《停念堂閑記》68
「日比憐休独偏記」3
「ジジイ放談 3」
「嗚呼! 無責任」
本日も、また、お越し頂きまして、まことに有り難う存じます。厚く御礼申し上げます。
今日は、あいにくの雨の中を、わざわざお越し頂きまして、誠に有り難う存じます。
どうも雨は、湿っぽくて、鬱陶しくていけませんな。
エッ! 雨だから寄席に来れたんですって。晴れならば、仕事へ行くはずだったんですって。
いやー、雨は結講ですなー。いつ降っても、雨は大歓迎。
私はねー。足下の都合で、すぐに、どちらへも向けるタイプなのですよ。
兎に角、雨は、いいものですよ。
「雨 雨 降れ 降れ、もっと降れー」、てな、もんですからね。
雨が降らないと、ダムが干上がって、水不足で大変なことになってしまいますからね。
農作物にだって、被害が出ますよ。
野菜など、植わっている状態で乾燥野菜になってしまいますからね。
牛蒡など、まさに、畑のジャーキーになりますから。
家畜だって、水を飲ませないでいると、牛などは、生きながらに、ビーフジャーキーになりますからね。
まさかね。
私はね。実を言いますと、雨の方が好きなんですよ。エー。
雨ほど良いものはありませんよ。
昔から言われているように、「雨降って地固まる」と申しましてね。厄介なことは、兎に角、何度も何度も、雨に降られないと、良い結果に治まりませんからね。
痔で悩んでおられる方も、飴食って痔固まると申しましてね。あの痔の激痛から解放してくれるのが飴ですからね。どちらかと言いますと、水飴の方が良いらしいですよ。雨降りに食べるとより効果的だって。 ン! ホントかね ?
万事、アメにこしたことは御座いませんから。
とは言え、限度がありますよ。
「50年に一度の記録的大雨」なんて言うのは頂けませんよ。御免被ります。
気象庁の予報では、「50年に一度」なんて言っていますが、1年間に何回も発令されているような気がしませんか ? ホント。
被害に逢われた方々には、お掛けする言葉も見つかりません。
雨なんかとんでもない。もー結講 !
と言うわけで、適度な雨には感謝して、毎度の馬鹿馬鹿しい話に、移ろうと思います。
今日はですね。ちょっと趣向を変えましてですね。幾分真面目な馬鹿馬鹿しい話をしようと用意致しましたよ。
ただただ馬鹿馬鹿しいだけでは、落ち葉の季節になってしまいますからね。
オータム ハズ カムになりますからね。
そうです。アキが来た。飽きられてしまうのですよ。全面的にアホ1色になってしまってはね。
少しは真面目な事も、混ぜなくては、具合が良くないのですよ。
いくらカレーライスが好きだからと言っても、毎日毎日、三度三度、カレーでは、やっぱり、オータム ハズ カムでしょう。飽きが来るでしょう。
だから、タマーには、ハヤシライスを、ですね。
時には、ハヤシに走ったりして、ですね。気分転換を計らわなくてはならないのですよ。
あのー、カレーが馬鹿馬鹿しくて、ハヤシが真面目と言う事ではありませんよ。
たまには、気分転換を、と言う話ですから。念のために。
エーッ、たいした転換だって、ですか。
いやいや、この違いが分からないようでは、まだまだアマチュアですよ。
プロはですね。一口で、これはカレー、これはハヤシと一瞬で違いが分かるのですよ。一口で、ですよ。たった一口で。
そんなこと、誰にだって、分かるって、ですか。
マー、そう言われれば、その通りですがね。全員がプロ!
カレーとハヤシの区別が付かない人は、いないでしょーな。
それでは、おソバ屋さんのカレー丼とカレーライスの違いがわかりますか ?
