《停念堂閑記》72

「日比憐休独偏記」7

 

「嗚呼! 教育」

 

ご多忙のところ、本日も、またお越し頂きまして有難う御座います。

連日寒い日が続いておりますな。

氷が張ったりしまして。しばれますなー。

高校時代迄は、北海道で育ちましたので、雪や氷には慣れていましたね。

もう50数年前のことですが、東京に出て来て驚いたのは、雪が5・6センチも積もろうものなら、もう、交通がマヒしてしまうことでしたなー。

僅かの積雪で、車も電車も止まっちゃうなんて、思いもよりませんでしたよ。

北海道でも、多めの雪が降った時には、交通が混乱しましたが、5・6センチ位の雪は、毎日のように降りましたからね。車や汽車が、数センチの降雪で、まったく動かなくなることは、そうそうは、ありませんでしたよ。

幾分多くの雪が降った時には、汽車はよく定刻には走っていなかったですなー。冬期は、しょっちゅう遅れていましたね。

だから、発車の定刻が、既に過ぎてしまっている場合でも、駅まで駆け込めば、セーフと言うことが普通にありましたね。

私の育った所は、国鉄単線で、ホームの部分には、天井は勿論無く、風通しの良いホームが二つ並んでいるだけで、周囲には建物が無かったので、離れた所からもホームの状態が良くみえましたな。

そんなだったので、おーい、待ってくれー、と大声を上げて、手を振れば、発車を待ってくれた、車掌さんもいましたしね。

1本乗り遅れると、3時間ほど待たなければ、次の汽車がありませんでしたからね。そんなこんなで、普通に発車時刻が、遅れるのですよ。

だいたいは、みんな車掌さんの顔を知っているのですよ。顔なじみなのですよ。近所に住んでいたりしましてね。○○さんのところの、△△ちゃんが、今度、車掌さんになったわ。なんて言う、雰囲気がありましたから。

だから、顔見知りのおばちゃんが、もうちょっと、と言う所まで来ているのを、待たずに発車したりするのはね。車掌さんも、つらいよ。ですね。

まー、全体に、生活のテンポが、今のように、セセコマシクは、ありませんでしたからね。田舎は、お互いにノンビリしたところがありましたよ。

ところで、寒さには慣れているはずなのですが、寒いときは、やっぱり寒いですなー。

人は、冬には、寒いとぼやき、夏には、暑いとぼやき、兎に角、結構、ぼやくのが好きですなー。

かく言う小生も、ぼやくのが好きなんですよ。

ぼやいて、嘆く。もー、大好きですな。

ナンテコッタ! トホホホーッ! ってね。

もー、連日のことですわ。

挙げ句の果ては、諦める。ナサケネェー!

もう、とーに、慣れっこに、なっちゃってますがね。

 

先日は、社会の牽引的立場にある者の責任感の欠如が気に掛かるとぼやき、その原因が、何処にあるかを考えてみなくてはならないなどと、ちょっと偉そうに、それは次回の宿題としよう。てな、ことにしてありましたなー。

まだ、忘れてはおりませんよ。明後日くらいになれば、なかば失念しちゃいますけどねー。

ご承知の通り、この種の事柄に関する答は、これだ、とただ一つ限定されるものではなく、事態は色々と複雑に絡み合っていると思われますので、色々な答があって然るべきと、思われますな。

出来るだけ、不利な立場となる責任を取りたくはない、と言うことは、現在特有の事態とは、言えないでしょうな。いつの時代でも、殆どの人は、そのように思っているものではないのでしょうか。

いや、お前みたいな無責任なヤツは、そのように考えるかも知れないが、そうではない。みんな責任感にあふれている。そんな不埒なことは、世の人々を愚弄する、ケシカラン発言だ、とお叱りを受けるかも知れませんが・・・。

数人で、飲みに行ったり、食べに行って、勘定の時に、なぜか、長トイレに行っちゃう人って、いません ? 

