《停念堂閑記》99

「日比憐休独偏記」30

 

「お医者樣のお仕事」

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。大歓迎で御座いますよ。

と申しましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。

ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。

粗茶の一杯すら出ませんよ。ポイントだって付きませんから。

このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。

しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。

 

強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。

おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。

まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題のもとに日々をお過ごしの方々も多くいらっしゃられるのではないでしょうか。これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情の方、このような方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。

 

話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、ヒマ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

今日の視点は、小言幸兵衛で参りますよ。

小言は、長生き最大の糧。ヒマじじーの趣味なのですよ。

さー、ご一緒にストレス解消に励みましょう。

 

さて、本日のヒマ潰しのテーマは、“お医者様のお仕事”と言うことにしますよ。

それでは、行き当たりバッタリで参りますよ。

バッタリ倒れて、お医者様に見放された時が、話の終りの時ですからね。

 

時々思うことがあるのですが、一般的に言って、お医者さんは、病んでいる人の病気を直す職業についておられる方ですよね。

この病んでいる人が、お医者さんに、病気を直して下さい、と依頼して来た時に、お医者さんは、わたし失敗しないから、と言うかどうかは別として、持てる知識、技量を尽くして、直すことに専念することになりますよね。

これは、先にお断りしたように、病人当人から、その病気を直して下さい、と言う依頼があった場合に、お医者様は、このように対処することになる、と言うことですよね。

弁護士さんも、弁護の依頼があって、そこから弁護活動を開始することになるのですよね。依頼されていないのに、どこぞへ勝手に押し掛けて行って、その人の承諾も無しに、知らない人の弁護を始める弁護士さんがいたら、珍しいことですよね。尤も、ドラマチックな特別な事情でもあれば別ですがね。通常、弁護士さんは、頼まれもしない弁護活動はしませんよ。

お坊さんだってね。全然知らない方が、まさにご臨終を迎えると言う事態の病室の前で、頼まれもしないのに待機している、なんて事は、御座いませんよね。

頼みもしないのに、勝手にやって来るのは、警察ぐらいですよ。場合によっては、有無を言わさず、踏み込んで来ますからね。

 

ところで、お医者さんの場合、これが、依頼が無かった場合には、どうなるのでしょうかね?

と言う疑問が湧くのですよ。ヒマなもんですから。

例えば、交通事故が発生し、大怪我をして意識不明に陥っている人が、病院に救急車で搬送されて来た。本人は意識がないから、治療の依頼なんかできませんよ。

そして、本人の家族、親族、友人などの関係者が明らかでない場合がありますよ。

このような場合、日本社会の通例では、病院がこの怪我人を受け付ければ、担当の医師が、状況に合わせた適切な処置を講ずることになるでしょうな。至極当然のことですね。

この場合、病院、医師は、当の負傷者、或はその身内、知人等から、治療を施して貰いたいと言う、依頼を受けた訳では御座いませんな。

しかし、病院、医師等は、生命を取り留めようと、適切な治療に当たるでしょうな。

何故、病院、医師等は、依頼されたわけでもないのに、治療に当たるのでしょうかね。

これは、こう言う場合は、誰に依頼された訳ではないが、病院、医師等の当然の職務として、治療に当たらなければならないとする社会通念が確立しているからなのでしょうね。

どうして、そのようになったのかと言うと、そのようにする事を可とする人々が、圧倒的に多数だからでしょうね。

なぜ、そうなのか、と言うと、要は、人間として、人道的立場からそうすべきとする人々が圧倒に多数だからでしょうね。

 

要するに、医師たる者は、病人から治療の依頼があった場合、依頼がなくても交通事故等突発的なことにより負傷者がでたならば、負傷者当人およびその家族等身内や知人からの依頼が無くとも、当該負傷者の治療に当たらなければならない立場におかれていますな。

しかし、お医者樣だって、人間ですし、色々事情がおありでしょから、時に、依頼されても、その依頼を受け入れられない、或は、受け入れたくない場合もあるでしょうね。

このような場合は、幾分、ややこしくなる場合がありますよね。

 