そんなの食ってみなくても、一目瞭然ですって。
ごもっと、器が違うから一目で分かりますわなー。
ところで、味の方はどうなんですかねー。違うのですかね。
今度、おソバ屋さんへ行ったら、試してみて下さいよ。
またですね。中華料理屋さんのカレー丼とカレーライスは、どうなんですかね。
箸を使うか、スブーンを使うかの違いですって。
くどい! 下らない事、言ってないで、さっさと、先へ進めろ、ですって。
ハイハイ、分かりました。
エッ、ハイは一回で良いですって。失礼致しました。
今日はですねー。少々真面目な馬鹿馬鹿しい話を、ですね。致したいと思うのですよ。
ただし、これから述べる事は、多分に、小生の偏見と独断によるところがございます。と言いますか、その全面的にですね。偏見と独断によることがですね、危ぶまれているのですよ。
先に、お断りして、謝っておかなくてはなりません。
小癪に、偉そうに、自分はどうなのだ、とご不快になられた場合は、どうぞご海容くださいませ。お願い致しますよ。
早速で恐縮でございますが、最近、なんだか、気に掛かる出来事に、しょっちゅう出くわすのですよ。
それはですね、人々の行為・行動に関する責任についてなんですよ。
どなた様も、みなさん、責任逃れには、大変気を使っておられるようですよ。
みんなお上手、具合の良くない事態が発生すると、さーっと、どこかへ行ってしまいますからね。その場に居なくなってしまいますよ。
ぼーっと、その場にいたら、貴方の責任にされてしまいますよ。きっと。
これが、殺人事件の現場だったら、たちまち、容疑者としてしょっぴかれてしまいますよ。それでもって、警察の取調べで、カツ丼食わされたら、もう一巻の終り。白状するより手はありませんよ。
気をつけましょう。カツ丼一杯で、死刑にされてはたまりませんよ。
と言うわけで、責任逃れは、皆さんお上手ですから。もー、たいしたものですよ。因に、小生もですね・・・。言われる前に付け加えておかなくてはなりません。
責任逃れの体質は、もはや紛れもない文化と言って良い様ですよ。
昨今の社会の一つの特徴といえますよ。きっと。
社会は、常に動いています。
社会とは、簡単に言ってしまえば、人々の集団のことです。社会は、個々の人々の集合によって形成されているものです。今更、言わずもがなのことでありますが。
だから、社会は、常に動いている、と言うのは、社会を構成している個々の一人一人が、休まず動いている、と言うことですよ。
人と言うのは、言うまでもなく、八っぁん、熊さん、ミーちゃん、ハーちゃんら、それぞれ個人のことですよ。当たり前の事です。
すなわち、社会の中で、熊さん、ミーちゃんが、常に行動していると言うことです。
その行動は、一個人としての私的な場合もありますし、その個人が関わっている組織の一員としての行動の場合も御座います。
そして、この行動が、どこかに影響を及ぼすことになる訳です。
例えば、風が吹けば桶屋が儲かる式で、思わぬところに影響が出る場合もある訳です。
その個々の行動が、社会にとって、好都合の場合は、社会の構成員は、自身が喜んだり、また、その行為を賞賛したりするわけで、批難される事は御座いません。ただし、結果、オーライの場合ですよ。
ところが、問題は、社会にとって、不都合が発生した場合ですね。
社会の構成員が、こぞって、ここぞ、とばかりに批判・批難を浴びせ掛けて来ます。特に、メディアの攻撃は、目を見張るものがございますよ。
時には、度を超す場合も見受けられます。まるで、正義の使者メディアレンジャーだー、と言った勢いで、やって来ますね。
企業が失敗をしでかして、その責任の一環として行う謝罪会見の光景は、もう既に一般化してしまい、形式的な感じを受ける場合が、多いように感じられませんか。またかー。と感じたりしますなー。
