《停念堂閑記》12

「停念堂寄席」12

 

『A(C) 〈エー カッコ シー〉』

 

ようこそのお運びで、有難う存じます。

毎度、馬鹿馬鹿しいお笑いで、恐縮でございます。

と言うのは、落語の入りの最も一般的なものでございます。

 

が、しかし、今日は違いますよ。今日は。

 

昨日も同じことをいいましたが、昨日は昨日、今日は今日ですから。

今日は、毎度の馬鹿馬鹿しい話では、ございませんよ。

今日は、馬鹿馬鹿しいとは、正反対。

馬鹿の反対ですから、利口。

そうです。まさに、今日は、利口利口しい話です。

えーっ。“利口利口しい”なんて、ついぞ聞いたことがないって。

そりゃー そうでしょーよ。私だって、今、初めて言ったのですから。

しかしですね。あまり細かいことを気にしては、いけませんよ。

ストレスが溜まりますからね。

万事、おおらかに、参りましょう。おおらかに。

 

今日、私の利口利口しい話を聞いたお方は、明日から、生活態度が、がらりと変わりますよ。

昨日迄とは打って変わった、まさに真実の人生を送り始めることになりますよ。

人生観が、一変しますから。間違い御座いません。

 

きっとね。 まー おそらく、多分、ひょっとしたら・・・。

段々、あやしくなって参りましたが。

但し、ちゃんと聞かなくては、駄目ですよ。ちゃんと。

居眠りしていては、駄目ですよ。奥さん。

しっかりと聞いて下さいよ。しっかりと。

ただね、目を開けているだけでは、私は居眠りなんて、していません。と言うことにはなりませんから。

頭脳、頭脳がちゃんと働いていなくてはなりませんよ。

ね。頭脳が働いていると言うことが大切なのです。

そうです。大雪が降ったら、シャベルで表の雪掻きをするとか。

庭の掃除をするとか。

・・・ちょと違うか。

心臓が動いていて、呼吸もしているが、頭脳が活動を停止してしまうと、死んだと言うことになるのですよ。

脳死と言いますね。

まー、脳死とまでは行かなくとも、脳が寝ている状態では、駄目と言うことです。

脳が寝ている状態のことを、脳が寝ると書いて、脳寝(のーしん)と言います。

まー、脳死の二・三歩手前の状態です。

このような脳寝状態におちいった時には、直に、薬を飲んで脳を覚醒しなくてはいけませんよ。

頭脳覚醒特効薬があります。もう、気がついていますよね。

旦那さん、何と言う薬かお分かりですよね。

そーです。そーです。

「ノーシン、 ノーシン、頭痛にノーシン」ですよね。

古いね。ずいぶん以前のコマーシャルです。

さすがは、旦那さん、直にお分かりになられた。

記憶がいいですね。頭が良い。博識。何でも知ってらっしゃいますね。

旦那さんの頭脳は、フル回転。脳寝状態ではございませんよ。

 

勘違いなさらないで下さい。

なにも、一銭にもならないノーシンの宣伝をやろうと言うのでは御座いません。

たとえば、ノーシンの駄洒落一つやるにも、下ごしらえが必要なのです。

「居眠りをしていては駄目ですよ。奥さん。」に始まるところから、ずーっと、引っ張って来なければならないのですよ。

居眠りしていては駄目。次に脳死を持ち出し、あまり聞いた事のない「脳寝」などという言葉をひねり出して、その上で、ようやく「ノーシン、ノーシン」に辿りつくのですよ。結構、手数が掛かっているのです。駄洒落一つだって、その場の思いつきでは、持ちませんから。これ、ホント。

すなわち、物事すべからく入念な下ごしらえをしておかなくては、うまく事が運ばないと言うことなのです。この点が重要な点なのです。

今日は、この事を、心に留めてお帰り下さいよ。

 

ところで、今日の演題は、『A(C)』(エー カッコ シー)と言います。

なんか、小難しい数学の話か ? と、うんざりなされたお方もおられるかも知れません。

とにかく、いやでしたね。数学

もう、子供の頃から、算数、数学と聞いただけで、ノーシンのお世話になる始末でしたからね。

何を隠そう、私はね、こう見えて、算数、数学が全然駄目なのですよ。

えっ。隠す必要は無いって。一目で、そー見えるって。

さすがは、お客さん。目がお効きになられる。すごい。

そーなんですよ。私は隠し事ができない質(たち)なのですよ。すぐに見破られてしまうのですよ。

 