例えば、現状でも発生しているのでしょうね。以前からマスメディアなどで、よく取り上げられていた事象として、病院による救急車の受け入れ拒絶・タライ回しの問題がありますね。

 

小生も、その事例を目の当たりにしたことが御座いますよ。

と言いますのは、ご近所の家に救急車がやって来たのですよ。何事かと、近くで見ていたのですが、急病だったのでしょうね。直に患者さんが救急車に載せられましたよ。

ところが、救急車がなかなか発車しないのですよ。どうしたことか、と見ておりましたところ、救急隊員の方が、一所懸命にあちこちの病院に電話をしまくっているのですよ。

お判りのとおり、受け入れてくれる病院を捜しているのですよ。これが、なんと約40分ほど続き、漸く救急車が何処かに向かい発車しましたよ。

病院による救急車の受け入れ拒否、タライ回しについては、テレビで取り上げられているのを見たことが御座いましたが、その現場をまざまざ見ることになりましたね。

救急の患者さんを載っけても、救急車は出発出来ない現実があるのですよ。これ、救急車と言えるのですかね。

病院の救急車受け入れ拒絶の理由は、色々とあるのでしょうね。きっと、救急患者さんの命が懸っていても、拒絶しなければならない特別の事情がおありなのでしょうね。

病院、医師は、とにかく万難を排して、治療の依頼を受けた患者さんには、全力で対処するのが使命であろう、と思っていたのとは、全く方向違いの現実がありますね。

 

ここで、目下テレビをはじめとするマスメディアで、話題となっているとある病院で、透析治療の依頼を申し出た患者さんに、担当の医師が治療にあたって、透析を希望する選択と共に、透析をしない選択もある、と言うことを告げて、患者さんにどちらかを選択させた。その患者さんは、透析しない方を選択したので、透析治療が行われなかった。この後、日をおかず当該患者さんは死亡した、と言うことで、この医師及び病院のこの対応を巡って、是非の議論が巻き起こっているようです。

勿論、これは、メディアを通して得た情報で、小生が自ら関係方面の調査を実施して得た情報では、御座いませんので、事実の細部については、十分に把握出来ていない事を明記しておかなくてはなりません。

従って、重要な部分に関る事実を明確に把握出来てはおりません。

この事に関するメディアによる報道で、幾つかの問題点が指摘されております。

その最も問題となっている点は、病院とその所属医師が、透析を希望する選択と共に、透析をしない選択もある、と言うことを患者さんに告げて、患者さんにどちらかを選択させた、と言う点ですね。

もっとも、今後の展開で、異なる事実が発覚する可能性が無いでは無いことは、申すまでも御座いませんが。

 

と言う次第で、ここでは、この事実関係の検証をすることは致しません。

ここでは、社会における想定が可能な一つの出来事として、病院とその所属医師が、透析を希望する選択と共に、透析をしない選択もあることを患者さんに告げて、その選択を求めることの是非について、見てみようと言う次第です。

あくまでも、想定した課題についての一般的な、いわば病院や医師に関る“常識”について、ちょっとだけ垣間見ようという位のことであります。

結論的に言えば、万民が了解する正解に辿り着けるか否かは、全く不明な、極めて難しい要素を含む問題に属する事と言えるでしょうから、これが正解と言う結論を得なければならない事態でも御座いません。答は、各人個々の判断による他ないのか、と言う風にも思われます。

 

さて、出来るだけ問題点を単純化して、判り良い方向で見て行くことにしましょう。

ここに、腎臓を煩い、人工透析をしなければ、生命を維持する事が困難な状態のAさんが存在します。もう、15年間も透析を続け、年齢も79歳になっています。そして、循環器の疾患もあり、消化器の調子も思わしくありません。常に疲れ勝ちで、時に、激しい痛みを伴います。さらに、足腰も悪くなり、自分の体力だけでは、自分の身の回りの事すら行えず、自力では透析を受けに、通院することも出来ません。息子65歳とその嫁61才の世話を受けて、これまで毎週2回の透析を続けて来ました。 