かなり以前になりますが、大手のY証券会社が倒産した時の会社サイドの謝罪会見が、印象的でしたね。後始末を突然押し付けられたポット出の新社長が出て参りまして、その社長1人が涙、涙で、一身で責任を負う形でしたね。
もはや、記憶がハッキリしなくなっていて恐縮ですが、倒産に導いた当の責任者達は、とっとと、職を退いていて、最後の後始末役を押し付けられた格好の不運な新社長さんが1人で専任を負って、泣きながら謝罪している状況でしたね。
この光景を見た一般の庶民感情としては、お気の毒に、と言う雰囲気さえ感じられましたね。
あれが、会社側の仕組んだパホーマンスだよ。と言われれば、何をか言わんや、と言うことになりますがね。一般庶民は、そんな裏事情など知るわけがございません。見たまま、額面通りに受け止めるのが一般的ですからね。
この後、企業側では、対策を講ずるようになりましたね。社長など単独の謝罪形式をとらなくなり、数名の役員が、下世話な表現で申し訳ございませんが、そのガンクビを並べてですね(御免なさい)、会見の卓上に並べられたマイクやメディアのカメラに向かって、一同最敬礼と言う方式になりましたね。
謝罪に当たる人数を増やすと言うことは、より好意的に見れば、多勢で謝罪することによって、より強い謝罪の意を表す、と言うことになるかも知れません。
しかしですよ。人数を増やすと、それに比例するがごとく、1人当りの責任が軽減されているかのようにも見えるのですよ。
子供の時に、野球をしていて、他所の家の窓ガラスを割っちゃった場合など、1人で謝りにいくより、皆なで行く方が、断然気楽だったでしょう。
そうです。「赤信号も、皆なで渡れば怖くない」の方式ですね。
人数を増やした形式と言うのは、どうも、こちらの性格がより強く感じられるのですよ。小生の偏見でしょうかね。
このような方式は、実に、昔々から行われている、極めて一般的な方式です。
話は、時代をかなり遡りますが、701年のことです。大宝律令という法典が作られたと言われています。むかし昔、中学生だった頃に、お目にかかったことがあるような。以来、トンとご無沙汰しているむきもおありかと思われます。日常、そうそうお目にかかる存在ではないようです。
律と言うのは、概ね今の刑法に相当する取決めです。
笞(ち = むち)や杖(じょう = 棒)で殴る罰もあったのですよ。執行官によって、強弱があったのでしょうね。きっと。野球のホームラン王のような執行官だったら、どうします。杖百タタキでも食らったら、もう死刑と同じになってしまいますよ。
令(りょう)と言うのは、概ね今の行政法に相当する取決めです。一部、民法的な性格を有している部分もあるようですが。
この令(りょう)で、国家運営の体制が作られています。
大雑把に見ますと、最上に天皇を掲げ、その下に、太政官(だいじょうかん)と神祇官(じんぎかん)を置き、太政官の下に、中務省、式部省、治部省以下のいわゆる八省が設置され、そこに百官が配置された、国家運営の骨子が形作られたのです。
ようするに、現在の国家運営体制の基礎が作られたわけで、以後これに手を加えながら、国家運営が行われている、と言うことです。
少し、思い出して来たでしょう。たまには、このような眠っている記憶を起こして見るのも、頭の体操に良いのではないでしょうか。
このような話になると、途端に睡魔に襲われる方はいませんか。ちょっとの辛抱ですからね。たのみますよ。
この令(りょう)の仕組みにおいては、ある部局が何かを立案し、施行しょうとする場合には、その書状が作成されます。立案・施行に当たる部局の長官が、署名・捺印することは勿論ですが、他の部局長の署名・捺印をとる書式が整えられるのです。
このことは、当該案件は、担当部局のみならず、いわば全体の責任で事に当たると言う形式がとられているのです。
うまいこと、責任が分散されているのですね。
早い話が、責任問題が発生した場合は、結局は、責任の所在を曖昧にして、煙に撒いてしまう手法と言うわけですね。