トイレへ行くこと自体は、良いのですよ。何ら問題ございません。

ただ、勘定が終わった頃合いを見計らって、ノコノコ戻って来て、なんだ、もう勘定しちゃったの。立て替えてくれたのか。オレこれで払おうと、思ってたんだけど、と、カードを出すヤツ、心当たりありませんか。

これは、庶民のやる細やかな行為ですが、これが、公人の場合となるとですね。些か、問題ですよ。

公用車私的な使用。公費での私的宿泊費の支払い。公費での私的な物品の購入。セコイ事やる人って、いるでしょー。

ところが、セコくない、多額の経費が絡む場合も、おうおうにして、見られるのですよ。

マスコミがこぞって大騒ぎした、国立競技場建て替えに関する訳の分からないやり方。

ドブに金を捨てたようなものだ、と言っていた方がおりましたが、捨てたのなら、溝浚いをすれば回収できますが、みすみす多額の金を費やしただけで、なんの見返りがないのですから。タマッタものでは御座いませんよ。

続く、五輪のエンブレムの製作に関するドジ。

これらに支払われた多大な経費の負担は、誰が負うのですか ?

当然、これらの立案、実施に関わった人がいるわけで、この人が責任をとるべき筋ですよね。

しかし、この手のことは、いつも曖昧に処理され、ホトボリが覚めると、大体はウッチャらかされて、それで、ハイ、お終いとされるのですよ。

精々、その事に関わる要職についていた人が、その職を辞するくらいが、精一杯の責任のとり方となるくらいですな。

分かり易く言えば、その責任をとらなければならなくなったら、辞めりゃー良いんだろう、と言う方式なのですよ。

そんな人が、職を辞するのは、当たり前のことですが、辞めたからといっても、負債はそのまま残るのですよ。この部分についての責任は、どうしてくれる、と言うことですわ。

せめて、場合によっては、その職にあって、その仕事に当たっていた時期の給与とか退職金を返済させるくらいの責任を問うても良いのではないでしょうか。

築地市場豊洲への移転工事に関わる事など、その責任ある立場の面々は、そのような不具合な事態にある事を知らなかった、とか、忘れたなどと、しゃーしゃーと言ってのけるのですよ。

だとすれば、知らなかったとか、忘れちゃったとか言う責任を、ちゃんととれ、と言いたい訳ですよ。

課せられた職務を果たしていないんだから、その職を辞することは勿論、その職ににあった期間の給与退職金を返却させたり、減額させたりするのが、普通でしょう。仕事しなかったんだから。大変な損出を作っちゃったのだから。

これらに関わる多大な負債を残して、辞めりゃー良いんだろう、では済まない気がしませんか。

この点についての適正な法的制度・体制が、整えられなければ、どうにもなりませんなー。

しかし、適正な法的制度・体制を整えるべき立場におられる方々が、問題なのですよ。責任感が欠如しているから。

そこで、どうしてこのようになったのかを明らかにし、今後の対策をたてる必要があるのではないか、と言うことになるのですよ。

と、まー、こんな次第なのですが、どうしたものでしょう。

 

対策の結論的なことは、もう、分かっている訳ですよ。

どのような仕事でも、それにあたる場合、担当する人の責任についての法制をキチンと作っておく、と言うことに尽きる訳です。

何度も言うようですが、この法制を作ることが、はなはだ困った状態にある現実だ、と言うことなのですよ。これに当たる人が、チャンとやらないのです。

分かり良く言えば、事を始めるに当たって、その責任の所在を、最初から曖昧に作っておく、と言うズルッコをするわけですよ。

事が上手く運ばなくとも、その責任を取らなくて済む体制を、最初に作って、責任逃れができるようにした上で、事に取りかかる、というところがあるのですよ。

そして、具合が悪くなると、知らなかったとか、記憶に無いなどと、トボケちゃうわけです。実に、困った状態なのですよ。

要は、このような人格が、どうして生まれたか、と言うことですなー。

この原因を突き止めて、改めなければ、良くない状態が、延々と続く事になるのですよ。

思い当たる第一の原因は、やはり教育でしょうなー。

人つくりに、失敗しているのですよ。

人をつくるのが、すなわち、教育です。

教育と聞いて、学校教育しかイメージ出来ない人はダメですよ。

学校教育の他に、親による教育、家族による教育、地域社会による教育、一般社会による教育等々、広い意味の教育をイメージして下さいませ。

教育というと、学校の先生に責任を押し付け勝ちな親御さんはいませんか。

学校の先生も、その職務上の責任を担わなければならないのは、当然ですが、しかし、子育てに関して、親御さんの責任が最も重いと思いますなー。

親御さん。保育士さんや学校の先生に、一方的に教育的責任を求めては、いませんか。

まずは、親御さんの責任を全うする事に、精進することが大切なのでは ?