ところが、この度、息子が交通事故を起こし、死亡してしまいました。経済的事情から、車の任意保険、傷害保険、生命保険等には加入しておりませんでした。従って、事故死に対しての保険金はありませんでした。これまでは、息子の勤める会社の社宅に住んでいましたが、これからは、ここを出て別に住居を捜さなくてはならなくなり、知合いの紹介で、嫁と共に、転居しました。

そしたら、今迄透析に通っていた病院も替えなくてはならなくなり、嫁は車の運転が出来ないので、タクシーを利用して通院しなくてはならなくなり、息子の死亡によって、収入がすごく少なくなったので、経済的にも著しく苦しい事態となりました。

このような状態で、病院へ行って、担当医に事情を話したところ、その医師は、透析をして欲しいと言うのであれば、希望どおり透析治療を致しますよ。しかし、透析をしないと言う選択肢もありますよ。そのあたりの事を良く考えてみてはいかがでしょうか。

とりあえず、今日は、透析をして、この次ぎまでに、良く考えて来て下さい。と言うことになって、その日は帰宅したのです。

帰宅しても、常にベットに横たわってなければならない状態で、自分の身の周りの事も、自分では出来ないので、一切嫁の世話になっている状態です。

このまま嫁に世話を掛け続けるのは忍びない。また、透析を続けて、生き長らえてはいるが、ベットに横たわっているだけの状態を維持し続けることに意味があるのか。などなど、色々と考えた末に、Aさんは覚悟を決めて、透析中止を決断しました。そして、次回、病院へ行き、透析中止の決断を担当医に告げました。

担当医は、透析を中止すると言う事は、どう言う事か、判っていますか。その上の決断ですか、と問うて来たので、覚悟の上であると、返答した。

この結果、透析は中止となり、間もなく、Aさんは死亡しました。

 

 

概ねこのような事柄を想定して、この医師の透析続行の他に、中止と言う選択肢もありますよ。と言う提案の是非について、どのように考えるかと言う事について、みていくことにしょましょう。

 

純化すれば、是か非か、どちらだ、と言う問いですが、問題を一般化すれば、人間個々人の生命の管理をどのようにすべきか、と言うことに置き換えて、考えることが出来るのではなかろうかと思われるのですが、如何なものでしょうかね。

 

すなわち、手っ取り早く判り易く言えば、個人の生命を誰が管理することになるのか、と言うことですわ。

 

この点について、すぐに思いつくことは、個人の命は、その人のものであることに決まっている。すなわち、個人の生命は、その個人自身が管理すべきものである。これが、人の生命の管理に関する基本である。と言うことが、“常識”的に考えられますなー。私も、判らない部分を残しながらも、このように考えるのが基本のような気がしますねー。

いきなり知らない他人がやって来て、お前の命の管理権は、オレが握っている。おまえを生かそうが、殺そうがオレの判断次第だ。なんて、言われたら、こりゃーてーへんでっせ。

但し、自己の生命を自身で、上手く管理出来ない場合があります。たとえば、幼児に自身の生命の管理をせよ、と言っても、これには無理の部分がありますね。あるいは、突発的な事故に遭遇して、意識不明の状態に陥ってしまった場合など、当人自身で自己の生命に関する管理が不可能となりますね。

すなわち、自己の生命の管理が、自身で出来ない場合は、代わって、誰かがその人の生命の管理に当たらなければならないと言う事態も存在するわけです。

このような事態の場合は、その状況に最適な方法をとらざるを得ない訳です。

事態によって、色々な対策が必要ですね。

しかし、この場合においても、個人の生命の管理権は、その人自身にあると言う原則は存在しています。だから、代理人が全て好き勝手出来ると言う事態では御座いませんな。

たとえば、幼児の場合は、一般的には親が管理を代行する立場にありますが、では親が、子供の生命管理について、何でも勝手に代行できるのか、と言うとそうでは御座いませんな。だから、躾と称して、子供を虐待したりすると、司法が介入して、加害者に処罰を課するシステムが作られていますね。

