《停念堂閑記》36

「日比憐休雑記」6

 

 《“笑い”の構造》6

 

 〔笑わせ方の基本〕1

 

 次に、より一層の“笑い”を誘う技法について、見ておくことにしよう。

 すなわち、“笑い”を誘うネタを準備し、それをより効果的に、“笑い”をさらに大きくするためのテクニックなどについてである。

【ネタの作り方】

 “笑い”を作るためには、まず、“笑い”のネタを作らなければならない。

 この基本は、前述のとおり、“笑い”を誘う要素を的確に盛り込りこむことである。

 1 おかしさ

 2 うれしさ

 3 きまりわるさ

 4 何かをばかにした時

 まず、この“笑い”の主要素4点セットを踏まえることが肝要であろう。

 〔 1 おかしさ〕は、「馬鹿馬鹿しさ・阿呆くささ・間抜けさ・ドシさ・トンマさそして恍(とぼ)けなどと表現される事柄」を内容とすることが骨のようである。

 〔 2 うれしさ〕は、うれしく感じる側の固体の事情により相違する。一般的には、尊敬されたり、褒められたり、煽(おだ)てられたり、得 をしたり、病気が直ったり等々、当人にとって好都合なことが起きた場合に、うれしくなる人が多いのでは無かろうか、と思われるので、この辺りに配慮する必 要があろう。

 〔 3 きまりわるさ〕は、これも感じる側の固体の事情により相違する。一般的には、あまり他人に見られたくない部分を見られてしまった時 に、この〔きまり悪さ〕の感情が発生し、この感情の処理の一方法として、笑ってことを納めると言うことが起きるようなので、この点に配慮したネタが有効と なるものと思われる。

 〔 4 何かをばかにした時〕は、相手方の失敗や劣勢部分に接した時に、優越感を感じ、〔何かをばかにした時の“笑い”〕が出るわけであるから、まずは優越感をくすぐらなくてはならない。

 以上のような点は基本的に押さえておかなければならないであろう。

 次に、扱うネタの特質として上げられるのが、“常時型”と“一時型”であろう。ここで言う“常時型”とは時や場所を選ばずに、“笑い”の主要素から出る“笑い”を期待したネタである。典型的なのが「古典落語」で扱われているようなネタである。

 一方“一時型”は、時事的な話題を取り上げたネタである。「新作落語」や新聞連載漫画などでは、この型のネタが多いようである。例えば、著名な『サザエさん』などは、かなり以前の部分は、その時の世上を知らなければ、何が可笑しいのかがさっぱり分からないのがある。

 次に、ネタの作り方について、“単発型”と“連発型”が上げられる。ここで言う“単発型”というのは、オチを一発で決める形を指している。 ある事を取り上げて、話を運んできて、ストンと落とす型の作り方のことである。これに対して、同類のネタを繰返し展開することによって“笑い”をとる型を ここでは“連発型”と言っている。

 “単発型”は一つの話題を表現面白く引っ張って来て、思いもよらぬことで一気に落とすのが効果的のようである。比較的真面目な展開を方向違 いのことで一気に落としてしまう。この落差が骨のようで、大きければ大きいほど効果がありそうである。しかし、見たり、聞いている側が分かる範囲で行う必 要がある。テレビでは、上方のよしもっと笑わせてやれ、とばかりに多数の芸人さんを雇っている会社があるが、そこに所属している例の数名の芸人さんが出演 してのお笑い番組がテレビでよく流れている。ところが、時々、出演者仲間ではやたら受けて大笑いしているのであるが、その笑いの元を知らない者は、何の面 白味も感じられないことがよくある。若い方は、これで十分笑えるのかも知れないが、年寄には“笑い”の疎通は全くありません。

 次に、“突飛型”がある。ここで言う“突飛型”とは、ネタの突然の方向転換を意味しています。 

 例えば、 普通なことから幾分外れた奇妙なことに遭遇した時、往々にして“笑い”のスイッチが入ることが多いようである。歌を歌っている時 に、突然音程が外れる場面に遭遇すると、無性に“可笑しさ”を催すことがある。音程を外した歌の下手さを笑う=優越感からくる“笑い”というのではなく、 とにかく無条件に“笑い”が飛び出すことがある。歌に限らず、一定のリズムで進行していることが、突然違った動き見せた場面に遭遇した場合、“笑い”が発 生しがちである。変調の時に、あるいは《滑稽さ》を感ずるのかもしれないが、人間の行為は一つのリズムに乗っているところがあって、それに変調を来すと“笑い”が出るところがあるのではなかろうか。たとえば、一定のテンポで普通に歩いている人が、突然コケタ場面を見た時、シチュエーションや個体の心境にもよるが、往々にして“笑い”が発生することが多いのではなかろうか。漫才のテクニックでよく用いられているが、いわゆる“はずす”テクニックである。予想を旨く“はずす”と“笑い”がとれるようである