 

人格の形成には、個人の持って生まれた資質に、生後の教育が大きく影響する、と言う事は、誰でも知ってますよね。

振り返って見れば、第二次大戦敗戦国となった我が国の混乱は、至る所に現れましたね。

多くは、戦前のやり方がまずかったと言う反省が発生し、新たなやり方に改める必要に直面したわけですよ。

教育の現場では、これが著しかったと見られますね。

これが、急激におきた為に、どのようにしたら良いものか、混乱したのでしょうなー。

終戦数年後に小学校に入学しましたが、このころの我校の校長先生は、まだ、国民服・国民帽を着用していて、いつもリヤカーを引いて、スコップを持って、校庭のグランドの凸凹を直してましたなー。

この光景が、なぜか、とても印象的に記憶されているのですよ。

今になって、振り返ってみると、あの校長先生の姿が、これからどうなるのか、どうすれば良いのか、と言う、教育現場を牽引していく立場の人の実情を表す、苦悩する姿だったのかなー、とつくづく思う事があるのですよ。

ヌッ! 単に、グランド整備が好きだっただけでは無かったのかって。

それはないでしょう。それは。

やっぱり、これ迄の過去を背負って、これからどうなるか。どうするか。と言う苦悩の姿だったろう、と思いますなー。

戦後、日本は小難しい思想的なことは横において、経済の成長に、官民を上げて、一直線に突き進んだ感がありますな。

もはや確かな記憶が怪しくなっておりますが、昭和30年代の初めころでしたかね。頑張りの甲斐が実って、神武景気が訪れましたね。

昭和39年には、東京オリンピックが開催されましたなー。

原爆を2発もお見舞いされて、どん底にたたき落とされた日本が、戦後20年足らずで、オリンピックをやれるほどに、立ち直ったのだ、と誰しもが、大喜びでしたね。

今度迎えようとしている2020東京オリンピックとは、国民の意欲が、まったく違いますなー。

こんどのオリンピックは、一体、なんなのだー ? ? ?

ン! そんな事、言わずと分かっているだろうって。

関係者の金儲けだよって、ですか。

たしかに、その感が強いですなー。

オリンピックでもやれば、経済の刺激となって、景気が良くなるのではないか。

第一には、やっぱ、これでしょうな。

この点で、オリンピックに関わる人々は、大歓迎なのでしょうね。

建設業者、旅行業者、観光業者、一部の飲食業者など、及びこれらに関わる立場にある者は、オリンピックに期待するところが、すこぶる大なのでしょうな。あやかりたいものですなー。