突発的な事故による意識不明者を見つけて場合には、見つけた人は、警察に通報したり、救急車の手配などをしなくてはならない義務を負うことになってますね。したがって、これを怠った場合には、司法によって然るべき対処がなされますな。時に、死体遺棄なんという、責任を取らなくてはならなくなったりする事も御座いますな。直に、救急車を手配すれば、命を取り留められたかも知れない可能性があったかも知れませんのでね。このような場合は、その発見者が、他人の生命を管理する立場におかれていた、となるわけですね。

このように、自身で自身の生命を管理し切れない場合が、多々あるわけですが、どの場合においても、個人の生命の管理権は、その人自身にあると言う原則は曲げられないと考えられますね。

 

話を本題に戻します。

この生命管理に関する基本原則を前提にした場合、人工透析の続行、中止の判断の決定権は、まずは、患者本人にある事は明白ですね。

ですから、当の本人が続行を望めば、病院へ行って透析を受ければ良いわけであるし、もう、透析を受けないと決断した場合には、病院へ行かなければ良い、と言うことになりますね。

この患者自身の判断については、論理的に矛盾は無いと思われますが、しかし、人間自分一人で存在しているものでは御座いませんので、いわば社会的ないろいろな要素が絡んで存在している訳ですな。

例えば、自身が透析中止を決断した場合、まずは、夫婦、親子関係者が、異議を唱えて介入してくる可能性がありますね。この場合は、結論的には、関係者を交えて良く話合い、なお続行するなり、中止するなりの決断を導くより御座いませんな。介入者がさらに広く親族、友人、知人などを含む場合も、同様に話合いにより結果を導くほか御座いませんな。

さて、話の本題では、これに病院とその医師が関っている事態を想定している訳です。

すなわち、病院、医師は、患者から治療の依頼があった場合は、通常、依頼を受け入れて、治療に万全を払う。と言うのが、常識的判断だと思われます。

また、患者からの依頼が無かった場合は、特殊な事情が無い限り、医療行為は発生しないことになりますね。

ところが、今迄、人工透析を続けてきた患者が、予定の予約日・時刻に来院しなかった場合、病院・医師はどのように対応すべきか、と言う問題が御座いますね。

問題を判り易くする為に、単純化した対応策を列記することにします。

  • 放置する。
  • 通院して来ていない事情を電話で問い合わせる。
  • 迎えに行く。

いずれが、この話のテーマとなっている“お医者様のお仕事”として、正解と言うべきでしょうか。

どれも、現実問題として、取り得るか可能性がありそうですね。

結局のところは、それぞれ個人の好みや価値観によって、答が変わる可能性があるのでしょうね。

それでは、次の事例に移ります。

 

ある日、来院した患者から、人工透析をすべきか、否かの相談を受けた医師がいる。この時の医師の対応は、どうあるべきなのでしょうか。

A 患者に、透析することを勧める。

B 透析をするか、しないかについての選択肢のあることを、患者に提示し、そ

 の選択権は、患者側にあるので、良く考えて、どちらの選択も可能であるこ

 とを良く説明して、一旦帰宅させる。

C 医師は、透析を受ける、受けないの選択権が患者にあることを提示して、患

 者が、熟考の末、透析を受けない選択をしたので、それを受け入れ、透析を

 しないこととした。

Aは、従来、医師として当然と思われて来た対応といえるでしょうね。

Bは、透析を受ける選択の他に、受けない選択肢もあることを告げ、熟考して決断するに必要な時間を与えたと言う対応であり、受けない選択肢もあることを提示した、と言うところに特徴がある対応の仕方ですね。

Cは、受けない選択肢もあることを患者に提示して、その場で、患者が受けない意思表示をしたので、医師はその選択を受け入れた、と言う特徴がある対応ですね。

皆さんは、どれをもって正解としますか。

 