ところでね。私が算数、数学が駄目と言うのには、ちゃんとした訳があるのですよ。

 

一つはね、お客さんに言われる前に言っておきますが、私はね、頭が良くない。と言うか、はっきり言えば、頭が悪い。

一目で判ったって。

これが、算数、数学が苦手な主たる原因であります。間違いがございません。

 

あのね、お客さん。そんなに頷かなくてもいいのですよ。

多少の謙遜も混じっているのですから。

しかし、ですよ。私が言うのもなんですが、算数、数学が苦手で、良くできない、と言うお方は、結構たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

 

ねー、奥さん。

失礼、失礼。個人限定で、同意を求めてはいけませんよね。

こう言うのは、全員を対象にしなくてはいけませんよ。

 

ん ?  よけいな気を回さないで下さいよ。

全員が、頭が良くない、と言っているのではありませんから。

断じてそうではありませんよ。

全員ではないけれども、ほぼ大半のお方がですね。その何と言いますか、大体は、そーなんでは、なんて言っている訳ではありませんからね。誤解のなきよーに、お願いしますよ。

さっき、言ったように、私は、隠し事ができない質(たち)なのですよ。ウソが言えず、ついつい本当のことをね・・・。なのですよ。

ジョーダンジョーダン。冗談ですよ。

お気を悪くなさらないで下さいよ。くれぐれも。

 

私が、算数、数学が苦手だ、と言う理由の一つは、今、話したようにですね、私自身の頭脳のせいなのですよ。何せ、戦時中の物資不足の中で製作された事情がありますからね。ガラクタばかり、寄せ集めて作られた、と言うのが実情ですから。戦争とは、本当に、怖いものですね。

 

これは、算数、数学ができないのは、私本人側に問題があったから、と言うことなのですが、自分にだけ問題があったから、と納得するのは、何だかシャクですからね。

この際、他人(ひと)のせいだ、と言う点も掘り起こしておかないと、何だが治まらない気もするのですよ。

そこで、あれこれ考えてみますとね。心当たりがあるのですよ。

私が、小学校に入学したのが、昭和26年、西暦1950年でした。終戦6年目の事です。

今のように、何万円もする高級ブランドのランドセルを背負って、もうそれはそれは綺麗に装ったピンピカのお母さんに手を引かれて、桜満開の校門をくぐって入学式。なんて言うピカピカの1年生、とはいきませんでしたよ。

ほとんどが、上から下まで、お下がり物で身を固め、どう見ても、なんだかすっかり草臥れた中古品の1年生と言った光景でしたよ。

それでも、1年生の時は、担任の先生がおりました。2年生になっても、担任はおりました。

ところが、問題は、3年生の時です。何と担任の先生がいなかったのです。

家出して、どっかへ行っちゃった、と言うのとは違いますよ。

そうです。終戦後、教員がはなはだ不足していたのです。

私の田舎では、代用教員と称して、教員免許証など持っていない、高校新卒のおねーちゃんが頼まれて、先生らしきことをしてましたからね。

今では、思いもよらないことでしょう。

 

代用教員でも付けてもらえれば、まだ、良い方ですよ。私の場合は、小学3年生の時に、1年間、クラス担任がいませんでしたからね。

なんでかと言いますとね。まさか入学したての1年生に担任を付けないわけには行かないでしょう。

2年生にだって、まだまだ幼いですから、無理ですよね。

小学生だって、高学年になると、それなりに難しいことを教えなければならなくなりますよ。

先生の頭数が足りない。

そこで、手頃な学年だ、と白羽の矢が立てられたのが、3年生。

学校にも慣れて来てるし、でも、まだ幼いから、担任不在について、屁理屈言ったとしても、たかが知れてますからね。

きっと、てな訳で、3年生には、担任ナシ。となったのですよ。きっと。

しかし、教員が足りないからといって、担任を付けずに、ほおっておくわけにもまいらず、学校側も、色々とやりくりに苦慮していたのでしょうね。

何とか都合を付けて、時間ごとに、入れ替わり、立ち代わり、他のクラスの先生がやって来ました。都合が付いた時にはですよ。しかし、何時もかつも、都合が付くとは限りませんよ。

学校で一番偉い校長先生がよく教室にやって来ましたね。校長先生は、クラスを持っていませんからね。しかし、校長だって、本務がありますよ。何時でも暇なわけはありませんよ。切り札の校長先生も来てくれない。