しかし、運営に必要な莫大な経費を負担させられるだけの立場の人は、ドッチラケと言う状況ですよ。

その費用を、国民の教育、福祉医療等々に向けてくれよ、との悲鳴が上がってますよ。

しかし、日本の牽引役の立場にある人々にとっては、教育、福祉医療等々に

関わる事業は、地味でさっぱり面白味がないのでしょうな。

事業は、まずは、楽しいイベント。イベント、イベントで盛り上げて行かなくては、と言うのが、今の日本の牽引者の最も基礎となっている精神のように見受けられますな。

世の中、こぞってイベント好きですから。

オリンピックは、世界的規模の最大のイベントですから。

メディアは、相変わらず、ただただ、金メタル、金メタルと、ことさらに騒ぎたてていますが、近代オリンピックの創設者、クーベルタン男爵が主張した

オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」とした精神は、今いずこ、と言う感が免れませんな。

なんだか、国民全体の空気としては、シラケを感ずるところがままありますなー。

次いで、昭和40年代に入ると、いざなぎ景気がやって来ましたね。

終戦直後どん底から、なかり裕福な生活が出来る時代がヤツてきましたな。

夏は、ダラーッとしたステテコ姿で、ビールを飲みながら、テレビのナイターを見る。

庶民の父ちゃんの一般的な楽しみ方でしたなー。

この間、多くの家庭での子育ての場では、母親は子供に、チャンと勉強しないと、父ちゃんのようになっちゃうよ。

絶対、父ちゃんのようになってはだめだよと、母親が子供に、毎日言い聞かせていた時期がありましたな。

父ちゃんの受難の時期がありましたよね。

父ちゃんだって、好きで給料が安かったのではないよ。結構、無理して、一生懸命頑張っていたのに。家に帰れば、ボロクソに言われていたのが、印象的ですなー。

このような結果、行き着いた教育が、幾分大げさに、その特徴を言えば、ようするにお受験一辺倒と言うことですわ。

親の教育、家族の教育、社会の教育、学校の教育、みんな上げて、お受験に向けて行われていた感がありますな。

現在は、それが一般的なあり方に定着しており、特に、特徴的な感じは無くなっていると言って良いでしょうね。

まずは、塾、塾、塾。塾通いで、結論的には、一流大学を出て、良い職場に就職して、安定した、裕福な生活を獲得する、と言う事に、教育の主軸がおかれましたね。

このお受験教育の特徴は、まずは、入試に必要とされる知識の注入、知識の獲得と言う点でしょうなー。

とにかく、名門小学校、名門中学校、名門高等学校、名門大学の入学試験を突破すには、一も二も無く、受験用知識を如何に獲得するか、と言う点にありましたな。

その為には、兎に角、学校の他に、塾、塾、塾ですよ。あっちの予備校、こっちの予備校通いですよ。一浪二浪はあたりまえ。

生まれてから20歳くらいまでは、兎に角、受験戦争を戦い続ける事になるのですね。受験用知識の獲得に、日々必死と言う状態ですわ。

大学受験の場合は、国立大学の場合は、受験科目数が多く設定されていましたが、私立大学の場合は、学部によって入試科目に偏りがありましたね。従って、色々な分野の知識をバランスよく獲得すると言うよりは、自分の必要とする科目に傾斜する訳です。

すなわち、入試に必要とされる知識の獲得が必須と言う状況なのです。

 

ところがですよ。入試において、多くの場合、ポッカリと空白になっている部分があったのですよ。

それは、受験者の人格に関わる評価が、多くの場合、受験科目とはなっていないのですよ。

従って、受験教育の課程では、この人格に関わる教育は、希薄化した状態だったのですよ。

この人格に関わる評価も重要であることは、学校側では十分認識していたと思われます。

ところが、この点に関する選抜テストの方法に、なかなか困難な点がある訳です。

ペーパーによる○×式、択一式、簡単な記述式のような訳には行かないのです。

例えば、人格に関わる判定が可能と思われる試験問題の作成が必要となりますが、これは、中々難しいところがある訳です。

入試においては、受験生一人一人の公平が担保されなければなりませんが、この実現は極めて難しい現実があるのですよ。

例えば、ある課題を与えて、それに対する、自己の考えを記述させる方法をとるにしても、出て来る答が単一とは限りません。すなわち、色々な価値観がある訳ですから、中には判定しづらい価値観が示される場合だって、往々にある訳です。評価が画一的に出来ない訳です。

また、面接試験を取り入れても、特定の面接員が、全ての多数の受験生を同条件で、面接することは、現実的には出来ませんし、面接員が異なれば、評価の結果に影響が出かねない、要するに、公平が担保され憎い状態がある訳です。

それから、面接においては、会話の仕方とか、何かに取り組む意欲とか、関心事とか、得意なこととか、と言うような事は、有る程度計り知る事ができますが、示された価値観等については、評価点を付けるのが、なかなか困難なところがある訳です。

従って、手間隙を費やして、あまり上手く行きそうに無い選抜の方法は、どうしても、敬遠され勝ちとなる傾向がある訳です。

そもそも基本的に、人格によって、合否の順位を決めて良いのか、それ自体が問題ではないか、と言う、意見もある事でしょう。

そんなこんなで、入試においては、人格に関わる点の評価は敬遠されがちで、そのために、受験教育においては、人格形成に関わる教育が、希薄化することになったのではないでしょうか。と思われるのですよ。

誤解なさらないで下さいよ。入試に人格を評価する科目を設置すべきである、と言う提言をしているのでは御座いません。

戦後、受験教育が展開される事になった。この受験教育では、人格形成に関する教育が、とかく希薄になりがちであったのではないか、と言う事を指摘しただけなのです。

学校側は、自学で必要とする入試で、選抜すれば良いと思いますよ。

本来、人格形成に関わる教育は、なかなか難しい側面を有していることは確かです。

子供の人格形成に関して、最も強い影響を及ぼすのは、まずは、親と言うことになるでしょう。

しかし、人格の形成に関わる教育は、子供にとっては、必ずしも、受け入れ易いものとは限りませんな。

どうしても、押し付けがましくなったり、制約・制限的になったりする要素が強くなり勝ちですな。

このような性格の事柄は、子供には、親はガミガミと、小言をいってばかりだと、敬遠されることは勿論だし、親だって、何時もいつも、ガミガミ言うことは、好むところでは無いのではないでしょうか。