ようするに、ここで問題となるのは、人工透析をしない選択肢のある事を患者に提示することが、“お医者様のお仕事”として、是か非かと言う事です。

一般的に、ある事についての判断が必要とされる場面において、それに関る専門家が、複数の選択肢を示して、そのどれかの選択に当たらせる場面は、普通にあることですね。

しかし、“お医者様のお仕事”は、患者さんの生命に直接関る場合がありますので、その対応により一層の慎重さが求められる訳ですね。

そこで、出て来るのが、“お医者様のお仕事”は、患者さんの生命を維持する事を前提とし、治療に当たることを旨とするものであり、直接、死に繋がるような方向の決断を患者に求めるべきではない。すなわち、医師たる者が、透析を受けない選択肢を提示するような行為をしてはならない、と言う意見がありますね。

これに対して、社会一般に、事を執行するに当たって、明示された色々な選択肢から、当事者がどれかを選択する手法は、悪い事とは言えない。また、当事者は、示された選択肢の中から、特定のものを選択する権利がある。とする意見もある様です。

中々難しい判断に迫られるわけですが、皆さんはどのように考えますか。

今迄、人工透析を継続して来た患者が、透析を中止する、と言い出した時に、どう対応すべきか、と言う問題ですね。

お医者様は、まずは、中止を決断した事情を明確に把握する必要があるでしょうね。

事情は、一様ではないでしょうから、現実的に個々のケースにより対処しなくてはならないでしょうね。

無理を承知の上、大雑把に一般化すれば、まず、考えられる事は、患者さん自身が、もう生きていたくない、もはや生への意欲を喪失してしまった、と言う事情の発生が想定されますね。

何故そう言うことに至ったか、と言うと、個々の事情がありますね。

例えば、

1 持病があって、激しい痛みがあり、日々激痛に悩まされるばかりであり、目下改善

 の見通しがない。この状態でも透析を続けなければならないのか、極めて疑問であ 

 る。

2 生きている意義が何ら感じられない心境になっている。こんな状態でも、死ぬまで

 透析を続けなくてはならないものかと、苦痛にかられている。

3 周囲の人に、介護を求めなくてはならず、極めて心苦しい。この苦痛から早

く解放されたい心境にある。

これらは、患者個人の有する問題である。

他に、

A 介護に当たる人々が、もう限界にきていて、この手だてがつかない事態にい 

  たっている。

B あるいは、社会的に何ら役に立てない存在となっている。にも、拘わらず、

 多額の経費を税金から負担して貰っていることに、気が引けて堪え難い心境になって いる。

C 経済的に、極めて苦しい事情にある。これ以上の負担が無理となっている。

などなど、色々な事情が考えられますな。

色々な事情によって、患者自身が、人工透析の中止を決断した場合には、病院・医師側の対応は問われることは無いでしょね。これは、患者さんの生命の管理りについて、患者さん自身が下した結論ですから、部外者には、直接関係が発生することは、無いと考えられますね。従って、これは、“お医者様のお仕事”に、直接関ることでは御座いませんな。

ところが、上記1〜Cの事情により、人工透析の継続の是非を相談された場合に、医師が、中止の選択肢のあることを助言して良いか、どうか、と言う判断は中々難しい要素を含んでいる様です。

このような場合に、中止の判断を提示することが、“お医者様のお仕事”として、是か非かと言う課題ですね。

皆さんの判断は、どうでしょうか。

アンケートを取った結果では御座いませんが、医師たる者は、いかなる条件下においても、この様な生命の維持から遠のく選択肢を患者に提示してはならない、と言うのが、医師のいわば“常識”である、とする医師が多いのではないのか、と言う気がしますね。

例えば、上記1・2・3およびBなどに関しては、透析を専門とされている医師は、このような相談内容については、あるいは、あまり得意な分野とは言えない場合もあろうか、とも思われますね。