因に、この手法は、お隣の国、隋・唐から学んだのです。昔からしたたかですよ。お隣は。実に。
手っ取り早く言えば、この様な責任逃れの体制は、1300年ほど以前から、公務に携わる連中が、ずーっと、行って来た手法なのです。
要するに、公務の責任は、どこにあるのか、結局のところは、うやむやにし易い体制が続けられてきているわけです。
すなわち、「赤信号、皆なで渡れば、怖くない」の方式なのです。
公務の場面だけではなく、私企業にも、この手法は、浸透しています。
企業の謝罪会見も、最初は、緊張して、誠意を込めて、謝罪していたようにも見えましたが、一同礼の今となっては、もはや、なんとなく形式的になってしまっていて、誠意ある謝罪のように見えない場合もありますなー、と言うことになって来ているようですよ。
大きな企業の場合は、実際の責任者は、危うくなると、とっとと職を退いていて、後始末的存在の新役員が、後始末の一環として、謝罪会見に臨む場合を多く見かけますね。
この場合には、言うまでもなく、後始末の新役員は、当該事件に直接的には、関わっていない場合は、自分の責任としての自覚がどうしても無いか、薄いわけで、言うならば、企業の組織上、止むを得ず出て来て、形式的に謝っている感が滲み出ているような気がしたりしますなー。
たいして責任を感じておられない方が、ただただ形式的に、マイクやカメラに最敬礼しているに等しい状態だったりしましてね。
マイクやカメラに謝罪して、どうしょうと言うのです。全くナンセンスと言う他ありませんよ。
そもそもは、謝罪者と被謝罪者が存在する場合は、当然のこととして、謝罪者が被謝罪者に対して、謝罪を行うと言うのが、本来の筋なわけです。
したがって、謝罪者は、被謝罪者の元を訪れて、謝罪すると言うのが本来的なやり方なわけです。
しかし、被謝罪者が、余りにも多数の場合は、現実的には、個別に訪問して謝罪することが難しいと言う事態の場合がある訳です。
また、現実的には、謝罪する立場側で、謝罪しなければならない対象の把握が出来ない場合さえある訳です。
このような場合は、個別訪問による謝罪は、当然出来ない訳です。
このような場合は、例えば、何処かに会場を設定して、被謝罪者にご足労をお掛けする事になるけれども、そこに集合して頂き、丁重に謝罪する、と言う方法も有るでしょう。
また、ことの性格に依っては、文書やメディアを利用した方法をとる場合もある訳です。
被害者に個別に謝罪文を送ったり、新聞に謝罪広告を掲載したりすることは、一般的に行われているようです。
テレビの場合は、おそらく謝罪者側から、謝罪会見を行う旨が、テレビ局側へ連絡されるのでしょう。それを受けて、テレビ局が取材に赴き、現場を直接放映するか、取材の結果を編集して、後で放映するか、と言うことになるのでしょう。要するに、ニュースの一つとして扱われる訳です。
しかし、これは、謝罪の本来的な意味合いにおいては、いささか問題が残っている訳です。
謝罪者が、謝罪した事実は、ひろく社会に知らしめられることにはなりますが、これは、あくまでもニュースの一つとして、一般視聴者に放映された訳であって、謝罪者が被謝罪者に直接謝罪したのとは、ちょっと性格が異なるものです。
謝罪者が、被謝罪者に、テレビを通して謝罪する場合は、本来ならば、テレビ放送の特定の時間を謝罪のための番組として用意して、謝罪を被謝罪者へ向けて行わなければならないのが、本来の筋と言うもののように思われるのですが。
しかし、テレビのマイクやカメラに最敬礼を行う形式は、多くの場合、ニュースとして放映されて、謝罪者側が設営した謝罪のための特別番組として行われることは、極めて稀なのではありませんでしょうか。
ニュース扱いで放映されて、これで、謝罪は一件落着と言うのは、如何なものかと、思われるふしが残っているような気がするのですが。