 たとえば、気取ったテンポで歩いて来た人紳士が、突然バナナの 皮を踏んで、スッテンコロリした場合、それを見ていた人の多くはきっと思わず笑ってしまうのではなかろうか。これは、スッテンコロリンに滑稽さを感じて “笑い”が出たことにもよろうが、突然の出来事で、意外性が関係しているようにも思われる。何か、突然それまでのリズムから外れた場面に遭遇すると、滑稽 さを度外視しても笑いが起こることがあるように感じられる。このような性格を有する事柄を、話のネタ自体に折り込んでおくことも効果的のように思われる。

 余談でるが、以前に大層お世話になっていたH先生が、ゼミの学生さんを連れて木曽路を旅すると言うので、これに便乗して、小生より若干お若いO氏(今は大阪の某大学の教授で、御定年に近づきつつあるのかな。)と二人、混ぜてもらうことになった。今上天皇陛下がまだ皇太子殿下の時、木曽においでになられた。この少し後のことである。(昭和50年?)。殿下をお迎えするのに設営された施設があり、ここに宿泊することが出来た。殿下がお使いになられた檜の風呂につかり、お付きの方が使用された部屋に寝かせて頂いた。殿下がお休みになられたお部屋には、当然H先生がお入りになられた。また、廃止直後の木曽森林鉄道も特別に走らせてもらうことができた。木曽山中の奇麗な自然は忘れられない。

 そして、虻と戦いながら、馬籠宿から妻籠宿まで旧中山道を歩き、藤村記念館などを見学して、妻籠宿泊した。この夜に事件が起きた。夕食後、H先生、O氏そして小生の3人で部屋でたわいもない話をしていた。神田生まれ、神田育ちと言うバリバリの江戸っ子の H先生は大変博学で、何にでも良く通じておられるお方なので、何時も小難しい話やら、馬鹿馬鹿しい話まで取り混ぜた話で弾む傾向にあった。その夜もそんな 調子であり、いくぶん酒もはいっていて、あれこれ喋り、子供の頃の話などをしていたかと記憶する。その最中である。H先生が、突然大声で、

 「ドンガラカッタ 豆屋のネーエちゃんが」

と発声なされた。これにはフイを突かれた。もうとたんにフイてしまい、そこにはおられず、O氏と共に、ドタドタと部屋の前の階段を転げ落ちる ようにして、階下に逃れ、O氏と共に大笑いが、しばし止まらなかった。まさに腹の皮が捩れに捩れた感じであった。何が起きたのか。まったく予想だにしない まさかのH大先生の急襲をくらった。後で、H先生は、子供の頃、この歌、良く歌ったろうとおっしゃられていたが、不覚にも小生は存じ上げなかった。多分子 供の頃の話から突然「ドンガカッタ」のスイッチが入ったものと見られる。笑わせようなどとは、天から思ってもおられないのであるが、まさに絶妙のタイミン グであった。何と言ったら良いか、あの学者先生がと言う意外性と突然性と意味不明のネタとが、核融合を起こしたようなものである。“ビックリ笑い”である。こんな話は混雑した電車の中などでは、思い出してはならない。ニヤリと思い出し“笑い”が出てしまう。周辺の人に、変なジジイだと気持ち悪がられること間違いない。

 この“笑い”は、仕組まれ用意されたもではないが、意外性、突然性、意味不明性などの要素が整っていたのである。このような要素は、“笑い”の貴重なネタと言うことになる。

【言葉・用語の選択】

 次に、ネタ作りに関わり、使用する言葉・用語について見ておくことにする。

 ここで言う言葉とは、話し言葉と書き言葉のことである。

 話し言葉は言うまでもなく、相手の伝えようとする内容の伝達手段のことである。一つの事態を相手に伝えるのに、数ある用語の中から何を選んで使用するか、と言うことが最大の課題となるようである。

 話し言葉か書き言葉かはっきりさせろと言われると、ちょっと弱るのであるが、用語の選択と言う点については、俳句の世界が飛び抜けてこの要素が必要とされているようである。何せ五・七・五の17文字限定のルールで、この中に、よくは知らないが、季語を 入れ、無限の価値を盛り込もうとするには、用語を吟味の上にも吟味されなければならないのであろう。よほど沢山の用語を持ち合わせないと、うまく行かない ようである。一つの事態を表すのに、10通り以上の用語が瞬間的に思い浮かばないと駄目だ、と言っておられた方の話を聞いたことがある。私などのような素 養の欠如者にとっては、「難しく考えることはないよ。思ったこと、感じたことをそのまま自分の言葉で素直に表現すればいいんだよ」などといって貰えれば、 こんな幸せはないが、なかなかそうはいかないようである。「・・・や」、か、「・・・よ」かで大論争になりかねない場合がある世界らしい。お笑い界では 「そんなの やーよ」ですっ飛ばしてしまえばいいような気もするが、この世界はこの世界で、またそう簡単には行かないようである。その状況により、使用し てはいけない用語、使用しない方が良いと思われる用語、はたまた、これは使用しなければ、といった事情も加わって来ると、なかなか難しい。

