクラテスは、ちゃんとした収入の伴う仕事についているわけではなく、哲学好きな連中と、ああでもねー、こうでもねー、と理屈をこねる日々を送っていたようですから、かみさんが、怒るのは無理からぬことなのですよ。
哲学の祖ならぬ かみさんに水をぶっかけられる祖ですからね。
旦那さん。飲んで遅く帰ったからといって、玄関に入ったとたんに、多少の小言を言われることはあっても、いきなり水をぶっかけられる、と言うことはないでしょ。
エッ、そうでもないって。
たまに 時々 いや しょっちゅう エエッ 必ず。
それは、それは、ご愁傷様の事で。ソクラテスはつらいですね。
ところが、大学の授業では、そうは参りませんよ。
「無知の知」と言うことを言い出した人とくるのですよ。ソクラテスさん。
知っておられるお方も多いでしょうが。
しかし、初めは誰でも知らないことなのですよ。
本を読んだり、誰かに教わったりして、ようやく知識となるのですからね。
ちょっと知ったかぶりをしましてね。解説がましいことを致しますとね。
「無知の知」とは、どうやら「〈自分は無知である、と自覚することが、最も大事なことである〉。〈世間には、自分が、無知であることを自覚していない人が多くいる。そんな中で、自分が無知であることを知っているだけ、それを知らない人より優れている。〉」と言う意味のようですよ。
たいていの人は、賢い、なんでも良く知っている、そう言う存在でありたい、と願う人が多いようですよ。要するに、自分が無知である、とする認識が足りない方が多いようですな。
あのー、お客さんのことではありませんよ。
これは、寄席に来ていない人のことですからね。
人間生きていく上において、色々なことを知っていた方が、万事都合が良いようです。
そのためには、手っ取り早くは、勉強をする、と言うことになるようです。
義務教育では、生きていくのに、最低限これくらいのことを知っていなければ、と言うような事柄を教えることが目的のようです。
しかし、学校の勉強、あまり好きではなかったですよね。
と言うか、むしろ嫌いでしたよ。
結果的に、生きていく上で必要なことをあまり良く覚ませんでしたよね。
あのー、お客さんのことではありませんよ。
これは、あくまでも、寄席に来ていない人のことですからね。くれぐれも。
今になって、振り返ってみれば、若い時に、もっと勉強しておけば良かったのになー、と思ったりすることもあるのですよ。
はやく、ソクラテスの「無知の知」に気づけば良かったのにと思うのですよ。
人間ね、自分はまだ何にも判っていないな、無知だなー、と自覚すれば、判ろうとする必要もあり、またその努力もできようと言うものですよ。
これがね。ちょっと聞き齧ったり、ちょっと経験を積んだりすると、何だか、もー すっかり判っちゃったような気分になったりするのですよ。
これがいけないのですよ。判った気分になってしまうのが。
判ってしまったら、もう、勉強する必要がないのですよ。
新しいことを覚えようと言う意欲が無くなってしまいます。
すなわち、進歩が止まってしまうわけですよ。
まー、そこ迄の人間と言うことになってしまうわけですね。
ここで、思い出して欲しいのが、ソクラテスの「無知の知」なのですよ。
まだまだ、俺は判っちゃーいねーな、とする自覚が大事なようです。
よく、本の好きな人、読書家と言われる人がいますね。
色んな本を実に沢山読んでいて、何でも知っている人。
生き字引きなんて言われている方がいますよね。
きっと、ソクラテスの「無知の知」を良く自覚していて、まだまだ知らないことがいっぱいある。と意気込んで、次から次へと新しい本を見つけては、読みあさっている人。偉いですね。
しかし、ソクラテスの「無知の知」をちゃんと認識している場合は、良いのですが、この認識がちゃんとできてない場合は、ちょっと困る事態に陥ることがあるのですよ。
とにかく、多くの本を読んだ結果、それなりの知識が身に付いたような気がしてくるのです。
何かにつけて、よく知っている。
そーしたら、周囲の人から、「博識ですねー」「物知りですね」「先生」「博士」なんて、おだてられる訳です。