このような事態の場合は、例えば、精神科の専門医の受診を助言するとか、このような悩みを持つ人との応対に長じているボランティアさんやNPOなどがあるでしょうから、そちらへの相談の助言をするとか、色々対策があるかとも思われますね。

また、上記Aの事態に対処するには、自治体のサービスやこれもボランティアさんやNPOの支援を受けることができるかも知れないので、その助言をする方向が望ましいのでしょうね。

更に、Cの場合も、国や地方自治体による支援策が実施されているでしょうから、その方面への相談の助言もあって、然るべきと思われますね。

とにかく、病院・医師は、毎日毎日、人の命と向き合わなければならない立場にあるのでしょうから、一歩誤ると取り返しのつかない事態となり兼ねませんので、責任は重大ですね。

そして、お医者様は、とにかく、毎日毎日すごくご多忙のことが多いようですね。ですから、専門外の患者の相談に、十分な時間を割く事が難しい実情もあるようです。医師の働き方改革は、どのようになっているのでしょうか。おそらく掛け声だけではないのでしょうか。

医師数の少ないことが、これまでずーっと問題視されていますね。毎回のように、国会で取り上げられている問題ですが、政府の対応は、いつも誠意取り組んでいる。対策を考えている、とような答弁ですが、一向に事態を打開する対策は、出てきてませんな。

国会議員と呼ばれている先生方には、人の生命は随分遠くにある存在のように見受けられますね。専らの関心は、次回の国政選挙でどのようにしたら当選出来るか、と言う、党利党略、私利私欲的立場からの政策ばかり追っかけているように見えますなー。口では、国民向けに耳触りの良いことを、おっしゃいますが、本当のところは何を考えて、何をやろうとしているのか、実際のところは極めて見えにくいことだらけですね。

各担当の大臣も、なんでこのような人が任命されるのか、残念としいか思われない人事が、いつも至極当り前のように、行われていますな。大臣の任命は、総理大臣の専権事項であるとか。何だか、国政に関る極めて重要な事が、総理大臣に私物化されている側面を有する制度のようにも見えますなー。

果たして、これが民主主義的にベストな制度なのでしょうかねー。

 

だんだん話がそれて、愚痴っぽくなってしまいましたが、“お医者様のお仕事は”申すに及ばず、人々の命を救う方向で行われることが、まずは大事な事なのではないか、と言うことは言えそうですね。この方向で、頑張って貰いたいと切望する次第ですね。

 

人工透析の継続か中止かに関る判断についての“お医者様のお仕事”についてが、今回の話の主テーマでしたが、結論らしい結論には、中々達することが難しいと言うことが、再確認されただけですなー。面目御座いませんが・・・。

 

もっとも、人工透析の継続か中止かに関る問題だけではなく、例えば、今現在となっては、その仕法が安定して来たと認識すべきなのか、脳死の判定についての議論が、マスメディアなどで聞かれなくなってきましたね。

呼吸をしている、脈もある、触れば体温も普通に感じられる、でも、脳の反応がなくなっている、だから、この人は死んでいる、と言われても、なかなか納得しづらい状況はまだ続いているようにも、感じられないこともありませんな。

単独医師の判定では、誤りがあってはならないことであるから、必ず数名の判定団が組織されて、慎重の上に慎重を期して、絶対に誤りをしない段取りを付けた上で、死亡の判定を下す、と言う方法が取られているものと思われます。

にもかかわず、脳死判定を受けた人の意識が戻った例はないのですかね。もしも、あったら、それはそれは大変なことですよね。

と言う事で、安直にネットで検索しましたところ、脳死判定の後、意識を回復した例はあるのですね。驚きますね。責任は、どのようになるのですかね。

脳死判定後、直ちに、当該臓器が移植希望者に、移植されたとなれば、脳死の判定の正否を確認する事は、万事休すの事態ですよね。

 

ちょつと、性格がことなりますが、後に、最高裁の有罪判決が覆った例は、時々ありますね。死刑が執行された後に、新事実が明きらとなって、判決が誤っていた。冤罪であった。なんてなると、取り返しがつきませんよね。