 “お笑い”界では、掛詞による駄洒落の世界が存在する。言葉の選択による“お笑い”の代表的な存在である。

 “笑い”を誘う言葉を用いた遊びに、狂歌がある。多数面白いのがあるようであるが、

江戸時代戯作者でよく知られている大田南畝辞世の句というのがあるらしい。

 今までは 人のことだと思うたに 俺が死ぬとは こいつぁたまらん

というのだそうである。内容的には、床に臥せっているところへ、めったに顔を見せたことのない連中がぽつぽつ現れるようになると、俺もそろそ ろかと自覚するよりないようであるが、その心境が面白く率直に表現されている。この句において、たとえば、「俺が死ぬとは」の部分を「俺の番とは」とした らどういうことになるのであろうか。また「こいつぁたまらん」の部分を「これはたまらぬ」としたらどういうことになるのか、と言った問題である。愚生には よくはわからないが、その筋のお方にお伺いすれば、かなり異なるところがあることになるのであろう。 

 また、『東海道中膝栗毛』を書いた十辺舎一九の辞世の句と言われるものもこれ又有名である。どのようなシチュエーションで披露されたのかは知らないが、

 このよをば どりゃおいとませんこう(線香)の けむり(煙)とともに はい(灰)さような  ら

と言うやつである。掛詞を重ね良く出来た狂歌で ある。用語が厳選・吟味して使われているのに感心する。これが、よもや今際の際で即興にひねり出されたとしたら、本当に驚きである。多分、予め何時の日に か用意しておいたものをタイミングを見計らって出したものと推測されるが、ふざけているといえば、これほどふざけたことも無いように思える。人の死も“笑 い”にする達観した人であったのであろうか。

 都々逸も奥が深い。

 「裸にー エプロンだけえー 着けてえー もらったが、どこおからあー 見てもおー   金太郎」トンシャン。

と言うのを、先に(「停念堂閑記」10)に紹介したが、最後にストーンと落とすところがコツの様である。内容的に人生の機微を捉えることが最も肝要であることは言を俟たないところではあるが。この場合にも、「裸にー」の部分を「何も着ずーにー」としたら、どう違うことになるのであろうか。用語の選択は、難しい。

 川柳も面白い。

 早乙女も 水がにごらざ おかしかろ

というのが良く知られている。これでは、水が澄んでいれば可笑しいかろうとされているが、実際に、水が澄んでいた方が可笑しいのか、あるてい ど濁っている方が可笑しいのかは、実験してみることが必要でありそうである。それは兎も角として、この句でも、「水がにごらざ」の部分を「水が澄んで りゃ」としたらどうなるのであろうか。

 言葉遊びはなかなか面白いが、どのようなことをどのように表現するかは、言葉の選択が必要であり、これがなかなか難しいところがある。

 “笑い”をとる為には、その為に使用する用語を厳選して、最も相応しいものを使うように心掛けなければならない。

【方言】

 また、言葉に関しては、方言が関係してくる。

 “お笑い”には、大阪弁が最有力とされている。たしかに、「オモロい」と改めて言う必要はない。なぜ面白いかと問われると色々理由が上げられるであろう。良くは分からないが、ぼけた感じがあって、なんともオモロい。

 余談であるが、勤務先に大阪から来られた小生より幾分お若い方がおりまして、ご当人のキャラも当然関係しているのであるが、博学な方で何にでもよく通じておられた。なにかにつけて、何人かでよくだべったものである。

 最初は、とにかく口調が面白く、また、大阪人の特徴の一つと言って良いかと思うのであるが、本音を歯に絹着せず、割合ダイレクトに大阪弁でまくしたてるので、聞いていて、ついついニヤニヤしてしまうのである。

 そうすると、氏曰く「ほんまやでー」。とにかく、「ほんまやでー」が連発して出るのである。これも、ちょっと改まった時には「ほんまでっ せー」となる。ついついニヤニヤしてしまうのである。どうもご本人は、話の内容を疑われているように感じて、「ほんまやでー」と念を押しているようであ る。最初はこの傾向が強く、新たにやって来た自分はまだ信用されていないのではないのか、と言うことを感じておられたように思われる。しかし、時間が経つ につれて、こちらも彼の大阪弁になれてきたせいもあるが、彼も自分の言っていることが疑われているのではない、という事が分かって来ると、やってもらいたかった「ほんまやでー」がめったに出なくなってしまった。