こう言う時に、その人の人間性が出てしまうことがあるのですよ。
良くできた方であればあるほど、「実るほど、頭を垂れる、稲穂かな」のようになるのですよ。
「良くご存知ですねー。博識ですねー。」何て言われても、「たまたまこの間、テレビでやってたのを、見たのですよ。」なんて、弁解しながらね。知識を見せびらかさない。
こう言う人は、実は、「無知の知」をよく認識していて、常々熱心に勉強していて、知識の豊富な、よくできた人物なのですよ。大体はね。
しかし、そーではない人もいますよ。
「良くご存知ですねー。博識ですねー。」何て言われようものなら、すっかりその気になってしまい、聞かれてもいないことまで、あれこれ喋りまくり、得意満面になってしまう人。今でしょー。なんってたりしてね。
頭が良いとか、博識だとか言われることに強い執着を持っておられる方に多いようですよ。
要するに、「頭が良いですね」と褒められることに、生き甲斐を感じている方ですね。
時々見かけるのですよ。
「なんでも、良くご存知ですねー。博識ですねー。」と言われると、すっかりその気になって、偉くなってしまう方。
まー、その、早い話が、天狗様になってしまう方ですよ。
天狗様になっちゃうと、どーも、周囲の人が程度の低い人に見えてくる。判りよく言えば、バカに見えてくるようですよ。
そうなると、態度がどんどん大きくなってきましてね。私は偉いのだから、大仰な振る舞いをするのが当たり前、と思うようになるようですよ。
要するに、何かにつけて、態度がでかくなるのですよ。
誰にでもできるようなことを頼むと、この私にそんなことをさせようと言うの、ときますよ。
大物扱いにしないと、とたんに不機嫌になりますからね。
こうなると、周囲の見る目が変わってきますよ。
天狗様待遇になるのですよ。
天狗様待遇ってなんだって。
天狗様の特徴は、鼻が長いと言うことでしょう。
と言うことは、長い鼻は、摘(つ)まみ易いのですよ。
そうです。そうです。鼻摘まみになってしまうのですよ。
こうなっては、元も功もありませんよ。
世間は、こう言うところには、実に、厳しいですからね。
肝心の博識なところが、嫌みにしか見られなくなりますからね。
やっぱり、万事、謙虚に、「実るほど、頭をたれる、稲穂かな」でなくてはね。
「しいなの立ちん穂」はもともとダメですけどね。気をつけましょう。
(「しいな」とは、未熟の稲穂のこと。したがって、実の入っていない「し
いな」は穂は軽い訳で、穂が垂れず、まっすぐに突っ立っている。頭が
高い様。)
また、哲学ではね、「実存主義」てなことに、こだわるのですよ。
サルトルなんて言うから、どっかの山奥で、動物園へ売りつけようと猿を追っかけ回して、捕まえているヤツかと思ったら、猿は獲っていなかったようですよ。
それなら、サルトラナイとか言えばいいのに、ヤヤッコしいお方ですね。
大学の哲学の先生が、これまた、猿を獲らないサルトルについて講義するのですよ。
「実存とは ? 」なんて言っちゃってね。
そして、なんて言ったと思います。
「実存とは ? 」。まさに「浜辺に、波に打ち上げられたサバが、波打ち際の砂の上で、パタパタしている状態だ。」なんて言うのですよ。
判りますが、お客さん。
サルかと思っていたのに、いきなりサバですよ。
なんなんかね。サッバリ判らないのですよ。
もっともね。大学の講義はね、難しい専門的なことを、学生さんに判るように、やさしく、判りやすく説明するだけでは、駄目なのだそうですよ。
時々、何が何だか判らない、難解なことを交えなくては、駄目なようですよ。
やさしく分かり易くばかりでは、学生が先生をバカにするのですよ。
そんなこと、とーに、わかってらー。なんちゃってね。
ソクラテスの「無知の知」なんて、すっかり気にしなくなってしまってさ。
ところが、訳の分からないことを言うと、「あの先生の講義は、さすがにレベルが高いね」なんて、やたら有り難がる学生がいるのですよ。
全然理解できないあたりが、えらく有り難いようですよ。