どうなるか、と言うと、分かりますよね。そうです。

自習と言う事に相成るのでありす。

小学3年生をしょっちゅう自習にすると、どうなるか分かりますよね。

各自、おとなしく、教科書を開いて・・・。

てな分けには参りませんよ。

まさに蜂の巣を突いて、引っ掻き回した状態と言うやつですわ。騒ぎ放題。

こうなると、隣の教室の先生がたまりません。眦をつり上げてやって来ます。教室のドアを開けると当時に、ゴロゴロ ドーン、雷が落っこちるはめと相成る訳です。

よく叱られましたな。思いっきり。静かにしろー。バカモノーってね。

これ以来、ずーっとバカモノに成ってしまったのですよ。本当ですよ。

日々、こんな状態では、3年生と言う年頃の子供の根性が、曲がらない訳がありませんよ。悪ガキばっかし。おみごと。

たしか、小学5年か6年生の時だったと思いますが、我々の小学校の創立60周年記念の式典があったのですが、この時、私らのクラスは、創立60年来の悪ガキと言う異名を付けられましたからね。

 

学校側でも、手を焼いていたのでしょうね。ある時、突然、講師先生と称されるお方を送り込んでまいりましたよ。

白髪頭(しらがあたま)の細面(ほそおもて)、額に走る深い皺、ドングリ目玉に、金淵の眼鏡をかけた、睨みのきくお方でしたね。

果たしてその正体は、と言いますと、学校には、グランドがありまして、その横の方の土地に、公宅と称しまして、先生方の住宅がございました。

同じ学校のとある先生が、そこにお住まいでした。

幸か不幸か、その先生のお父上様が、会社を停年退職なされて、よく学校の周辺をぶらついておられるのを、お見受け致しました。

学校側が目をおつけに成られたのが、このお方なのであります。

先生の資格はお持ちではなく、授業を担当した経験も当然無いお方であります。

が、なんたって、現役の先生のお父上様でございます。他の先生方だって、一目置く存在でした。

この講師先生が、ある時期から時々、教室にお見えに成られるようになりました。授業をなさる訳ではありません。要するに自習の監督と言ったところでしょうか。

しかし、眼鏡の奥の鋭い眼光。これは、小学3年生をビビらせるのに、十分だったのです。

ところが、講師先生にも、色々とご事情がおありだったのですね。きっと。

ある時、黒板を背に、教壇の上から、クラス一同をギョロリと見回し、右手を前方に突き出したかと思うと、親指と人差し指を丸めて、円を作り、曰く。

「私は、これを貰っていないんだよ」とね。

小3の私には、まだその意味が分かりませんでした。

家に帰ってから、親に尋ねて、ようやく意味が分かりましたよ。

講師先生は、無償だったのですね。悪ガキ相手に、そうとうストレスが溜まっていたのでしょうね。

しかし、このような経験は、実に大切なものだ、と言うことが、今更、つくづく思うのですよ。

そうです。この経験がなければ、この落語のこのくだりは、全く存在しないのですよ。恐ろしいことですね。この経験があったればこそ、この美しくも、清らかな歴史的事実を、皆様に、このようにして紹介できるのですよ。

ご高名な小説家の先生が、とある講演会で言っておられました。

小説家ほど、逆境に強い職業はないと」

そーなのです。とんでもない経験が、みんな小説の絶好のネタになるのですよ。

 

旦那さん。旦那さんも、振り返ってみれば、とんでもない経験の二つや三つはおありでしょう。

それを、みすみすほーって置く手はございませんよ。今日、お帰りになられましたら、早速、それをネタに小説を書いて下さい。

もう、一発で芥川賞間違いありませんから。

火花』に対抗して、『みずっぱな』。なんてね。失礼、失礼。

しかし、起承転結、人を感動させる話の展開、感動させる表現などなど、小説は中々大変難しいものであることも事実です。

 

でも、そんな時は、大丈夫ですよ。何て事はありませんよ。

そんな時は、

落語落語にすればいいのですよ。

そんなアホな、馬鹿馬鹿しい、と笑われれば、笑われるほど良いのですから。

何たって、窮した時には、落語ですよ。

よしんば、失敗したって、落伍者になればいいのですから。

 