そして、多くの家庭では、受験戦争を勝ち抜くことに、子育て第一の目標が据えられているでしょうから、どうしても、人格形成に関わる躾、教育は希薄化してしまう、あるいは一方に、偏ってしまう、と言う状況となっているのではないのでしょうか。

日本中の全ての家庭での子育てが、このようだと言う訳では、もちろんありませんよ。受験教育の中でも、きちんとした躾、教育が行き届いている家庭もある事でしょう。

しかし、受験教育においては、ややもすると、入試のための知識の注入、獲得に重きが置かれ、人格形成に関わる躾、教育は希薄化する傾向が強かったのではないか、と言うことですよ。

結果、現在は親ばかりではなく、学校の先生、地域の人々は、子供の人格形成に関する教育をシッカリやると言うのが、どうも苦手なように察せられます。

それでは、具体的に、どうすれば良いのか、と言うことが、直面している現実です。

これは、口で言うほど、生易しい事ではないかも知れません。

手の内を明かせば、かく言う小生も、面目ありませんが、全然ダメですな。本人が言うのですから、疑う余地はございませんよ。

しかし、ボヤキ、不平、屁理屈は、一丁前にやるのですよ。

この辺りが、なんとも言えないところなのですよ。

ボヤキは、ひとまずおいて、まずは、子育てにおいて、親がしっかりしていなくてはならない、と言うことになります。

では、親は、どうすれば良いのか。と言うことになりますが、いきなり、高度なことを志しても、うまく運ばないでしょうから、極めて、基本的なことをやれば良いのではないでしょうか。