当然、真摯に謝罪に臨んでおられる場合もありますよ。それはそれなりに、伝わって来るものがありますから。そのような方に文句を言っている訳ではございません。お間違いなきように、お願い致しますよ。
社会には、常に個々の行為・行動があります。何か行動を起こそうと言う時には、その行動の性格によりますが、行動の目的・意義等が掲げられるのが一般的です。
そして、その目的の達成のために、手段が講じられ、事が進められて行く訳です。
そして、進められた結果が、良好と出た場合には、ヤッタ、ヤッタで、皆で喜び合うわけで、目出たし、目出度し、と言うことです。
しかし、全ての行為、企画等が、目出たし、目出たしの結果で終わる訳では御座いませんよ。とんでも無い結果をもたらす場合も、当然ある訳です。
ところがです。何か行動を起こそうと言う時には、その行動の性格によりますが、行動の目的・意義等が掲げられるのが一般的ですが、この時、同時に、悪い結果が予想される場合は、その事の性格によっては、責任についても考えておくべきではないでしょうか。少なくても、責任の所在を明白にしておくが、欠くべからざる事ではないでしょうか。
事の責任は、計画を実施して、結論が出たところで考えれば良いことであって、事のスタート時に考える必要のないもの、とされているのが現実的には、はなはだ多いのではないのか、と思われるのですが。
事の性格に依りますが、事のスタート時に、責任の取り方を、ある程度具体的に考えておく必要のある事柄もあるのではなかろうか、と思われるのですよ。
事態の透明化の義務とか、執行者の覚悟の明白化と言ったことが、課題ですね。
大体が、事のスタート時点において、責任の所在を分散させたり、曖昧にされていたりするわけで、また、悪い結果を引き起こした場合は、真相を隠蔽し、責任をあやふやな形にして、蓋をしてしまう、と言う方式が、極めて一般的に行われているように思われるのですよ。小生の偏見でしょうかね。
精々、責任の取り方は、例のように、責任感希薄の後始末の新役員が、ガンクビ並べて、「想定外でした」とマイクやカメラに、最敬礼をして、一件落着に持ち込もうとする訳です。
政府、政治家、政党、関係企業、地方自治体等、原発の設置・稼働を是としていた連中は、具体的に、どのように事故の責任をとりましたかね。
どなたか、それぞれこのように納得のいく責任をとりました、と言う明快な回答をお持ちの方は、いらっしゃいますか。
結局、肝心の真相は隠蔽されてしまい、真の責任は、何らとられないまま、目下、未だにうやむや状態ですよね。もー、5年を経過しているのですよ。
まさに、「喉もと過ぎれば熱さをわすれる。人の噂も75日。」を、最初から想定して、こちらは想定どおり、と言うのを企んでいるかに見えますよ。
日本では、原子力に関心が持たれ、その研究が大きく推進されたのが、1955年の「日米原子力研究協定」の調印であったようです。
最初は、原発の建設を前提としない、と言うことだったようですが、初代原子力委員長正力松太郎の下で、翌1956年には、5年後の原発建設に向けての構想が発表されたのですよ。まさに、舌の根も乾かない内にですよ。
中曽根康弘も強力な推進派の代表的存在でした。ようするに、時は、いわゆる「神武景気」を背景に、財界の電力増産の要請を追い風に、原発の開発が急速に推進されたのです。
この計画に反対の立場をとったのが、原子力委員会委員であった湯川秀樹博士であり、『原子力委員会月 報』(1957年1月号)で、「一年前に私は、動力炉や動力協定に関しては、少なくともここ一、二年間の情勢の変化を静観すべきことを機会あるごとに主張 してきた。一年たった今日の事情は大分変ってきているばかりでなく、色々な問題点も大分明確になりつつある。しかし動力協定や動力炉導入に関して何等かの 決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならないことはいうまでもない。わが国のエネルギー需給の問題が、一年前に予想されていたよりも更に深刻化しつつあるとはいえ、まだそこには時間的な余裕は残っているのである。この貴重な時間を如何に活用するかが私どもにとって一番大切な問題ではなかろうか。」と述べていますよ。