と、言った状態が小学3年生の時でした。

ここで、ようやく本筋の算数のことが蘇ってくる訳です。

そうです。3年生の時に、掛け算、割り算を習うのです。

この掛け算と割り算の意味をちゃんと教わった事が無いのです。

ニイチが2 ニニが4・・・クク81と繰り返し、繰り返し練習して、何とか言えるようにはなりましたよ。

問題は、だから何だと言うことですよ。

割り算だって、桁の小さい、割り切れるのはいいですよ。

余りが出ちゃったらどうします。事件ですよ。邪魔だから、ウッチャッテしまえ、と言う分けにも参りませんよ。悩んじゃいますよ。

ヤヤッコしい事態が発生すると、とたんに、思考停止となる訳です。

その後の分数になると、もう、いけません。

分数だけに、チンブン カンブン。ちょっと、訛ったか。

 

お分かりですよね。算数、数学において、掛け算、割り算、分数と言った最も基本となるところの意味が分からないのですから、あとは、何をかいわんや。と言うことです。

3年生の時に、掛け算、割り算の基礎をちゃんと習った記憶が無いのですよ。

思い起こせば、これが決定打でしたね。あとは、算数、数学は分からないもの、と言うのが当たり前に成りました。

これで、ノーベル賞には、完璧に遠のいてしまったのですよ。

 

ついに、一生涯、挽回不能。現在、8回の裏まで、ずーっと、0点。天変地変が起きても、9回裏も駄目だね。

 

大局からすれば、結論的には、戦争が悪いのです。

戦争のせいで、教員不足となり、小学3年生の時に、担任の先生がおらず、ちゃんと算数を教わらなかったのです。

戦争とは、本当に恐ろしいものですね。算数ができない人間を作り出してしまうのですよ。

ね。皆さん。集団的自衛権も行き過ぎると、大変な事に成るのです。参戦の機会が断然増えるのですよ。戦争に巻き込まれでもしたら、算数、数学のできない子が続出することになってしまうのです。そなんことになったら、日本の将来はどうなります。絶望的ですよ。日本の最も得意とする金儲けができなくなってしまいます。本当に、気をつけなければなりませんよ。

 

と言うことで、私がなぜ数学ができないか、については、おおむねお分かりいただけたものと思います。

 

えっ。それがどうしたか、ですって。

 

本筋は、何の話でしたかね。

 

そうだ。A(C)の話でした。

これをもう少し具体的に説明しますと、

A(C) は、=(イコール) E(C)なのです。

A(C) = E(C)なのです。

えっ。なんでそーなんだって。

そんな事を、私に聞いてはいけません。私は数学が苦手なのですから。

とにかく、色々と事情があって、A(C) = E(C)なのですよ。

細かい事は気にせず、おおらかにいきましょう。おおらかに。段々分かって参りますから。慌てなくって大丈夫ですよ。

A(C) = E(C)

これから、すなわち、

A = Eと言う結果が導かれます。

 

えっ。もう駄目。難しくて、分からない。

大丈夫です。私にだって、これくらいは大丈夫ですから。

「等号」って知ってます ?

等しいことを示す記号の事です。

例えば、1+2 =〈は(わ)〉 3 と言う数式の「は(わ)」に当たる記号の事です。

そうです。イコールの記号を等号と言うのです。

この等号を使って表される数式の場合、等号の左の部分と右の部分が同じ値なのです。そんなこと、説明されなくても分かってるって。

たいしたものですね。もー、天才。砂糖で言えば、グラニュー糖

 

なんのこっちゃって。これはお手上げですか。

突然ですが、ビートを原材料にして作られるのが、グラニュー糖です。ビートは、すなわち、砂糖大根のこと。これを甜菜(てんさい)と言うのですよ。

だから、天才は甜菜で、したがって、グラニュー糖と言うことになるのですよ。

 

それがどーしたって。

 

ここでね。天才からグラニュー糖の駄洒落が出てくるのには、それはそれは、深ーい訳があるのですよ。

と、言うのはですね。話が幾分込みいってきて、大分お疲れ気味になってきたでしょう。疲れると、必然的に眠気が襲ってくるわけですよ。

ここらで、ちょっと、眠気覚ましが必要になっているのですよ。

頭脳を覚醒するには、ノーシンでなければならない、と言うことはないのですよ。

脳の活性化になくてならないのが、糖分です。

皆さんの脳が、かなり糖分不足になって来ているので、その糖分不足を補う必要が生じているのですよ。

そこで、グラニュー糖で、糖分を補給した、と言うことなのですよ。

適当にバカ言ってやがる、とお思いでしょうが、これで、中々、気を使っているのですよ。ほんと。

 