それでも、良い側面がありますからね。
すなわち、訳の判んないことを聞かされると、それは何だ、と食いついてくる学生さんがたまにいるようですよ。
明けても、暮れても、そのことばっかり、考えるようになるのですよ。
石の上にも三年と言われますから、その内に、凄い事を発見したりしてね。
まったく、たまーに、ですよ。そんなことは。
食いつきさえすれば、かならず、凄い事に行き当たるとは限りませんからね。
犬も歩けば棒に当たる方式で、いつもかつもまぐれ当たりする事は少ないですからね。現実的には。
100人に1人とか、1000人に1人なんて言う確率ではないでしょうからね。
何十万人に1人とか、要するに、ジャンボ宝籤の1等当選のような確率でしょうからね。
しかし、宝籤だって、買わなきゃ当たらないのですからね。絶対にね。
まずは、買わなきゃ始まらないのですよ。
買ったところで当たらないけどね。ほぼ、絶対にね。
要するに食いつかなくては、始まらないすようです。
STEP細胞事件。あれは一体なんだったんですかね。割烹着なんか着てね。
ほとんど専門的知識を持たないマスコミが、ドンチャン騒ぎしたのが、そもそものね・・・。てな気もしますが。
著名な研究者が、どのように関わったのか、今となっては、判りませんが、お亡くなりになられましたよね。あの先生、御自分で実験してみなかったのですかね。あのような大発見の場合、自分で実験して証明できてない段階で、論文を作って、発表してしまうことなど、研究者としてあり得ないことのように思われますよね。
私の知り合いの化学の研究者の 方は、「実験で999回同じ結果が出ても、1000回目で違った結果が出ない可能性は否定できない。99.9%では、真理に辿りついたことにならない。」 と実験の重要性を教えていましたよ。実験は、研究の基礎中の基礎ですからね。これを怠っては、話にならないのですが、近時、この手の不始末が、研究の場に 限らず、とにかく多いですね。
タガが外れてしまっていると言うのでしょうか。国民年金の件、原発の件、集団自衛権の件、2020年東京オリンピックに向けた国立競技場の件・エンブレムの件、等々数えきれませんね。
最も基礎となる点がなっていないのですね。一貫しているのは、どれも責任の所在が明白にされていない。責任をとる人が居ないのですよ。マスコミでさわがなくなれば、喉元すぎれば、と言うのが、日本の現状のようですが。
話を戻しますと、てなわけで、大学の講義は、時々、訳の分からない、答えなんかあるのか、無いのか訳の分からない事を交えた方が良いようですよ。
と言うような次第で、小難しいことを志望されるお方は、どうぞ大学へ足を向けられては如何でしょう。
一方、寄席は良いですよ。小難しい大学より、安易な寄席と言いましてね。
誰にも、すぐ判る、面白いかどうかは判りませんが、とにかく下らない話をしますから。
今日は、どんな話をするのか、と言いますとね、
演題にありますように、「暇つぶし」の話をしますからね。
ところで、お客さん。「ヒマつぶし」って、どう言う事だか知ってますか。
エッ。 実存主義的に言えば、まさに、この現場のことですって。
お客さん。そんな小難しいこと言わないで下さいよ。
訳分かんなくなりますから。
小学生や中学生は、学校の勉強が判らなくなると、とたんに、学校へ行きたくなくなってしまうようですよ。
そーです。登校拒否と言うやつですね。
これが、寄席の場合だったら、そりゃー、大変なことですよ。
訳の判らない話をして、お客さんが、登寄席拒否になっては、一大事ですからね。こっちとらー、死活問題ですよ。
本当に、頼みますよ、お客さん。
ところで、「ヒマつぶし」って何です ? と聞かれた場合、
「寄席に来る事だ」と、とっさに閃いたお客さんは、大正解。
お客さんは、本当に知能指数がお高い。何でも見抜く眼力を持ってらっしゃる。
ヒマだなー。寄席にでも言ってみるか。と誰かを誘った時に、
寄席。くだらねー、ヨセよー。なんて言うような奴とは、付き合わない方が良いですよ。ホント。