しかし、このような放射能の恐ろしさを一番知っている科学者の専門的な立場からの意見は、結局は退けられ、湯川博士は、1年3ヶ月ほど同委員をつとめたけれど、抗議して、1957年3月に同委員を辞任しています。
要するに、湯川博士をもってしても、政界、財界の目先の利益追求を止めることは、出来なかったと言うことですね。
原子力の恐ろしさ知っている人の意見は、それを知らぬ、ただただ目先の利益追求を第一の目的としている連中に、あっけなくすっ飛ばされてしまったのです。
1956年(昭和31年)6月に日本原子力研究所(現・独立行政法人日本原子力研究開発機構)が設立されています。茨城県の東海村に研究所が設けられ、翌1957年11月1日に、電気事業連合会加盟の9電力会社および電源開発の出資により日本原子力発電株式会社が設立されています。
この後、日本で最初に原子力発電が行われたのが、1963年(昭和38年)10月26日で、東海村の原発で、初めて発電が行われたのです。
知っていましたか ?
これを記念して、毎年10月26日は、原子力の日とされていることを。
さすがに、休日にまではできなかったようですので、国民的には、あまり知られていないようですが。
要するに、最初に、原発を建設しようと言うことを計画し、国会に発議し、それを是として可決し、実行に移した政府、政党、国会議員等がいたのです。
また、それを推進するために設置された機関がありまして、その代表者以下の委員もいたのです。
更に、電力会社が、強力にこれを押し進めていたことは、言うまでもありません。
これは紛れもない事実です。
原発の設置に向けて、国会では、賛否両論の意見が対立しましたが、否を唱える野党側は、数の争いになると全く非力で、賛成側に圧倒的に押し切られる結果になっていました。多数決方式では、最初から結論は判明しているのです。
何時の国会であったかまでは、記憶に定かではありませんが、原発設置に関わる審議の時、「原発は絶対に安全である。原発は絶対に故障することはない。事故は絶対に起こらない。」と言う趣旨のことを、大声で力説した与党の議員がいたことは、ハッキリと記憶にあります。
人間が作った機械に、しかも原発と言う複雑極まりない精密機械が、絶対に故障しない、壊れないなどと、よくもしゃーしゃーと言い切れるものだ。人間の作った機械が、一切故障せず、永久に活動し続けるなどと、よく言い切れるものだ、と呆れ返った、記憶があり、政治家とは、とてつもない大嘘つきで、信用ならん者だという印象を確実にした記憶があります。
このような審議が繰り返されて、原発安全の妄想が国民の間に、浸透させられて行ったのです。
あの原発安全、無故障、無事故の演説をなさった国会議員さん、それに拍手をおくり賛同なさった議員さんは、今、どうなさっておられるのでしょうね。
原発推進に奔走した国会議員が、福島原発の事故に際して、大いに反省し、被害を受けた方々に謝罪し、損害を被った方々に対する保証に尽力したと言う話は、ほとんど聞いた記憶がございません。
喉もと過ぎれば、熱さを忘れるで、頬かむりですよね。
こう言う原発の建設を強力に押し進め、実現化した方々は、福島原発の事故に当り、何ら専任はないのでしようか。大地震・大津波が起きたのは、私のせいではない。「想定外だ」で済むのでしようか。
きっと、マイクを向けられると、責任逃れの弁明に必死になられるのでしょうね。間違いなく、想定外です、記憶に御座いません状態になってしまうのですよね。
よしんば、いくらマイクやカメラに最敬礼されたところで、例えば、放射線による被害者にとっては、事態になんら変化をもたらすものではない側面があるのですから。謝罪されて、胸の支えがおりたで済む問題ではないのですから。