まずは、あかちゃんの頃から、子供を可愛がる事でしょうな。

常に、可愛がっていれば、親子の信頼関係が作られていくと思いますなー。

この関係がちゃんと出来ていなければ、躾、教育は、きっと上手く運ばないのではないのでしょうかね。

躾優先ではなくして、まずは、可愛がって、良い親子関係をつくる事がだいじではないかと思いますなー。

しかし、子供も生まれながらにして、個性を持っています。

たとえば、誰にでも愛想がよく、人なっこい性格の子もいれば、そうはいくかとばかり、反抗的な性格の顕著な子もいる訳です。

親の言う事を、良く聞く子もいれば、反っくり返って、手足をばたつかせて、一向に、親の言う事を聞かない子もいる訳です。

赤ん坊の内は、善悪など知りませんからね。持って生まれた感情むき出しですわ。可愛い部分ばかりではありませんなー。小憎らしい部分もありますよ。

なんで、食べ物を手でこねくり回すのだよ。

寝かせておくと、なんで、ぐずるんだよ。

そんな大声で、泣かなくたって。

何で夜泣きするのだよ。

なんて言う事は、毎日のことですよ。

その原因が、病気である場合は、親がいち早く気づいて、対処しなくてはなりませんよ。

しかし、毎日毎日ぐずられると、いくら親だって、たまらなくなりますよなー。

しかし、かといって、おいて逃げる分けには、参りませんよ。

怪我をおわせるような暴力を加える分けには、参りませんよ。

ほんの一部の親を除いては、そんなことをしませんよ。親は、何だかんだと言いながらも、育てられる、大人となる過程で、最低限度のことは身に付いている訳ですよ。

しかし、身に付かないまま親になってしまう場合も、時々見られ、ニュースになっているのも稀では御座いませんなー。

記憶に無いでしょうが、自分だって、さんざん親を手こずらせていた時期があったのですよ。間違いありませんよ。きっと。

そう言えば、なんとなく、どこか似ているでしょう。くずっている我が子。

だいたいは、親にそっくりなのですよ。

うちの子は、どうしてこんなに言うことを聞かないのか、と言うことは、親に似たからに相違ないからだ、と諦めるよりないですよ。

赤ん坊は、クズルもの、と腹をくくって取り組むよりありませんなー。

とにかく、子供と格闘する時に、色々な機会に、人格形成に関わることを、根気よく教えるよりありませんな。

自分の物と、他人様の物をチャンと区別出来るようにとか、

他人のものを、断り無く、自分の物にしてはダメとか、

約束を守るようにとか、

何事にも、一生懸命に取り組むとか、

相手の立場を考えるとか、

ひとに、乱暴してはダメとか、

教える時に、呑み込みが悪いからと、親が乱暴を加えては、ダメですよ。

そんな中で、自分の行いに責任を持つように、と言う点をチャンと教えて欲しいものですなー。

このような事は、1回や10回言って聞かせたくらいでは、子供は覚えませんよ。

ずーっと、事あるごとに、言い続けなくては。子供と根気くらべですわ。

くれぐれも、根気負けして、放り出さないで下さいよ。

全員、横綱になるまでとは、言いませんが、幕内十両になるくらい迄は、育てて下さい。

育っていく子供を見ると、子育てが楽しくて、仕方が無い人もいるでしょう。

ついに横綱になったー、なんてなると、もー、たまらないでしょうな。

子育ては、楽しい事も、つらい事も、ありますけれど、とにかく、人間を育てて行くのですから、そりゃー手間がかかりますって。

頼みますよ、責任感豊かな、人格者に育てて下さい。

社会で、きちんとした仕事ができるようになる為には、このようにして、育ててもらうより手はないのですから。

会社で、重要な仕事をこなすことも大事でしょうが、子供をちゃんとした人格者に育てることは、それ以上に大事なことなのですから。

会社の仕事は、ちょっとぐらい手抜きしたとしても、子育ては、手抜き厳禁ですよ。

そこんところを、親御さんは、覚悟して、子育てに取り組んで下さいませ。

このようなことが、上手く出来なかった者からの、切なる願いを込めたメッセージで御座います。ホント。

偉そうな事を言って、勘弁してちょ。

 

と言うわけで、今の大人の責任感の欠如は、戦後の教育に、原因の一つがあったのではないのか、と思われる訳です。

ですから、子供の躾、人格形成の教育は、まずは、親御さんに頑張って貰わなければなりませんし、家族、近隣社会、一般社会および学校教育において、もっともっと力を入れることが必要のように思われます。

しかし、このような部分は、直に、明日の利益を生み出すことに繋がるか、と言うと、20・30年のスパンを見てもらわないと、実際の目に見える効果が現れないのです。

今の社会の牽引的立場にある人達の多くは、とにもかくにも、利己的立場で、明日の利益を追いかけるのに精一杯で、20・30年先のゴールの設定は、ほとんどしていない状況ではないのでしょうか。

そして、それは、極めて利己的で、責任をとらない方向で進められる特徴があるようです。

実に、奇妙で、情けない状況のように、見えて仕方ないのですよ。

要するに、ゴールの設定なしに、兎に角、目先の利益だけを追っかけて走り回っている状況のような気がします。

だから、今までと変わった状況に接すると、どうして良いか分からなくなり、目先のことの、一時的な安易な落しどころばかり、模索しているように見えるのですが。

例えば、原発の設置がその典型ですね。

始める時には、経済性の高さ一辺倒だったのでしょうな。放射性の高い原子ゴミの始末なんぞ、殆ど問題にしなかったのでしょうな。

福島原発の後始末。原子炉メルトダウンの状況の確認、燃料デブリとかの取り出し方法の模索が、多額の経費をかけて行われているようですが。

例えば、燃料デブリとかを取り出せたとして、その先、それをどう処理するのですかね。持って来どころがあるのですかね。ゴールは全然見えていないのではないのですかね。全く、困った問題です。

これが、日本には、55機の原発があるとか。この原発の後始末のゴールは ???

全く見えていない状況ではないのでしょうか。

それでも、取り敢えずは稼働させようと、目先の利益で、事態は動いていますなー。

ゴールは、未来の人任せ。と言う無責任体制だけが、目につきますなー。

財政の多大な借金の処理も、未来の人任せ。

この無責任が、今の日本社会を牽引している人の実像です。

 

今回は、無責任の一根拠を、受験教育に求めてみました。正解かどうは分かりません。教育の他にも、色々と考えなくてはならないことが、幾つも存在するでしょう。その内、またチャレンジしようと思います。

 

誰でも知っているようなことを、偉そうに、くどくどと書き連ねて、御退屈の事であったでしょう。お察し申し上げます。

何と言っても、年中連休の状態ですので、何かして、閑潰しをしなくてはならないのです。

結局、好きな事で閑を潰す事が出来れば、と思いますと、“ぼやいて、嘆く”、これが何とも、大好きなのですよ。杉下右京さん流に言えば、私の悪い癖、と言う事になりそうです。

また、ものすごくお閑な時がございましたら、お付合い下さいませ。

お疲れさまで御座いました。

お後が宜しいようで