 どうでも良いことであるが、大阪弁で書かれている、はるき悦巳さんの『じゃりン子チエ』と言う漫画がある。未だに67巻全巻所蔵している。商売道具であった専門書を、置き場所が無くなって、捨ててしまったくせにである。テレビのアニメにもなったことがあるので御存じの方も多いと思われる。これから大阪弁を覚えた。

 たとえば、チエちゃんが「おっさん」と言うと、オバアはんが、そのように言ってはいけない「おっちゃん」と言い直すように嗜めるのである。この様な言葉の使い方は、大阪の方は当然普通に身に付いていることなのであろうが、よそ者にとっては、どうも細かなニュアンスがいまひとつ分からないところがある。関西のお笑い芸人さんが、東京で活躍しているは珍しくもない昨今である。浜ちゃん松ちゃんの「ドッツクデー」とか「シバクデー」などはすっかり耳慣れた感じである。今はかなりニュアンスが変わって来ているのかも知れないが、以前に「ドッツク デー」と「シバクデー」は相当程度の違いがあるように教わったことがある。“お笑い”で言っている時は、笑って聞き流せばよいのであるが、現実の険悪な状 況で「シバクデー」と言われた時には、本当に気をつけなければならない、と言うことであった。このようなニュアンスの違いは、お笑いを聞いているだけでは 分からない。

 大学に勤務していた時、チエちゃんに教わった大阪弁をたまに使ったりしていた。ところが、ある学生さんがテストの答案の末尾の余白に、「先生は、関西出身なのですね。時々大阪弁がでていました。私も大阪出身なので、親しみがもてました。」と書かれていた。なんか少々申し訳ない気がした。チエちゃん仕込みの大阪弁やでーと、白状するのも無粋であり、弱ったことがあった。

 北九州出の芸能人さんも多くテレビで見受けられる。カトちゃんは、大阪弁の「まんねん」を使って、よく笑いをとっていたが、これが北九州だと、「・・・トット」と「バッテン」が特徴的である。「何ばしトット」とくる。「バッテン」は幾分難しい。素人が使おうとすると、ややもすると「バッテン」が、カトちゃんの「まんねん」風になってしまうところがある。これが長崎の地元の方などと話をすると、いきなり「バッテン」から会話が始まり、面食らうことがある。

 関東では、良く似ているところがあるが、茨城弁と栃木弁がお“笑い”に適しているようである。話し方としては、「何だこれ」などと言う時に、語尾がヒョイと上がるのが特徴的である。勤務先が茨城県にあったので、地元のお年寄りの会話を耳にする機会も多くあったが、時には、かなり聞き取れない場合もあった。やはり、本場仕込みは、なかなかのものがある。本場の津軽弁薩摩弁になると、“笑い”を誘う以前に、意味不明の状態に陥ってしまう恐れがあるので気をつけなければならない。

 群馬県では「来ない」が面白い。標準語では、たとえばこちらへ人を招く時に「こっちへ来ない」と誘う。これが群馬の地元育ちの方になると「こっちへ来ない」と誘う。なんだ同じではないか、と思われるかも知れないが、群馬の方は「こっちへ来(き)ない」と発音するのである。カ行変格活用「来る」は、群馬では更に特有の「変格活用」をしている。

 方言を巧みに使いこなせると、一層“笑い”を大きくすることができるようである。

 書き言葉は、視覚にうったえるものであるから、話し言葉と幾分異なる性格を持っている。“お笑い”の場合は、言うまでもなく、見た目の面白 さが必要となってくる。発音が同じでも、全く意味の異なる文字を当てて笑いを取ったりする。また、その書体も問題となることであろう。あまり生真面目な書 体では、なかなか笑えないのかも知れない。なんだか分からない様な、よたったのが適しているのかも知れない。

 書き言葉は、以前は話し言葉と比べると、かなり改まった肩のこるようなところが合った。手紙などは候文で書かれる習慣が残っていたようであるが、今では、候文て何だ、と言う若い人が圧倒的に多くなっているのであろう。もっとも、下手に「候」を使うと、カトちゃんの「まんねん」風になって、かえって“笑い”のネタとなるかも知れない。「アホちゃうか候」なんてね。おまけに「マンネン」と「バッテン」もサービスすると、「アホちゃうか候 マンネン バッテン」なんて、受けないかなー。

 方言は、“笑い”をとる方法としては、かなり有望なのではないでしょうか。

 

 網羅するのは骨が折れるので、ここらでチョツとひと休みします。〈つづく〉