あのですね。「ヒマつぶし」て言う言葉は、「暇」と「つぶす」と言う言葉を合成して、すなわち、くっつけてできた合成語のようですよ。
「暇」とは、国語辞典を引いてみますとね、まず、
「継続する動作などの合間に生じるわずかの時間」
と解説されているのですよ。
すなわち、何かの仕事を、ずーっと続けてやってきましてね。何かの事情でその仕事をしなくても良い僅かの時間が生じた場合、この僅かの時間をヒマと称すると言う解説ですね。
長い時間ではダメなのですよ。“わずかの時間”でなくては。
“わずか”って、どれくらいの時間ですかね。
例えば、30分間、ものすごく緊張を要する仕事をする。一瞬たりとも、油断すると、とんでもない事態となる。30分間といえども、ものすごく 緊張し、結果、凄い疲労がたまる。もー、クタクタ、ヘロヘロになってしまう。そこで、どうしても、休憩が必要となる。40分の休息とする。この40分間 は、仕事をしなくて良い時間である。
としたら、この40分間は、特にしなければならない予定のない時間、すなわちヒマな時間と言うことになるのでしょうかね。どうでしょう。
続けるべき仕事本体に必要とされる時間よりも、長いヒマな時間と言う事態もありますよね。
ちょと、おかしかありませんか。
こう言うのを世間では、屁理屈と言うのですよ。きっと。
屁理屈は、ヒマ潰しには、もってこいなのですよ。
しかしね、寄席ではこんな「暇とは、継続する動作などの合間に生じるわずかの時間」なんて言う解説は、通用しませんよ。
これがね。何だか、判ったようで、判らなくなってしまうのですよ。
例えばですね。停年退職後は、再就職しない場合は、特に決まった仕事がある分けでも無く、まー、ぶらぶらしていられる時間なのですよ。一般的に言えば、ヒマと言うことですよね。
これがですね。60歳で定年退職し、90歳まで生きていたとすると、この間が30年、すなわち、ヒマが30年間継続するのですよ。30年間は、わずかの時間とは言えませんよ。どうしてくれます。
何なんだか、わけが判らなくなってくるでしょう。
屁理屈効果が現れてくるのですよ。
それからですね。辞典には、このようにも解説されていますよ。
「暇とは、事をするための一定の時間。」
とも、解説されているのですよ。
ようするに、何かをするために必要な一定の時間を、ヒマと言うことなのだ、と言うのですよ。
決まったやることがあれば、ヒマじゃーねーよな。ときませんか。
ヒマとは、「継続する動作などの合間に生じるわずかの時間」、すなわち特定の事をしなくてよい時間だと言っておきながら、今度は、何かをするために必要な一定の時間だって言うのですか。
ちょっと、正反対ではないですか? ちゅーの。
仮に、「暇とは、事をするための一定の時間。」とするとですよ、
たとえば、100メートルを走るとしますわなー。
この走るための一定の時間が、すなわち、ヒマと言うことになるのですよ。
おいおい10秒切っちゃったら、やたら短いヒマだなー。
まてよ。と言うことは、100メートルの陸上の選手は、ヒマな時間に走っているのか。日々、えらい過酷な練習をしているようだが、あれも、ヒマだから練習していると言うことか。
マラソンだったら、2時間を越す、やたら苦しい、厳しいヒマな時間ということだなー。
なんだか、分けわかんねーな、ちゅうことになってきますよ。
屁理屈効果ですよ。
またね、
「自由に使える時間」
とも解説されていますよ。
よーし。9時から10時までは、自由につかえる時間だ。すなわち、ヒマだ。よーし、この時間に、友達と逢う約束をしょう。と言う事で、電話をして約束をとりつけた。となると、初めヒマな時間だったのが、ヒマな時間では無くなってしまった。ヒマがなくなっちゃった。
これはこれで、良いのです。問題はありませんね。
屁理屈、付けにくいですよ。これは、寄席向けにふさわしくない、解説ですね。
さらに、
「暇とは、なすべきことの何もない時間」
とも解説されていますよ。
これが一番判り良いですね。特に、何にもする事が無い、特定の予定の無い時間をヒマと言うのだ、と言うのは、何の問題も無いようですよ。