さて、ひと呼吸したところで、

1+2 = 3と言うようにですね。

例えば、1+2+3 =〈は(わ)〉 3+2+1と同じ値なのです。

1+2+3 = 3+2+1なのです。このような場合には、

等号の左側と右側から、同じ値を取り除いても、この数式は、成り立つのです。

すなわち、

等号の左側から2を差し引いた場合、右側からも2を差し引けば、

1+3 = 3+1となって、この数式はちゃんと合っていることに成るのです。

いくら数学が苦手な私だって、これくらいは分かりますよ。

だから、 A(C) = E(C) と言う数式の場合、等号の左右に(C)と言う同じ値がありますから、双方から(C) を取り除いても、この数式は成り立つ訳です。

ですから、A = Eと言うことになるのです。

 

グラニュー糖、効いてますか ?

奥さん、大丈夫ですか。ノーシンも上げましょうか。もうちょっとの辛抱ですから。

 

A = E 従って、AはEと言うことになるのです。ここ迄は、理解できますね。このことから

例えば、B(ビー) A(エー) D(ディー) 

すなわち 続けて発音すれば、BAD(バッド)

意味は「良くないこと・悪い事」ですね。

これが、A = E ですから、

B(ビー) A(エー) D(ディー)は、B(ビー) E(イー) D(ディー)

続けて発音すると、BED(ベッド)と同じと言う事になる訳です。

 

何か問題がありますか。

 

AとEは同じな訳ですから、AをEに置き換えても、良いのですよね。至極、簡明な論理です。

と言うことは、BAD = BEDとなり、これについては、

BAD よくない行為 イコール BED 寝台 と言う訳です。

良くない行為 = 寝台。

えっ、ベットでする良くない行為って、何だって。

お客さん、そこ迄、気を回さなくって、結構ですから。さらりと参りましょう。

 

BAD = BED よくない行為 = 寝台

 

なんのこっちゃですと。

 

だから、だから私は数学は、いやだ、と言っているのですよ。さっぱり訳が分からなくなるのですよ。

 

しかし、訳が分からないでは済まされませんよ。

何たって、このご多忙の時に、わざわざ時間を作って、安くはない入場料を支払って、寄席に来てくれているお客様に対して、

サッパリ訳分かんなくなっちゃった。じゃーな。

と言うわけには参りませんよ。

 

そこで、今日は、特別、特別にですよ、奥の手を使って、とっておきの解説を致しますから。

 

まず、思考をガラリと切り替えて下さいね。ここからは、理数系ではなく、文系数学に切り替えますから。

 

さて、A(C) = E(C)についてですが、

はなはだ突然ではありますが、A(C) は、大阪地域の文化に関わるもので、これを東京地域に置き換えた場合に、E(C)となるのですよ。意味は同じです。

もうお分かりですよね。

A(C)は、言わずと知れた大阪の「エー カッコ シー」の事です。

これを、東京風に言うと、E(C) 「イー カッコ シー」と成るのです。

 

大阪で、ちょっと、ミバのいいことをすると、とたんにやられますねー。

「エー カッコ シー」と。

東京風に直すと、「イー カッコ シー」になると言いましたが、東京ではあまり使いませんね。東京では「イー カッコ シヤガッテ」とか「カッコ ツケヤガッテ」ぐらいですかね。

いずれにしろ、外観だけで、内容を伴わない事を、得意げにやった場合などにこのように言われますね。

ところがですよ。ところがこの「エー カッコ シー」が、人々の生活に、大変重要な関わりを持っているのですよ。

 

ここからが大切な部分ですからね。

居眠りしている場合ではないですよ。ほんと。グラニュー糖、補給しますか。

 

人は、生まれてから死ぬまで、毎日毎日、とにかく毎日、何かの行為、行動をしない日は無いのですよ。当たり前のことですよね。

人それぞれ、個体差があります。来る日も、来る日も、食っちゃ寝、食っちゃ寝の似たような日々を送る人もいれば、毎日、毎日、今日はパチンコ、明日は競馬、明後日は競輪、明々後日は落語などと、せこせこと違ったことに精を出す日々を送ってらっしゃるお方もおありです。

 

似たようなものだって。まーまー。短気をおこさずに。ね。

 