裁判の判決の場合は、最終的には、担当裁判官による多数決によるのでしょうね。これ以外の良法が考えられいないので、このような方法がとられているのでしょうね。

 

これが、脳死判定の場合も、最終判定を出す場合に、多数決であったとしたら、これはエライ事のように思われますね。まさかね、そんな事は御座いませんよね。厳格な脳死の判断基準があって、それに間違いなく、適合するか否かを数名の専門医により、慎重に、検証されて、絶対に誤りが無いことを確認して、ようやく脳死の判定が下されるのでしょうね。

しかし、それにも拘わらず誤判定が発生しているのであるから、どうしたものでしょうね。

ただ、他方では、一刻も早い臓器の移植に生死が懸かっている患者さんもおられます。

かといって、脳死判定に間違いが生ずることは、絶対に赦されないことですから、これは、どうすれば良いのでしょうね。

 

万が一にも、脳死の判定後に、蘇生した場合には、その責任は、どうなるのでしょうね。

 

その点、民主主義は、良く出来てますね。国民の有権者から選出された国会議員と呼ばれる方々が、政策に大きなミスをおかし、結果、国民に多大な損害を与える事になった場合、そのミスを犯した人たちは、直接的に責任を問われ、法で裁かれることは御座いませんね。

結論的には、その責任は、国民全体にある、とされているのでしょうね。と言う事は、責任が国民に分散されていて,結局のところは、責任が問われないことになる。と言う状態になっているのですね。

精々、国会を解散して、国政選挙でその責任を国民に問うと言うことくらいしか、裁かれる機会は御座いませんな。

国会が解散となった時、解散しなければならなくなった責任を問われた前国会議員さんは、間違いなく、次ぎの選挙で、国民の審判を仰ぐ。落選したら、タダの人となる。それが政治家としての責任の取り方である、とおっしゃいますな。

落選したら、タダの人になるのだって。と言うことは、落選しなかった場合は、タダの人ではない。国民が納めた税金の使いみちを決定できる、偉い存在なのだ。と言う、特権意識の人となるのですなー。何処へ行っても、先生、先生と持ち上げられる存在なのだ、と言う意識なのでしょうね。

何度か当選すれば、順番が回って来て、大臣樣ですからね。

国会の大臣の答弁も、以前は、質問を予め伝えてもらっていて、その答弁をぬかりなく官僚が作成し、会議の場では、大臣がそれを読み上げる。と言う形式で行われていましたね。国会は、もはやセリフが整えられているお芝居でしたね。時に、それで間に合わない事態になった時には、官僚が代わって答弁に当たっていましたね。これが当り前で通っていた時代が長く御座いまたな。

今も、官僚に代弁させる場面がよくありますけれどね。

また、質問の意味も判らない大臣がいて、窮して官僚の耳打ちで答弁をしてみたものの、頓珍漢な答弁で、挙げ句の果てに、その点に詳しい官僚がいるので、それに詳しく説明させようか、などと言い出す大臣が出現して、国会で笑いをとって、賑わいを見せた大臣がいましたね。

 

もう亡くなられて久しいですが、クレイジー キャッツの植木等さんが、“サラリーマンは、気楽な家業ときたもんだ”とやっていましたが、もし、今の時代に居たら、“大臣さんは、気楽な家業ときたもんだ”と、やってくれたでしょうな。

言わずもがな、小生なんざー、生まれて以来七十年余り、ずーっと、タダの人ですよ。タダですから、金銭に換算すれば、0円ですよ。0は、底なしで、幾ら重ねても、0は0ですからね。ナサケネー。アーア、と。

 

この辺りが、バッタリの潮時です。

同じ事をクドクドと、どうも申し訳御座いません。

タダの愚痴ジジーの独り言であります。どうぞ御海容のほどを。

少しは、ヒマ潰しになったでしょうか。

どうもお疲れ様で御座いました。またのお越しをお待ち申し上げます。

 

お後がよろしいようで