この解説が、一番納得がいくようですね。
ただし、いじれなくて、何の面白味もありませんね。
寄席的には、全くつまんねー解説ですな。
世の中、一番無難な納得の得やすい事は、大体つまんねーことが多いですなー。
ここで決め。
「ヒマとは、下らねー屁理屈を捏ねていられる時間のこと。」
間違いございません。大正解。
新しく出版される国語辞典には、きっと、この解説が付け加えられますよ。そんなわけないか。
さて、ヒマは、これくらいにしましてね。
次に、「潰す」を辞典で引いてみることにします。
しかし、私も、いい加減ヒマですな。
そして、これを聞きに来る人は、まさに、輪をかけたヒマ人て言うことになりますか。
あのー、お客さんのことではありませんよ。
これは、あくまでも、寄席に来ていない人のことですからね。くれぐれも。
ここは、そう言う分けには行かないか。失敬失敬。
人生ね。たまに寄席に来るくらいの余裕がなくては、いけませんよ。
エッ! しょっちゅう来てらっしゃるって。
これはこれは、常連様で。有難う御座います。
それは、もー、人生の達人でいらっしゃいますよ。間違いございません。
明日もお待ちしております。よろしくお願いしますよ。
ところで、「潰す」を、国語辞典で引いてみますと、まず、
「力を加えてもとの形を崩す。」と出てきますよ。
用例として、「にきびを潰す」とありましたね。
なんで「にきび」なのでしょうね。他に潰すものなんぞ、いくらでもあるでしょうに。
この解説をしたお方、「にきび」になんぞ恨みでもあったのですかね。
お客さんはどうです。
「潰す」ときたら、いきなり「にきび」を思い起こしますか。
私なんぞ、小心者ですから、「潰す」ときたら、まずは「肝」ですね。
これをね、すり鉢に入れましてね、スリコギでね、思いっきり潰すのですよ。そしてね、ミソを入れましてね、ゴリゴリゴリっと擦り潰すのですよ。これに日本酒を入れ、水を足してタレにしましてね、身や皮や内蔵、豆腐や野菜を入れましてね、クツクツと煮るのですよ。
これで、アンコウ鍋の出来上がり。寒い日などには、たまりまへんなー。
何の話でしたっけ。
そうそう、肝をつぶす話でしたね。
「潰す」には、他に、
「本来の働きができないようにする。」
「役に立たなくする。」
「だめにする。」
「家や会社などが成り立っていかないようにする。」
などと解説されてますよ。
要するに、吊るし切りにして取り出したアンコウの肝、アンキモをですね、すり鉢に入れて、スリコギで潰してしまう。すなわち、肝は肝臓ですからね。これをスリコギでつぶして、肝臓本来の働きをできなくしてしまう。これが肝を潰すと言う本来の意味と言うことになりますね。
そしてですね、「潰す」には「役にたたなくする」と言う意味があると言うのですから、アンコウの肝をすり鉢で、潰して、肝臓として役にたたなくする、と言うことになるのですが、すり鉢で潰したアンキモは、鍋のタレとして、凄く役にたっていますよね。これは、一体、どう言う事です。国語辞典の解説、ちょっと可笑しくはありませんか、ちゅーの。
お客さん。どう思います。ホント。
屁理屈は、おもしろいでしょ。ヒマ潰しには、もってこいなのですよ。
さて、これはですね、肝を潰した場合ですが、ここで問題にしているのは、肝ではなく、ヒマなんですよ。
と言うわけで、ヒマをですね、とりあえず、すり鉢に放り込んで、スリコギで、潰す訳です。潰されたヒマは、本来の機能を失うことになり、ヒマとして役にたたないものなってしまう、と言うことになるのです。
ヒマの潰したやつなんぞ、鍋のタレにもなりませんよ。
すなわち、ヒマを潰してしまったら、ヒマ本来の機能を失って、ヒマで無くなってしまい、忙しくなってしまうと言うのですかね。
お客さん。どう思いますか。
こんな下らないこと聞かれたってね。答えようがありませんよね。
ところで、今度は、ヒマと潰すを合成した「ひまつぶし【暇潰し】」を国語辞典で引いて見ますと、
「ひまな時間を過ごす手段。」
「時間をむだに過ごすこと。」