明日は競艇、明後日はオートレースですか。落語の回数を、もっと増やした方が良いですよ。

大きなお世話ですって。それはそーです。相すみません。私がとやかく言う事ではございません。ご幸運をお祈り申し上げます。

 

と言うような具合にですね。人間は毎日毎日何かをしない日は無いのです。

生きてる限り、日常生活、とにかく何かの行為、行動をとっているのです。

 

ここ迄は、いいですよね。

問題は、ここからですよ。ここからが大変重要なことですから、聞き逃さないで、しっかり、聞いてくださいよ。

A(C)の山場ですから。

それほど大げさなことではありませんけどね。

 

人間、何気なく日常生活を送っています。

すなわち、毎日、何らかの行為、行動をとっているのですが、

普段、気に留めていないかも知れませんが、実は、この何気ない行為、行動は、すべからく各自の心の中のある判断基準に従っているのです。

言い換えれば、心の中のある判断に従って、日常生活の行為、行動が行われている、と言う事です。

人間、いろんなお方がいらっしゃいます。

したがって、いろんな行為、行動が出現します。

ですから、いろんな行為、行動の基になっている心の中の判断基準は、実に多種多様なのです。幾つも、幾つもの判断基準に従って、人間は日常の行為、行動をとっているのですが、その判断基準の一つとして、かなり高い比重を占めていると思われるのが、

何と、何と、これが、A(C)なのです。

皆さん、何かをする時に、とにかく、恰好よくやりたい、他人(ひと)に恰好よく見られたい、こんな事したら恰好悪いな、などと言う気持ちが働きはしませんか。

お客さん、ちょっと日常を振り返って見て下さい。

何かにつけて、とにかく、恰好よくありたいと、思っておりませんか。

何をするにしても、ほとんどの場合、恰好に気遣ってませんか。

たとえ放屁ひとつとってみても、

お隣さんよりは、良い音色を。

お隣さんよりは、良い香りを。

なんて思ってませんか。

とにかく、人間恰好良くありたいと言う願望が強いようです。

例えば、俳優さん、タレントさんなどと言う職業のお方は、万事恰好よくなければならないようです。仕草の一つ一つが、恰好良くなくてはなりません。

帽子、ネクタイ、スーツ、コート、靴、歩き方、座り方からラーメンのすすり方に至る迄、どれ一つとっても、恰好良くなければなりません。

風吹ジュンさん、竹下景子さん、武井咲(えみ)さん、お綺麗ですね。何に付けても、恰好いいですよ。特に、ラーメンのすすり方なんて、実に、見事ですよ。気を遣っておられるようですよ。

渡哲也さん、福山雅治さん、恰好良いですよね。

しかし、タレントさん全部が全部、そーとは参りません。

誰と名指しすることははばかられますが、はばかられますが・・・、

綾小路きみまろさん。

私、大ファン。目のつけどろが、実にいーですからね。とにかく、面白い。本当のことをしゃーしゃーとね。

しかし、天は二物を与えずですかねー。お気の毒に。失礼。

風貌はねー。

どこを切っても、数学的表現をすれば、( ) ÷(かっこ わる)ーの金太郎飴

きみまろさんだったら、きっとこのように言いますよ。

しかしね、綾小路きみまろさん、知ってますよね。

鬘かぶっているのですよ。これ、すなわち、A(C)なのですよ。

 

中には、俺なんか恰好など問題になんかしてねー、と言って、恰好つけておられるお方もいらっしゃるようですが。

たまに、あまりA(C)に関係せずに、ヒョー ヒョーと生きておられるようなお方もお見受けしますが、まー、言っちゃなんですが、ほとんどのお方が、実は、A(C)なのですよ。

すなわち、それくらいA(C)に関わる判断基準と言うのが、人間の日常生活の中で大事な位置にあると言う事です。

あのね、人間だけではありませんよ。なんと、あのカラスがそーなのですよ。

カラスが、と思われるでしょうが。あのカラスが、大変なA(C)なのですよ。

以前テレビでやっていたのですが、とあるマンションの一室で、ご家族の方がくつろいでおられたところ、カラスが1羽飛んで来て、ベランダの手すりに、恰好良くとまろうとしたのですよ。