何かを行う場合は、行うことには関心があるが、思わしく運ばなかった場合に、責任をとらせられるのは、極力御免被りたい、と思われがちであることは間違いが無いようです。
古今東西、この傾向があったものと思われますが、近年はこの傾向が、かなり顕著に社会の隅々まで、浸透しているように思われてしようが無いのですよ。
近時では、国立競技場再建、元都知事の公金使用、また、築地から豊洲への生鮮市場の移転工事等々、話題にこと欠きませんね。
現在社会の一つの特徴と言っても良いような気がします。
政治家と言われる人々の選挙運動時の公約などは、当選後はケロッと忘れ去られる。これは、ごく当たり前のことになってしまっているでしょう。
このようなことに、国民はあまりにも慣れすぎていて、現実的には、ほとんど気に留めていないようだ、と言う現状があるように見える訳です。
すなわち、分かりよく言ってしまえば、国民の責任に対する感覚が、すこぶる鈍くなってしまっている、と言う事です。よく言われる危機感の鈍化と同じレベルのことのように思われますね。
この傾向が、そもそも全ての事柄の根底になっているのではないのか、と言うことが、最大の問題なのではなかろうか、と思われるのですよね。
いわば社会のリーダー的存在に有るべき政治家や官僚、そして経済界のお偉いさん等に見られる無責任化の根源は、実は国民の無責任化の基盤の上に存在しているのではなかろうかとも見受けられる訳です。
たとえば、選挙に際して、投票に行かず、棄権する若者が多い、と言うことは、このところ数十年ずーっと指摘され続けています。一向に改善されませんね。
棄権する理由としては、そもそも政治には無関心、とか、政治に期待していない、と言うようなことを良く耳にしますが、これは、要するに、無責任と言う他ないと思われますね。
また、棄権した方の意見として、この人を国会なら国会へ送り込みたい、と思える人が立候補者の中にいない、だから棄権するより仕方が無い、と言った意見を良く耳にします。これは、実感として分かる気がしますね。
ところが、この方ならと思える立候補者はいないが、棄権はしたくない、と言うことで、致し方なく納得の行かない立候補者の名前を書いて、投票して来る、と言う方が、これまた多数おられるように見受けられるようです。
これが、最悪ですね。選出したくない人を選出するのですから。素直に考えるならば、信用のおけない人を、なぜ選出するのか、と言うことです。無責任甚だし、と言う他ありませんね。
しかし、私の周辺では、立候補者の中に、選出すべき適格者が見当たらない、とおっしゃられる方が、実に多数いらっしゃるのですよ。選ぶにふさわしい人はいないが、仕方がない、としぶしぶ納得の行かない、投票をして来る人が、実に多いように見受けられるのですよ。
早い話が、本当に支持されて選出された訳ではない、代議員さんが、随分おられる、と言うことになるのですよ。理不尽極まりありませんね。
それが当選者は、私はこれだけ多数の票を得た。これだけ多数の方々の支持を得た、とストレートに勘違いしている人が、余りにも多いのですよ。 多分、当選者の得票は、シャーがネーヤ票が、圧倒的に多く含まれているのが、現実のように思われるのですが。どうでしょうかね。小生の偏見ですかね。
立候補者の中に、選出すべき適格者がいない場合は、どうしたら良いか、と言うことが問題ですよね。
棄権したのでは、選出すべき適格者がいない、と言う意思表示は出来ていません。何処かへ、遊びに行っていたのかも知れませんしね。
白紙投票をした場合は、選出すべき適格者がいない、と言う意志表示になるかも知れません。しかし、無関心かとも、思われかねませんね。
とすれば、どうするか、と言うことになりますが、もう仕方がないので、素直に、「選出すべき適格者なし」と書いて来たら、どうでしようか。