と解説されていますよ。
さっき考察したように、ヒマをすり鉢に叩き込んで、スリコギで潰し、ヒマの本来の機能を破壊して、役にたたなくする、なんて言う解説がなされていないのですよ。可笑しくありませんか。
ヒマの本来の機能を壊すのですから、ヒマ、すなわち無駄な時間で無くすると言うことになりますよね。
要は、無駄な時間では無くしてしまう、と言うことでしょう。
これが、「暇つぶし」となると、「時間を無駄に過ごす」と言う意味だと言うのですよ。
なんかおかしかございませんか、ちゅーの。
ねえ、お客さん。
ちょっと、納得の行かないところもありますが、要するに、
「暇潰し(ひまつぶし)とは、時間的余裕が生じた際などに、本来要求されていない行為・作業などを実施することによって、時間を消費する代替行為の一つ。」と言うことに、落ち着くものらしいですよ。
と言うことで、ヒマつぶしの意味的一件は落着と言うことになるのですが、
お客さん。
ヒマな時は、国語辞典を引っぱり出してきて、ヒマつぶしをやるといいですよ。ネタはゴロゴロ転がっていますから。
ところがですね。本格的に、ヒマつぶしをするには、旅行に出かけたり、山登りをしたり、海釣りをしたり、ゴルフをしたり、観劇に出かけたり、賭け事の好きな人は、パチンコ、競馬、競輪、競艇にオートレースなどにお出かけになったりしますね。
実に色々ありますが、とかくヒマつぶしには、お金がかかる、すなわち、経済的側面が気にかかることになりがちなのですよ。
以前、私の知合いにですね、金のかからねーヒマつぶしは、何だ、と言うことを問題にされた方が御座いましてね。あれこれ考えたのですよ。
今上げた、旅行以下の事などは、全部お金が掛かって、対象外と言う事になります。
そこで色々と考えましてね。一策としましてね、近場の友達を訪ねると言うはどうか、となりましてね。これは、まー時間つぶしになるのに加えて、たいていは、お茶くれーには、お目にかかれるちっゅーもんよ。運が良ければ、コーヒーとケーキに、さらに、昼には、出前の天丼にお目にか掛けるかも知れねーぞ、と言うのですよ。
そりゃーね。年に一回くらいなら、どーかは知りませんが、これがしょっちゅうときたら、ピンポンとやったとたんに、「留守です。」とやられますよ。
「るすー。ちゃんと居るではねーか。」なんて言っても、
「居るけど留守だ」なんて言われてしまいますからね。
大体、他人の懐を当てにする事は邪道ですよね。
そこで、他人様を巻き込まない、金のかからねーヒマつぶしの方法はないか、ということになりましてね。あれこれ考えましたところ、俳句がいいのではねーか、と言う事になったのですよ。
五・七・五ですよ。これは、鉛筆と消しゴムと紙があれば良い、と言うわけなのですよ。
ヒマつぶし 昼寝してたら 蚊にさされ
なんてやってれば、良いと言うのですよ。しかし、紙はチラシの裏でも使えば良いけれども、鉛筆と消しゴムは金がかかるぞ、と言うのですよ。
徹底的にケチに徹しよう、と言うわけなのですよ。
そこで、出てきたのが、道具は一切不要。何も、使わなくとも良いやつ。と言って、出てきたのが。歌を歌う事。と言うのですよ。
カラオケ店へ何ぞへ行っては、駄目ですよ。
昔覚えた、童謡、小学校唱歌、流行歌など、結構あるでしょう。それをね、かたっぱしから、歌えばいいのですよ。
さらに、ケチに徹底するには、口を開けて、大声を出すと、エネルギーを消耗しますかせね。大声を出さずに、鼻歌で良いと言うのですよ。これだと、歌詞を忘れたって、全然問題ないしね。
たいして、近所迷惑にもなりませんしね。
これだね。と言うことになったのですよ。
最良のヒマつぶしは、鼻歌ですよ。お客さん。明日からでも、早速やってみて下さいよ。
どうです。お客さん。今日はヒマつぶしになりましたか。
しかし、最高のヒマつぶしは、交通費と、入場料は掛かりますが、なんたって、寄席ですよね。これ以上のヒマつぶしは御座いませんよ。教養が身に付きますからね。
お粗末様でした。また、明日のお越しをお待ち申し上げます。
お後が宜しいようで。