ところが、このカラスがとんだドジ。

何と、着地に失敗して、ツルン。

コケて、落っこちそうになり、ドタバタしたのですよ。

それを見ていたご家族の皆様は、大笑い。爆笑。

ところがですよ、この後、このカラスが、しょっちゅうやって来るようになって、ベランダにウンチをひっかける、洗濯物に悪戯する、えらいことになったのだそうです。

着地に失敗して、無様な恰好悪いところを、大笑いされて、カラス自尊心はズタズタに成ったようで。そのため、アタをするようになったらしいのです。

カラスでさえ、A(C)なのですよ。

 

A(C)に関わる主な要素を羅列してみますと、カワイイ、キレイ、美人、イケメン、優しい、親切だ、頭が良い、気が利く、仕事ができる、お金を沢山もっている、社会的に高い地位についている、有名人と知り合いだ、などなど、実にいっぱいありますね。

とにかく、これらの要素をできるだけ多く身につけていると、A(C)が達成され、満足した日常生活を送ることができるようになるのですよ。

 

気がついてました。言われてみれば、なるほどなー でしょう。

なんだかだ言いながらも、誰しもA(C)なのですよ。

 

これに気がつけば、もー、こっちのものですよ。

難しい商談も、相手のA(C)を、ちょちょっとくすぐれば上手く行く可能性が高いのですよ。

相手のA(C)を頭っから否定してはだめですよ。

人間、自分の立場を否定されると、誰でも、カチーンとくるものです。

ですから、必ず、相手のA(C)の部分を上手に褒めることが肝要なのです。

誰しも、自分のA(C)の部分を褒められると、悪い気はしないものです。

これで、難しい商談も、ずーっと楽になろうと言うものです。

とにかく、人間一皮剥けば、みーんなA(C)なのですから。

 

中には、頭が良い、仕事が良くできる、と言ったところに、すごい執着を持っている方がいます。特に、頭が良い、仕事ができると言ったA(C)的要素にこだわりを持っていて、願わくば、そのような評価を得たい、と強く望んでおられるお方を見かけます。

このような方は、この点をくすぐられると、ひとたまりもないようですよ。

周囲から、先生なんて呼ばれたり、名人とか、達人なんて呼ばれたりすると、もー、止まらなくなっちゃうようですよ。美味いものを奢ってくれるし、高価な物をプレゼントしてくれるし。

ところがね。美味いものを奢ったり、高価なものをプレゼントしたりして楽しんでいるうちはいいのですが、一歩間違って、天狗様になっては、いけませんよ。

とたんに、喜劇と悲劇が訪れます。

なんたって、天狗様の鼻は、並外れた長さですから、摘まみ易いのですよ。

そうです。あまり調子に乗ると、鼻つまみ者になってしまうと元も功もなくなってしまいますから。

頭が良い、仕事が良くできる、周囲から先生などど、おだてられると、もともとそのように言われたいと言う願望の強かったお方は、ちょっとした弾みで、本当に、私は頭が良い、仕事が良くできると、思い込んでしまう場合がありますからね。

そうしたら、困った事に、周囲がバカに見えだすようです。すっかり天狗様になってしまって、反っくり返ってしまい、もともと大きな鼻で前が見 えにくいのに、全然前がみえなくなり、階段に蹴つまずいて、こけちゃったなんてことになりかねないのですよ。周囲から見ていると、こんな滑稽な光景はあり ませんよ。でも、本人は気づいていませんから、A(C)の絶頂なのですね。喜劇と悲劇の主人公ですわ。お気の毒な結果です。

 

なに。「良いじゃないの、幸せならば」ですって。あなたも古い台詞を知ってらっしゃいますね。博識、天才。

階段には、気をつけて下さいよ。

やはり、“実るほど 頭を垂れる稲穂かな”の方が、本当のA(C)と言うものではないでしょうか。

 

てな訳でして、誰しも心の中に、A(C)の要素がありましてね。それが日常生活の行為、行動の判断基準となっており、ふだん大して気にはしていませんが、物事の判断にこれがかなり強力に作用しているのですよ。

ですから、このことを良く念頭においてですね、明日からの生活に役立てて下さいませ。

くれぐれも、天狗様になってはいけませんよ。気をつけましょうね。天狗様は、周囲から見ていると喜劇、本人は悲劇の主人公なのですからね。

 

人間の心の中に潜む、その人の行為、行動を規制する判断基準は、多種多様であります。こっそりお教えしますが、実は、A(C)より強力なのが潜んでいるのですよ。

それは、この次にお教えしますからね。かならず、来て下さいよ。

 

お粗末様でした。お後がよろしいようで。