勿論、無効票となります。が、有権者としての意思表示は出来たと言うことにはなりそうです。棄権や白票とは、性格の違う投票が行われた、と言うことにはなりますね。
「選出すべき適格者なし」と思いつつ、しゃーねーな、と適当な投票を余儀なくされている人は、小生の偏見と独断では、投票者の70~80%に達するのではと感じられるのですよ。
もし、「選出すべき適格者なし」票が、投票者の20%以上にでも達したならば、選挙管理委員会も、放置できなくなる筈です。
おそらく社会的問題として、何とかしなくては、と言う事態になるでしょう。このようにでもなれば、少しは、立候補者の意識も変わる可能性が有るかも知れませんし、選挙民の意識も変化するかも知れません。
結局は、やりたい人を選ぶのではなく、やって貰いたい人を選ぶ選挙へと、移行する可能性が出て来るのではないでしょか。
そもそも、多くの方々が、無関心、無責任とも思えるようになった、この原因はと言うと、色々と考えられるでしょうが、その一つには、やはり教育が上げられると思われますね。
ようするに、戦後の教育においては、個人の権利に関する事柄は、かなり精力的に教えられたように思われますが、義務や責任についての教育は、十分ではなかったのではないか、と思われる訳です。
ここで言う教育とは、学校教育だけを意味するものではありません。親による教育、家庭内教育、近隣の地域教育、育児施設内教育(保育園や幼稚園における教育)、学校教育、社会教育全般をさしています。
特に、親が子供に責任感を植え付ける教育が、結果的に、すこぶる希薄となっているのではなかろうか、と思われるのですが。如何なものでしょうか ?
普通の一般家庭において、社会的な義務・責任について、子供にしっかりと教育しているか、と言う事です。
このような課題について、親が子供ときちんと向き合うことが、できているであろうか。
普通の一般家庭の親は、中学生・高校生のお子さんとのコミュニケーションを、きちんと、とれている状態でしょうか。
幼児期から、いわゆるお受験一辺倒の子育てではありませんでしたでしょうか。もしも、お受験一辺倒、一辺倒と迄はいかなくとも、それに準じた状況と言うのが、普通の一般家庭の状況であったとするならば、子供の責任感は、効果的に育つものではないように思われて仕方ないのです。
また、子供の個性を延ばすのが良い、とかの理由をつけて、延ばす教育をせずに、ほったらかしにしている場合はございませんか。
テレビなどで見ていると、中には不器用な子も見られますが、極めて要領の良い子の多い傾向が窺われませんか。
常識はずれの子を良く見かけますが、しかし、要領は良いように見えますよ。
すなわち、権利は強く主張するけれども、義務・責任逃れは、実に達者ですよね。
現状は、お受験一辺倒で育った子が、ほったらかし状態で大きくなっしまった子が、今や親となっているのです。すなわち、社会の中枢部分の担い手になっているのです。嗚呼!
申すまでもなく、お受験一辺倒で育ったお子さんが、全部が全部、無責任の傾向が有るなどと言う訳ではございませんよ。ちゃんとしておられる方は、勿論、大勢いらっしゃられることは、指摘するに及ばない事です。
それでは、お前はどうなんだ。小癪に、偉そうに、と言われれば、潔く、帽子を脱ぐより、仕方御座いません。面目次第御座いません。
ご不快にお感じになられましたら、どうぞ、ご海容のほどをお願い申し上げます。
以上は、あくまでも小生の偏見と独断の所産ですから。
ところで、皆さん、いい加減、目を覚まして下さいよ。
こう言う話になると、みんなスヤスヤと寝込んでしまうのですから。
ほらほら、ヨダレ垂れてますよ。
どうです。今日の話は、実に、チョット真面目で、実に馬鹿馬鹿しい内容だったでしょう。
どうも、お疲れさまでした。
お後が宜しいようで。
またのお越しをお待ち申し上げます。